次の水曜日も、希美さんは約束通り図書室にやってきてくれた。いつものように本の話しから始まり、お互いの近況報告、そして、頭を悩ませる数学の勉強。普段授業を受けているはずの自分の方が、未だに希美さんに解き方を教えてもらっているのだから、これはもう情けない話しだ。そんなことを頭の片隅で思いながらも、希美さんと二人っきりで過ごしていることに、終始心は浮かれていた。
「いけね! もうこんな時間だ」
勉強会が終わり、カウンターに座りながら話しが盛り上がっていた時、ふとスマホの時計を見て俺は言った。希美さんの初恋の話しに興味を持ち過ぎて、いつの間にか最終下校時間はとっくに過ぎていたのだ。
見つかったら絶対怒られるよな……
つい先週も時間ギリギリまで残っていたことを、翌日担任と高山からこっぴどく怒られたところだった。二週連続ともなれば、今度は先生よりも高山に殺されるだろう。
 そんなことを思い、ゴクリと唾を飲み込む。目の前を見ると、「ちょっと話し過ぎちゃったね」と希美さんが困った笑みを浮かべている。
「希美さん、病院の方はだいじょ……」
コンコン。突然扉をノックする音が、俺の言葉を遮った。その瞬間、ヤバイ! と頭の中で警告音が激しく鳴る。こんな時間に、生徒が図書室に訪れることはない。だとすると……
 謎の来訪者は図書室の鍵持っているようで、ガチャガチャと鍵を開ける音まで聞こえてきくる。
「どうしよう……」と不安げに呟く希美さんを見て、俺は咄嗟に口を開いた。
「隠れよう!」
「え?」
そう言って俺は急いで自分の鞄を手に持ち、希美さんの腕も掴むと、カウンターの下へと潜り込む。すると同じタイミングで、扉が勢いよく開く音がした。
「誰かいますかー?」
 その声にビクッと肩が震えるも、聞き覚えのない声だったので先生ではなく、たぶん警備員の人だろう。鬼教師として恐れられている生活指導の久保田先生ではなかったことに安堵するものの、もちろんバレるわけにはいかない。
 ゆっくりと室内へと入ってくる足音を聞きながら、俺も希美さんも息を潜める。今更気づいたが、カウンターの下はかなり狭くなっていて、鼻の先にはすぐ希美さんの顔があった。
 ダメだ……これはちょっと近すぎる!
 少し動けばおでこが当たりそうなほどの至近距離に、思わず息を止める。すると聞こえてくるのは、希美さんの唇の間から漏れる息遣い。いやほんと……もう勘弁して下さい!
 一人違うことでパニックになりそうな自分に、さらに拍車をかけてくるかのように近づいてくる警備員の足音。そのせいで、額には早くも汗が流れ始めた。
 これはマズいと汗を拭おうとするも、身動きが取れない。そうこうしている間に、警備員の足音が真横まで迫ってきて、俺も希美さんも祈るような思いでぎゅっと目を瞑った。 
 どうか、バレませんように!
