「……ご迷惑おかけしました」
 そう言って商店街にある最後の古本屋を出た時、辺りはもう暗くなっていた。ガラガラとシャッターが閉まる音が、人気の少なくなった通りに響く。スマホの時計を見ると、すでに八時を過ぎていた。
「ダメだ、見つからない……」
 疲れ切った身体とは裏腹に、心にはますます焦りが募っていた。今日見つからないとすれば、きっともう探し出すことは難しいだろう。そんなことを考えてはいけないと思いながらも、頭には否定的なことばかりが浮かぶ。
 スマホ見ると宮野からラインのメッセージが届いていて、商店街を出てすぐの駅前の広場にいるとのことだった。とりあえず一旦合流することになり、疲れた足を動かして駅の方へと向かった。
「見つかったか?」
 広場のベンチに座っていた宮野が立ち上がり、尋ねてきた。その言葉に、「いや……」と小さく首を横に振る。
「そっか……。俺も駅の向こうの古本屋を探してみたけど、どこもそんな本入ってきてないってさ」
 そう言って宮野はため息をつくと、再びベンチへと腰を下ろす。その隣に同じように自分も座った。雨はもう止んでいて、駅前を歩く人は誰も傘をさしてはいなかった。
「今日はさすがにもう無理だな……」
 広場にある時計塔を見上げて、宮野が呟いた。その言葉を聞いて、心の中に暗雲が立ち込める。
 やっぱり、もう……
 ため息さえも、出てこなかった。出てくるのは、どうしてもっと早くに大事なことに気づけなかったのかという後悔と、そんな自分に対する情けなさだけ。
 顔を伏せて黙り込んでいると、再び宮野の声が聞こえる。
「樋口のほうもダメだってさ」
 ほらよ、と言って視界には、宮野が差し出してきたスマホの姿。画面にはラインのメッセージで『すまん、見つからなかった』と泣き顔スタンプ付きで樋口から届いていた。
「こんなに探してないとなると、一体どこに行ったんだ?」
 空に尋ねるように、宮野がぼそりと言った。その問いに、もちろん天は答えてくれない。
 再び視線を足元に向けようとした時、ふと目の前から声が聞こえてきた。
「ママ見て! お星様」
 見ると、七夕でどこかでお祭りでもやっていたのか、ピンク色の浴衣を着た女の子が空を指差していた。その隣で、少女のもう片方の手を繋ぐ母親が、優しい声で言う。
「ほんとだね。雨も止んだから、きっと織姫様も彦星様に会えたでしょうね」
 うん! と女の子は無邪気な声で返事を返す。その会話をぼんやりと聞いていた時、ふと希美さんのおばさんの言葉が頭に浮かんだ。
 希美はね、よく自分のことを『私は織姫だ』って言ってたのよ――
「……」
 カランカランと下駄を鳴らし遠ざかっていく女の子の後ろ姿を見つめていると、止まっていたはずの思考が再び記憶の糸をゆっくりと手繰り寄せる。それは答えを見出そうとするかのように、徐々に輪郭を帯びていく。
「……もしかして」
無意識に呟いた言葉と共に、俺はそのまま立ち上がる。そんな自分を見て、「どうした?」と宮野が不思議そうな表情を浮かべた。
「俺……ちょっと行ってくる」
そう言った直後、両足にぐっと力を込めると再び目の前へと走り出す。
「おい! どこ行くんだ!」
後ろから宮野が叫ぶ声が聞こえる。「ごめん!」とだけ返事をすると、俺は振り向くことなく風を切った。さっきまで濁って見えなくなっていた僅かな希望が、胸の奥で再び息を吹き返す。
もしかして、あの場所なら……
駅へと向かっていく通行人を避けながら、逆方向へと走っていく。すでに限界を超えているふとももが、一歩踏み出すごとに悲鳴をあげる。それでも俺は、痛みに耐えるように歯をくいしばると、ありったけの力で走った。心が、あの場所に行けと言っている。
