カチ、カチ、カチ、とメトロノームが均等に時間を分けていく。
 そのリズムを聞きながら、私は拍子をとる。

「いち、に、さん」

 し、で全員一斉に息を吸う。

 ここが一番大事だ。同じようなタイミングで、同じように同じだけ息を吸わなければ一音目は合わない。

 6人。それだけの人数が合わせるのは、並大抵の事ではない。

 ……あ、誰か遅れた。

 そう思った瞬間、やっぱりアタックがバラついた。皆もわかったようでマウスピースから口を離す。呼吸が合わなかったらそれ以上続けても意味が無いから、また最初からだ。

「九重さん、ちょっとみんなより遅いよ。半拍の半分ぐらいだけど」

「はいっ、すみません」

「3rdは上の2つのパートより音低いから、遅れやすいから。もっと自分が思ってるよりテンポ速く感じるようにして」

「はいっ」

 早紀ちゃんの横で訥々と注意をしているのは、神崎先輩だ。

 先輩はソロオーディションの翌日から、またパート練に出てくれるようになった。それに、今では声を荒らげることなく、隣の早紀ちゃんに注意もしてくれている。

 私にきつく当たることも無くなった。というよりは、誰に対しても思ったことをそのままぶつけてくる事が無くなった……ような気がする。

 ともかく。

 1stは私、夏海ちゃん。2ndは南波、夕歩。3rdは神崎先輩、早紀ちゃん。やっと6人がちゃんと揃ったような気がする。それがとても嬉しい。

 私はメトロノームを止めて巻き直しながら、輪になって座ったトランペットのメンバーを見渡した。

「もう最後の合奏も終わったし、明日は本番だから今更大きく変えることなんてできないけど……でも、呼吸とか和音とかそういうのは自分が合わせようと思ったらいくらでも合わせれるし。その、なんて言うか……頑張ろうね」

「えらそーなこと言うなぁ」

「……うるさい」

 南波が茶化すようにそう言うから、べっと舌を出してやった。
 こいつは、あの後も結局変わらずに接してくる。頑張ってそうしているのかもしれないと思うから、私もそうすることにしている。

 でも南波が言う通り、我ながら随分偉そうなことを言っているなと思う。前だったら絶対に飲み込んでいた。

「でもでも、このメンバーならホント絶対うまくいく! ような気がします。ですよね、先輩?」

 大会までのこの数週間で随分打ち解けたように夕歩が神崎先輩の方を向く。

「まあ、人並み以上の結果は出て当然でしょ? 私と2年生3人、これだけ経験者がいるんだから、1年生2人分くらいカバーできなきゃダメ……」

「先輩ってほんと素直じゃないですよね。私わかってきましたよ。神崎先輩ってなんて言うか、素直になれなくてひねくれてるだけですよね」

「……ちょっと、何言ってるの、萩さん?」

 なぜか夕歩は先輩の扱いをすっかりマスターしたようだ。

 私は事情を知っても正直そんなにすぐには無理だけれど、顔を赤らめて夕歩に文句を言う先輩の顔を見ていたら、やっぱりそんなに悪い人じゃないのだろうと思う。私も、いつかはあのくらい仲良くなりたい。

「でも、ひとりで吹くより、3人で吹くより、6人で吹いたほうが絶対いい音するから、ね。吹奏楽ってそういうものだと思う。皆の音が混ざりあって、ハーモニーになってね、いやっ、もちろんカバーもするけど……!」

 先輩が言ったことを気にしてるかな、と1年生2人の方を見ながら言う。

「はい、先輩。それなんかちょっとわかってきました」

 そう夏海ちゃんが笑った。

「正直な事言うと……ええと、その……何本気になってるんだろう、って気持ちもあったんです。うちって別にそんな強くないし」

 じろっ、という神崎先輩の視線を受けながら、夏海ちゃんが続ける。

「……でも、そうじゃないですよね。結果も大事ですけど、過程が大事なんですよね。吹奏楽してて何を感じるか、とか、皆でひとつのものを作り上げる、ってことが、大事なんですよね。って、すみません! 偉そうなことを……!」

