部活が終わり、帰路につく。この季節は日が落ちかけてもまだ暑い。じわりと滲み出す汗を拭いながら、爪先を見つめて歩き続ける。

 皆、自分なりに前に進もうとしているのに、自分だけ。

 信号で立ち止まる。赤を確認して一瞬だけ上げた視線はすぐに落ちる。

 ああ、もう、嫌だ。

「青だよ。渡んないの?」

「あ、すみません……」

 とんとんと肩を叩かれ、邪魔だったのかと思い端に避けながら緩慢に顔を上げる。

「え、なにどうしたの? 梨花子ちゃんだよね? 人違いじゃないよね?」

 大きな茶色がかった瞳が見開かれて私を映した。

「……芽、衣……」

「やっほ、久しぶり。元気してた? ……感じじゃあないね」

 じっとりと背中に嫌な汗をかく。

「ちょっと、話さない?」

 芽衣が髪を耳に掛けながら笑った。



 はい、と差し出されたジュースの缶を断ろうとしたら押し付けられたので、躊躇いながら受け取る。そのまま握り締めていたら今度はひったくられて、プルタブを開けて戻された。

「懐かしいね、ここの公園。小学校のときよく遊んだよね。ブランコが好きでさ、よく競争したよね。どっちが高くできるかって」

 芽衣が言いながらブランコに腰掛ける。仕方がないので自分も隣に座る。

「もう今じゃちっちゃいよね。足余っちゃう」

 反応できないでいると、芽衣は困ったように笑ってこちらを見た。

「ね、梨花子ちゃん。久しぶりだね」

「……うん、久しぶり」

「小学校一緒だとさ、校区的に家近いじゃん? だから結構会うかなって思ってたんだけど、なかなか会わなかったね」

「そう、だね」

 うまく話せない。何か言わなければと思っても、口が動かない。

 重苦しい沈黙がおりた。

「梨花子ちゃん」

 名前を呼ばれて、弾かれるように立ち上がる。ぴしゃりとジュースが地面に飛び散った。それに構わず頭を下げる。考えるより先にそうしていた。

「ごめん、ごめん、ごめんなさい……! 芽衣をすごく傷つけたの、わかってる。芽衣が私のこと嫌いになっても当然だよね。でも、私は……」

 身勝手な謝罪だ。自分がすっきりしたいだけの、独りよがりな言葉で。けれど、止まらなかった。

「まだ、芽衣のこと好きだよ。ごめんね、こんなこと言ってごめん。許されることじゃないよね。ごめんね……」

「梨花子ちゃん」

 芽衣が私の手を握った。

「顔上げて、こっち向いて」

「……無理だよ、私、どんな顔して芽衣を見ればいいかわかんない」

「どんな顔でもいいよ。今の顔が見たい」

 それは驚くほど柔らかい声で、思わず顔を上げる。芽衣は朗らかな笑みを浮かべていた。

「なんで、そんな、顔」

「梨花子ちゃんこそなんて顔してるの。もー、私怒鳴ったりキレたりなんてしないよ」

 あは、と芽衣が声を立てて笑う。

「やっと目を見て話せる。私、もう二度と話せないんじゃなかって、そう思ってたから」

 笑ったままの顔で、声だけが震える。そこでやっと、自分の手を握る芽衣の手が小刻みに震えていることに気がついた。

「ごめん、さっきの嘘。ほんとは何回か見かけてた。だけど、いつも俯いて歩いてる梨花子ちゃんを見て……声がかけられなかった」

 今度は深く芽衣が俯く。

「梨花子ちゃんがそんなふうになったのは私のせい。私は梨花子ちゃんを妬ましいと思った。僻んでた。うざいって思った。失敗した時……ざ、ざまあみろ、って……思っちゃったの……!」

 ぱた、と落ちた滴で地面にしみができる。

「吹奏楽を始めてから、きらきらしてる梨花子ちゃんが羨ましかった。私の後ろで、『何でもいいよ、芽衣のすることなら』って言ってた今までの梨花子ちゃんの方がいいって、思っちゃったの……そんなはずないのに。友だちが生き生きしてるのを、疎ましく思うなんて。私、最低だった……!」

