「あれ? ねーちゃん何で家にいてんの?」
 日曜日の昼過ぎ。ぼやけた頭を目をこすりながら覚ましていると、リビングのソファで姉が寝ていた。外行きの時は違う、乱れた姿で。
「ああ?」とのっそりと頭を起こした姉は、肩からずり落ちたノースリーブをなおすと、こちらを睨んでくる。
「なんか文句でもあんの?」
「いや文句っていうか……今日は朝からデートだって言ってなかったっけ?」 
 俺の質問に、相手は「ふんっ」と拗ねたように鼻を鳴らすと再びソファへと横になる。
 これはケンカでもしたな……と思い、俺はあえて何も言わずにキッチンへと向かう。触らぬ神に祟りなし、だ。
 冷蔵庫を開けて封の開いた牛乳パックを取り出し、昨日使ったままのグラスを水で洗うとそこに注ぐ。どうやら母親も父親も出かけているのか、家の中はやけに静かだった。窓の向こうを見ると、ここぞとばかりに澄み切った空が広がっていて、まさに絶好のお出かけ日和。そんな休日に、予定のない自分は寝ぼけた顔で牛乳を飲んでいるし、姉はというとふれくされてソファでごろ寝。たぶん藤川家の遺伝子はこんな感じで今後も受け継がれていくのだろう。 
 そんなことを一人考えて自嘲じみたため息をつきそうになった時、姉が唐突に口を開いた。
「別れたのよ」
「……え?」
 チュンチュンとベランダで鳴く雀の声と一緒に届いてきた言葉に、俺は一瞬グラスを持った右手の動きを止めた。口の周りを白くしながら呆然と突っ立っていると、再び姉が話し出す。
「なんかお前の気持ちがわからない……だってさ」
 姉はまるでテレビドラマの感想を伝えるかのような他人事の口調で言った。表情まではわからないけれど、いつもより声のトーンが低いところを聞くと、おそらく結構ショックを受けているのだろう。
 彼女もできたことがない自分にとって、最愛の人と別れる気持ちがどんな辛さなのかは想像できないが、きっと希美さんと会うことができない今の自分の気持ちと似ているのかもしれない。
 そんなことを思いながら黙っていると、少し怒ったような姉の声が耳に届く。
「ちょっと、何か言いなさいよ」
 再びのっそりと上半身だけ起こしてこちらを睨んでくる姉に、「んなこと言われても……」と頭をかく。その時ふと気づいたが、姉の目は何となく腫れているような気がした。
「はあ……失恋したばかりの女性に気の利いた言葉一つかけれないなんて、あんたロクな男になれないわよ」
「……」 
こんな時でもいつも通り嫌味を飛ばしてくる姉に、思わず眉間に寄せた皺がピクリと動く。何かあればすぐに落ち込んで口数が少なくなる自分とは違い、そういうところは凄いとは思うが、もう少し弟の心境も察してほしい。
ロクな男になれなくてすいませんね、とこちらも嫌味で言い返してやろうかと思った時、姉がその瞳をふっと伏せた。
「こんなところがダメなのかな……」
「え?」
ぼそりと呟かれた彼女の言葉に、俺は右耳を近づける。すると相手は、「何もないわよ」と言ってそのまま頭をソファへと戻す。
「私ね、自分の気持ちとか素直に伝えるのが苦手なの」
クッションを両手で抱きかかえながら、姉が言った。それは誰よりも知ってます、と言いそうになる唇をぎゅっと締める。
これは聞き手に徹したほうが無難だろうと思い、「そっか」とだけ返事をした。
「気に食わないところとか、納得いかないところならズカズカと言えるけど、『好き』とか『ありがとう』とかそんな言葉が苦手。特に、好きな人の前では……」
好きな人の前では。その言葉に、チクリと胸の奥が痛くなった。そんな気持ちから目を逸らすかのように、右手に持ったグラスを口につける。
「そういう言葉ってね、付き合った相手なら口にしなくても伝わるんだと思ってた。相手の表情とか仕草とかで。でも……実際は違った」
兄弟しかいないリビングに、姉の声が静かに響く。少し開いた窓から入ってきた風が、白いレースカーテンを揺らす。「戻らないの?」と恐る恐る尋ねてみると、姉はすぐに返事をしなかった。
「……もう会えないの」
「え?」
返ってきた言葉に、思わずビクリと肩が震えた。直後、頭の中には屋上で一緒に過ごした希美さんの姿がフラッシュバックする。あの時の彼女は、「もう会えない」なんて言葉は口にしなかった。だから、俺はまだ……
記憶の中に吸い込まれそうになっていた意識が、再び鼓膜を揺らした姉の声によって戻される。
「来月から転勤で海外に行くんだって」
「来月からって……もうすぐじゃん」
 俺は少し目を丸くしてソファに寝転ぶ姉を見つめた。
 付き合っている時からノロケ話しは散々聞いてきたが、相手が海外に行くなんて話しは一度も聞いたことはなかった。姉のことなのでそんな話しが出れば、その日の夕食にでも報告会をしそうなのに。
 驚きと疑問を表情に滲ませていると、姉がため息混じりに口を開く。
「私だって初めて聞いたわよ……前から決まってたんだって」
「そうなの?」
 俺は怪訝そうに眉を寄せる。そんな大切なことを付き合ってる相手に相談したり報告したりしないものなのだろうか?
 うーんと眉間に皺を寄せていると、疑問に答えるかのように姉が言った。
「前々から話しはしようとしてたんだって。ただ、いつ戻ってこれるかわからないし、なかなか言い出すことができなかったみたい」
 はあと姉は自暴自棄にも似たため息をもらした。そんな彼女の話しに、思わず言葉が喉の奥で詰まる。
「なーんでそんな大切な話しをしてくれなかったのかな……」
 俺ではなく、ここにはいない相手に告げるかのように姉は宙へと言葉を逃した。
 大切な話しだったからこそなかなか言い出せなかったんじゃない? と珍しく機転の利いた言葉が頭に浮かぶも、もちろんそれを告げる勇気はない。それに、もしそうだったとしたら俺も……
 もしかして希美さんは、こうなることを知っていたのだろうか。
 明るく窓から差し込む陽光を見つめながら、俺はそんなことを思った。もし、あの時すでに希美さんが自分の病気が悪化していることを知っていて、だから俺にあんな話しをしたとすれば……
 嫌な想像が頭の中にチラつき、それをかき消すように小さく首を振る。ダメだ。俺がそんなことを考えていたら、きっと希美さんは悲しむだろう。希美さんの病気が治って、彼女が行きたいところに連れていくと約束したのは誰だ? 俺が諦めたら、いけないんだ。
 そんなことを思い、いつの間にか握っていた拳にぎゅっと力を入れる。すると目の前で寝転んでいた姉がゆっくりと立ち上がった。そしてリビングを出ると、廊下へと続くドアの方へと向かっていく。その様子を黙って見ていたら、ドアノブを握った姉がこちらを振り返った。
「あんたも、大切な人がいるなら自分の気持ちは伝えられる時に伝えときなよ」
「……」
 姉はそれだけを言い残して部屋を出た。いつもなら姉の話しなんてすぐに頭から抜け落ちていくのに、その言葉だけは、やけに耳の奥で響いて残っていた。