翌朝ベッドで目を覚ました私は、ああこれはやばい、とぼんやりと思った。寝ていても頭ががんがんと痛むのだ。枕と接しているところから鈍い痛みが広がってくるように感じる。

 多分、これは十中八九。

「熱、だろうなぁ……」

 時計を見る。どうやら起床時間に関してはいつも通りのようで。

 このまま寝続けたいという誘惑を振り払い、ベッドにめり込むのではないかと思ってしまうほど重い自分の体を無理やり起こして立ち上がった。

 ふらりと体が傾いで、情けない自分に笑ってしまう。

 軽く首を振ると案の定ぐわんと世界が滲んだけれど、気づいていないふりをする。
 ふらついたのも最初だけで、おそるおそる足を踏み出してみると思ったよりもすんなりと真っ直ぐ歩けた。

 私は熱が出た時にいつも自分に言い聞かせる言葉を力強く口にして急いで準備を始めた。

 体育祭には行きたい。大丈夫そうだし。

「熱は計らない限りは熱じゃない!」

 いつか誰かに言われた言葉だった気がするのだけれど、ぼんやりとする頭では、やっぱり思い出せなかった。


✱✱✱

「……大丈夫なの梨花子」

「大丈夫。だいじょうぶだから」

 私はクラスに割り当てられたテントに体操座りで小さくなりながら友人の心配を跳ね除けた。

 ……正直、学校に来てから記憶がおぼろげだ。

 音楽室で音出しをして、チューニングをして、楽器を下ろして、テントに並んで。そこまではまだ良かったのだけれど、テントに阻まれて陽が射さないとはいえずっと同じ場所に立ち続けているのがどうにも辛くて、マウスピースに口をつけていざ吹こうと息を吸い込むと、吐き気が襲ってくるのだからどうしようもない。

 ただ行進の演奏をする時は例年直管楽器のトランペットとトロンボーンは一番前に並んでいるのでこっそり脇に避けることもできず、隣に立つ夕歩がずっと横目で視線を送ってきていたのには気づいていたものの、どうすることもできないので一通り片付けまで終わって、それからやっとクラスのテントの影にうずくまったのである。

