勢いよく玄関の扉を開けた私は、すぐ隣の家のインターフォンを真っ直ぐに伸ばした人差し指で強く押しこんだ。

 出てくるまでにはもう少しかかりそうだなと思いながら、空を仰ぐ。

 おひさまの匂いがする朝の澄んだ空気が頭をクリアにする。
 それでも、どうしても心がウキウキと浮き足立ってしまうのは、きっとその空気に潜んでいる春の気配のせい。

「……高校生、か」

 実を言うと昨夜は目が冴え過ぎてほとんど眠れなかった。意味も無く指先でネクタイをいじる。何だか曲がっている気がする。もう一回姿見の前で確認したくなってきた。

 そんなことをしながらしばらく待っていると微かな解錠音がして、ほんの少しだけ扉が開いた。
 隙間から少年がぼさぼさの寝癖を掻き回しながらこちらを窺ってきて、その恨めしそうな瞳に私はむしろにっこりと笑ってみせる。

「海ちゃん、おはよ」

 扉の向こうのでしょぼしょぼと物凄く眠そうに目を瞬かせ、ごしごしと擦った後、少年はやっと扉を開け放った。

「おはよ、りっちゃん、早いね……」

「海ちゃんってば、寝ぼけ過ぎだよ」

 とても年頃の女の子に見せるべきではないだろう間抜けな姿に、つい笑ってしまう。

 というのもまあ、私たちは幼馴染みだからいつもこんなものだ。
 私、東峰梨花子とこの少年、伊集海里は小さい時から何をするにもずっと一緒だった。家はすぐお隣、その上子どもの年齢も同じだったから、お母さん達はすぐに意気投合。
 必然的に子どもたちは一緒に遊ばざるを得なかった。

 ……いや、遊ばざるを得なかった、という言い方は正確ではないかもしれない。だって本当に嫌なんだったらいくらお隣さんだからっていつも一緒にいるなんて絶対耐えられないから。

「りっちゃん本当に高校楽しみなんだね。いつもに増して早いし」

「そ、そんなことは」

「あるある」

 大分覚醒してきた海ちゃんが私の頭を指差しながらにやっと笑った。

「だって特にその頭とか、めっちゃちゃんとセットしてるでしょ」

 反射的に視線を遮るようにぱっと頭に手をやる。まさか海ちゃんが気づいたとは。

 今日はいつもは時間がかかるからと忌避する編み込みもばっちりしているし。緩く巻いてアップにしてきたし、それに目立たたないけれど可愛くてお気に入りのヘアピンまでつけてきた。

 どうにも気恥ずかしくなってちょっぴり視線を逸らした。これは、そうじゃなくて――

「……バレたか」

 可愛い子ぶってちろりと舌を出してみると、海ちゃんは欠伸をしながら寝起きのスウェットのまま適当にサンダルを引っ掛けて一歩玄関から出てきた。

「毎日見てんだからわかるよ。ま、時間かけただけはあって可愛いよね」

「……よくもまあ、恥ずかしげもなくそんなことを……」

 憎まれ口を叩きながらもほんのり頬が色づくのを自覚しながらそれを見ていると、海ちゃんがこちらに手を伸ばしてきた。
 そのまま、ぽんと私の頭の上に手を乗せて、軽く撫でた。セットは崩れないような、絶妙な力加減。

