今日は昼過ぎまで寝よう。そう思って昨夜セットしなかったスマホのアラームの代わりに、「起きろ!」と別のアラームが夢の中で盛大に鳴った。その声の大きさと、お腹にドスンと乗った何かに、俺は慌てて目を開ける。すると、こちらを見下ろす二つの瞳。ノースリーブに短パンとラフな格好をした姉がそこには立っていた。
「……何してるの?」
 唯一無二である弟の腹の上に右足を乗せ、なぜか威張っている姉に俺は尋ねる。
「何って、かかと落とし」
「いやそういうことじゃなくて……」
 朝から何やってんだこの人と、俺は腹部を直撃している足を右手で払いのけると、痛みが残るお腹を抱えるように布団にくるまる。姉の暴力は日常茶飯事なので大抵のことは見逃しているが、さっきのかかと落としがもう少し下半身に寄っていたら、俺は今頃妹になっていたかもしれない。
 そんなことを思い、ブルっと身体を震わせると、今度はいきなり布団がめくり上げられた。
「ね、あんた私の言葉聞いてた? 起きろって言ったんだけど?」
「起きろって……俺は今日学校休みだって」
 さすがの俺も不機嫌な声で答えると、両目をこすってスマホを覗く。時刻はまもなく八時になろうとしていた。休日にしては、やたらと早起きだ。
「そんなことわかってるわよ。ゴミ当番! 今日はあんたがゴミ出してくる日でしょ」
「え?」
 その言葉に、俺は重くなっていく瞼をもう一度上げて姉の顔を見る。
 うちのマンションは毎週土曜日の朝がゴミ収集の日となっていて、姉と俺が順番でゴミを出すことになっているのだ。
「えー……先月俺が二回連続でゴミ捨てに行ったじゃん。今日はねーちゃんが行ってよ。もう服着てるんだし……」
「先月のことなんてもう記憶にありませーん! 私、今日は彼氏とデートで今から準備しないといけないの。だからアレ早く捨ててきて」
 アレ? と疑問に思って姉が指差す方向を見てみると、はち切れんばかりにパンパンになったゴミ袋が部屋の真ん中で座り込んでいる。
「え! 待って待って。なんで俺の部屋にゴミ袋捨ててんの?」
「捨ててるんじゃないわよ。お母さんが変えろってうるさいからわざわざ持ってきてあげたんじゃない」
「……」
 いやどう見たってただのイジメでしょ。なんかバナナの変な臭いもしてきたし……
「はあ」と不満と怒りをたっぷりと含んだ大きなため息をつくも、姉にはまったく効果なし。「あと頼んだわよ」と不衛生な塊だけを残し、彼女はパタンと扉を閉めて部屋を出て行ってしまった。
「あれは絶対に彼氏に嫌われるな……」
 せめてもの反抗で、俺はぼそりと呟く。すると再び部屋の扉が勢いよく開き、「今なんつった?」とノースリーブの化け物が現れた。「ひっ」と思わず声を漏らすと、何もありません! と朝一からのまさかの土下座。学校の図書室も高山のせいで危険地帯だが、どうやら自分の部屋も安全ではないらしい。
「次言ったら殺すわよ」と実の弟に向かって問題発言を放つと、猛獣は扉を閉めて出て行った。本当に安全になったのかと、その足音にそっと耳を澄ます。……よし、どうやらちゃんと自分の檻の中に戻ったようだ。
はあ、と今度は疲れ切ったため息を漏らすと、脱力するように肩を落とした。あれで彼氏のほうが自分にベタ惚れだといつも自慢してくるので、きっと相手の男性は目が見えていないのか、人の姿に限りなく近いゴリラなのだろう。
とりあえず危険人物は去ったので、もうちょっとだけ寝ようと瞼を閉じるも、腐敗しかけたバナナの臭いが強烈で眠れない。クソっ! と言いたくなるところが臭いのせいで思わず「くさっ!」に変わる。この調子だとますます部屋に悪臭が溜まっていきそうなので、俺は急いで立ち上がると、脱ぎ捨てていたジャージのズボンをはいた。そして右手で鼻をつまみながら、左手に藤川家の残骸を握る。可能な限り触れたくはないので、人差し指と親指の二本挟みだ。
