「ねぇ、梨花子さぁ」

 夕歩がタコさんウインナーを摘もうと悪戦苦闘しているのを見ながら首を傾げる。

「なに?」

「最近さ、可愛くなったよね」

「……そう?」

 ツンデレ気味なこの親友が素直な言葉で褒めてくれることはあまり無いので、返事が遅れる。しかもご飯中に、なんの前置きもなく。

「褒めても何も出ないけど」

 照れを誤魔化すようにけたけたと笑うと、夕歩は乗って笑ってくれるわけでもなく、タコさんウインナーに箸をぶすりと突き刺した。

「見てわかるくらいにはね。痩せたし、薄くメイクもするようになったし」

「はは、わかる?」

 夕歩は微妙に目線を外して頷いた。

「別に、痩せる必要なんか無かったんじゃないの。メイクなんかもしなくたって、梨花子は充分可愛いのに」

「いやいや、そんなこと」

 反射的にお世辞に対する対応をしようとした私の言葉に被せるようにして夕歩は口を開いた。

「ごめん。南波の件、私が悪かった。もう昔のことを詮索しようとなんてしないから、だから……無理に変わろうとしないで」

「ううん、違う違う。夕歩は何も悪くないよ。ただ私個人の問題で」

「何かあるなら話して欲しい。私、梨花子がそんな顔をしてるの嫌だよ」

 そんな顔ってどんな顔?

 わからないけれど、辛そうな夕歩の表情から察することができたから、私は努めて微笑んだ。

「ちがうよ。夕歩には関係ないから、心配しないで」

 強い口調で否定すると、口に運ばれないでいるタコさんウインナーが震えるのがわかった。夕歩はちらっと私の目を見て、ぱっとすぐに逸らした。彼女には一体何が見えたんだろう、と少し不安になる。いつも通りの私のはずだけれど。