 しん、と部屋が静まる。でもそれは、皆どこか思い当たることがあるからこその静寂だった。

「いや、その通りだな。な? 東峰」

 やっぱり沈黙を破るのはへらりとした態度の南波。

「うん。ほんとその通りだと思う。ね、サボり魔の元幽霊部員さん?」

「まあ、それは……置いとこうぜ今は」

 あはは、と部屋が笑いに包まれる。

 6人、みんなが一緒に笑っている。こんな光景、全然想像できてなかった。

「ほんとに、よかった」

 ほんの些細なきっかけで、ほんの少しの勇気で、それだけで何かが変わって、予想もできなかった未来が広がっているのだと。

 私はひとり、噛み締めていた。


✱✱✱

 楽器を片付けていると、少し先に片付け終わった先輩が荷物を背負って帰ろうとしていた。視線を感じたので、とりあえず「さようなら」と挨拶をしたら、先輩は軽く頷きを返した。

 ……やっぱり私は、まだ先輩のことが少し苦手だ。

「東峰さん」

「は、はい」

「今日は真っ直ぐ帰って、早く寝るのよ。明日本番だし」

「はい……?」

 普通に話しかけられることなんか今まで無かったから、そんな風に話しかけられると身構えてしまう。それでも私にもできれば先輩と仲良くなりたいという気持ちはあるので、どうにか話を続けようと頭を捻る。

「あ、先輩は海ちゃ……伊集くんの所に寄って帰るんですか?」

「……はぁ……?」

 先輩の思いっきり怪訝そうな顔に気分を損ねたかと不安になるものの、もう言ってしまったものはどうしようもない。

「行かないわよ。行くわけないでしょ?」

「あ、です……よね。大会の前日ですもんね……」

「ち・が・う」

 どうやら気分を損ねたわけでは無いらしい。私たちはお互いに疑問符を浮かべて首を傾げた。

「何も聞いてないの? 伊集くんに」

 ……伊集くん? 海里くんって呼んでなかったっけ。

「はい、もう話してもないですし。ふつーに考えて、幼馴染みが夏休みにまで会ってるって変だと思いません?」

 へらりと笑う。それだけの言葉をどもらずに滑らかに言えたことに安堵する。……ほら、もう言える。大丈夫。

「まあ、それなら特に私から言うことでもないから」

 この人は自分の感情を隠すつもりがないだけなんだろうな。猫被るのはめっちゃ上手だし。不満げにきゅっと目を細めているのを見つつ、そんな風に思う。

「……私には、あなたたちは『ふつー』の幼馴染みには見えてなかったけど」

 じゃ、明日ね。と先輩が音楽室を出ていく。

 先輩が言っていることはほとんどよくわからなかったけれど。聞いてないの、ということは。

 ……まさか、付き合ってる、とか?

 ぱたん、と閉じた楽器ケースの金具を留める指が小刻みに震えているのに、私は気づかないフリをした。


✱✱✱

 吹奏楽コンクール県大会、当日。

 学校で音出しをして、軽くチューニングをして合わせるくらいの時間しかないのは毎年のこと。いつもの十倍くらいの速さで時間が過ぎていく。慌ただしい朝だ。

 午後の最後の方を運良く当てれば話は別だが、そんなことはなかなかない。今年も例に漏れず午後の2番を引き当てたけど、これはかなりましな方だ。

 バスで学校を出発し、会場に着き、音出し室を出てチューニング室へ。

 木管から始まって、順番が回ってくる。

 トップに座る自分から音程を合わせる。緊張で口が締まっているのだろう、いつもより少し高い。肩を上げ下げしたり唇を震わせてリラックスしようと試みながら、なんとかチューニングを終える。

 次に構えた夏海ちゃんの手が震えていた。きつく締まって潰れた音。いつもは出る高音がどうしても出ない。
 泣きそうな顔でマウスピースに口をつける。

 ……緊張、するよね。

 当たり前だ。まして彼女は初めてなのだから。

 コンクールは空気が違う。会場は人でごった返しているけれど、一歩踏み入れた途端にわかる、ぴんと張り詰めた空気がある。

 どれだけ合わなくても、時間は決まっている。その後金管のチューニングも終わり、基礎合奏が始まる。

 曲を合わせる前にこれをするのは、曲中の和音を取ったり、ブレスのタイミングを合わせたりする上でとても大切なのだけれど――

「……っ」

 出だしが合わない。呼吸が合わない。和音が濁る。

 ……絶対、上手くいくのに。

 皆がひとつになって、ひとつのものをつくりあげようとしている。私たちにはそんな雰囲気がずっとあった。

 きっと私たちのソロオーディションも皆の気持ちを変えたのだと思う。

 そっか……だからこそ、緊張するんだ。

 がた、と椅子がずれた音で、自分が立ち上がったのだとわかった。そのくらい無意識だった。

「すみません、ちょっと、いいですか……」

 さあっと血の気が引くのを感じながら、どうにか口を動かす。

「おねがいします、きいてください」

 ……もう仕方ない、なるようになれ。

 南波の視線も、夕歩の視線も、神崎先輩の視線も感じる。色々な人のおかげで、私は変われたのだ。

「私、途中から入ってきて。それなのに、偉そうなこと言うのは……とは……思うんですけど」

 臆病で卑屈な自分が出てきそうになるけれど、どうにか押しとどめる。

「私、すごく不甲斐なくて……でも、皆が助けてくれました。私は、こうして一緒に吹いてくれる皆が好きです。私たち吹奏楽部は、誰一人欠けちゃ駄目で、それぞれに役割があって――」