 そんな自分たちの願いは天に届いたのか、「誰もいないですか?」と再び警備員の声が静かな室内に響くと、真横で止まっていた足音が入り口の方へと遠ざかっていく。どうやら、助かったみたいだ。
 そっと瞼を上げると希美さんも目を開けていて、安心するかのように小さく微笑んだ。間近で見る彼女の笑顔に、ドクンとまた心臓が飛び跳ねる。直後、足音とは違う音が鼓膜に届いた。
 パチン。
 突然希美さんの顔が目の前から消えた。いや、視界に映っていた何もかもが姿を消した。代わりに真っ暗になった世界で、今度は扉が閉まる音が響く。
「……」
 電気を消された。そう思っても、すぐには動けなかった。まだ図書室の近くにさっきの警備員がいるかもしれないので、物音を立てるわけにはいかない。同じことを希美さんも思っているのか、彼女も息を潜めたままじっと動かない様子だ。
「もう大丈夫かな?」
 再び目の前から聞こえてきた希美さんの声に、「たぶん……」と返事をすると、そっと耳を澄ます。図書室の外からは何も音が聞こえないので、きっと警備員はどこかに行ったのだろう。
「大丈夫そうですね……」
 囁くようにそう言うと、「よしっ」と嬉しそうな声が返ってきた。変な体勢をしているせいか、両足の付け根が痛くなってきて、そろそろ限界だ。
「とりあえず出ましょう」と言って立ち上がろうとした瞬間、コツンと額に何かが当たった。
「イテっ」
「いたっ」
 思わず尻餅をついた。どうやらお互いおでこをぶつけてしまったようで、相手も痛そうな声を漏らしながら、おでこをさするような音が聞こえてくる。
「す、すいません!」
 慌てて前のめりになったせいか、身体のバランスを崩してしまい、思わず前に倒れそうになった。
 いけない! と咄嗟に手をつくも、なぜか手のひらに伝わってくる感触は地面じゃなかった。直後、「きゃっ」と希美さんの小さな叫び声が聞こえる。
「ご、ごめんなさい!」
 何がどうなっているのかまったくわからず、とりあえず急いで手をどけると、逃げるようにカウンターから抜け出す。その後に続くように、希美さんも出てきた。
 わずかに窓から差し込む明かりと暗闇に目が慣れてきたおかげで、やっと視界に周囲の輪郭が戻ってきた。そして希美さんの顔を見ると……なぜか頬を膨らませてちょっと恥ずかしそうに拗ねていた。
 俺……いったいどこ触っちゃったんだろ……。
 希美さんの目の前で、思わず自分の右手を見つめそうになり、慌てて首を横に振る。これ以上、あらぬ誤解をもたれるわけにはいかない。
「な、なんかすいません……」と頭をとりあえず下げると、希美さんは疑うような眼差しで目を細めてきた。そして、すぐにぷっと吹き出す。
「……」
 コロコロと表情を変える彼女の姿を呆然と見つめていたら、「ほら、早く出ようよ」と希美さんが腕を引っ張ってきた。「ちょ、ちょっと待って下さい!」と俺は慌てて鞄を持つと、連れて行かれるように扉まで向かう。そして二人でそっと扉に耳を当てた。
「……いないみたいだね」
 さっきの拗ねていた表情はどこかに消えて、希美さんがいつもの笑顔で言った。暗闇の中で、その瞳だけがうっすらと輝いている。
 俺はゴクリと唾を飲み込むと、右手で扉の鍵を掴み、ゆっくりと回す。カチャンという音と共に、再び図書室が外の世界と繋がる。希美さんとアイコンタクトを取って、お互い小さく頷くと、俺は静かに扉を開けていく。廊下に溢れていた月の光が、隙間から差し込んできて、希美さんの髪を優しく撫でた。そんな姿に、俺は一瞬目を奪われる。
 そっと扉から抜け出し廊下に出ると、前後左右どこを見ても、警備員の姿はない。ほっと胸を撫で下ろしかけた時、希美さんが俺の顔を見てニヤリと笑った。
「ね、……ちょっとだけ冒険しよっか」
「えっ?」