「りっちゃんってばいつの間にかすっかりお姉さんになってさ。これからも俺の面倒みてね?」

 朝弱くってさ、ほんと困るんだよね、と苦笑する海ちゃんに、頭の上の熱を感じながら必死で頷いた。

「じゃ、急いで準備してくる」

 そんな私を見てふわっと微笑んで、海ちゃんはばたんと扉を閉める。

 私はといえば、口元を両手で押さえたまま固まっていた。

「うわああ……」

 思わず変な声が出る。それがスイッチだったのか、堪えきれなくなったようにぶわっと顔中に猛烈な熱が広がる。きっと私の顔は真っ赤だろう。

「もー、海ちゃんの馬鹿」

 うんうんと唸ってみても熱は去ってくれそうにない。諦めて項垂れると、ふわりと爽やかな春風が前髪を持ち上げる。

「海ちゃんはああいうことするのどうも思ってないんだろうな。やっぱ幼馴染みだからこそできるのかな」

 いつもいつも距離が近すぎるんだよほんと、と自分のぴかぴかのローファーの爪先をぼんやりと眺めながらぼやいた。

 昔からそうだった。『海ちゃん』、『りっちゃん』とお互いを呼び始めた頃、つまり幼い頃……出会った頃からずっと。

 気がつけば私たちはいつも一緒だった。すぐ隣にいた。
 遊ぶのも、ちょっぴり悪いことをして怒られるのも、美味しいものを食べるのも。並べていったらキリがないくらい、全部全部。
 あまり自分から動かないタイプで、臆病で引っ込み思案だった私は、昔は今以上に友達もあまり多くなくて、何かにつけて海ちゃんと一緒にいた。海ちゃんといると何より安心できたから。

 海ちゃんといると楽しいことはもっと楽しくなって。海ちゃんといると悲しいことも飛んでいって。

 ……いつからだろう。何かしらきっかけがあったのだとは思うけれど、もう自分でも思い出せない。
 いつの間にか、私は海ちゃんのことを『好き』になってしまっていた。

 ただ、幼馴染みとしての『好き』が恋愛対象としての『好き』になってしまったのは、私はある程度はしょうがないことだったのではないかと思っている。
 女の子、特に幼稚園や保育園、あんな時期の女の子の恋心なんて九九を覚えるよりも単純明快で簡単で。すぐ先生とか、友だちのお兄さんとか、クラスの格好良い男の子なんかのことを好きになって、『将来お嫁さんになる!』とか、『結婚する!』なんて言う。

 自分も例に漏れず、そういう事だったのだろう。

 私の場合、ずっとそばにいた男の子は海ちゃんで、彼が初恋の対象になったのは当たり前と言っていいほどだと思う。

 みんな通る道。ただ、私が大多数の人たちと違ったのは、そのすぐ消え去るはずだった淡い初恋を、ずっと今まで大切に握りしめ続けてきてしまったこと。

「わかってるんだよ、馬鹿なのは私の方だよね」

 思わず大きくため息をついた。

 そう、わかっているのだ。こんな初恋、早く忘れてしまった方がいいと。できることなら、なかったことにするのが一番いいのだと。

 海ちゃんは私のことを良くも悪くも幼馴染みとしてしか認識していないから。

 さっきのがいい例だ。幼馴染みだから、自分のだらしない姿だって見せるし、気安く頭だって撫でるし、軽々しく可愛いよ、なんて言える。
 でもそれは、同時に私を全く恋愛対象としては見ていないということの裏返しだ。私のことが好きならちゃんとした格好で会うだろうし、触れ合うとか、褒めるとか、そんなことできるはずない。

 ……どきりとさせられる度、ずきりと胸が痛むのだ。

 毎日、思い知らされる。

 でも、どうしても、できない。幼馴染みという枠に収まっている内は絶対に実らないとわかっていても、この恋をなかったことにするなんて。

「できないよ……」

「なにを?」

 不意に頭上から降ってきた声にローファーから視線を剥がしてがばりと顔を上げる。

「か、海ちゃん」

 さあっと顔が青ざめるのがわかった。もしかしたら口に出したりとかしてたかな。というか、いつからいたんだろう……全然気がつかなかった。

「はいよ」

 気の抜ける返事をする幼馴染みに恐る恐る問いかける。

「き、きいて、た?」

「だから、な、に、を?」

 その訝しげな表情と声に、私はほっと胸をなでおろした。何も聞いていないみたいだ。……良かった。

 まだ眉間に微かにしわを寄せる海ちゃんに、私は誤魔化すようににこーっと顔中で笑いかけるつられるように目の前の幼馴染みもへらっと笑った。可愛いけど、こいつは阿呆だ。
 そういうことしてるといつか肝心な時に誤魔化されるんだからね。まあ、知ったこっちゃないけど。

