自分にはまだ、やるべきことがある。
 そんな衝動に突き動かされ、俺は雨の中走った。
 頭の中では、希美さんの家でおばさんから聞いた話しが、何度も何度も繰り返されている。
「あの本だ……」
 自分が図書室で見つけた、あの手書きの小説は、希美さんが書いたものだったんだ。だから、希美さんは……
 視界を邪魔する雨粒を右手で拭いながら、学校までの道のりを急いで走った。今さらになって、自分が希美さんに対して不思議に思っていたことが、腑に落ちていく。それがどれだけ現実的ではないとわかっていながらも。
 学校の門をくぐると、そのまま靴も履き替えずに校舎へと入り、三階にある図書室へと目指す。すると、図書室の前では、新しく入ってきた本が積み上げられていた。
「高山!」
 扉を勢いよく開けるなり、俺は叫んだ。その声に、中にいた図書委員のメンバーが驚いた様子で振り返ってくる。
「藤川、あんた山形に行ってたんじゃないの?」
 きょとんとした表情を浮かべている彼女に、俺は急いで近づいていく。視線の先には、空っぽになったいくつもの本棚。希美さんの本が置いて棚にも、何一つ残っていない。
「ここにあった本は!」
 彼女の肩を掴み、俺は尋ねた。「え?」と驚いた表情を浮かべた高山が口を開く。
「そんなのとっくに運送屋さんが持ってったわよ」
 ちょっと離してよ、と続けざまに言って、高山は俺の手を振り払った。それでも俺は「どこに!」と必死に尋ねる。
「どこにって……このあたりの図書館とか古本屋さんに」
 その言葉を聞いた瞬間、「くそっ」と呟くと、俺はすぐに扉の方へと向かった。
「ちょっと! あんたも来たんだったら手伝っ……」
 背中から高山の怒鳴り声が聞こえるも、その言葉が言い切られる前に図書室を飛び出す。ずっと走りっぱなしのせいか、階段を降りるとすぐに息が切れた。それでも俺は、雨でびしょ濡れになったグラウンドを横切ると学校の門を出た。
「どっちだ……」
 学校の門を出ると、左右に伸びる道路を交互に見る。このあたりには大きな図書館が三つあり、どれも少し離れたところに点在している。それに、古本屋も合わせるとなれば、かなりの広範囲だ。
 とりあえず一番大きな図書館からだ。
 そう思って右手に伸びる歩道を走り始めた時、突然横道から自転車が出てきた。
「うわっ」
「うお!」
 ぶつかる寸前で避けたが、相手は二人乗りをしていたようで、バランスを崩して派手にこける。
「す、すいません!」と慌てて駆けよろうとした時、見慣れた顔に思わず足が止まった。
「宮野……それに樋口?」
 雨に濡れた道路の上で情けない格好をしていたのは、いつもの二人だった。樋口に関してはお尻がよっぽど重いのか、溝にはまっている。
「なんだ藤川かよ、危ないじゃねーか!」
 少し怒った口調で立ち上がる宮野。そして二人で溝から出られなくなっている樋口を救い上げる。
「悪い、この自転車ちょっと貸してくれ!」
「は?」
 自分の言葉に、二人の声が重なった。自転車の持ち主である宮野が傘を拾い上げながら「なんでだよ?」と唇を尖らす。
「急いで行かなきゃいけないところがあるんだ!」
 いつになく必死の形相で訴える自分に、二人は顔を見合すと首を傾げる。
「そんなに急いでどこに行くつもりなんだよ」
「それは……」
 続きの言葉が思わず喉の奥で詰まる。まさか二人に、希美さんの話しをできるはずがない。
 突然ぎこちなく口ごもった自分を見て、宮野が怪訝そうに眉を寄せる。
「なんかまた一人で変なこと始めようとしてるんじゃないだろうな?」
「違うって! 大切なことが……」
「大切なことって、なんだよ?」
「……」
 再び言葉を遮ると、詰め寄ってくる二人。仕方なく俺は、希美さんのことは伏せて事情を話す。
「本だぁ?」