「絶対わざとだ……」
玄関に置いておけばいいものをわざわざ俺の部屋に持ってきたのは、万が一起きない場合に臭いで苦しませる作戦だったのだろう。暴力も振るうくせに、中途半端に頭も回るところが腹立たしい……大学は三流のくせに。
玄関の扉を開けると「おはようございます」とたまたま顔を合わせた隣人のお婆ちゃんに挨拶をして、一直線にエレベーターを目指す。爆発することはないが、それに匹敵する悪臭放つ危険物を一秒でも早く投げ捨てたい。急ぐ心とは裏腹に、なかなか『14』という数字が点灯しないエレベーターを待ちながら俺は小さく地団駄を踏む。
やっと到着した金属の箱に乗り込むと、そのまますぐに一階のボタンを連打する。別にこれでスピードアップするわけじゃないのに、急いでいる時ほど何故か何度も押してしまうから不思議だ。ただでさえ自分の部屋で悪臭を撒き散らしていた袋は、ここぞとばかりに狭い密室を我が物顔で支配してきた。鼻をつまんでいても微かに臭ってしまうその凶器に、お願いだから誰も乗ってこないでと必死に祈る。
 幸いにも一階に着くまでの間、エレベーターには誰も乗ってこなかった。悪臭漂う密室から急いで抜け出すと、左に曲がりマンションの裏口に向かう。非常口、と緑のランプが点灯している扉を開けると、爽やかな青空が視界に広がる。降り注ぐのは希望に満ちたサンシャイン。左手に持っているのは悪臭漂うデンジャラス。
もうちょっとだ、とマラソン選手がごとく急いで自転車置場を抜けると、道路へとつながる扉を開ける。すぐ左手にあるゴミ捨て場が見えると、早くも心の中に安堵感が広がった。
その時だった。
ゴミ捨て場の後ろ、ちょうど自転車置場の隣にある小さな公園のブランコが揺れていることに気づいた。こんな朝早くから一体誰が遊んでいるのかとふと顔を上げた時、ゴミを投げ捨てようとしていた左手が思わず止まった。どこまでも突き抜ける晴天の下、視界に飛び込んできたのは、なんと図書室で出会ったあの女の子の姿だった。しかも何故か、制服を着ている。
ドサっと、意識とは関係なく手放してしまったゴミ袋が地面へと落ちる。その音に気づいた彼女が、漕いでいたブランコを止めるとこちらを振り向いた。
「あれ? 君はたしか……」
あの時と同じ声、あの時と同じ微笑みで彼女が言った。夢にも思わなかった再会に、思わずゾワリと鳥肌が立つ。
まさかこんなところで? でも……どうして?
頭の中が急速に疑問符で埋め尽くされていく。前回と同じく呆然としている自分に、彼女はほっそりとした指先を唇に当てるとクスリと笑った。
「ここに住んでたんだ。えーっと、名前は……」
「ふ、藤川……藤川学です」
ゴクリと唾を飲み込み名前を告げると、相手は「そっか」と言ってニコリと笑う。
「藤川学……じゃあ学くんだね」
「え?」
苗字をいきなり飛ばして名前を呼ばれたことに、俺は思わず目を見開いた。一七年間生きてきて、おそらく女性に名前を呼ばれたのは母親と姉以外初めてのことだった。急にお互いの距離感が縮まったような気がして、鼻先あたりがなんだかむずむずとする。高鳴る心拍数を隠すかのように口を開こうとした時、再び滑舌の良い元気な声が聞こえてきた。
「私の名前は北条希美。希美でいいよ」
「えっ!」
先ほどよりもさらにワントーン高く俺は驚きの声をあげた。まさか……俺の方もいきなりの名前呼び? しかも、呼び捨てで?