 予想もしなかった言葉に、思わず声を漏らしてしまい、慌てて両手で口を塞ぐ。希美さんはというと、クスクスと肩を震わせて笑っていた。
「冒険って……どこにですか?」
 分かりきっていながらも、俺は反射的に聞いてしまう。すると希美さんは綻ばせていた口元をゆっくりと開いた。
「学校探検!」
 滑舌良く耳に届いてきた声に、俺は思わず言葉を失う。ああ……やっぱり、と無言で顔を伏せていると、希美さんが上目遣いで覗き込んできた。
「行かないの?」
「いや、その……」
 夜の校舎で、可愛い女の子と二人っきり。男として生まれてきたのであれば、誰もが一度は憧れるようなこの展開。だが……一つだけ大きな問題がある。
 ぎこちなく言葉を濁していると、何かに気づいたのか、希美さんがその目をイタズラっぽく細めてきた。
「もしかして学……怖いの?」
「えっ!」
 不意をついてきた質問に、思わず目を見開く。図星だなと言わんばかりに希美さんがニヤッと笑ったので、俺は慌てて口を開いた。
「そ、そ、そんなわけないじゃないですか! もうぜーんぜん怖いのとか平気ですよ。ほんとに、マジで……」
 マジで怖い。
 お化けとか幽霊とか、そういったものが昔から大の苦手だ。ちょっとでもそんな話しを聞いたりテレビを見てしまった日には、お風呂で頭を洗っていると背後に誰かが立っているような気がして、ろくに頭も洗えなくなる。さっきも図書室の電気が消えた瞬間、ほんとは「わっ!」と叫びたかった。
 そんな自分の情けない一面は希美さんに筒抜けなのか、どれだけ平気だと嘘をついても、「ふーん」の一言で終わらされる。彼女の好きなタイプは、『大人の男性』。ここで、チビってしまうわけにはいかないのだ。
「と、とりあえず今日はもう帰りましょう」
 できるだけ冷静な口調でそう告げるも、希美さんは「やだ」となぜか甘えるように駄々をこねる。初めて見る彼女のそんな一面に、思わず一瞬胸がときめくも、廊下の奥でぼんやりと光る非常口のマークにすぐに現実に引き戻される。
 さっきの警備員に見つかるからとか、学校の先生に怒られるからとか、あらゆる方法で希美さんを説得しようと試みるも、彼女は断固として首を縦には振ってくれない。
「じゃあ学は先に帰っていいよ。私一人で行くから」
「……」 
 今にも座り込んでしまいそうな希美さんを見て、俺は大きくため息を漏らす。学校の先生や高山に怒られるのは怖い。それ以上に、見てはいけないものを見てしまったらもっと怖い。でも……
 ありったけの勇気をかき集めるように大きく息を吸うと、今度は諦めたように小さく口を開く。
「……わかりました。一緒に行きます」
行きます、の部分が思った以上に小声になってしまい、ちゃんと聞こえたかどうかわからない。が、希美さんの顔をチラリと見ると、嬉しそうな笑顔を浮かべている。「ほんとに?」と無邪気な声を上げる彼女に、「はい……」と苦笑いで返事を返す。
「やった! 私、どうしても行きたかったところがあったんだ」
「行きたかったところ?」
すでに目的地は決まっていたようで、「うん」と希美さんは大きく頷く。まさかとは思うが、この肝試し的な流れで、『理科室』なんてことはないよね?
怪訝そうに眉をひそめて希美さんの顔を見ていると、彼女は人差し指を天井に向けてツンツンと動かす。図書室の真上、四階にあるのは『音楽室』。……まあ、ガイコツの人体模型が置いている理科室よりはマシだ。
そんなことを思い、「音楽室ですか」と安堵するように声を漏らせば、「違うよ」と相手は首を振って髪を揺らす。そして再び、ニッと白い歯を見せた。
「私が行ってみたいのは、『屋上』」
「えっ? 屋上?」
その言葉に、俺は思わず目を丸くする。屋上……この学校にも、そんな場所はあるのは知っているけれど、行ったことは一度もない。というよりそんなところ、入っていいのか?