希美さん……
無意識に浮かぶ名前。その名を呟くたびに、胸の奥がぐっと熱くなった。込み上げてくる感情が、まだ走れと身体を突き動かす。
俺は、何も知らなかった……。
商店街を抜けて、赤信号になりそうな横断歩道を無理やり突っ切る。そのまま夜の住宅街へと足を踏み入れると、今度は通い慣れた道を思いっきり走る。足元を照らす街灯が、自分の進むべき道を点々と繋げていく。そんな光に誘われるかのように、俺はコンクリートの上を蹴った。
俺は……何も知らなかった。希美さんがどんな思いで俺の前に現れて、どんな気持ちで過ごしていたのか……ちゃんとわかってあげられなかった。
希美さんはいつも大切なことを教えてくれたのに、俺は自分勝手なことばかり言って彼女を傷つけた。何も知らないくせに、わかっていなかったくせに、カッコばかりつけて、希美さんのことを……
息を吸うたびに、肺と胸が焼けるように痛い。いつか屋上で彼女に伝えた言葉が、鋭い刃となって自分の心を突き刺す。俺があの時希美さんと夢見た未来は、永遠に来ることはなかったのだ。どんなに手を伸ばしても、どんなに強く望んでも、叶うわけなかったのだ。
鍵のかかった通用門に辿り着くと、すでに人の気配が消えた校舎をぐっと見上げる。どこも電気はついておらず、希美さんと夜の校舎を歩いた記憶だけが鮮明に心に浮かぶ。
裏口に回ると、俺はそのまま扉を乗り越えて、中へと飛び込んだ。着地した瞬間、疲れ切った両足を鋭い痛みが貫く。それでもすぐに身体を起こすと、今度は目の前の校舎に向かって走った。
誰もいない校舎の中へと忍び込むと、息を整える間も無く階段を駆け上がる。響く自分の足音が、焦る気持ちをさらに大きくしていく。
もうすぐだ……
三階に辿り着くと、廊下を一直線に進み、いつもの場所を目指した。希美さんと一緒に過ごしてきた、図書室を。
すでに新書を全部入れ込んだのか、図書室の前には大量に積み上げられていた本の姿は無くなっていた。俺は急いで扉の取っ手を掴むと、腕に力を込める。
「……くそ」
何度勢いよく開けようとしても、鍵が掛かっていて動かない。それでも俺は少しでも中の様子を伺おうと窓へと近づく。が、僅かな希望でさえもぼやけさせるかのように、磨りガラスが視界に見える世界を濁って映す。
諦めることができずに、扉の上にある換気窓から中に入ろうかと思った時、ふと手を伸ばした窓が開いていることに気づいた。おそらく、本の入れ替え作業の時に閉め忘れたのだろう。
俺はその窓を目一杯開けると、窓枠に両手をついて中へと飛び込む。そこはちょうどカウンターの真後ろの窓で、見慣れた景色が視界に飛び込んでくる。
「希美さん!」
誰もいない図書室で、俺は彼女の名前を叫んだ。すぐに辺りを見渡すも、人のいる気配はない。急いでカウンターを出ると、今度は本棚へと向かう。
「希美さん!」
もう一度叫ぶも、自分の声はすぐに暗闇へと吸い込まれる。
「……」
しんと静まり返った室内を、虚しさが満たしていく。重い足取りでテーブルまで近づくと、そのまま倒れ込むように椅子へと座った。
いるわけ……ないよな。
何もかも断ち切るように瞼を閉じると、ゆっくりと頭を伏せた。思い出したかのように身体中が悲鳴をあげて、全身に痛みが広がっていく。もう、息をするのでさえも辛かった。
 閉じた瞼の裏側には、まるで思い出を閉じ込めていくかのように希美さんとの記憶が浮かぶ。そのどれもが、手が届きそうなほど近くて、そしてあまりにも、遠かった。強く握りしめた左手が、いつか希美さんが繋いでくれた温もりを無意識に求める。