「いいのか、俺?」と何度もつぶやきながら、握手をする前の時のように両手をジャージのズボンに激しく擦り付ける。そんな自分を見て、彼女がクスクスと笑う。
「学くんってやっぱり面白い人だね。何年生?」
「に、二年……です」
そのままの流れで、「希美は?」と聞きたいところなのに、希美の「の」も言えない。プルプルと唇だけ動かしていると、「じゃあ私の一つ下だね」と相手が先に答えを教えてくれた。
危うく呼び捨てにするところだった……
いきなり失態をかましそうになったのを、直前で防ぐことができてほっと胸を撫でおろす。同じ学年ではないと薄々思っていたが、やっぱり違っていたようだ。
「学くんは、ブランコ好き?」
突然変化球してきた質問に、「はい?」と思わず声が裏返ってしまった。希美さんは再びブランコを漕ぎ始めると、「一緒にどう?」とまさかのお誘いの言葉。俺はゴクリと唾を飲み込むと、道のど真ん中にゴミ袋を放置していることも忘れ、ぎこちない足取りでブランコへと向かう。
「し、失礼します……」
 まるで人の家に上り込む時のように一礼をして隣のブランコに座ろうとする自分に、相手は「どうぞ」と言ってプッと吹き出す。それを見て、恥ずかしくなった俺は顔を少し伏せた。
ブランコなんて何年ぶりだろう。そんなことを頭の片隅で思いながらお尻をつけると、両足に力を入れて地面を蹴った。ふわっと頬に風が当たる。空の青さも相まってか、なんだかとても気持ちが良い。隣では陽光できらめく髪をなびかせながら、希美さんも同じようにブランコを漕いでいた。その姿、まさに天使。同じリズムでブランコを揺らしているだけなのに、なんだか誇らしい気持ちになってくる。すると、希美さんはすっと小さく息を吸ったかと思うと、ゆっくりと唇を開いた。
「私ね、病気のせいで全然学校に行けないんだ」
「……え?」
まったく予想もできなかった言葉に、俺は慌ててブランコを止める。そんな自分を特に気にする様子もなく、彼女は楽しそうにブランコを漕いでいる。
希美さんが……病気だって?
目をパチクリとさせながら、俺はそんな希美さんの姿を見た。どこをどう見たって、元気で可愛い女の子だ。でも……
ゴクリと唾を飲み込むと、俺は恐る恐る口を開いて尋ねた。
「そ、そんなに……悪い病気なんですか?」
その言葉に、彼女は両足を地面につけてゆっくりとブランコを止めると、「うーん」と少し困った表情を見せた。
「ちょっと複雑な病気みたいでね。完治するのは難しいんだって。だから、ほとんど外にも出られないんだ」
「そうなんですか……」
青空の下にいるはずなのに、急に心が曇りだす。彼女に再会できたことを無邪気に喜んでいたが、事態はそんな呑気な状況ではなかったようだ。動揺する心を胸の奥で感じながら、俺は再び口を開いた。
「じゃあこの前図書室に来てたのって……」
「あれは……外出許可をもらったから、こっそり忍び込んじゃった」
希美さんはそう言うと、イタズラを隠そうとする小さな女の子のようにピッと舌を出した。その仕草も可愛くて、俺は思わず顔を伏せる。こんな時まで一体何を意識しているのだと、自分のことを情けなく思っていると、彼女の明るい声が鼓膜に揺らした。
「学くんは本が好きなの?」
「え? 俺ですか?」
急にシリアスな話題がどこかに飛んでいき、俺は慌てて顔を上げた。いちいち動揺する自分のリアクションが面白いのか、彼女はまたクスクスと肩を震わせる。
「図書室にいたからさ。本が好きなのかなーって思って」
「いやあ本が好きと言うか……こう見えて図書委員なんでだいたい図書室にこもってるというか監禁されているというか……」
頭をかきながらぎこちなく話す自分の言葉に、希美さんが「へぇ」と興味を持った声を漏らす。そして、くるりとしたその大きな瞳が青空を映した。
「羨ましいなあ」
「え? そうですか?」
意外な返答にきょとんした表情を浮かべた自分の前で、彼女は「うん」と大きく頷いた。
「私、小さい頃から身体が弱くて外であんまり遊べなかったから、学校にいる時はだいたい図書室にいたんだよ。図書室だと色んな本も置いてるし、それを読んでは、『外にはこんな世界もあるんだ』ってよく想像を膨らませてたなぁ」
まるで昔話でもするかのように懐かしそうに目を細める希美さんに、「そうだったんですね」と俺は再び顔を伏せる。図書室なんて何の面白みもなくてつまらないところだと思っていたが、希美さんにとっては唯一外の世界を知ることができる場所なのだ。図書委員という肩書きを持ちながら、そんな人がいることなんて考えもしなかった浅はかな自分に、急に苛立ちと後悔が心に押し寄せる。