 私は、やっぱり吹奏楽が好きだ。トランペットをやめなくて本当に良かった。

 吹奏楽部を引退しても、これからもきっとうまくやっていける。そう思えたから。

「だから、本番でも、皆で……悔いのない演奏をしたいです。緊張とか吹き飛ばして、全力で……っ」

 恐る恐る見渡した顔は、どれもにこやかで。

 もしかしたら情けない顔をする私を見て緊張が緩んだのかもしれない。「終わりです。舞台袖に移動します」と誘導の人が来た時には、幾分か肩の力が抜けているように見えた。


✱✱✱

 前の学校の演奏が聞こえる。もう自由曲に入っているから、あと少しで、私たちの番。

 やっぱきんちょうする、と呟きながら、早紀ちゃんが音を立てないようにつま先で足踏みをしている。

「楽器冷えるとチューニング変わるから、息入れて楽器あっためといてね」

 こくこくと頷き、早紀ちゃんと夏海ちゃんがふーっと息を入れる。

 私はこういう時にソロの指とかをシュミレーションすると、大体緊張やら何やらで飛んでしまう質なので、それはしないでおく。

 譜面を確認。それから息を入れながらぱたぱたとピストンを押す。うん。大丈夫だ。楽器はどうしたものか本番前になると突然ご機嫌斜めになったりするので怖い。

 かしゃん! と控えめながら金属音がして、肩をそびやかす。

「……悪い」

 顎を引いて南波が謝った。貯まった水を出そうと管を抜いて手元が狂ったらしい。南波でも多少は緊張してるんだなと思うと少し可笑しい。

 背中に軽く衝撃を感じて振り返ると、夕歩が頭を押し付けていた。

「ばか、梨花子」

 ずっ、と鼻をすする音が聞こえてぎょっとして、つられるように鼻の奥がつんとする。

「ほんと、もう、好き勝手言って……泣かさないでよね。吹けなくなったらどーすんの」

「夕歩」

「……さっきの梨花子が言ったやつ、嬉しかった。皆でやってるって感じがしてさ」

「なーに、最後みたいな雰囲気出して。まだ終わるって決まったわけじゃないと思うけど?」

 にっと笑うと、夕歩が目を擦ってにやっと笑い返してきた。

「……そうだね、もしかしたらもしかするかもしれない気もしてきた」

 暗くても、私たちはお互いの目の中にお互いが映っているのがわかっていた。それが何より頼もしくて。

「がんばろ!」

「うん!」

 笑って拳をぶつけ合う。それだけでふっと肩が軽くなった気がした。

「はい、どうぞー」

 スタッフさんのその合図で、3rdの端、トランペットの先頭に立つ神崎先輩がステージに出ていく。ひとり、ひとりと舞台袖から出ていく。

 私もステージに足を踏み出した。

 まだ薄暗い中を歩く。よく見えないせいか自分の足音が異様に大きく聞こえる。

 前の方に座る、結果発表を待っているどこかの高校の生徒たちの視線が刺さる。

 祈るように握られた手に胸が苦しくなって、そっと目を逸らす。
 彼女たちには悪いけれど、そう簡単に失敗してはあげられない。

 楽器を持つ手が汗で滑る。誤魔化すように服でぐいと強く拭った。

 席につく。譜面の高さを調節しようと伸ばした手が震えていた。

 全員が席に着いたと同時に、ぱっと照明がつく。いつも聞く声で学校の名前と曲名が読み上げられる。

 けれど、もうそれも遠く、聞こえない。

 どくどくと早く鐘を打つ、心臓の音だけが耳の奥で鳴っている。

 先生が指揮台に立った。

 挙げられた手はお世辞にも指揮に慣れているようには見えないけれど、優しそうに微笑んだ顔は、私たちに「大丈夫」と言ってくれているようだった。

 先生が余拍を振る。

 揃うブレスの音。

 指揮棒が空中に一拍目を叩く瞬間、空気が張り詰めて爆発する。

 ――私たちの12分間が始まった。