 結局俺は、希美さんの力になんてなれなかったんだ……
 押しつぶされそうなほどの痛みと後悔が、胸の奥にのしかかる。足元から崩れ落ちていく現実が、一緒に希美さんとの思い出も飲み込んでいく。それを繫ぎ止めることもできず、俺はただ、薄れていく意識だけを感じていた。
 希美さん……
 心の中で、自分が好きだった名前をそっと呟く。でもその名前を呼ぶことは、もう二度と訪れない。好きだった声を聞くことも、好きだった笑顔を見ることも……
 心を無くしたかのように、しんと静まり返った空間だけが、胸の奥にも広がっていた。まるで最初から何も無かったかのように、静寂が辺りを包んでいく。
 何もかもが無意味に思えてきて、心が掴んでいたものを手放そうとした時、風がふっと髪を揺らした。
「こんなところで寝てたら風邪ひくよ」
窓から入り込んだ夜風と一緒に、聞き覚えのある声が耳に届いた。その声に、思わず息が止まる。ぎゅっと閉じていたはずの瞼を開けて、俺は恐る恐る顔を上げる。するとぼんやりと映る視界に、ふわりとチェックのスカートが揺れた。その光景に、心臓が大きく脈打つ。
「……」
 瞬きも忘れて見上げた視線の先には、何度も求めてきた笑顔があった。
「のぞみ……さん?」
 窓から差し込む月明かりに照らされて、目の前には希美さんが立っていた。突然の出来事に呆然としていると、彼女が指先を唇に当ててクスリと笑う。その姿に、思わず胸が締め付けられる。
「でも……どうして」
 動揺する自分の言葉に、希美さんは微笑んだままゆっくりと口を開いた。
「お守り、挟んでくれたんでしょ」
「え?」 
 希美さんはそう言うと、いつも自分たちが座っていたカウンターの方を見た。その後を追うように視線を向けると、カウンターの上に一冊の本が置かれていることに気づく。
 俺は静かに立ち上がると、その本へと近づいた。月明かりに照らされた本の表紙には、タイトルはなかった。
「これって……」
 震える指先でその本を手に取ると、そっとページをめくる。するとそこには、見覚えのある手書きの文字。
「……」
 なんでこんなところに、と疑問に思った時、はらりと足元に何かが落ちた。視線を向けると、いつか見たあのヘンテコな動物の姿が視界に映る。
「あいつ……」
 拾い上げた栞を見て、ぼそりと呟く。すると後ろから再び希美さんの声が聞こえてきた。
「ごめんね、学」
 その言葉に、俺は慌てて彼女の方を振り返る。目の前では、希美さんが顔を少し伏せていた。
「ほんとのこと、ずっと隠してて……」
「……」
 やっぱり、希美さんはもう……。悲しそうな表情を浮かべる彼女の姿を見て、おばさんの話しが現実なのだと静かに悟る。無力な自分。何もできなかった後悔が、心を強く握りつぶそうとする。
「俺の方こそ……ごめん……。希美さんのこと、何も……」
 どんな言葉も薄っぺらく感じて、続く声が出てこなかった。顔を伏せたまま黙り込んでしまった自分を、希美さんの声が優しく包む。
「学のこと、ほんとはずっと前から知ってたんだ」
「え?」
 希美さんの突然の言葉に、思わず顔を上げた。彼女を見ると、いつもの微笑みを浮かべている。
「ずっと見てた。あの場所から。もしかしたら、学が私の本を手にとってくれるんじゃないかなって思って」
 そう言うと希美さんは、部屋の奥にある本棚の方を見る。希美さんが書いた小説が置かれていた、あの本棚を。
「……」
 そうだったんだ。俺が希美さんと出会う前から、彼女は……。
 そんなことを思い、呆然と立っていると、希美さんが右足をゆっくりと踏み出した。そして自分の方へと近づく。