黙り込んでしまった自分を見て気を遣ってくれたのか、希美さんはまたブランコを漕ぎ始めると、優しい声で言った。
「学くんはどんな本を読むの?」
その言葉に、思わずギクリと頭の中で警告音が鳴る。まさかこの話しの流れで、「俺は本が嫌いです」なんて血も涙もないような言葉を口にすることはできない。ここはせめて自分が知っていそうな本のジャンルでもと思い、俺はプルプル震え始めた唇をゆっくりと開いた。
「そ、そうですね……SFとか青春系の」
……漫画です。思わず続けざまに言いそうになった最後の一言は、唾と一緒に喉の奥へと飲み込んだ。すると自分の言葉を聞いた希美さんが、「青春系か」と素直に頷いてくれているではないか。これ以上質問されるとマズイと思った俺は、すかさずオウム返しで同じ質問を返した。
「の、希美さんはどんな本が好きなんですか?」
私? とブランコを止めた希美さんはほっそりとした人差し指で自分の顔を指す。そして「そうだなあ」と呟いて、再び空を見上げた。
「私は何でも好きだよ。小説も読むし実用書も読むし……あと、絵本とかも。それに、古文とかもけっこう好きかも」
そう言ってニッと白い歯を見せる希美さんを見て、思わず心臓がドクンと太鼓を叩く。「好きだよ」の部分だけを切り取って、もし自分に当てはめてもらえるのなら、俺の人生をブランコの上で終わらせてくれてもいい。そんなバカな妄想が一瞬頭に浮かび慌てて首を小さく横に振った。
「そ、そうなんですね」とぎこちなく言葉を返すと、「そうだ!」と突然何か閃いた様子で、希美さんがひょいっとブランコを降りた。そして目の前までやってくると、その大きな瞳に俺の顔を映す。
「今度学くんがいる時に、またこっそり図書室に行っていいかな?」
「ええ!」
 俺は思わず声を上げて勢いよく立ち上がった。あまりにうるさかったのか、フェンスの向こうで犬の散歩をしていた通りすがりのおばさんが怪訝そうな顔で睨んできた。咄嗟に顔を伏せると、目の前からクスクスと希美さんの笑い声が聞こえてくる。
「ダメかな?」
「いや、ダメとかそんな……」
 顔を上げると、希美さんが首を傾げてこちらを見ている。その仕草も可愛くて、ついつい見惚れてしまいそうになってしまい、俺は慌てて視線を逸らす。ダメなはずがない。希美さんとまた会えるなら大歓迎だ。でも……
「びょ、病院の方は大丈夫なんですか?」
 不安げな表情で尋ねる自分を安心させるかのように、希美さんはクスリと笑う。
「少しくらいなら大丈夫。それに、ずっと病室にいるほうが不健康になっちゃうよ」
 病院にいるのに不健康。なんだかその言葉が面白くて、俺は思わずぷっと吹き出してしまった。すると希美さんもつられるかのように、口元に手を当てて肩を震わせる。誰もいない朝の公園に、自分たちの笑い声が響いた。
「それなら、水曜日だったら大丈夫ですよ。水曜日は俺一人しか図書委員はいないので」
笑って少し気が楽になったのか、今度はスムーズに答えることができた。その言葉に、「水曜日か……」と人差し指を顎に当てて考え込む希美さん。そしてすぐにパッと花が咲いたような笑顔を見せる。
「わかった、なら水曜日にしよう! 何時に行けばいい?」
興味津々で尋ねてくる希美さんに、俺は慌てて頭の中のスケジュール帳をめくる。せっかく希美さんが来てくれるのであれば、出来れば邪魔者はいない方がいい。だとすると……
ゴクリと唾を飲み込むと、自分の願望を言葉に包んで声にする。
「な、なら……六時以降でも大丈夫ですか? それだったら他の生徒はいないし、喋ってても怒られることもないので……」
様子を伺うようにしながら話す自分に、希美さんは「いいよ!」とすぐに嬉しい返事をくれた。それを見て、俺はほっと胸を撫で下ろす。どうやらこれで、希美さんと二人っきりで話せるチャンスがまた訪れそうだ。
そんなことを考えて一人勝手に胸の高鳴りを感じていると、「そろそろ行かないと」と希美さんがぼそりと声を漏らした。
「それじゃあ来週の水曜日、楽しみにしてるね!」
右手をヒラリと浮かす彼女を見て、「は、はい!」と俺は慌てて返事を返す。そんな自分に、希美さんは目を細めてクスリと笑うと、「じゃあまたね」と言って公園の出口に向かって歩いていく。
「……」
ふわりと髪をなびかせながら歩くその後ろ姿を、俺はただ呆然と見つめていた。
これは夢ではなかろうか?