「芽衣」

「才能が無かったのはただ自分のせいなのに。上手くなかったのは自分の努力不足のせいなのに。それを全部、梨花子ちゃんのせいだと思って」

「芽衣!」

 ぎゅっと強く、繋いだ手を握る。

「ありがとう、そんな風に言ってくれて。でも、私が皆を傷つけてたのは事実だから。芽衣は何も悪くないよ」

「……それなら、それを止めるのが私の役目だった。だって……私は、梨花子ちゃんの、友だちだったのに」

「だったなんて言わないでよ。今もそうだって……私は、思ってるよ」

 芽衣がぱちくりと瞬く。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、にかっと笑った。

「そう……そう、だよね……そう……っ」

 笑ったまま、器用に声を上げて泣いた。それを見て笑ったはずの私も、気がつけば泣いていた。拭っても拭っても止まらなくて、諦めて芽衣を強く抱きしめた。


 暫くして落ち着き、我に返った私たちは、お互いの酷い顔を見て噴き出した。

「ね、梨花子ちゃん。これからは人を気にし過ぎちゃダメだからね。周りばっかり見ないで。皆、今まで少なからず失敗なんてしてるんだから、いいんだよ。失敗した後のことの方が大事なんだってわかった。こうして謝ったら、ほらっ、なんだか前より仲良しじゃない?」

 おどけて言う芽衣の目の縁がまだ濡れていた。

「だから、ね。どんな梨花子ちゃんでも梨花子ちゃんだけど、無理するのはもうやめて。私はあの時の傍若無人な梨花子ちゃんもちょっとだけなら好きだよ」

「でも……私はもう人を傷つけたくないの」

「だから何も言えないの? 何もできないの? そんなはずないよ。傷つけずに想いを伝えることだっていくらでもできるはず。失敗したから、人を傷つけてしまったから、傷ついたから……だからきっともう梨花子ちゃんは大丈夫」

 まだ頷けない私に、芽衣はやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。

「じゃあ、とっておきのひとことをあげる。――人は、吐き出さなきゃ吸い込むことはできないんだよ。楽しいことも、嬉しいこともね。嫌なことばっかり溜め込みすぎたら壊れちゃうんだから。今だって、思う存分吐き出したらスッキリしてるでしょ?」

 芽衣がブランコを漕ぎ始めた。ぐんぐんと動きが大きくなる。昔と違っていとも簡単に高度を上げると、ぱっと手を離して飛び降りた。

 思わず手を伸ばしていた私を可笑しそうに見て、芽衣が破顔する。

「私ね、高校でもトロンボーン吹いてるんだ。今は、この楽器が一番好き。いつかまた一緒に吹こうね、梨花子ちゃん!」

 ばいばい! と大きく手を振って、芽衣は暗闇に紛れて消える。

 胸に灯ったあたたかい熱は、もう消えそうになかった。


✱✱✱

 翌日。練習の終わり際、私は階段を駆け上った。

 私は屋上で吹くのが好き。
 ……だった。

 自分の音がどこまでも響いて、何にも邪魔されることなく風に紛れて消えていく。屋上で吹いている時は、何より自由な気持ちになれたから。

 でも今になっては、反射するものもなく、ありのままの音が遠くまで届くのは、苦痛でしかなかった。

 風が髪をなぶる。それすらもうざったくて、唇とマウスピースの間に入り込んだ髪の房を、乱暴に払い除けた。

 そっと触れたマウスピースは、ひんやりと冷たかった。それ以上に自分の唇はもっと冷たかった。

 楽器に触れると、酷く安心を覚える。

 空気はじっとりと蒸し暑いのに、何故か自分の体だけ冷えきっていた。

 数度深く深呼吸をする。

 胸の中の汚い感情も、暗い心も、重い気分も、全て吐き出す。

 そして吐いた分だけ、澄んだ自由な空気を思いっきり吸い込むのだ。

 いつまでも知らないままじゃいられない。それを理解して、大人の世界に足を踏み入れかけた、不安定な存在。それが今の私たちだ。

 ひとは一人じゃ生きていけない。誰かと支え合って、集団で生きる存在だ。

 いかに飛び出さず、周りに溶け込み、集団の一つのパーツとしての自分の役割を、どれだけそつなくこなすかが大切で。

 吹奏楽は、私にとってまるで人間社会の尺図のようなものだ。
 誰がどんなふうに何をするか、それぞれに役割があって、その役割を全うできなければ役立たずと罵られ、その役割から逸脱し過ぎたことをしたら咎められる。