「……今日も、行くの?」

 そういって指差すのは、私の目の前に置かれた、開かれないままのお弁当包み。

「……うん」

 頷くだけの私に、しばらくしてはぁーっと夕歩は深くため息をついた。

「わかったよ。私は今日もその辺の子と食べるから気にしないで。もー、早く行きなよ、ご飯食べる時間無くなるよ」

「……うん」

「いつか、でいいから。梨花子がその気になったら、全部、私にも話してね。ハイ、じゃこの話終わり!」

「うん。……ありがとう」

 今度こそはっきりと返事を返した私に相変わらず視線は合わせないまま、親友はぱくりとタコさんウインナーを口に放った。


✱✱✱

 お弁当包を持って廊下を早足で歩きながら、俯く。私の心には、あいつの言葉がずっと引っかかっていた。

 あいつ――もちろん、南波だ。

 今のお前はつまらねえ、と。

 部活で顔を見るようになったけれど、関わらないようにしているので、あれからろくに言葉を交わしていない。

 ただ確かなことは、私はそれが事実だとは認めたくないということだ。

 あいつにそんなことを言われる筋合いはない。

 だから、少しでも変わろうと思った。ダイエットを始めた。マッサージも始めた。頓着の無かった化粧にも少し手を出した。

 でも、やっぱり少しも変わったとは思えなかった。

 ……本当は、自分でもわかっている。こんなの意味無いと。内面の話だと。

 それでも。これ以上に今の私にできることは思いつかなかった。

「あいつは……私をどうさせたいの?」

 口の中だけで呟いてみたけれど、やっぱりわからなかった。


 進まない思考をひとまず振り払おうと頭をぶんぶんと振った。腕時計を確認して慌てる。もう随分針が回っている。

 気がつけば廊下を全力疾走していた。階段も二段飛ばしで飛び降りて、髪が乱れることなんて厭わずに走り続ける。

 本当はこの時間だって煩わしいくらいだ、なんて。

 だってこの時間は……今、私にとってとても大切なものだから。

 荒くなった息が落ち着くのと待たずに、錆び付いた扉の前に立ってそっと押す。ぎぎぃ、と相変わらずの苦しそうな音が耳をついた。

 呼吸を整えながら、視線を巡らすと、今日もいつもと同じ場所にいつもと同じ背中が見えるのにほっと胸をなでおろした。

 カンカン、と乾いた音をローファーの踵で小さく立てながら歩み寄る。……ゆっくりと。

 さっきまではあんなに自在に動いていた手足は、その姿を認めた途端、まるで沼地に嵌ったみたいに重くなってしまう。心臓だって、飛び跳ねすぎて痛い。

 ここ最近毎日のことなのに、いつまでたっても慣れそうもない。

 んっ、とこっそり喉を鳴らして、普段よりワントーン高い声で声をかける。ここで大事なのは、いたって平静を装うことだ。

「今日もここで食べてるんだ」

 するとブレザーの下に校則破りのパーカーを着た背中はくるりと振り返る。

「海ちゃん」

 彼の名前を呼ぶと、「うん」と私の幼馴染みはにっこりと頷いた。

 私は海ちゃんをここで目撃したあの日から、お昼ご飯をここで、海ちゃんと食べるようになった。

 ――そういえば、何日か続けた後、一度だけ、南波に止められたことがある。

 彼は目線もろくに合わせようとしない私の腕を掴んで、もうやめろと言った。でも、それは私からしてみればやっぱり意味のわからない行動で、自分から居場所を教えたくせに、としか思えなかった。

 だって南波は……私が海ちゃんのことを恋愛対象として『好き』なのだとわかっているから。おそらく。

 あいつが止めたからこそ逆に意地を張っているというのも幾分かはあるのではないかと、と少し時間が経って冷静に考えられるようになった今なら思う。

 辛い思いをするだろうと、わかっていて、こうしてここに来ることを続けているのは――何もかも含めて、それでも良いと、思うからだ。

「……そろそろ暑いでしょ?まだここなの?」

 ばかだなぁ、と何でもない風に笑う。

「ん、まあねえ。うん、りっちゃんこそさ」

 海ちゃんがもごもごと話すその口からは購買の焼きそばパンが半分以上はみ出ている。そこで言葉を切り、幾度か咀嚼して、飲み込む。

 次に発されるだろう言葉が容易に予想できて、私もごくりと唾を飲み込んだ。

「そうは言うけど毎日ここ来てるよね」

 駄目だとわかっていてもびくりと肩が震えた。言った本人は視線をこちらに向けもせずビニール袋をがさがさと探っている。

「あー、うん。まあね、ホラ、ここ日当たりいいし。日向ぼっこ? したい気分なんだよ、たぶん」

 自分が言っていることが支離滅裂だとわかりながら、誤魔化すように手を後ろで組んで、ちょっとだけ唇を尖らせてみせた。

 日当たりがいい、なんて。いくら何でも無理があるかな、とも思ったけど、相手は大して興味もなさそうに「へぇ。そうだっけ」と零しただけで。

 ……少し、本当に、少しだけ、ずきりと胸が疼いた。


「あー、アレだ。りっちゃんさ、もしかしてケンカしたんでしょ」

「はぁ?」

 だから突然そんなことを言われて頓狂な声を上げてしまった。慌てて口を押さえる。

「あのー、萩さんだっけ。あんま交友関係広くないりっちゃんの数少ない仲良い友だちの」

「……失礼な。まあ友だち少ないのは事実だけど」

「でしょ? でご飯もどーせ萩さんと食べてるんでしょ? それで、ケンカして一緒に食べれなくて、だからこんな所までわざわざ来るんじゃないの、ちがうの?」

 そんなわけあるか。妄想力豊かなのか、興味が無いから適当なことを言っているのか。

 ……たぶん後の方だろうな。

 頭を傾ける海ちゃんに、私もろくに考えもせずに、おざなりに首を縦に振った。

「そうそう」

 すると海ちゃんは我が意を得たりとばかりに深く頷いて腰掛けていた非常階段の上で尻をずらしてスペースを開けると、ぽんぽんと自分の左側を手のひらで叩いて示した。

「まあ、りっちゃんは昔から人付き合いとかあんま得意じゃないもんね。しょうがないから一緒に食べてあげる。ここ、いいよ」

 昔から……か。やっぱり、幼馴染みなんだなぁ。

「それはそれは、ありがとう」

 本当は違うけれど、と。苦笑しながらも自分がふわふわと浮ついた足取りであることを自覚する。意味も無く足音を殺しながら近づき、彼の隣にスカートを丁寧に押さえながらそうっと座った。

 一人分じゃなくて半人分──でも、絶対に肩が触れたりなんてしないだけの距離を開けて。

 直後、あ、と小さく海ちゃんが零した。

「りっちゃん、いちごオレいる? さっき間違えて押しちゃったんだよね」

「いるいる。にしても、もう何回目よ、間違えるのー」

 じとっとした目で見つめると、海ちゃんは苦笑して頭を掻いた。

「自販機のボタンが隣なんだってば。ま、でも甘いもの好きなりっちゃんが来てくれると無駄になんなくていいよ。俺は甘いのはあんま……ってのはちょっと盛った。全然得意じゃない」