「だから学が私の本を手にとってくれた時、すごく嬉しかった。ああ、本当に自分の書いた小説を読んでくれる人がいるんだって。そしたらね、気づけばこの場所に立ってたんだ」
 希美さんはそう言うと、ぐるりと図書室を見渡した。静まり返った室内には、希美さんと初めて出会った時と同じ空気が満ちている。
「その時思ったの。ああ、これはきっと神様がチャンスをくれたんだって。私が誰かの栞になれるように。誰かにとっての道しるべになれるようにって……。そしたら私の目の前に、君がいたんだよ。学」
 大きくて真っ直ぐな瞳が、自分の顔を映した。その目を見た時、初めて希美さんと出会った日のことを思い出す。偶然手に取った本が、彼女の命を、希美さんの命を、もう一度この場所に繋ぎとめてくれた。そして自分に、めぐり合わせてくれた……
「……」
 震える心が叫んでいるのに、言葉は何も出てこなかった。すると希美さんが再び口を開く。
「学がいつも私のことを想ってくれていたのも、知ってたよ。私のために本を読んでくれるようになったことも、それに……」
 ふっと言葉を止めた希美さんの右手が、自分の頬に触れる。そして彼女は弧を描いていた唇をゆっくりと開いた。
「私にとって大切な場所を守ってくれたことも……」
 彼女の声と、手のひらの温もりが、心に静かに広がっていく。それに応えるかのように、蓋をしていたはずの感情が胸の奥で疼く。
「俺……希美さんからいつも大切なものもらってばかりで、なのに、何も返せなくて……」
 ポツリポツリと言葉が口から出ていくたび、胸を締め付けるような痛みが走った。希美さんと一緒に歩もうと夢見ていた未来が、後悔となって崩れ落ちていく。そんなことを感じて、声が震えていく自分に、希美さんがいつもの笑顔で言った。
「学は私にたくさんの幸せをくれたよ。たくさん楽しいことや、嬉しい思い出を作ってくれた。もしかしたら誰にも気付かれず、忘れ去られていたかもしれない私に、また会いたいって言ってくれた……」
 そう言うと希美さんは、今までの思い出を確かめるようにそっと瞼を閉じる。
「だからね学。私はあなたに会えて幸せだった。だって……」
 希美さんはあの時と同じようにそっと両腕を伸ばすと、俺の身体を包み込んだ。その温もりに、思わず視界が滲む。ダメだと思いながら、頬を伝った涙の先で、希美さんが静かに呟く。
「だって私は、一番大切な人の『栞』になることができたから」
 その言葉に、俺はそっと瞼を閉じる。希美さんの温もりが、心の中で光を放つ。決して消えることのないその輝きを、両腕でぎゅっと確かめる。彼女の言葉が、彼女の声が、今まで希美さんと作り上げてきた全ての思い出が、道しるべのように心に刻まれていく。
「ねえ学……」
 再び希美さんの声が聞こえて瞼を開けると、彼女の身体がうっすらと輝いていた。
「……」
 言葉が見つからず呆然と立ち尽くす自分に、希美さんがにっこりと笑う。そして、優しい声で囁く。
「私を見つけてくれて……ありがとう」
 その言葉が耳に届いた時、突然強い風が吹いた。思わず目を閉じると、瞼の向こうからは、パタパタと本がめくられる音が聞こえてくる。「希美さん」と言ってゆっくりと目を開けると、視界には、風に乗るように無数のページが舞っていた。
「……」
 風に誘われるままに、窓の外へと飛びだっていくそれらは、はるか空の上を目指してゆっくりと上昇していく。大きな満月に照らされながら、どこまでも昇っていくその姿は、まるで一つの命の物語が、天に還っていくかのようだった。