 “息苦しさ”。

 皆少なからず感じて、でも意識的に、あるいは無意識に、自分なりに折り合いをつけて、通り過ぎていく。

 なんでも無かったように笑って。

 ――人は、吐き出さなきゃ吸い込むことはできないんだよ。

 あの言葉は、芽衣なり見出した、この息苦しさの克服の仕方だったのだ。

 吹奏楽ではもちろん、狭くて息苦しい世の中で、どうにか自分でひとりで立って、呼吸をするための。

 芽衣は私より少し早く大人になったのだろう。

 やっと私にもわかったよ、芽衣。

 あの頃の私はきっとまだ子ども過ぎたのだ。自分を諦めて、迷子になって――そのうち、元の自分が本当にわからなくなってしまっていた。

 だから。一度、今の自分を忘れて、昔の自分に戻ることもなく、ありのままの自分をさらけ出して。

 体の中の空気を全て吐き出す。すると意識しなくても、ぴったりその分だけ新しい空気が入ってくる。

 それはとても自然なことに思える。いつも吸ってばかりで、浅い呼吸を繰り返してじたばたともがいていたのが馬鹿みたいで、おかしくて少し笑ってしまった。

 ピストンに乗せた人差し指と中指を押し込む。

 唇を震わせた感覚もほとんど無かった。

 本当はすぐそばのはずなのに、その音がどこか遠い所で鳴っているのをぼんやりと聴いていた。

 自分が何処か知らないところに消えていきそうな感覚。

 それ以上続ける事ができなくて、口を離した。


「――梨花子」

「!」

 自分の名前が呼ばれて振り返る。
 目が合ったのは、泣きそうな顔をした夕歩だった。

「夕歩……どうしたの? あ、ごめんね占領して。夕歩も屋上で練習したかった?」

 へらりと笑う私に、夕歩が唇をわななかせた。

「すぐよけるからちょっと待って」

 それに気がつかないふりをして、私は視線を外す。

「梨花子!」

 夕歩が私の腕を力一杯ぎゅっと握り締めた。

「痛いよ、夕歩」

「ごめん」

「謝るなら離してほしいけどなあ」

「違う。そのごめんじゃなくて」

「……なに?」

「いままで、ごめん」

 びっくりした。夕歩が何を謝っているのか、本当に心当たりがなかった。

「夕歩? 私に謝るようなこと何も無いよ。むしろ……」

 むしろ、あのパート練の時だって、あの場に夕歩がいなかったら。たぶん私は南波が言ったことに納得して、また一つ先輩に劣等感を抱いていた。

 今日だけじゃない。今まで何度だって、夕歩は私の話を聞いてくれて。

「夕歩は、私の大切な友だちだよ」

 微笑むと、夕歩は居心地悪そうに目を伏せた。

 いつの間にか沈みかけた太陽が、彼女を緋色に染め上げている。そのはずなのに、頬は酷く青ざめて見えた。

「私には、そんなこと、言ってもらえる資格無いの」

「なんでそんなこと言うの? 私は夕歩のおかげでいつも……」

「違うの!」

 私の言葉を遮った夕歩は私の目を真っ直ぐ見据える。しかし、内心を隠しきれないように長いまつ毛が小刻みに震えていた。

 こんな夕歩を見るのは初めてだった。

「私、すごく卑怯者なの。ほんとは」

「そんなことないよ。夕歩はいつもかっこいい。私とは違って、はっきり意見が言えて」

「違うの。自分が弱いってバレるのが嫌だからってだけ。口ばっかり達者なだけなの」

 大きく息を吸う。喉が震える。

「そ、ソロだって、私ほんとは怖かっただけなの! 皆に自分の音聞かれるの怖かっただけ! 梨花子は、私が何か考えがあって自分の意思でそうしたんだって思ってくれてるんだろうけど……そんなんじゃないよ。ただ単に怖かっただけで……っ」

「そんな」

 ううん、と夕歩が静かに頭を振った。

「でも、私と違って梨花子は強いね。さっきの、音聴いてわかった」

「音?」

「あれが、本当の梨花子なんだね」

 逆光で暗くなっていても、笑っているのがわかった。

「私、梨花子のこと何もわかってなかった。あの時の音とは……全然違う」

 あの時というのは、きっと、夕歩が部活に誘ってくれた時のことだ。私の音を聴いて、うまいと言った時。
 今、彼女はそれを酷く後悔しているようだった。

「事情はわからないけど、何かが原因で自分を出せなかったんだね。何も知らないくせに伊集くんのこととか、色んなこと好き勝手言って、ごめん」

「ううん……ううん、そんなこと!」

 激しく首を振る。

「私こそ、夕歩がそんなふうに思ってるの全然気がつけなかった。自分が話を聞いてもらうことばっかりで……ごめんね、夕歩。私、このままじゃだめってやっと気がつけたから。これからは夕歩に頼ってもらえるくらい、しっかりするからね」

 ふ、と夕歩が頬をゆるめた。

「すごいな、梨花子は。自分を変える決意なんて、そんなの誰にでもできるもんじゃないよ」

 そんなことない。一人じゃ無理だった。

「めんどくさいばっかで嫌なことも多くて、息苦しいこともあるけど。私も頑張りたい。変わりたいな」

 その言葉にびっくりして目を見開く。

「夕歩も、そう思う? 息苦しいって……」

 彼女は私の質問には答えずに、にやっと笑った。

「高校生とかってさ、いちばんめんどくさくない? 子どもと大人の真ん中でさー。どこにもいないのはダメなのに、どっちにもいるのもダメみたいで。ホントなんなの? って感じ」