うーんと眉間に皺を寄せて唸っていると、「じゃあ出発!」とまるでピクニックにでも行くかのような口調で彼女が言った。
「……」
目を凝らしてぐっと前方を見れば、薄暗い廊下がどこまでも続いている。まるで、自分を死の世界へと案内するかのように、暗闇がぽっかりと口を開けているみたいだ。
そんな光景を見て、思わずゴクリと喉を鳴らす。希美さんとずっと一緒にいれるのは、青春映画の主人公になったみたいで嬉しいけれど、シチュエーションがすでにバットエンドだ。
 目の前で喜ぶ希美さんとは反対に、俺は再び大きくため息をつくと頭を伏せる。そのまま背中も曲げて、諦めたように両手を膝につけようとした時、ふと左手の手のひらを柔らかいものが包んだ。
「こうすれば、怖くないでしょ?」
その言葉に、「えっ?」と驚いて顔を上げれば、優しく微笑む希美さんの姿。そして……彼女の右手は、俺の左手を握っている。
「!」
 突然の出来事に、思わず頭が真っ白になった。恐怖とは違う理由で、心臓が激しく脈打つ。呆然と立ち尽くしている自分を見て、希美さんはクスリと笑うと、「行こっか」と言ってそのまま歩き始めた。
これって……
繋がれた左手を見つめながら、ゴクリと唾を飲み込む。目を見開いたまま視線をゆっくりと上げると、目があった希美さんがニコリと笑った。その瞬間、胸の中で何かが弾ける。
 これってまさか……希美さんとの初デートでは!
 暗闇に包まれている廊下にいるはずが、急に晴天の空の下にいるような気持ちになってきた。さっきまで怖がっていた自分はどこかに消えて、頭の中にはハイビスカスが咲いている。そうだ、ここはきっと花畑なのだ。希美さんと自分にとってのはなばた……
「っけー!」とふと窓を見て、思わず叫び声をあげる。視線の先には、ガラス越しに見える向かい側の校舎。その二階の右端に、ぼんやりと人魂のようなものが光っていた。
 自分の叫び声に驚いた希美さんが、「どうしたの?」と慌てて顔を見てきた。俺は息を止めると瞬きするのも忘れ、震える指先で向かい側の校舎を指差す。
「ひ……人魂が……」
「え?」
 俺の言葉にぎょっと目を見開いた希美さんが、すぐに自分が指を指している方向を見た。さすがに俺はこれ以上見ることができないので目を瞑って顔を背けていると、今度はクスクスと楽しそうに笑う希美さんの声が聞こえてきた。疑問に思い、片目をうっすらと開けて希美さんの方を見ると、「あれあれ」と同じ方向を指差している。
「学、あれ人魂じゃなくて警備員のライトだよ」
「……え?」
 恐る恐る窓の方へと近づいていた自分に、希美さんが笑いながら言った。その言葉に、もう一度向こう側の校舎を見る。
「……ほんとだ」
 視線の先に見えたのは、さっきと同じようにゆらりと動く光の玉。でもそれは、幽霊なんかじゃなく、警備員が持っている懐中電灯だった。
「……」
 あまりの恥ずかしさに言葉を失っていると、隣では声を押し殺して苦しそうに笑っている希美さんの姿。これはもう……当分の間は大人の男性として認めてもらうのは無理だろう。
 そんなことを思い、顔を伏せて落胆する。すると、「行こ」と希美さんの声が聞こえ、彼女が右腕を伸ばした。差し出された手のひらに、思わず心臓がドクンと跳ねる。
「……」
本来であればこの状況、どう考えても男の自分が希美さんをリードするべきだ。怖がっているからといって、俺の方が手を差し伸ばされているのはおかしい。……でも、希美さんと手を繋げるのは素直に嬉しい。
頭の中でそんな問答を繰り返しながら、ニコリと微笑む相手の姿を見て、慌てて両手をズボンに擦り付ける。
「し、失礼します……」といつかのブランコと同じような台詞を呟いてから、恐る恐る左手を伸ばす。すると指先が触れる前に、希美さんの方からぎゅっと手のひらを握ってきた。あまりの嬉しさに、一瞬呼吸が止まる。
