「絶対に、好きと言わないこと……」
私は放課後のほとんど人気の無くなった教室の窓から外を見下ろしてごく小さく呟く。
視線の先には、もうほとんど散ってしまった桜の木がある。葉桜とでも言えばいいのだろうか。
……私の知らないところで、また春は過ぎていくようだ。
少し短くなった裾丈。ゆるくなったスカートのプリーツ。結ぶのが上手くなったネクタイ。
私は、私たちは、2年生になってしまった。
それでも、桜を見るといつだって鮮明に思い出せてしまう。あの……一年前の出来事の全てを。
「なにしてんの、梨花子!」
元気いっぱいです、と主張するかのような大声と、どん、と背に衝撃を感じて振り返る。
「もーやめてよ夕歩、びっくりした」
「へへ」
へらりと頬を緩めるこの少女は萩夕歩。高校に入って一番に仲良くなった友人で、去年も、そして今年も同じクラスだ。ハッキリとものを言うタイプで感情がすぐ顔に出る。随分わかりやすい人で、だからこそ仲良くなったのかもしれなかった。
「顔が固いけどさ、なんかあった?」
つんつんと額をつついてくる夕歩に言われて、初めて自分の顔が強ばっていることに気がつく。
何でもないよ、と意識して表情を和らげると、夕歩は肩でバッサリと揃えられた濡れ羽色の黒髪を揺らして微笑んだ。
「ならいいけど。『りっちゃん』は笑ってる顔が可愛いからね」
『りっちゃん』、と。夕歩が時々ふざけてするその呼び方が、忘れがたいあの痛みを私の胸に喚び起こす。
『りっちゃん!』
もう随分正面から見ていない幼なじみの顔が、まぶたの裏に掠れて見えた気がした。
それにしても、本当に、全然会ってない。自分で招いたことだとはわかっているのだ。だからこそ腹立たしくて仕方がなかった。
私が逃げ出したあの日、正確にはあの瞬間から、私たちがちゃんと顔を合わせることは少なくなっていって、今ではほとんどない。
あの後、海ちゃんは結局サッカー部に入って、一緒だった登校は、別々になった。
海ちゃんは朝練があったから。……いや、言い訳だ。早起きすれば一緒に登校できたけれど、私はそうしなかった。
部活の終了時間も違ったから、下校も別々になって。そうなると、本当に関わることがなくなった。
たまに海ちゃんの顔を見かけると、今までどうしてあんなに話せたのだろう、と過去の自分に訊きたくなるほどに、何を話していいのかわからなくなった。
私が自分から話しかけなくなると、びっくりするほど会話は減ってしまって。海ちゃんが私に気を遣ってくれていたのもあると思う。でも、いつも話しかけていたのは私だったんだなぁ、とどうしようもなく虚しくなったことを覚えている。
私が私としたささいな約束。たったそれだけなのに、私と海ちゃんの距離が開くのはあっという間だった。
こんなつもりじゃなかったのに、うまくいかない。
……ずっと一緒にいたのに。
「梨花子、大丈夫なの、あんた」
「……ん?」
心配そうな表情を隠しもせず見せる親友を直視できず、私はへらりと笑みを浮かべてまた窓の外に目を向ける。夕歩も釣られたように顔を向けて、声を上げた。
「あ、あれ伊集くんじゃない?」
その言葉につい桜の木から視線が逸れ、グランドの方を見てしまう。
意識して見ないようにしていたのに。
サッカー特有のあの長めの靴下を履いた部員達がグランドを大きく使って試合をしているのが見える。
知らず知らずのうちに、私の目はただ一人を探していた。
「うち自称進学校だからさ、基本的に3年生はもう受験で引退だし、伊集くんが部長になったらしいね。あんたの幼馴染み、やるじゃん」
その声にぎくりとして私は体を翻して教室の方を向く。
「まあ、ね。かい……伊集くんは昔からサッカー上手だったし、気遣いとかできるから向いてると思うよ」
ふたりの間を沈黙が包む。不思議に思って夕歩を横目で窺い見ようとした時、はぁーっと大きく遠慮のないため息が聞こえた。
「あんたさ、なんで幼馴染みなのにそんなよそよそしくなったの? 好きだったんじゃないの?」
去年からの付き合いの夕歩は、私と海ちゃんとの距離が空いていくのを見ていたから、知っている。
実際、私も夕歩には全て話していた。もちろん話を聞いてもらうことで救われた部分も大きかったが、時々、話したことを後悔する。