「ううん、なんでもないっ。学校楽しみだなって言っただけ! ほら、行こ!」

 こくりと頷く海ちゃんの手を何気なく、ほとんど無意識にとる。2人の指先が微かに当たった瞬間、自分から触れたくせに、手がぴくりと震えた。

「ん? どうしたの?」

 それが伝わったのだろう、海ちゃんが私の顔を覗き込む。心配そうなその眼に私はただ慌てた。海ちゃんはこんな感じなのに、私ばっかり意識して。

 もう平静を装うことも大変なのに、身体だけは昔からの習慣はしっかりと染み付いてしまっているものだから本当に嫌になる。

 ……手を握るなんて、ずっと昔からやっていることだ。今更意識なんてするな。意識してるのなんかバレたら駄目。

 私たちは幼馴染みなんだから。

「なんでもない!」

 震えも動揺も焦りも全部隠すように声を張り上げて、ぐいっと海ちゃんの手を引っ張って全力で駆け出した。

「ちょ、りっちゃん、楽しみなのはわかるけど待ってよ! 腕抜けるから、ほんと」

 振り返らずに足を動かす。と、一際強い向かい風が吹いてきて、まとめていた髪が乱れてひと房頬に落ちてきた。

 海ちゃんと繋いでいない方の手で直そうとして、まあいいか、とだらりと手を下げる。再び髪の束が頬を叩いたものの、もう気にならない。

 そりゃあ入学式だから気合い入れたってのももちろんある。でも一番は、海ちゃんに見てもらいたかったからで。もう目的は済んだからいい。

 高校生になったら私も可愛くなるかな、なんて。もしかしたら海ちゃんが私のこと……なんて、一人で悶えながら昨日は丸一日かけてヘアアレンジを考えたものだ。

 当然そんな反応はなかったけれど。わかってはいたけれど。というか冷静に考えたら突然そんな風に言われたら何事かと思うし。

 まあ、可愛いって言ってもらったし、撫でてもらったし、幼馴染みとしては上々の反応かな、と虚しくひとりで納得していると、ぎゅっと手を握られた。

「ひっ」

 びくりと大きく肩が跳ね、反射的に手を振り解きそうになって必死で堪える。

「おーいりっちゃん? 俺の話聞いてた?」

「……ごめん、聞いてなかった。きれいさっぱり」

「えー!」

「ごめんってば」

 振り返ると海ちゃんが情けない顔でこちらを見つめ返してきたのでぷっと噴き出してしまった。

 こんなふうに、何の気負いもなく色々な表情を見せてくれるものだから。
 今はこのままで良いかな、幼馴染みでも、と思ってしまうのだ。私は……下手に変なことして、この関係にひびが入ってしまうことの方が怖い。