 呆れたような響きで、二人の声がまた重なった。だから言いたくなかったんだよ、と心の中で愚痴をこぼすも、自転車は貸してほしい。「頼む!」と頭を下げると、宮野が大きくため息をついた。
「頼むって言われても……お前この辺の図書館と古本屋を全部回るつもりかよ。しかも誰かが書いた手書きの本なんだろ? もしかしたら捨てられて……」
「どうしても見つけないといけないんだ!」
 声を荒らげて訴える自分を見て、二人が困ったように頭をかく。そして顔を見合わせ何やらアイコンタクトを取ったかと思うと、再び宮野が口を開いた。
「しゃーねーな……俺らも手伝ってやるよ」
「え?」
 予想外の返答に、俺は目を丸くして宮野の顔を見た。するとその隣で樋口も頷いている。
「一人で全部回るなんて不可能だろ。それにお前、最近様子おかしいし、これ以上変になられても困るからな」
「宮野……」
 呆然とした様子で相手を見ていると、その口元がニッと笑った。
「とりあえず俺は駅前の図書館から探してみるから、お前らは他のところから探せ」
「それじゃあ俺は区役所近くの図書館から見てくるよ」
 そう言って樋口が我が物顔で自転車にまたがろうとする。それを見て、「何してんだよ」と今度は俺と宮野の声がハモる。
「何って……この中で体型的に最も自転車が必要なのは俺だろ?」
 なぜか親指を立てて自信たっぷりに宣言する樋口。すると彼は、宮野から許可が下りる前に颯爽とベダルを漕ぎ始めた。そして、「見つかったら連絡する!」と大きく手を振って、目の前の道を曲がり姿を消していった。
「ほんと仕方ないやつだな……」
 半分面白がるような口調で宮野が呟いた。そんな彼の横顔をチラリと見て、俺はぎこちなく口を開く。
「……ありがとな」
 ぼそりと呟いた言葉に、「え?」と宮野がこちらを振り返った。そして、いつもの口調ですぐに返事が返ってくる。
「バカかお前、何水臭いこと言ってんだよ」
 当たり前だろ。そう付け足した宮野の言葉が、雨で冷めていく身体とは反対に、じわりと胸の中で熱を灯した。

「な、何冊かは入ってきたと思いますが……」
「ほんとですか!」
 図書館の受付にいた女性スタッフの言葉に、思わず声を上げた。相手はというと、突然全身びしょ濡れで現れた高校生に、ひどく驚いている様子だった。
「どうしても大切な本なんです!」
 ことの経緯を説明して本を探してもいいか嘆願すると、「うーん」と女性スタッフは困った表情を浮かべた。すると隣で事情を聞いていた男性スタッフが、「館長に聞いてみたら?」と助け舟を出してくれた。
「ちょっと待ってて下さい」
 そう言って女性スタッフは立ち上がると、奥の部屋へと消えていった。
「……」
 カウンターで待っている間、ぐるりと館内を見渡した。さすが一番大きな図書館というだけあり、学校の図書室とは比べ物にならないぐらいの本棚が並んでいる。そのどれもが自分の背丈以上ある大きな本棚で、中にはびっしりと本が並んでいる。
 これは探すとなると、一苦労だな……
 もしここになければ、他のところに探しに行かないといけないが、この図書館だけで一日がかりになりそうだ。
 そんなことを思いゴクリと唾を飲み込んだ時、再び奥の部屋から女性スタッフが現れた。その姿を見て、急いでカウンターまで駆け寄る。
「許可が下りたので大丈夫です。それにまだダンボールに入ったままみたいで……」
「ほんとですか!」
 女性スタッフの言葉に、再び声をあげる。助かった。箱から出されていないのであれば、すぐに探せる。そう思いほっと胸をなで下ろしていると、「と、とりあえずこちらへ」とぎこちない口調で女性スタッフがカウンターの中へと案内してくれた。そして、従業員専用の通路を通っていくと、裏口のようなところまで向かう。
「これです」