「せっかくの体育祭なのに……高校の体育祭って人生で3回しかないんだよ? ……なんだってこんな日に……」

「でもま、さすがの厳しい神崎先輩も何も文句言ってこなかったね。全然まともに吹けてないのわかってただろうけど、多分それ以上に梨花子の体調が悪そう過ぎだからさー」

「うー……」

 ぐりぐりと自分の膝を額に押し付ける。ぼんやりとした掴みどころのない気持ち悪さをその痛みが誤魔化してくれた。

「さっさと救護テントか保健室か行った方がいいんじゃないの?」

 私の隣で夕歩がぼそりと正論を呟く。

「熱あるっぽいのは聞いたけど、あんたそれ熱中症もっぽいよ」

「熱中症……まじかぁ」

「まじかじゃないよ、ほんと心配してるんだから! よし、もう私が連れていく!」

 大きくため息を吐いて夕歩が私の腕をむんずと掴んだ。

「げ、あんたあっつ!やばいってこれ!」

「やだー、やめてやめて!」

 ぶんぶんと力の入らないまま掴まれた腕を振ると、夕歩が眦を吊り上げた。

「あんたこんなのでこのままここに居られるわけないでしょ!」

「いーやーなーのー!」

 叫ぶ夕歩と子どものように地団駄を踏む私の騒ぎに、人の目が集まり始める。

「このままずっと寝とくとか体育祭来た意味ないじゃん! せめて! せめてひとつだけ競技出させて……!」

 私より幾分か冷静な夕歩は周りの視線に気が付き身動ぎして、それから熱に潤んでいるのだろう私の目を見てからウッと呻いた。

 迷うように目をしばしばさせた後、不本意そうにどかりと座り直す。

「……ひとつって、なんだっけ最初」

『――プログラム5番、2年生女子全員による、タイヤ奪いに出る人は、入場門に並んでください』

 まるでタイミングを見計らったかのようなそのアナウンスに私たちは顔を見合わせた。



 私の赤組の印である真っ赤なハチマキを結び直してくれながら、夕歩が後ろから囁く。

「いい? お願いだから無理しないでよ?」

「そんなに何回も言わなくてもわかりましたー」

 ちらっと視線を逸らす。

 そんな私の思考を読んだようにぎゅうっと夕歩がハチマキを絞めた。

「……もう、バカ梨花子」

「いだだだ!」

 悶える私をひとしきり笑った後、優しく私の背を叩く。

「これが終わったら絶対保健室とか行くこと! いいね?」

「……うん」

 夕歩の呆れたような笑みを競技の開始を報せる鋭い笛の音が遮った。



『ただいまの結果を発表します。白組8点。赤組22点、よって赤組の勝利です』

 競技に出ていた2年女子だけでなく、わあっと湧く赤組陣営。

「やったね梨花子! 圧勝!」

「う、うん……」

 退場しながら興奮して飛び跳ねる夕歩にぶんぶんと腕を振られて、私は生返事をした。

 ……ちょっと、やばい。

 競技が終わるまではどうやらアドレナリンでも出ていたのか全く辛くなくて、もう記憶もないくらい暴れまくったのだけれど、今になって視界が狭まってきた。保健室に行くとかどうこうじゃなくて、もう早くどこかで休みたい。立っておくのも辛い。

 そう思っているとわらわらと人が集まり始めた。

「梨花子ちゃんちょー凄かった! なんていうか武将みたいな。血気迫ってたよねー」

「えー武将はなんか可愛くないじゃん? もーこれは女神でしょ。梨花子ちゃんのお陰で勝てたと言っても過言ではないね!」

「女神わろた、でもホントやばかったし。一人で余裕で3人とか4人とか引っ張るし。足速いし運動神経良いんだろうなーとは思ってたけどビックリだわー!」

「あ、ありがと、全然そんなことないけど……ね、あはは」

 ろくに話したこともないクラスの派手な女の子たちに囲まれて身動きが取れなくなる。こういうノリは苦手だ。助けを求めて視線を送ると、親友は誇らしげに胸を張っているところだった。