夕歩の何気ない言葉が、私の胸に刺さるから。
「だからー、好きだっ“た”、んだって」
……ああ、また自分に嘘を重ねた。
「そういう意味で言ったんじゃないけど……まあ、梨花子がいいなら、そういうことでもいいと思うけど、さあ」
夕歩はたぶん……いや、間違いなく、私がまだ海ちゃんのことを好きなことに気がついている。それでも私の意思を尊重しようとしてくれるのは、ひたすらに彼女の優しさだと思った。
それに比べて、自分に嘘をついてまで周りに嘘を振りまく卑怯な自分が嫌になる。
「……最後に話したの、いつ?」
夕歩が声のトーンを変えて私には問いを投げかけてきた。
詮索しようとしている訳では無い随分と素っ気ないその口調に、自然と本心が転び出る。
「わかんない」
迷子の子どもみたいな物凄く不安そうな声で、自分で言ってから泣きそうになった。本当にわからなかったから。
ごめん、と夕歩が謝った。何が、とは言わなくても、私たちにはわかった。
夕歩が時計をちらっと見て鞄を掴む。
「今から、部活なんだけど」
「うん?」
「あのさ」
神妙な顔でこちらを見つめる。
「来ない? ……部活」
勝手に体が揺れた。
「……いや、だから、私はもういいって」
「やっぱ勿体ないよ。……ごめん、実は、梨花子が有名な中学校でトランペット吹いてたって聞いて。私も知ってるよ。あそこ、全国常連の超強豪校だったじゃん」
ぎくりとして、反射的に夕歩を睨みつけてしまった。彼女はいたたまれなさそうに視線を落とす。
私は唇を噛んだ。わざわざあまり地元の人が行かない高校を選んだのに、一体、誰がそんなことを。
「それに梨花子さ、自分じゃ気づいてないのかもしれないけど、時々凄い顔で私たちのこと見てるよ。本当は……吹きたいんじゃないの? 余計なお世話だってわかってる。それでも、やっぱりほっとけないよ。友達が辛そうな顔してるの……」
夕歩は吹奏楽部に所属していて、トランペットを吹いている。同じ楽器ということもあり、私のことを気にしているのかもしれなかった。
「……無理なの」
でも、それ以上、何も言えなかった。
「ちょっとだけ、行くだけなら、どう?」
意外にも夕歩はさらに食い下がってくる。
「うちも先輩引退したから、多少好き勝手しても文句言う人いないし」
「……じゃあ、うん、行ってみるだけ……行ってみようかな」
夕歩がほっとしたように笑って、頷いた。
✱✱✱
「先輩が引退ってさ、その、神崎先輩も?」
楽器の準備を始めた夕歩がこちらを振り返る。
「あーやっぱ有名なんだね。うん、こないだ毎年恒例の追い出し会と引き継ぎやったから、一斉にね」
「……上手いよね、先輩」
言うと、夕歩が首を捻って微妙な顔をした。
「まあうん、めっちゃくちゃ上手いとは思うけど、あんま吹部の人達は好きじゃなかったと思うよ」
「どういうこと?」
「もうねー、超っ厳しかったの。ここは地区大会ないから県大会からなんだけど、まあうちの高校激弱だから毎年銅賞も銅賞、銅賞の中でも底辺なわけ。けど先輩、何を血迷ったか支部大会に出たいとか言い出して」
ピストンをカシャカシャ言わせながら、はあ、とため息をつく。
「でもやっぱいくら頑張っても限界はあるじゃん。だから下手な人は削るの。高校生にもなって吹マネだよ? おかげさまで銀賞は取れたけど。煙たがられてたよ、やっぱ」
ひとりで突っ走られると迷惑だよね、と夕歩が笑う。けれど私は返事ができないでいた。
「梨花子? 聞いてる?」
「あ、うん……大変だったんだね」
「そっそ。はい、どーぞ。申し訳程度にオイルとか差してみたけど、最近使ってないやつだから吹きにくいかも」
差し出される銀色の楽器。所々めっきが剥げているものの、その輝きは見慣れていたもの。
折角メンテナンスまでしてくれたのだ。断るのもどうかと思い、躊躇いながらそっと受け取る。
心地よい重みに、冷たさに、思わず息を飲む。
「吹いてみなよ」
「でも」
「ちょっとだけ。ね?」
にこ、と夕歩がいたずらっ子のように笑う。その邪気のない笑みにつられるように、そっと私は楽器を構える。
ひんやりとしたものが唇に触れて。
水面に出た魚のように喘ぎながら、私は息を吸う。
長く役目を任されていなかった唇は思うように動かなくて、ろくに震えなくて。苛立ちながら、息を吐こうとして。