ぎこちない動きで右足を踏み出すと、まるで希美さんの彼氏になったかのような気分で、隣を歩き出す。
希美さんは屋上に続く場所を知っているのか、迷うことなく暗い廊下を進んでいく。その背中にほんの少しだけ隠れるようにして、俺も同じように歩いた。
結局、本物の人魂を見ることもなければ、夜の学校を散歩している理科室のガイコツにも出会うこともなく、自分たちは屋上まで続く扉の前までたどり着いた。階段を登りきった先に現れたその扉はずいぶんと使われていないのか、サビや汚れがいたるところについている。
「……」
無言でその扉を見つめていると、再び希美さんの声が鼓膜に届いた。
「開いてるかな?」
しんと静まり返った空間に、希美さんのウキウキした声が響く。その言葉に、扉の取っ手を右手で握り締めながら、俺は小さく息を吐き出す。
「いや、たぶん閉まって……」
カチャっと手応えのある音が、取っ手を回した時に聞こえた。「えっ?」と反射的に右手と希美さんの顔を交互に見る。
「ほらね」
「……」
してやったりの顔でニッと笑う希美さん。なんだか腑に落ちない気もするけど、どうやら本当に屋上へと出れそうだ。ゴクリと唾を飲み込むと、再び扉の方へと顔を向ける。そして、ゆっくりと呼吸をするように、俺は屋上の扉を静かに開けた。隙間から流れ込んできた夜風が、自分たちの頬を撫でる。ぐっと腕に力を込めて扉を開ければ、見えてきたのはコンクリートの床と、視線を上げて奥の方を見れば自分の背丈ぐらいのフェンス。そして……
「すげえ」
フェンスの向こう、まるでクリスマスのイリミネーションのように輝く街の光を見て、俺は思わず声を漏らした。まさか自分が通っている高校で、こんな景色を見ることができるなんて。
ゆっくりと屋上へと足を踏み出し、そんな光景を見入っていると、後に続く希美さんも「うわぁ」と感嘆の声を漏らす。そしてぴょんと自分の前に飛び出したかと思うと、そのままフェンスの方へと駆け寄る。「あっ、」と俺も慌てて後を追う。
「すっごく綺麗だね!」
 フェンスの隙間に指をかけて、希美さんが言った。その瞳は夜の色に染まりながらも、街の輝きを反射していた。彼女の隣に並び、俺も同じように街を見下ろす。この学校が山手の方にあるからだろう。隣街の明かりまで見渡すことができた。
「ここからだと、私の家も見えるんだ」
 そう言って希美さんが真っ直ぐ見つめる先には、大きなマンションの姿があった。もう随分と家には戻っていないのか、懐かしむようにその目が細められる。そんな表情を見て、チクリと胸が痛んだ。
「絶好の夜景スポット見つけちゃった」
 無邪気な彼女の声が、吹き抜ける風の音と一緒に響く。すると希美さんがくるりと瞳を動かし、こちらの顔を見上げた。
「これで学も好きな人ができた時は、こっそりこの場所を教えてあげれるね」
「えっ」
 思わぬ希美さんの発言に、ぎょっと目を見開く。相手はというと、クスクスとイタズラっぽく笑っていた。
「そ、そんな人いませんから……」
ぎこちない口調で呟くと、「ほんとかなー?」と希美さんは目を細める。そんな彼女の視線から、そっと視線を逸らす。
 好きな人とこの場所に来るなら、俺はもう……
 さっきから高鳴っている胸の鼓動を感じながら、俺はチラリと希美さんの顔を見た。ふと視線が合いそうになり、慌ててまた目を伏せる。胸の奥には伝えたい気持ちや言葉がどんどん溢れてくるのに、それを何一つ声にはできない。
 やっぱ情けない……。そんなことを思いため息をつきそうになった時、希美さんの嬉しそうな声が聞こえてきた。
「学、見て見て!」
 そう言って希美さんはシャツの袖をツンツンと引っ張ってくる。そんな仕草にもドキリとしながら、俺は彼女と同じように空を見上げた。視界に広がるのは、何もかも飲み込みそうなほどの真っ暗な世界。そんな中を、自分の存在を主張するかのように、無数の星が輝いている。