 そんなことを考えながら、私はぐんと一層走るスピードを上げる。

 関係にひびが入るといえば、十数年と一緒にいて、今までそういうことは――私が海ちゃんにひそかに懸想していることを除けば――本当になかったように思う。

 そういえば、海ちゃん、好きな人いるとか聞いたことないなぁ、と。
 ぽつりと呟いた私の声は風に乗ってどこかに消えていった。


✱✱✱

 自分のすぐ横にある太ももを叩くと、隣で大きく船を漕いでいた少年は一度がくんと頭を下げた後、何事も無かったかのように顔を上げた。

 彼、こちらをぼんやりと数秒眺めて曰く。

「……なになな?」

 何かな、と言いたかったのだろうけれど、呂律が怪しい。

「海ちゃん、入学式くらいはちゃんと受けようよ」

 小声で耳打ちすると、ぐりぐりと目を擦りながら幼馴染みは大きく欠伸をこぼした。

「にしてもあれだねー、クラス一緒にはならなかったのは残念だったよね」

 私にもう一度はたかれた太ももを擦りながら、海ちゃんがさっきよりも声量を下げてぼやいた。
 いい加減海ちゃんを起こすのに飽きてきた私も小声ながら頷いて同意を示す。

「そうだね」

「『た』と『と』だから、同じクラスなら出席番号前後とかの可能性はまあまあ高かったのにね」

 こちらをじっと見つめる男の子にしては二重のぱっちりとした黒目がちな瞳に、どき、と胸が弾んだ。

「……同じクラスが良かった?」

「そりゃあ当然」

「えっ」

 その言葉に上目遣いに海ちゃんを見ると、満々の笑みで彼は宣った。

「面倒見てくれそうだし、頼もしいもんね」

「……まあ……うん、幼馴染みだしね」

 そんなことだろうとは思ってたけれど、思っていたよりがっかりした。
 ちぇっ。ちょっと嬉しかったのにな。

 静かにむくれているうちに周りの人たちがぱちぱちとまばらに拍手し始めたのでそれに倣う。

「在校生代表お祝いの言葉です――新入生、起立」

 アナウンスに慌てて立って礼をする。座ってからじっと壇上に目を凝らすと、ふわふわの長めのボブを揺らしながら一人の女子生徒がマイクの前に立ったのがわかった。
 遠目でも顔が整っているし、それにどこか視線を自然と惹き付ける顔立ちだ。近くで見ればもっと魅力的だろう。彼女が桃色に光る唇を開くと、きぃんと小さくハウリング音が耳をついた。

『新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。天候にも恵まれ、晴れ渡った春空の下で皆さんを迎えられることを、在校生一同心より嬉しく思っています』

 私はろくに挨拶も聞かずに隣のブレザーの肩パットの辺りをばしばしと叩く。

「あの人超可愛い!」

「うん」

「はーいいなー羨ましい」

「……うん」

 気の抜けた声に私はむっと唇を尖らせた。いくら興味無いからって。

「あの先輩どこかで見た気がするんだけどなぁ。ね、海ちゃんてば、聞いてる……の」

 あまりにも素っ気ない返事に海ちゃんの顔を覗き込むと、彼は瞬きもせずにじっと壇上を――その女子生徒を見つめていた。

 ちょっと待ってよ。
 海ちゃん、どうしてそんなにその先輩のこと見てるの?

 ……これは、興味無いなんて。むしろ、その反対なんじゃ。

嫌な予感が全身を一瞬で駆け回る。

「ちゃんと聞いてるよ。あの人たぶん、さっき入場で演奏してた吹奏楽部の中にいた」

 不自然な程に海ちゃんの声は落ち着いている。

「よ、よく見てたね。私、誰がいたかなんて全然覚えてないや」

 横通り過ぎただけだし、と焦燥を隠すようにへらりと笑うと、海ちゃんは視線を全く変えないまま口の端から零す。

「なんていうか、目についてさ……あの先輩だけ覚えてた」

 単純で素直な彼にしては珍しく歯切れの悪い返答。でもそれ以上に私を焦らせたのは、海ちゃんが私をちらりとも見てくれないことだった。
 この幼馴染みは私と話す時、癖のようにいつも私の目を覗き込むくらい目を合わせて話すのだ。

 それなのに、ちっとも私を見てくれない。

 その人が何なの? え……ちょっと可愛いってだけ、じゃん。

 ……だよ、ね?

「かい、ちゃん?」

「なに?」

 名前を呼んでもこっちを向かない。返事をするのにこっちを向かない。

 なんだかよく分からない感情にじわっと視界が滲んだ。

 海ちゃんだって男の子なわけだし、たかがこのくらい、と。そう頭では思うのに、鼻がツンとする。

『在校生代表、生徒会長神崎つばさ』

 そう締めくくりぺこりとお辞儀した神崎先輩に、盛大な拍手が送られる。彼女の容姿に魅入られたのは、私たちだけではないのだろう。

 隣に座る幼馴染みは惚けたように拍手もしないで壇上を見つめ続け、彼女の姿が袖に消えたところでやっと身体から力を抜いた。

「か……」

 名前を呼ぼうとした私の喉はひとりでにきゅっと閉まってしまう。

 名前を呼んで、どうするのか。また見てもらえなかったら、どうするのか。そう思うと何も言えなかった。

 ……あんな顔を見たのは、初めてで。拭い切れない嫌な予感だけが、私の胸にしっかりと居座った。


✱✱✱

 入学式の後、楽しげな喧騒が包む廊下をふたりで歩く。
 隣では幼馴染みが配布されたパンフレットとにらめっこをしながら唸っていた。

「おもしろそうな部活多いね。ね、ほらほら見て! カッコイイよ」

 そう言って海ちゃんがと開いたのは『ロボット研究部』なるものについてかかれたページ。これは部活紹介のパンフレットで、名前と活動場所などの諸情報が載っている。

「……」

 私は口を開けかけて、やめた。

 海ちゃんは中学時代、サッカー部に入っていた。それも、県の選抜に選ばれるくらいに上手かったのだ。
 それなのに何故か、3年生になる頃には辞めてしまった。理由を聞いても海ちゃんはなんとなくだと言うだけで、それが本心ではないということは私にもわかる。