「……」
 彼女が指差す先にあったのは、山積みにされたダンボールの姿だった。てっきり二箱ぐらいだろうと甘く見ていたが、実際はそうではなかったらしい。
 スタッフの通り道なので邪魔にならないように、と彼女は言い残すと、そそくさと元来た道を戻っていく。一人ぽつんと残された俺は、もう一度積み上げらたダンボールを見上げる。
 ……とりあえず始めよう。
 そう胸の中で呟き、すっと大きく息を吸う。そして手前にあるダンボールへと近づくと、上に重ねられている箱を持ち上げようとする。
「おっも!」
 あまりの重さに、思わず声が漏れる。それでも何とか床へと下ろすと、蓋を開けて中を覗く。もちろんあれだけ重かったので、中にはびっしりと本が詰め込まれていた。
「……」
 やっぱりここだけで一日がかりになるかもしれない。そんな不安を感じながらも、目的の本を探すために、俺は急いで作業へと取りかかった。

 結局、ダンボールの箱をあけてつぶさに探し続けてたものの、最後の箱を開けても希美さんが書いた本の姿はなかった。散らかした箱を元に戻している時、ズボンのポケットに入れていたスマホが震える。画面を見ると、樋口からの着信だった。希望にすがるように、すぐさま応答ボタンを押す。
「もしもし、見つかったか?」
 開口一番に尋ねると、今度は相手の残念そうな声がスピーカーから届く。
『ダメだ。こっちの図書館にはなかった』
 そっか……と俺はため息をもらした。どうやら図書館にあるとすれば、宮野が探しに行ってくれている場所のようだ。あるいは、街の古本屋か……
 とりあえず図書館近くにある古本屋をあたってみるよと言って、樋口は電話を切った。俺は再びため息をつくと、スマホをポケットへと戻す。こうしている間にも希美さんの本は、誰か知らない人に渡ってしまうかもしれない。
「急がなきゃ」
 そう呟き、急いでダンボールを元の状態へと戻すと、受付にいたスタッフにお礼を言って図書館を出た。雨はいつの間にか小降りになっていたようで、傘をさしていない人もちらほらと視界に映った。今のうちにと再び地面を強く蹴ると、今度は商店街の方へと向かって走り始めた。あそこならわりと大きな古本屋がいくつか集まっているし、もしかしたらそこにあるかもしれない。
 そんなことを思って走っていた時、今度は宮野から着信があった。立ち止まって急いで電話に出てみるも、やはり結果は自分たちと同じだった。
『こうなったら古本屋をしらみつぶしに当たってみるしかねーな』 
 スピーカーの向こうで宮野がため息混じりに話す。その言葉に、思わず「ごめん」と謝ると、今度は笑い声が返ってきた。
『なんで謝るんだよ』
「だって……」
 続く言葉が、浮かばなかった。これだけ樋口や宮野にも協力してもらっているのに、もともと二人には関係のないことだ。自分の勝手な都合で迷惑をかけてしまっているという事実が、胸の奥で痛みに変わっていく。するとそんな思考を遮るかのように、宮野の声が鼓膜を揺らす。
『探してる本って、あの女の人の本なんだろ?』
「えっ?」
 その言葉に、思わず心臓がドクンと跳ねた。「どうして?」と声を漏らせば、スピーカーから笑い声が返ってくる。
『前にお前が言ってたじゃねーか』
「でもあの話しは……」
 宮野の言葉に、以前二人に希美さんの話しをした時の記憶が蘇る。あの時二人は、俺の話しなんて信じていなかったはず。
 そんな疑問を感じていた時、再び宮野が口を開く。
『お前がそこまで必死になってるから、どうせそんなことだろうと思ったよ』
「……」
 返す言葉を探していると、『何としてでも見つけるぞ』と言って相手は電話を切った。
 宮野……
 胸の中で友の名を呟き、右手に持ったスマホをぎゅっと握り締めると、俺は再び目の前に向かって走り始めた。