「……ええー? 美味しいよいちごオレ」

「うーん、俺にはわかんないや」

 しかめっ面をつくりながら海里が差し出してくるピンク色のパックを受け取る。ストローを刺すと、プツンと音を立てて斜めに切られた先端がめり込んだ。

 ……でもなんだか、飲む気にはなれなくて。のろのろと腕を降ろしてそのまま地面に置く。

 衝撃で飛び出た桃色の雫が、アスファルトに歪な染みを作る。

「そっか」

 呟いた声がざらついて、酷く残念そうな響きを帯びていることに自分で狼狽えた。

 こうして間違えたと言っていちごオレを差し出してきたのは初めての事じゃない。何回目かは正確には覚えてないけど。

 ……うそ。本当は覚えている。覚えていたくもないのに。

 私にとって“いちごオレ”はただの甘い飲み物じゃなくて。

 もっと、ずっとずっと特別なモノだ。

「ま、りっちゃんがいっつも喜んでもらってくれるからまぁいいかなって思い始めちゃったよ。そんなに美味しいの?」

 いつも通りの表情で、全く他意なんて無さそうにそんなことを尋ねる幼馴染みの頬を力一杯張ってやろうかと思った。

 そのくらい心は激昂しているのに、身体はぴくりとも動かないから、可笑しくて、唇の端を吊り上げた。

 苦しい。

 それでもどうにか頷いて。

 うん、もう大丈夫。全部、今更でしょ。
 そう自分に言い聞かせる。


 幼い頃の記憶なんて曖昧でおぼろげで、もしかしたら思い出は自分の中で美化もされているかもしれない。というか、多分している。

 でも、そんなの大した問題じゃなくて。だって思い出は確かに大切だけど、何よりここにいる海ちゃんが好きなんだから。

 ほんわかで抜けてて気が回らなくて――でも肝心な時にはかっこよくて。
 誰にでも優しくて。ずっと側にいて、私を助けてくれていたひと。

 好き。ずっと好き。

 とにかく、この気持ちはどうやっても変わりようがなかった。どんなに辛い思いをしても。

 バカみたい、って自分でも思う。小さな小さなきっかけから始まった初恋をずっと引きずってるなんて。

 でもやっぱり私は海ちゃんが好き。海ちゃんより良いって思える人を見つけられなかったんだから。

 しょうがない。

 海ちゃんより良いって思える人に出会えなかったんだから、しょうがない。

「……なんて、割り切れたら良いんだろうね」

 このもやもやから抜け出す方法はわかっている。この想いをたったひとこと、伝えればいいだけ。

 でも、それができないのも自分はわかっていて。だって、海ちゃんは──

「なに? なんか言った?」

 ふ、と唇に小さく笑みを浮かべて、囁く。

「なんでもないよ」

 きみになんて、一番言えないんだから。


「あ!」

 海ちゃんが2つ目の焼きそばパンを握りしめて身を乗り出した。その双眸が一点を見つめて、太陽を反射してきらりと澄んだ色に煌めく。

 だから、本当はききたくなんかない。でも隣にいる以上、どうせそういうわけにもいかないんでしょ?

「……どうしたの」

 きっと私の声は取り繕うこともできずに低く軋んでいたけど、夢中で見つめ続ける海ちゃんは気づくはずもなくて、さっきまで私と話していたより何倍もうきうきと跳ねる声で囁いた。

「どうしよう、俺、今先輩と目合ったかも」

「遠いのによく見えるね。目ぇいいなあ」

「まあそりゃあ、うん、よく見えるよ」

「あーはいはい。好きだからって言うんでしょ。わかってるよ。……せいぜい、覗き見気持ち悪、って言われない程度にしときなよね」

 真っ赤に染まった顔で私を睨む海ちゃんに、あはは、と笑ってみせた。

 言われて目を凝らしてみれば、向こうの校舎の教室の中に、人影がぼんやりと見える。その中で一際目立っているのが神崎先輩だった。すぐに見分けがつく。

 自分の心がみるみるうちに冷えて凍った。あの人は“普通”な自分とは違う、“恵まれた”人だ。
 つやつやの小振りな桃色の唇に、染めてもいないのにふわふわの茶髪。メイクなんか必要ないくらいにぱっちりと大きな瞳が可愛くて。言い出せばキリがない。