 そしてこの様子だと、どうやら高校でもやるつもりはないようだ。
 絶対に、海ちゃんは部活……サッカー続けた方がいいと思うのに。

 本当に? 本当にそう思ってるの? って。言いたいことはたくさんあって。

 ただひとこと、「続けないの?」と言えないのは――自分もそうだから。

「うーん、りっちゃんはどこ行きたい?」

 突然話をふられてびくりと飛び跳ねた。

「へっ、私?」

「うん、俺決まんないからさ。先に決めていいよ」

 パンフレットをいくら見ても、目が滑る。内容が入ってこない。諦めて閉じた。

「私は……高校では、部活はいいかな」

「でも、あんなに頑張ってたのに……」

 ……そう。私にしては、結構頑張ってた。

「だから……やめたの」

 静かに言うと、海ちゃんは痛そうに顔を伏せた。
 ちらと視線を上げて、誤魔化すように笑う。

「じゃあ、ロボット研究部ついてきてよりっちゃん。場所はパンフレットでしっかり俺が見とくからさ。案内するよ」

 ギスギスして、お互いに本当のことを何も言えなくなって。顔色をうかがって、視線を逸らす。

 嫌だな、とは思うけれど、どうすることもできない。

「りっちゃん……」

「ううん、なんでもないよ。行こっか」

 大きく頷いた海ちゃんはわざとらしいくらいに足取り軽く階段を上っていく。その後について歩いていると、上からきき慣れた音が降ってきた。

 軽やかに駆けるような木管楽器の連符。ホルンやユーフォ、中音を担う金管楽器の歌うような滑らかなオブリガード。思わず耳を塞いでも、ずんずんと体の芯をリズムを刻む低音が揺らす。

 ――あの頃は、毎日聴いていた音。何より好きだった音。

 まるで魔法にでもかけられたように体が固まった。足が動かなくなって、逃げることも進むこともできない。
 喉が締まる。呼吸が浅くなる。視界が狭まっていく。
 肩が震えて、必死に両手を握り締める。

「……っ」

 もう自分は関係ないのにと、そう言い聞かせても身体は言うことをきかない。

 身動きの取れない私を、鋭く、鋭く――音が貫いた。

 ひたすらに真っ直ぐな、芯の通った音。

「……うまいなぁ」

 気がつけば、ぽつりと呟いていた。

 金管の花形とも言われる、トランペット。

 はっと目を瞠るような、息を飲むような、鮮烈な音だった。

 全く無駄な力の入っていないアタック、どこまでも続いていきそうだと思ってしまうほどに伸びやかなリリース。

 でも、技術より何よりそれ以上に、自信に満ち溢れていた。これほどトランペットという楽器に向いている音もないだろう。
 キラキラと輝き、『私の音を聞いて!』と主張しているような、そんな感じ――

 今の自分が……あんな風に吹けたら、どれだけいいだろう。

 そこまで考えてから、私はぎゅうっと胸元を握りしめた。

 だから。関係ないことでしょ、もう、私には。

「りっちゃーん?」

 心配そうな海ちゃんの声に、は、と顔を上げる。思い出したように体が自由に動くようになる。ううん、と答えてどうにかそのまま階段を上りきると、天井が高くなって音がクリアになった。

 人だかりが見える。どうやらここは音楽室だったようだ。躊躇う私をよそに、海ちゃんはそれに近づいていく。

「おー、これは新入生歓迎会的なあれかな?」

「……たぶん、ね」

 180近い高身長を活かして海ちゃんが背伸びをする。

「あれ、りっちゃんがやってたやつだよね。トランペット、だっけ? うまかったのに、勿体ないな。またやればいいのに」

 きっと他意は無いんだろう。ただ思ったことを言っているだけで。
 むしろ私の背を押そうとしているのかもしれない。それでも、今の私にはその言葉は苦痛でしかなかった。