ふとそんな不安が頭をよぎり、俺は思いっきり右頬をつねってみる。感じるのは夢見心地の気持ち良さではなく、現実感たっぷりの激痛。そのあまりの痛さに、「いって!」と声を上げるも、心にじわりと広がっていくのは喜びの感情だった。夢じゃなかった。あの図書室での出来事も、さっき希美さんと話しができたことも、全部夢ではなくてちゃんとした現実なのだ!
まるで自分が突然小説の主人公になったような展開に、思わず口端が緩む。春だ。間違いなく春到来の予感がする。季節の春は過ぎたけれど、俺だけ再びやってきたのだ。
「ざまあみろ樋口と宮野!」
あれだけ信じてくれなかった二人の友人の名を口にして、まるでチャンピオンベルトをつけたボクシング選手がごとく、俺は高らかに両手を青空に向けて突き上げた。そんな自分を祝福するかのように、ポロッポーと公園の鳩が鳴いている。
これでいよいよ自分のつまらなかった高校生活にピリオドが打てると期待いっぱいの笑顔を浮かべていた時、突然背中に鋭い視線を感じて、俺は慌てて振り返った。すると、マンション裏口を出たすぐのところで、血の繋がった姉がこちらを睨んでいるではないか。その冷め切った視線、もはや人間を見る目ではない。
こちらが両手をあげたまま固まっていると、相手は睨みを利かしたまま、カツカツと出口の方へと向かって歩いていく。そして、ちょうど目の前のところまでやってきたかと思うと、凍てつくような冷めた口調で言った。
「あんた……頭大丈夫?」
「……」

希美さんとの奇跡的な再会から週が明け、ついにその日はやってきた。
学生生活が始まって以来、これほどまでに学校に行くことを楽しみにした日があっただろうか。
母親の怒鳴り声や姉のかかと落としがやって来る前に目を覚まし、しっかり朝ごはんを食べると一直線に洗面台へと向かう。顔を洗って歯を磨けば、鏡を見て自分の顔を確認する。目ヤニはついていないか? 口臭は大丈夫か? とまるで精密機器を検査するかのように細かいチェックを行うと、今度はいつもの三倍の時間をかけて髪型を整え始める。
「そんなに時間かけても変な顔は変わらないから」という姉の小言を左から右へと受け流し、いつもとは違う納得のいく髪型が完成すると、お次は自分の部屋で全身チェック。
 シャツの乱れなし、ズボンの乱れなし、心の乱れは少しあるかもしれないけれど、外見には出てこないので大丈夫……なはず。できる男をアピールすのであれば、まずは見た目から気合いを入れなければいけない。初対面の時のように、寝ぼけた顔で情けない姿を見せることはできないのだ。
 そんな生まれ変わった自分を迎え入れてくれるかのように空はいつになく晴天で、教室についた頃には汗で髪型はいつもの状態に戻っていた。何なら気合いを入れ過ぎて早足で登校してしまったせいで、ワキ汗が気になって仕方がない。が、それでも俺は希美さんと会えるという喜びから、誰よりも真剣な顔つきで授業を受けた。そして、誰よりも真剣な顔つきで希美さんとの二人っきりの時間を妄想していた。