 同性の私から見ても可愛いのだから、きっと海ちゃんにとっては、やっぱり、それはそれは……ううん、想像したくもない。

「はー、ほんと、先輩見ると一日頑張ろうって思える」

 ──ずきり。

 何か胸にかたくて冷たいものを突き刺されて、その上強い力でぐりぐりと捩じ込まれているような、そんな表現し難い痛み。そのせいで一瞬、呼吸の仕方を忘れた。

 次いで迫り上がってきた“気持ち悪いモノ”に思わず息が止まって、苦しくなって。もし今ひとりでいたのなら、爪を立てて喉を掻きむしっていたかもしれない。

 ……なんで。私の方が。海ちゃんのこと。

 ねぇ、海ちゃん。私だって、そうだよ。私も、海ちゃんを見ると、海ちゃんと話すと、それだけで学校来てよかった、って思えるんだから。

 黙りこくった私に海ちゃんが視線を向けている。早く答えなきゃ。変に思われる。

 平静を装って、戦慄く唇を必死におさえつけて。

「そのためだけに毎日わーざわざこんなとこでご飯食べてるんだもんねぇ、海ちゃんはー?」

 言いながら、わらってしまった。

 私はその海ちゃんと毎日会うために、ここに来ているのだから。

 あーあ……ほんっと、バカみたい。っていうかただのバカだ。

 海ちゃんは私の小馬鹿にした口調を間に受けて、拗ねたように唇を尖らせてビニール袋を振り回した。

「だって、しょーがないじゃん。先輩だし。高嶺の花だし」

 言いながら手をだらりと力なく下げ、がっくりと肩を落とす。

 じゃあ、なんでそんな人好きになったの!

 その項垂れた頭に、思いっきり声を叩きつけてやりたかった。

 ずっと一緒にいる私じゃ、どうして駄目なの。

 私は、昔からずっと隣で海ちゃんのことを想っているのに。

「じゃあもっと頑張りなよ。先輩に見てもらえるように。海ちゃんの先輩に対する想いは簡単に諦められるくらいなの?」

 一瞬、響いたのが自分の声だと信じられなくて、目を瞠る。一拍遅れて、笑いが込み上げてきた。

 こんな時まで、いい幼馴染みを演じることを優先してしまう自分がおかしくてたまらなくて。

 ……そんな自分に、腹が立って仕方なかった。

 堪えきれず、微かに視界が滲む。

 海ちゃんががばっと勢い良く上体を起こした。かなり近い距離で瞳と瞳が合って、はっと息を呑む。少し大人びた、しかしまだ悪戯っぽい光を孕んできらめく、きれいな瞳。こうして毎日会っているはずなのに、ちゃんと目を合わせるのは何故か随分久しぶりな気がした。

「やっぱりそう? りっちゃんもそう思う?」

 声を出すこともままならず固まっていると、海ちゃんは「うー」とか「むー」とか唸りながら、仰向けに倒れ込んだ。

「やっぱりかぁ。それ葉希にも言われたんだよー」

 やはり南波に話していたのだ。だから彼は海ちゃんの事情を知っている風だったのだろう。

「……仲良いの?」

「割と? あんなだから向こうはどう思ってるのかわかんないけど。意外と良い奴なんだよ、あいつ」

「へえ……」

 私は多分、それから続いた話を半分も聞いていなかった。

 ……そっか。そう、だよね。

 私以外にも、海ちゃんの好きな人を知っている人がいる。ううん、もしかしたら、海ちゃんは他の友だちにも言いふらしてるのかもしれない──

 なんとなく、こういう話は私にしかしてないんじゃないかな、なんて。そんな風に考えていた。学年の違う私たちが先輩の姿を眺められるのはこの非常階段からだけだから。そこで話しているのは、私だけだから。

 だから、知っているのもきっと私だけじゃないかな、なんて。

 でも違った。

 そう、私との会話なんてきっとただの世間話で、特別な意味はないんだ。もしかしたら幼馴染の私はちょっと特別なのかな、なんて思い込んでみようとしたけれど。

 海ちゃんは私がちっとも聞いていないのに気が付きもしないまま話を終えた。そして、それに対する私の返事も待たずに起き上がって膝を抱えた。

「りっちゃんがそんなに言うなら……俺、明日の昼、行ってみようかな、つばさ先輩のところ」

 幼かった頃とは違う。今よりずっと狭い世界で、会いたい時にいつでも会えていたあの頃とは。
 もう私たちにはこの時間くらいしかろくに無いのに、それすらも無くなったとして、海ちゃんは全く構わないのだと。

 ……当たり前か。幼馴染みと好きな人、天秤にかければどちらに傾くかなんてわかり切っている。

 その瞳はすぐ隣の私を映さない。もっと遠く、真っ直ぐ、細まる。私に話しかける気なんてまるで無いみたいだ。ただの、独り言。でも私は「そっか」と反応した。

 そうしないと、私のことなんて簡単に忘れてしまわれそうだったから。