「すご……」
 その光景に、思わず声を漏らす。星を見るなんて、一体いつ以来だろう。
 そんなことを頭の片隅で思いながら、瞳には宇宙を映す。希美さんと一緒に見るからだろうか。いつになく星の光がたくさんあるような気がした。
「そう言えば、もうすぐ『七夕』だね」
 ざあっと柔らかく吹いた夜風と一緒に、希美さんの声が耳に届いた。その言葉に、「え?」と彼女の顔を見た。
「ほら、ちょうど一ヶ月後は七夕でしょ? その時もこんな風に晴れたらいいのになあ」
 夜空を見上げたまま希美さんが話す。そんな彼女の言葉を聞きながら、俺は頭の中にあるカレンダーをめくっていく。
 そっか。七月七日は七夕だ。
 普段自分の誕生日ぐらいしか覚えていないので、その日付と七夕が一致するまで少し時間がかかった。すると同じように黙っていた希美さんがふと口を開く。
「学はさ、七夕になったらどんなことお願いするの?」
「えっ、俺ですか?」
 人指し指を自分の顔へと向けると、「うん」と希美さんがニコッと笑う。
「お願いか……、あんまりそんなこと考えたことないかも」
「そうなの?」
 希美さんが少し驚いたように声を漏らした。なんだかその言葉に、俺は少し申し訳なくなる。
「俺の家、行事ごととかそういうのやらないんで……」
 ぽりぽりと頭をかきながらそう告げると、「そうなんだ」と希美さんが小さく呟いた。
「私の家はお母さんがそういうの好きな人だから、毎年願いごとを書いて笹の葉につけてたよ」
「そうなんですか?」
 今度は俺のほうが驚いて声を漏らす。自分の家にも姉と母親という二人の女性がいながら、誕生日のお祝いさえしない。
 これが育ちの違いか……
 普段暴力ばかり振るってくる姉のことを頭に浮かべながら俺は思った。本人に言えば間違いなく処刑されてしまうけれど、まさに『月とスッポン』という言葉がぴったりと合う。
 そんなことを考えながら一人苦笑いを浮かべていると、希美さんが不思議そうな表情で見てきたので、俺は慌てて我に戻った。
「の、希美さんは七夕にどんなお願いをするんですか?」
 咄嗟に口を出た質問に、「私?」と希美さんが少し目を丸くする。そして考え込むように人指し指を唇に当てると「うーん」と声を漏らす。
「私は……『栞』になりたい、ってお願いするかな」
「へ?」
 まったく想像もしてなかった願い事に、思わず俺はきょとんとした表情を浮かべた。するとそんな自分の姿を見て、希美さんがクスクスと笑う。色んな角度から希美さんの言葉の意味を考察してみるも、残念ながら俺の頭ではまったく何も思い浮かばない。
「栞……ですか?」
 もしかして聞き間違い? そう思って同じ言葉を繰り返すも、相手は笑顔のままコクンと頷く。
「うん。私の願いごとは、誰かにとっての『栞』になること」
 そう言うと希美さんは、そっと目を閉じた。静かになった世界に、風が吹き抜ける音だけが響く。答えを求めるかのように黙り込んでいると、希美さんの唇が再び動いた。
「栞ってね、自分にとってもう一度大切な場所に戻ってこれる目印でしょ。だから……私の存在も、誰かにとってそんな風に思ってもらえたら嬉しいなって」
 希美さんはそう言って、ゆっくりと瞼を上げた。さっきと同じ、大きな瞳。でもなぜか、その奥では違う感情が揺れているような気がした。思わず喉元まで出かかった言葉を、俺は唾と一緒に飲み込む。本当は伝えたい気持ちが、胸の奥で空回りして、そして消えていく。代わりの言葉が見つかず黙ったままの自分に、希美さんがはにかむように微笑んだ。
「ちょっと臭いこと言っちゃったかな……」
 恥ずかしそうに頬をかく希美さんを見て、俺は慌てて首を振った。
「そ、そんなことありません! すごく……すごく良い願いごとだと思います」