「ついにやってきた……」
 閉館時間になっても残っていた最後の女子生徒を追い払うと、俺は急いで図書室の扉に鍵をかける。希美さんがやってきた時にはノックするように頼んでいるので、これで他の人間が邪魔をしてくることはない。
「よしっ」と気合いの呪文を唱えると、俺は乱れに乱れまくった室内に目を向ける。こんな状態で希美さんを迎えるわけにはいかない。シャツの袖をめくり、もう一度気合いの呪文を口にすると、すぐさま図書委員としての仕事に取り掛かる。もしも高山が見ていれば泣いて喜ぶんじゃないかと思うほどのスピードで、俺は図書室を元の綺麗な状態へと戻した。
「あ、そうだ」
 思い出したように呟いた俺は、カウンターに置いていた自分の鞄のチャックを開ける。そして中から一冊の本を取り出した。
「一応……返しておくか」
 以前見つけた手書きの本を、元あった場所へと戻す。別に持っていたところで誰かに咎められるわけではないが、持ち主が探しているかもしれない。
 そんなことを思ってから再び視線を室内へと向けた時、コンコンと扉を優しくノックする音が聞こえた。その音に、思わずドクンと心臓が飛び跳ねる。
「は、はーい!」
まるで家にやってきた友人を出迎えにいくように、早足で扉まで向かった。そして扉に近づくと、かけていた鍵をゆっくりと外す。カチャッと音がしたのと、ゴクリと喉が鳴ったのはほぼ同時だった。思わず口から飛び出そうになる心臓を、大きく吸った息で抑え込むと、俺は静かに扉を開いた。差し込む夕焼け。赤く輝く廊下の窓を背に、そこには希美さんが立っていた。
「約束通り、来たよ」
 そう言って希美さんはニコリと笑った。夢ではなかろうかと疑ってしまう心に、自分のほっぺをつねりたくなる。代わりに太ももをつねって見惚れてしまいそうな意識を元に戻すと、「ど、どうぞ」と俺は右手を室内へと向けた。「ありがと」と希美さんはゆっくりと右足を前に出すと、誰もいない図書室へと足を踏み入れる。目の前を通っていく瞬間、ふわりと良い匂いが鼻先を撫でた。呆然と突っ立っている自分の前で、希美さんが両手を広げて大きく息を吸う。
「やっぱりここが一番好きだなー!」
 思う存分図書室の空気を吸った彼女は、腕を下ろしたと同時にこちらを振り返る。優しく弧を描くその目と視線が合い、思わずビクリと肩が震える。そんな自分を見て、希美さんがクスリと笑う。
「扉、開いてるよ」
「え?」
 その言葉に俺は慌てて扉を閉めた。緊張しているせいか、危うく指を挟みそうになり、「危ね!」と思わず叫ぶ。すると背中からクスクスと希美さんの笑い声が聞こえた。
「……」
さっそく何してんだろ、俺……
そんなことを心の中で思いながら、扉の鍵へと再び手を伸ばす。カシャンと鍵がかかった音が鳴った瞬間、なぜか脳裏に高山の言葉が浮かぶ。
 あんたまさか、ここでふしだらなことしてたわけじゃないでしょうね?
 本当に怒鳴り声が聞こえてきそうな頭の中の映像に、俺は激しく首を振る。
 しませんしません。ぜーったい、そのようなことはありません!