「でっしょー、ウチの子は楽器もできて運動もできるの!」

「夕歩……っ」 

 うらめしく見つめてみてみるものの伝わらないようだ。まったく、肝心なところで頼りにならない。ぐら、と視界が一際大きく歪む。

 思わずへたり込みそうになった身体を、ふわりと熱が包んだ。

「りっちゃん」

 耳元で囁かれたその声に震えたのはてバレていないだろうか。

「もうホント無理しないでって言ったのに。ちゃんと人の言ったこと覚えてんの……?」

 昨日と同じ熱が、また同じように、私を支えている。

 昨日がたまたま、イレギュラーだっただけのはずなのに。2日も連続で会うなんて。

 また、こうして海ちゃんに助けられるなんて。

 そこでやっと夕歩が私たちに気がついた。まず背の高い海ちゃんの存在に気づき驚くと、次いで私を見てもっと目を見開く。

「え、伊集くん! ってうわ、梨花子ごめん……! 馬鹿だ私、大丈夫!?」

 その声に派手な女子達もこちらを向いた。

「え、伊集くんって伊集海里くん? え、サッカー部の部長の!」

「うそ、やっぱかっこいいー!」

 かっこいいのは今更言うことじゃない。わかってる。私がずっと一番傍で見てきたんだから。

 熱のせいか、海ちゃんが黄色い声を浴びている、そのことがどうしようもなく嫌で。私はぎゅっと海ちゃんの体操服を握る。

 海ちゃんがそれを見たのがわかった。恥ずかしいな、とは思ったものの、その手を離そうと思えない。

「大丈夫だよ、りっちゃん」

「……え?」

 海ちゃんがとても小さく何かを呟いたかと思うと、まとわりつく女子たちをやんわりと振り払って距離をとって、私を抱え上げた。

 力強く肩と膝の後ろに回された腕。

 それでやっといわゆるお姫様抱っこをされているのだと気がついて、顔がぼっと熱くなる。

 呆気に取られた顔の女子たちを自然に無視して、海ちゃんは夕歩を見た。

「俺が保健室連れていくのが一番現実的だと思うけど、それでいいかな?」

 夕歩が我に返ったようにぱちくりと瞬きをして頷く。

「あ、え、うん。お願いできるかな」

 それに「まかせて」と海ちゃんも同様に頷くと、私を抱えたまま踵を返した。

 後ろから悲鳴のようなものが追いかけてくるのを聞きながら、私は堪らず海ちゃんの胸元に顔を押し付ける。

「りっちゃん? さっきから全然反応ないけど大丈夫?」

 何を勘違いしたのか、海ちゃんが私の顔を覗き込もうとする。私はそれを防ごうとますます顔を擦り付けた。

「もー、ほんとりっちゃんてば目を離すとすぐこれだから。競技中俺がどれだけハラハラして見てたかわかってるのかねーこの子は」

 私は声を出せなかった。どうしようもなく胸がいっぱいになって、熱のせいか、口を開けば思ってもいないことまで言ってしまいそうで。

 ……ほんと、海ちゃんってば何なの。

 それからはしばらく2人とも無言だった。保健室のドアを開けたところで海ちゃんがやっと口を開く。

「せんせー……あれ、いないし。あーそっか先生救護テントにいるのかなー」

 誰もいない保健室に海ちゃんの声だけが響く。

「んー、ま、とりあえずベッドだけ使わせてもらおっか……」

 海ちゃんが私を保健室の奥に並べられたベッドの一つにそっと私を降ろした。ぎし、と年季の入ったスプリングが私の体重に文句を言うように呻く。

 顔が外気に晒されたけれど、私はぎゅっと目をつぶった。

「……あれ、りっちゃんもしかして寝てる?」

 海ちゃんが頭の上から囁いているのだろう。微かに彼の柔らかな前髪の先が私の額に触れた。
 近い、と心の中で悲鳴を上げながら、それでも私は目を開かずにどうにか我慢する。

 多分数秒、でも私にはその何倍にも感じられる間の後、海ちゃんが立ち上がる気配がした。

「うーん……昨日のあれも、ほんとは体調悪かったんだろうな……」

 そう吐息混じりに呻いた後、「ちょっと待っててね」と小さく呟いて海ちゃんが部屋から出ていくのがわかって、私はゆっくりと目を開けた。

 ……どうしてだろう、海ちゃんの顔を見ることができなかった。

 今海ちゃんの顔を見たら、とっても大事な、思い出したいけど思い出してはいけないことを、思い出してしまいそうな気がして。

「先生呼びに行ってくれたのかな。だったらやっぱり……起きておいた方がいいよね」

 そう自分に言い聞かせるように呟いた時、ばん! と大きな音がしてドアが勢い良く開いた。

 肩を激しく上下させる海ちゃんが私を見て目を丸くする。

「え……はぁ、りっちゃん起きてたの……?」

「う、うん。今さっき……」

 そんな海ちゃんの様子に嘘をつくことに罪悪感を感じて視線を外すと、海ちゃんが屈託無く笑いながら白に青のラインが入ったタオルを差し出した。

「そっか良かった。あ、これタオル濡らしてきたから、とりあえずおでこ冷やしとこ。……一応言っとくけど、安心してね未使用だからね」

「……ほんとーかなー」

「りっちゃんてば疑ってんのー?」

「うそうそ。……わざわざありがと」

「うん」

 そっと乗せられた冷たさに素直になれない私はこっそり口元を綻ばせる。

 てっきり先生呼びに行ってくれたのかと思ったよ、と憎まれ口を叩くと、海ちゃんが目をしばたかせた。

「あ、そっかあ……そうだね。なんかとりあえず冷やして飲み物を、って思っちゃってさ……あ」

 そこで思い出したように体操ズボンのポケットに手を突っ込む。

 おそらくギリギリの大きさだったのだろう、窮屈そうに出てきたのはピンク色の小さな紙パック。売店の前に置いてある自動販売機で並んでいるいちごオレ。値段はお手頃な80円。

「はい、飲み物」

 差し出されたそれを受け取ってから、私は汗をかいたパッケージを眺めて思わず首をかしげた。

「確かに飲み物だけどさ、たぶんいちごオレは水分には入らないんじゃない、か、と……?」

 ……そうだ、“いちごオレ”。

 思い出した、思い出してしまった――何より大事なこと。

 私は。どうしてこんなこと、忘れてたんだろう。

「りっちゃん?」

 時が止まったように固まった私を不安げに見つめる海ちゃんの優しい眼差しに、あの日の記憶がよみがえる。