「あーあれだ……マージナルマン、だっけ。倫理の授業でやった」

「そうそう、確かそんなヤツ。でも教科書とか作ってる大人らは多分全然わかってないよ。私たちがどんだけ大変なのかーって。そんな何文字かで簡単に表せるような軽いもんじゃねーんだぞー! って、さ」

「大人たちも皆も、通ってきてるはずなのにね」

「うーん、忘れたいし、忘れちゃうんだろうなあ」

「なんで?」

「皆、周りにどうにかして馴染もーってするし、それが普通だって思ってて。自分が思うように動けなくなって、苦しくなって。なんか、人生で初めての……いわゆる挫折なんじゃないかなって思うんだよね」

「……うん、確かに、そうなのかも。自分の意思じゃどうにもなんないこともあるんだなって、わかっちゃって」

「そう。だからさ……たぶん、自分たちと違って、やりたいことを好き勝手にできてる人を羨ましいって思って、僻んで。んで結局、それが納得いかないからハブるんだよ。『集団を乱すアンタが悪い』とか、それっぽい理由をつけてね」

「……こりゃ、いちばん大変なときのはずだね」

「青春は甘くないってことですかねぇ」

 夕歩が話すことは、とてもすんなりと自分の中に落ちて、ぽそっと呟く私に彼女はいたずらっぽく笑った。

「夕歩は……大人、だね」

「あー梨花子よりちょっと早く馴染んじゃったのかな。だからまだお子様の梨花子の面倒見たくなるのかもね」

 夕歩は私を見て眩しそうに目を細める。それを見ていると、自然と口が動いていた。

「私ね、神崎先輩が羨ましい。やりたいことが決まってて、意志が見えてる感じも。裏表があるのはどうかと思うけど、思ったこと言えるところも。それから……海ちゃんに、好かれてるところ……も」

「うん」

「私、もっと変わりたい。それで、海ちゃんを振り返らせたい」

 夕歩は酷く嬉しそうに、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。

「梨花子はもっとずるく生きた方がいいよ? ずる賢く、って言うべきかなー。馬鹿正直過ぎるんだよねえ。本当は思ってないことだって、保証できないことだって言っていいのに。アイツもそうだし」

「アイツって?」

 珍しく嫌悪感を露わにした顔で夕歩は頷いた。

「南波! まー別にそれ自体は全然悪くないと思うけど。梨花子にやたら突っかかってるのが腹立つの!」

「うーん、前の私が良かったってやたらと言われるんだけど」

 地団駄を踏む夕歩にそう言うと、はああ、と唇を尖らせてしたり顔になった。

「あんま関わり深くないけど、アイツ絶対超面倒臭い奴だってのはめっちゃわかるからねー。もし、南波にまたなんか言われたら、その時は自分の思ってること全部言ってやりなね」

「ん? うん?」

 首を傾げても、当事者じゃない第三者だからわかることもあるってことさ、とそれ以上教えてくれない。

「ま、ともかく。梨花子は先輩にもアイツにも、その他のどんな人にも。劣等感なんか感じる必要なんて、微塵も! 無いんだからね。たまたま大変な事が重なっただけだからね? 梨花子は梨花子なんだから」

「……うん」

「あーあっ。なんか柄でもない事ばっか言っちゃったな。練習戻ろーっと」

 何でもなかったように踵を返す夕歩の背中に、気がつけば声をかけていた。

「あのさ、夕歩。ソロオーディションの時……」

 夕歩の足が止まる。暫くして、肩があがったのがわかった。

「……ああー見てたのか、悪い子だなー」

 数瞬躊躇うように踵を踏んだ後、肩越しに振り返るとにっこりと微笑む。

「私こうみえて、好きな人にはひいきするタチなの」

 『ひいき』なんて言葉、わざと使ったんだろう。
 彼女のは、『ひいき』というより、『期待』のような気がするけれど。

「頑張って、って言っていいよ。夕歩になら言ってほしい」

「……まあ、若干希望的観測も入ってるかもだけど?」

「いいよ、期待に応えられるように頑張るから」

 ばれてるか、と夕歩が呟く。

「頑張って、梨花子。誰より応援してる」

 頷いて、私は宙を仰いだ。

「うん――もう負ける気、しないや」

 ソロオーディションだけじゃなくて、自分自身にも。

 びゅう、と耳元で風が唸る。髪を巻き上げて、私を追い越してあっという間に通り過ぎていく。

 細めた私の瞳に映る、陽の落ちかけた地平線は、今まで見たどんな光よりも綺麗に滲んでいた。