 張り切って言ったものの、小学生の読書感想文みたいな言葉に、今度は自分の方がはずかしくなる。それでも優しい希美さんは、クスクスと笑いながらも、「ありがとう」と言ってくれた。
「私にとっての栞はこの学校の図書室。だから……学には本当に感謝してる」
「そ、そんな俺は何も……」
「ううん。だって学が図書委員をやってなかったら、私はここに戻ってこれなかったもん」
 はっきりとした口調で、彼女はそう告げた。俺はまた恥ずかしくなって、思わず視線を逸らす。なんだかさっきから両頬が熱い。
 続く言葉を探しながら何度も頭をかいていると、目の前でクスリと笑う希美さんの声が聞こえる。
「なんか、羨ましいな」
「え?」
 その言葉に、慌てて顔を上げた。すると彼女は、弧を描いていた唇をゆっくりと開く。
「学はこれからも色んな人に出会ったり、色んな場所に訪れたり、それに……恋だってできる。こんな風に夜景を見ることもあれば、青い空の下で思いっきり遊ぶことも……」
 そう言うと希美さんは、少しだけまつ毛を伏せた。一瞬だけ見せた彼女のそんな表情に、ぎゅっと胸の裏側が疼く。
「私にはできないけど……学の隣でそうやって一緒に過ごせる人のことがちょっと羨ましい」
「……」
希美さんの話しに、胸の奥底が焼けるように熱くなっていた。普段びっしりと蓋をしているはずの感情が、ここぞとばかりに飛び出そうとする。そんな衝動につられるかのように、唇が無意識に動いた。
「……希美さんだってできます」
 ぼそりと呟いた自分の言葉に、希美さんは「え?」と少し驚いたような表情を見せた。それでも俺はすっと息を吸うと、こみ上げてくる感情をそのまま言葉にしていく。
「希美さんだってできますよ! 病気も良くなって、外で遊べるようになって、好きなところにだってたくさん行けるようになります!」
突然話し始めた自分に、希美さんはきょとんとした表情を浮かべて瞬きを繰り返す。そして「学……」と自分の名を呟くと、そのままそっと顔を伏せた。
「俺は希美さんのおかげで変われました。本もたくさん読むようになって、学校に来るのも楽しくなって、それに……希美さんと一緒にいれることが嬉しいんです。だから希美さんが元気になった時は、今度は俺が叶えます! 希美さんの行きたいところややりたいこと、俺が全部全部叶えます。ぜったいに!」
 熱くなっていく心が、唇を勝手に動かした。真っ直ぐ顔を見つめたまま話す自分の言葉を、希美さんは黙ったまま聞いていた。そんな彼女の姿を見ていた時、ふと希美さんの瞳が揺れていることに気づく。慌てた俺が、「のぞみさ……」と声をかけようとした瞬間、突然彼女が自分の胸へと飛び込んできた。
 え?
 一瞬何が起こったのかわからず、俺は呆然と立ち尽くす。すると、希美さんはゆっくりと両腕を伸ばし、俺の背中へと回した。包み込まれるような温かい感情が、全身に広がっていく。
「……ありがとう」
 希美さんの唇からこぼれ落ちた言葉は、今まで聞いた彼女の声の中で、一番優しい声だった。
 自分の胸の中で肩を震わせている希美さんを見て、俺は覚悟を決めるように両腕をそっと彼女の背中へと回す。
 これでやっと、希美さんの力になれる。
 そう思い、静かに瞼を閉じる。聞こえてくる彼女の鼓動に、心が震える。自分の全てを、この人のために捧げていいと、初めて思えた存在。そんな大切な人を、この世界に繫ぎ止めるかのように、優しく両腕に力を込める。これからもずっと、二人の世界が続いていきますようにと。希美さんの命が、これから先も輝いていきますようにと。
 でもそれは、自分の勝手な願望で、世界の流れは最初から決まっていると、俺は次の約束の水曜日に知ることになった。
 あの日を最後に、希美さんが図書室に訪れてくることは、もう二度となかった。