――身体が固まった。
やっぱり吹けない。ちらと夕歩を見る。きらきらとした瞳でこちらを見つめていることに気がついて、楽器を下ろすに下ろせなくなってしまった。
縮こまる唇をこじ開けて、楽器に酷く頼りない息を吹き込む。十分に楽器を鳴らすにはとても足りなくて、それを補うために口周りに変に力を入れる。
ベルから零れ出した音は貧相で、音程だけを綺麗になぞった、聞くに耐えないものだった。
……こんな音。
呆然として唇を離す。ただ、頭の片隅でどこか安堵していた。きっとこれで夕歩もがっかりして、自分に期待を寄せることはなくなるだろう、と。
「あは、やっぱ駄目だな、私――」
頭を掻きながら夕歩に向かってへらりと笑う。ぽかんと口を開けていた彼女は、ぱちん、と手を鳴らした。
「すごい! やっぱうまいじゃん!」
「……え?」
「なんだ、そんなに言うから何かと思ったら、全然ブランクなんて感じないくらいだし」
「ほんと? ほんとに……うまいと思う? お世辞じゃなくて?」
「私がお世辞なんて言うと思う?」
夕歩が真っ直ぐに目を見つめて言う。それはとても偽りを並べているようには思えなくて。
――なぁんだ。このくらいでいいんだ。
そう心の中で呟いた途端に今まで感じていたものがもやに隠れてわからなくなっていく。気がつけば、私はわらっていた。
「やっぱり楽しいね、吹くの。吹奏楽部、入ろうかな」
「やった!」
夕歩が飛び上がって喜んでいる。そんなに喜んでくれるならもっと早くこうしておけばよかったかな、とどこかぼんやりした頭で思う。
「なぁんだ、結局入るんだ」
ひやりとした 。ぎこちなく振り返ると、楽器ケースを持った相変わらず可愛らしい顔立ちをした先輩が、微笑みながら立っていた。
「神崎先輩!?」
「なぁに、そんなに驚いてー」
「だって、引退、しましたよね……?」
「私は受験大丈夫そうだから。吹コンまでは出させてもらおうと思って戻ってきたんだけど、いけなかった?」
ぶんぶんと夕歩が激しく首を振る。どうやら夕歩にとって彼女は随分怖い先輩のようだ。
「あ、そうだ。萩さん、後輩が呼んでたよ?」
先輩が指をさしつつ言うと、夕歩はぴゃっと飛ぶようにそちらへ向かっていった。
ふたりきりになるとかなり気まずい。ローファーの爪先を見つめる私に、先輩が笑う。
「ってことで、私も同じパートのメンバーだからよろしくね。東峰梨花子さん」
「は、はい……」
先輩が一歩近づいてくる。小さな声で囁く。
「なんだ、楽ならやるのね。もう頑張るのには疲れたの? そんな音で、よくもまあ」
……気づかれてる。どうして?
息が詰まった。甘くぼやけていた頭がきんと澄む。
「中途半端ならやらない方がいいと思うけど」
「っ、なんで」
考えるより先に、言葉が転び出る。
「なんでそんなこと先輩に言われなきゃいけないんですか? 夕歩だってうまいって言ってたし、何が駄目なんですか。高校の部活くらい、楽しくやっちゃいけないんですか……っ?」
我ながら、まるで、罪人が必死に自分を正当化するように無様だと思った。
「まあ、そうね。あなたがいいなら好きにすればいいけど」
欠片も狼狽した様子を見せず、先輩は表情を消す。
「私はそういう人、好きじゃないわ」
そんなこと、言われなくてもわかっている。自分でも、こんな自分好きじゃない。嫌いだ。
だけど、もうわからないのだ。どうすればいいのか。
ぎゅっと唇を噛んで、俯く。そんな私を何故かがっかりしたように眺めて、神崎先輩は踵を返した。
影法師が長く伸びる夕方のグランドを校門に向かって歩いていると、ずっと口を閉ざしていたせいで溜まっていたふたりの間の沈黙を、夕歩が長いため息で振り払った。
「いやぁ……ごめんね、梨花子。先輩いないって言ったのに」
どうやら何やら夕歩は責任を感じているらしい。肩を落とす彼女に首を振る。
「ううん、それは別に、大丈夫だから」
「でも、神崎先輩と何かあるんでしょ?」
「まあ……でも、私、やっぱり」
自分の手を見つめる。まだ残っている感覚を、そっと握り締める。
「本当は、吹きたいんだ……“ちゃんと”」
そう、思ってしまった。
これからが全く見通せない私の心を映したように分厚い雲が青空を灰色に塗りつぶしていて、私はどうしようもなく息が苦しくなった。