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 胸に差した恐れは、現実のものになった。
 学校、という世界が、真っ黒で重たい存在感でのしかかってくる。わたしはその下に踏みつぶされて動けない。

 朝、起きることが苦痛だ。セーラー服のそでに腕を通すことが苦痛だ。同じ制服の群れの中を登校するのが苦痛だ。教室で自分の席に座っているのが苦痛だ。授業中に聞こえてくる雑談の声が苦痛だ。先生の隙を突いて手紙を回すよう、背中をつつかれるのが苦痛だ。休み時間の楽しそうな悪口が苦痛だ。給食の時間が苦痛だ。下ネタばっかりの恋バナに誘われるのが苦痛だ。トイレに行くとき、ついてこようとする人が苦痛だ。小テストで隣の人と交換して丸付けするのが苦痛だ。「成績いいんだね」と、下心のある目をして近寄ってくる人が苦痛だ。集会で人酔いするのが苦痛だ。

 親切そうな様子で、わたしの顔をのぞき込む人がいた。クラスでいちばん派手な女子。
「蒼ちゃん、学校、慣れてきた? この学校さー、転校生が多いんだよね。ウチも中学に上がるときに引っ越してきたクチだし。だからさー、転校生のいじめって、あんまないんだ。元よそ者って苦労するじゃん? そのへん、ウチらみんなわかってるもん」

 そう、転校生はいじめのターゲットにならない。それはわたしも感じていた。
 だけど、この学校にはいじめがある。たくさんある。ターゲット選びがどういう基準なのか、わたしにはわからないけれど。

 その日、クラスでいちばん派手な彼女は、たびたびわたしに話しかけに来た。彼女のグループはみんなスカートが短くて、化粧をしている。わたしは全然そんなタイプじゃないのに。
 放課後、別のグループの女子たちがわたしを囲んで、ひそひそした声で口々に種明かしをした。

「蒼ちゃん、あの子ら、うるさかったでしょ? あの子ら全員、すごいバカなんだよね」
「バカだよねー。授業中も遊んでるじゃん。塾もね、おバカご用達のとこに行ってて、しかもレベル低いクラスなんだよ」

「ウチらの学年、ここ何年かでいちばんバカなんだって。先生たちが言ってた。その中でも、あの子ら、いちばんバカだからね」
「蒼ちゃんをグループに引き入れて、平均レベルを上げようとしてるっぽいけど」
「っていうか、宿題とか予習とか写させてほしいからじゃない?」
「だよねー、ずるいよねー。すっごいヤな感じ」

「ねえ、蒼ちゃん、ウチらのとこ来たらいいよ。アタシらは、ニュータウンができる前から琴野に住んでる家のグループなんだよね」
「そう、おじいちゃんが地主さんって子ばっかりなの。だからね、アタシらといたら、いろいろ安心だよ」
「あの子らの家ビンボーだから、一緒にいたら、リップとかメモ帳とか、すぐなくなるよ」
「怖いんだよねー。でも、絶対、盗ったとか言わないし」

 話を聞いているうちに、胃が痛んだ。めまいがした。視界の焦点が合わなくなった。息が苦しくなった。作り笑いをした頬はこわばりっぱなしだった。
 でも、笑いながら「あの子らはバカ」と言ってのけるこのグループは、本人たちがいるところでは、絶対に悪口を表に出さない。二つのグループ同士は仲がいいのだと、わたしは今まで思っていた。実際はそうではないらしい。

 延々と続きそうなおしゃべりを、わたしは「ごめん」と言って断ち切った。
「ごめん、図書館に行くから。勉強しないと」
 勉強っていうのは、学校という世界では最強クラスの装備品だ。勉強ができるだけで、身を守ることができる。多少の無理も通せる。どのグループからも、先生方からも、一目置かれる。

 わたしはたびたび教室を抜け出す。起きられなくて欠席することも、だんだん増えた。
 担任が臨時の家庭訪問に来た。わたしは部屋に閉じこもっていた。母が申し訳なそうに対応していた。
 家庭訪問くらいでは、わたしの行動は変わらない。「自分で勉強する」がわたしの免罪符だった。いい点数さえ取れば、先生方は結局、わたしの行動を黙認した。

 両親の口数が減った。わたしの体調が悪い朝、母はあきらめ切ったため息をついて、学校に欠席の電話を入れる。
 わたしも、学校に行こうが行くまいが、口を開かない日が多くなった。学校に行く日の朝はどうにか食事を取るけれど、行かない日は寝ている。昼間は適当なものを食べていた。でも、夜になると、いつ何を食べたか思い出せなかった。

 頭が働かない。勉強だけはする。中間テストの点数はよかった。学校でも、口を利かない。体育や音楽の先生からは「出席しろ」と文句を言われる。うなずくことはできない。きっと嘘になるから。

 一日一日、ドロドロと間延びしながら、ひどくゆっくりと過ぎていく。頭が痛くて胃が痛くて、体が動かない。何も感じたくない心は、冷たい泥沼に沈むように、どんどん鈍っていく。
 罪悪感と情けなさが絶え間なく襲ってくる。学校に通うという普通のこと、当たり前のことができない。こんな自分が情けない。

 ひとみから電話がかかってきたとき、わたしは寝ているふりをした。ひとみの前で、情けない自分をさらけ出せるはずがなかった。雅樹からも二度、電話があった。わたしは応じなかった。

 夏が目前に迫ったころ、眠れない真夜中に窓を開けて、涼しい風を部屋に入れながら、何となく唄を口ずさんだ。
 声を息に乗せて、喉を震わせる。小さな声で歌う。

 歌うことは好きだ。木場山中のころ、合唱部に入らなかったのは、声楽の歌い方にはピンとこなかったから。
 わたしが好きな曲調は、テンポが速くて明るい唄。ラヴソングは苦手。ダンスミュージックもちょっと違う。アニメの主題歌にあるような、自分自身を見つめる歌詞や、未来に進んでいこうとする力強い歌詞がいい。

 ほんのちょっと歌っただけで、わたしはやめた。
「喉が痛い……」
 声を出さない日が続いているせいだ。高い声も低い声も出なかった。声が喉を通っていくときにこすれる感じや、キュッと喉をすぼめるときに力を入れる感じ。たったそれだけの当たり前の感触が、痛くて耐えられなかった。

 信じられない。学校に行けないだけじゃなくて、唄を歌うことさえできなくなっているなんて。
 部屋の隅にギターがある。ハードケースに入ったまま、ふたを開けてもいないギター。中学に上がるときに、叔父さんがおさがりでくれた上等のアコースティックギターだ。

 去年は頑張って練習していた。簡単な弾き語りなら、どうにかできるようになった。練習を一日サボると、取り戻すのに三日かかるという。だから、レベルを落としたくなくて、毎日ちょっとでもいいからギターにさわるようにしていた。
 なのに。頑張っていたのに。引っ越しのバタバタで練習ができなくて、それっきりだ。もう全然、指が動かなくなっているんじゃないか。ギターに触れて確かめるのが怖い。

 そして思い出した。
 わたし、こっちに来てから小説も書いていない。
 空想のストーリーを思い描くには、大きなエネルギーが必要だ。そんなエネルギー、今はどこにもない。

 どうにか食べて、眠れるときにうなされながら眠って、成績という免罪符を維持するために勉強する。それだけの毎日。
 自分が生きているのかどうか、実感がなかった。