――俺が、その店に入ったのは、ただの偶然に過ぎない。

 特に有名なわけでもないし、行列が出来ていた訳でもない。
 大学の講義が休講になり、暇を持て余してぷらぷらと道を歩いていた途中、なんとなく目に入った。木製の看板を掲げた店構えを目にして、何気なく足がそっちに向いただけ――。

(茶房……はる、なつ、ふゆ……なんて読むんだったかなぁ、これ)

 ああ、そうだ。
 秋だけないから、あきなしだ。

 ――ちりん

 そんな事を考えながら引き戸を流せば、高く澄んだ音がして――店内にいたふたりが、一斉に俺の方を見た。

 ひとりは、カウンターの中にいて、この店の店長だろう初老の男。
 もうひとりは、カウンターの一番奥の椅子に腰掛け、悠然と足を組んで俺を見ていた。
 揃って観察するような視線を向けられ、初めはいちげんさんお断りの店なのかと身構えたが、初老の男がにこやかに「いらっしゃいませ」と中に促してくれたので、俺はぺこりと一礼して中に入る。

「……君の客だな、店主」
「はい」

 気安い会話から、俺は不躾な視線を向けてきた男が店の常連だと察した。

 パッと見、芸能人かと思うような、華やいだ容姿の男だが、ずいぶんと感じが悪い。
 俺が、わざわざ奴とはだいぶ距離を空けて反対側の端に腰を落ち着けたというのに、動物園の動物をみるような目でこっちを見てくる。

 店内は清潔で明るいのに、客はコイツ以外いない。
 常連が店を悪くしているパターンだなと思った俺は、その変な男の視線を無視しようとしたのだが、あまりにもじろじろ見てくるので、つい我慢出来ずに、面と向かって言ってしまった。

「……俺の顔に、何かついてますか?」

 不機嫌なのを隠しもせずに発した声だったから、当然愛想なんて欠片もない、低い声だった。

それなのに、男の反応は予想と違っていた。

 腹を立てるなりすれば、まだ分かりやすい。なのに、男はそんな反応をされると思っていなかったのか、不思議そうに俺を凝視した。
 その後……感情がまったく読み取れない、微かな笑みを滲ませた顔で言ったのだ。

「君、どうしてこの店に入ったんだい?」
「……は?」
「若い男がひとりで来るのは、珍しいから」

 自分だって若いだろうにと思いつつ、俺はたまたま目に入ったからと正直に告げた。

「たまたま……そうか、たまたま偶然、君の目に入ったのか」
「なんですか、一体」
「――鈴の音は、聞こえたかい?」

 言われて、高く澄んだ音が鳴った事を思い出す。

「ああ、あの音……鈴だったんですか。綺麗な音でしたね」
「…………」

 褒め言葉だったのに、馴れ馴れしく話しかけてきた男は、喉に魚の小骨でも引っかけたような顔で黙ってしまった。

「……あの?」
「いや……、君は……」
「何ですか?」
「……いや、失礼。てっきり僕は、アルバイト募集の事を聞きつけて、店に来た人だと思ったんだ。なにせ、男のひとり客は珍しいから」

 ここは、妙齢のご婦人方が多いのだと男は言った。
 やけに格好付けた言い回しなんて、下手をすれば滑稽でしかないのに、この男は違和感を抱かせない。
 変な奴だと思いつつ、俺は男が口にした『アルバイト募集』という言葉に食いついた。

「……それ、細かい要項あるんですか?」
「いいや。……店主、あの張り紙は、もう掲示したのか?」
「いいえ、まだですよ。……この通り、静かな店ですからね、もちろん経験者は歓迎しますが、未経験でも問題はありません」
「だ、そうだが?」

 自分でも、なんでこんな事を思ったのかは分からない。

 ただ、俺はこの時、どうしてもこの店だという、訳の分からない衝動とこだわりに突き動かされた。

 それまでは、カフェなんて興味なかったはずなのに、気付けば口が勝手に動いていたのだから。

「それ……是非とも、俺をお願いします……!」

 突然の申し出にも関わらず、初老の男はにこやかに、それじゃあ後で履歴書を持ってきてくれと言い、不躾だった男は、物好きだなと俺を見て笑った。

 いきなり雇ってくれなんて言い出す男など不採用確定だろうと思っていたが、一日もしないうちに返事が来て、俺はその店――『茶房・春夏冬』のアルバイト店員として採用される事となる。

 俺が入るまでは、店長ひとりで店を回していたのだと知ったのは、初出勤の日。
 そして、あの失礼男が、常連は常連でも、かなりモンスターな部類に入る常連だと知るのも、初出勤してからの話だ。

 温和な店長と、毎度顔を出す嫌味な美形。
 それが、春夏冬の普通だった。

 奇妙なお客さんが訪れる、あの日までは。