 一人動揺している自分に、「どうしたの?」と背中から希美さんの声。「な、なにもありません!」と慌てて振り返ると、本当に二人っきりになってしまった空間に、思わず色んな妄想が頭の中を駆け巡った。
「ないないない……」とぶつぶつ呟いている自分を見て、希美さんは不思議そうに首を傾げた。すると「あっ」と声を発した彼女が、ぴょんと飛び跳ねるように本棚へと向かっていく。
「これ、昔よく読んでた本だ! 懐かしいー」
 本棚から本を抜き取り、希美さんが嬉しそうに声を漏らす。無邪気に喜ぶその姿を見て、思わず自分の心も嬉しくなる。なんだか、図書委員をやっていて良かったと初めて思えた瞬間だった。
「ねえ、学くんはこの本知ってる?」
 窓から差し込む夕日を浴びながら、希美さんは右手に持っている本を俺の方へと向けた。その瞬間、ギクッと頭の中で音が鳴る。
「知ってるのは……知ってます」
 ぎこちない声で俺は答えた。タイトルは見たことがある。だって先週自分が返却処理を行ったのだから……
 あはは、と視線を逸らして苦笑いをしていると、希美さんが再び嬉しそうな口調で言った。
「私この本がすっごく好きなんだ。ヒロインの女の子はね、体が弱くて家から出られないんだけど、主人公が見つけた魔法の薬のおかげで元気になるの。それで最後は憧れだった外国に行けて、そこで幸せになれるんだ」
本のページをめくりながら、希美さんが言った。ニコリと笑う彼女の姿とは裏腹に、本の内容のせいか、ブランコで聞いてしまった話しを思い出し、チクリと胸が痛くなる。同じ高校の制服を着ていても、希美さんと自分とでは生きている世界が違う。そんな事実から目を逸らすように、俺は慌てて口を開いた。
「の、希美さんもこの図書館でよく本を借りてたんですか?」
 咄嗟に口を出た質問に、「え?」と希美さんが声を漏らす。
「そうだなー。一年生の最初の頃はよく借りにきてたかな。でも、その後すぐに入院しちゃったから、ここにある本はほとんど読めてないけどね」
そう言うと希美さんは困ったような笑顔を浮かべる。その姿に、俺は思わず視線を逸らした。何か返事をしようと思うのに、空回りする言葉だけが喉の奥で疼いている。すると再び希美さんの言葉が聞こえてきた。
「ねえ、学くんはここでどんな仕事をしてるの?」
「え?」
突然自分のことを聞かれ、俺は慌てて希美さんの顔を見た。両目をパチクリとさせていると、彼女はクスリと微笑む。
「私、図書室は好きだけど図書委員はやったことないんだ」
そう言うと彼女は手に持っていた本を棚に戻し、くるりとこちらに身体を向けた。近づいてくる大きな瞳に、「そ、そうですね……」とぎこちなく口を開く。
「し、仕事って言ってもほとんどあのカウンターのところに座ってるだけですよ。あそこで本の貸し出ししたり、返ってきた本をもとに戻りしたり……」
そのまんまだな、と心の中で思わず自分に突っ込む。せっかく希美さんが自分の仕事について聞いてくれているのに、気の利いた話し一つできない。高山みたいに「図書委員だけが知ってる豆知識!」みたいな話しをできれば、きっと希美さんも喜んでくれるのに….…。
そんなことを思い一人落ち込んでいると、希美さんが「ちょっとだけ中に入っていい?」とカウンターを指差し尋ねてきた。その言葉に、俺は「はい」と頷く。彼女は嬉しそうにニコリと笑うと、自分がいつも閉じ込められているカウンターの中へと入った。
「ふーん、学くんはここに座っていつも仕事を頑張っているわけか」
 カウンターの椅子に腰掛け、図書室を眺めながら希美さんが言った。いつも仕事を頑張ってる。その台詞になんだか鼻がむず痒くなって、俺はちょっと誇らしい気持ちになる。希美さんにつられるように、俺もカウンターの中へと入ると、彼女の隣へと座る。こうやって並んで座っていると、毎日のように見ている図書室の光景が、いつもと違って見えるから不思議だった。
二人だけしかいない放課後の図書室で、自分たちは色んなことを話しあった。
希美さんが好きな本のことはもちろん、お互い学校ではどんな生徒でどんな友人がいるのか。好きな食べ物やテレビ番組のこと。小さい頃の思い出話しもあれば、自分が訪れてみたい外国の話しなど……
