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 やせたね、と言われることが嬉しかった。一学期が終わるころには、そう言われることが増えていた。
 でも、嬉しかったけれど、わたしはニコリともせずに仏頂面のままだった。だって、その嬉しさも中途半端なものだ。

 四月に出た六十八キロという数字に比べて軽くなっただけ。百六十五センチで、ようやく六十キロを切った。それくらいだったら、少しもやせてなんかいない。わたしはきれいじゃない。

 父は仕事が忙しいらしい。引っ越してから夏までの間に、顔を合わせたのは一度だけだ。母は比較的よく琴野町に来て、わたしとひとみと雅樹を外食に連れていった。わたしはそれが苦痛で、毎度のように仮病を使った。具合が悪いから行かないとか、食べたくないとか。
 顔を合わせるたびにわたしがやせていることについて、母が大叔母に訴えるのを、たまたま聞いた。いつもひょうひょうとしている大叔母が、泣き出しそうな声で答えていた。

「あの子、食べてくれないの。どんな料理にしても、手を付けやしないんだから。どうすりゃいいのか、こっちが訊きたいわよ」

 どこか遠い場所で心が痛んだ気がした。食事を残すことにも好き嫌いをすることにも、それによって大人たちを傷付けることにも、わたしは慣れ切って、感情が麻痺していた。

 夏服は袖が短い。撫で肩気味で、二の腕がプヨプヨして太いわたしは、冬服のときよりも明らかに太って見えた。
 やせたい。
 落ちてくれない二の腕の肉をつかんでねじって引っ張って、噛み付いて歯型を付けた。白い皮膚の下に血の色が散って、真っ赤なアザができた。

 一学期の終わりまであと数日となったある日の休み時間、ひとみに後ろから抱き付かれた。夏服越しの柔らかさと体温にゾッとした。
「蒼ちゃーん、たまにはかまってよ。ほんと、やせたよね」
「別に」
「最近、お出掛け、行けてないね。つまんない」
「わたしはそういう余裕ない。暑いから離れて」

 ひとみは、わたしの手元をのぞき込んだ。
「夏休みの課題、もうやってるの? 勉強合宿の最終日までに仕上げればいいのに」
「わたし、合宿は行かないから」
「えーっ、今年も?」

 受験生の勉強合宿は七泊八日。避暑地として有名な高原の研修施設を利用して、朝から晩まで、一日十三時間の缶詰の勉強をやらされる。
 大部屋に六人から七人。学校から運んでいった机をそれぞれ壁に向けて、ひたすら一人で勉強、私語厳禁。三度の食事とおやつ、朝の散歩、夕方の体操と入浴、先生方が待機する質問部屋に行くことのほかは、トイレしか自由がない。

 何週間か前、進路指導の学年集会で今年も勉強合宿が開催されると正式に公表されたとき、集会の後に鹿島先生がわたしは職員室に呼んだ。
「今年、どうする?」
「行きません」
「よし、逃げろ。ただし、条件は去年と同じだ。合宿が始まるよりも早く、課題をすべて終わらせて提出すること。受験生の今年は、課題の量が去年の比ではないぞ」
「わかってます」

「まあ、そのあたりは心配していない。私も、できることなら逃げたい」
「でしょうね」
「自分が受験生のときは、もっと強制力が強くてな。合宿開始よりずっと早く課題を提出したのに、追加の課題を出されて連行された」
「行ったんですか」

「大量の本を持ち込んで、さっさと課題を終わらせて、あとは好き勝手にした。悪友たちと共謀して爆竹も持ち込んで、大音量で騒ぎを起こしてやった。が、私は成績がよかったからな。悪友たちはみんなつかまって吊るし上げられたが、私は最後まで疑われもしなかった」

 とんでもないことを平然と言ってのけた鹿島先生は、どうリアクションしていいかわからないわたしの前で、クスクスと楽しそうに笑った。普段はニヤっと皮肉っぽい笑みを浮かべるだけの人だから、笑い声は珍しかった。
 そういうわけで、わたしは合宿に行かないために、休み時間も必死で課題に取り組んでいた。ひとみには理解できなかったみたいだ。

「勉強時間が長くて体がきついのは確かだけど、合宿自体は楽しいと思うよ。自分ひとりでは一日十三時間も机に向かい続けるって大変なのに、みんながそこにいると思ったら、なぜかできるもん」
「でも、わたしにはそれは合わない」
「残念だよー。泊まるところ、お風呂は温泉なんだよ。蒼ちゃんと温泉入りたかった。あと、ご飯もおいしいらしいのに」

 それが苦痛なんだ。わたしにとっては。ひたすら縛られるタイムスケジュールもイヤだけれど、それと同じくらい、強制的に出される食事がイヤだ。人前で肌をさらさなければならない入浴時間がイヤだ。

 下宿先の風呂場にある鏡を破壊してしまいたいほど、白くぶよぶよした自分のシルエットが嫌いだった。せめてもの救いは、わたしは目が悪くて、メガネなしではほとんど何も見えないことだ。そこに鏡があって白いぶよぶよが映っているという、何となくの像しかわからない。
「とにかく、わたしは行かないから」

 このところ完全に、わたしは偏屈者としてまわりから見られるようになっている。流行にも化粧にも恋バナにも興味を示さない変わり者だと。
 本当はときどき、まわりの声を聞いている。ダイエットの話題。やせたいという声。でも、そこには加わらない。この劣等感を人前にさらすなんて、肌をさらすのと同じくらい、耐えられなかった。

 去年はどんな気持ちでこの課題をやっていただろうか。覚えていない。ミネソタにホームステイに行くために、誰よりも早く課題を片付けだけれど。
 あれからもう一年経ったのか。だらだらと、じりじりと、居心地の悪い時間が這うように流れていった。その時間を過ごす間はひたすら長いように感じたけれど、終わってから振り返ると、あっという間だ。

 本当は今年もミネソタに行きたかった。親にそれを言い出せなかった。お金がかかることがわかっていたし、受験勉強は終わりが見えない。成績を上げても上げても、志望校の判定はよくならない。

 毎日、いつも、何かにせかされている。何かって、たぶん、自分自身にほかならないのだろうけれど。
 日が暮れるまで自習室で勉強する。最終下校時刻のチャイムが鳴って、そのころにようやく学校から帰る。あたりが薄暗くなってからでないと、長い距離を歩けない。日に当たれば、極端に疲れてしまう。

 その日、下宿に戻って、カバンに入れっぱなしだったケータイを取り出してみると、知らない番号からの着信があった。録音時間が短い留守電機能に、メッセージが一つ。

〈久しぶりです。竜也です。蒼さん、忙しいですよね。おれ、今年もミネソタに行きます。ブレットたちの家に。それで、出発の前に、蒼さんのところに会いに行きたいなと思ってて。ブレットたちに手紙とか書きませんか? おれ、預かっていくんで、それで、そのことを話したく……〉

 ちょっと照れたような口調のメッセージは、そんな中途半端なあたりで切れていた。わたしは、気付いたら肩の力が抜けていた。
「そうだよね。わたしが存在してもいい世界は、あっちにあるんだから」
 少しだけ笑って、わたしは竜也に電話をかけ返した。