好きな女の子のタイプを発表する時なんて、今から俺は告白でもするんじゃないかってくらい何故か緊張した。そして、希美さんの好きな男性のタイプが、「落ち着いた大人っぽい人」って聞いた時は、今日から自分も大人の男性を目指そうと心の中で誓いを立てた。
最初は二人っきりで話すことに緊張していたけれど、希美さんが笑っている姿を見るたびに、そんな緊張もいつの間にか消えていた。
気がつけば窓から差し込んでいた夕陽は街の灯りに変わっていて、俺は慌てて席を立ち上がる。時計を見ると、時刻はもう七時半を過ぎていた。
「ちょっと話し過ぎちゃったね」
そう言いながら、希美さんはイタズラっぽい笑みを作ると、ぴっと舌を出した。本当はもっと話しをしたいところだけど、さすがに無理は言えない。
「病院のほうは……大丈夫ですか?」
恐る恐る尋ねる自分の言葉に、「それは大丈夫! こっそり戻るから」とニッと笑う。その姿に、ほっと胸を撫で下ろす。
希美さんらカウンターから出ると、ゆっくりとした足取りで扉まで向かう。そして再び振り返ると、懐かしむような目で図書室を見渡す。
「ほんとはもっとこの場所で過ごして、色んな本を読んだりしたかったんだけどなー」
ぼそりと呟いた彼女の言葉に、チクリと胸が痛む。さっきまで心の中で影を潜めていた現実が、目を覚ましたように疼いた。そんな受け入れたくない現実に蓋をするかのように、俺はぎゅっと噛んでいた唇を開く。
「希美さんが読みたい本があれば持って行ってください! 俺が借りたことにすれば大丈夫ですし、返す時は病院まで取りに行きます」
「え?」
突然の提案に、希美さんがきょとんとした表情を浮かべる。そしてすぐにニコリと微笑むと、小さく首を振った。
「ううん。そこまでしてくれなくても大丈夫だよ。それに、借りてもちゃんと読めるかわからないし……」
「だったら読み終えるまで、俺が何度でも届けに行きますよ。他にも、もし希美さんが読みたい本があればいつだって持っていきます」
「……」
少しでも希美さんの力になりたい。喜ばせたい。そんな気持ちが大きくなっていき、無意識に声は強くなる。それでも希美さんは何も言わず少し目を伏せると、さっきと同じように首を横に振る。
「ほんとに大丈夫だよ。そう言ってくれる学くんの気持ちだけで十分嬉しいから。それに私は……」
 続けざまに言葉を発しようとしていた希美さんの唇が止まったので、俺は首を傾げた。すると、「何もない」と言って彼女はまた小さく首を振る。戸惑う俺が「でも……」と口を開こうとした時、目の前にいる希美さんの顔がパッと明るくなった。
「それじゃあこうしよう!」
「へ?」 
 突然何か閃いたかのように手をポンと叩く希美さんに、俺は目をパチクリとさせる。一体何を思いついたのかとその口元を見ていると、彼女の唇がニッと弧を描いた。
「これから毎週水曜日、私がここに来るよ」
「ええ!」
 予想もしなかった話しに、俺は思わず後ろに飛び跳ねる。そんな自分を見て、希美さんは愉快そうに喉を鳴らした。
「水曜日だったら学くん一人なんでしょ?」
「いやまあ、そうですけど……」
 ぎこちなく目を逸らす自分に、希美さんはくるりとした両目を近づけてくる。そして少し眉尻を下げると、「ダメかな?」と囁くような声で言った。
「ぜんっぜん大丈夫です! むしろ、大歓迎です! 来て下さい。もういつでも、来て下さい!」
 拳を握りしめて鼻息荒く話す自分に、希美さんはきょとんとした表情を浮かべたかと思うと、すぐにぷっと吹き出した。お腹を押さえてクスクスと笑う希美さんの姿を見て、あまりにも本音と下心をあらわにしてしまった俺は、「あ……」と呟き思わず目を伏せる。ヤバい……顔が火傷しそうなほど熱いぞ。
 黙り込んだまま顔を伏せていると、はあと息を整えた希美さんが再び口を開いた。
「わかった! じゃあこれから水曜日は学くんに会いにくるよ。時間はそうだな……今日と一緒で大丈夫?」
「は、はい! その方が俺も……助かります!」
 わかった、と再び嬉しい言葉を返してくれてニコリと微笑む希美さんを見て、俺は心の中で大きくガッツポーズをする。
 まさか、こんな可愛い人と毎週二人っきりで会えるなんて……
 思わずニヤけそうになる口元を力を込めてきゅっと結ぶと、俺はゴクリと唾を飲み込む。生まれてこの方、女の子とはまったく縁が無かったけれど、そんな自分にもついにチャンスがやってきたのだ!