加瀬くんを先頭に、僕たちは階段を上っていた。

 一つ上って、そこからまた一つ上って、身軽な加瀬くんはどんどんと階段を駆けていく。僕たちはそれについていくのも苦しくなって、いよいよ息が上がってきていた。夜通し活動していたこともあって、ほとんど体力は限界に近い。

「ねえ、どこまで上るの?」
「大丈夫、もう少しだから!」

 今が何階なのかだんだんと分からなくなってきていたけど、ここまで上に来たのは初めてだった。

「まさか伊織……!」

 と、小清水先生が息を切らしながら言った時だった。ちょうどいま上りきったところが最上階だったみたいだ。もう一つ上に続く階段の先には、屋上へと続くであろうドアが見えていた。

「残念だけど、屋上には出られないぞ?」
「大丈夫、目的はその手前だから」

 と、加瀬くんはそのドアの方へ向かってまた上りだす。僕たちは何も分からないまま、おとなしくそのあとをついていく。

 屋上へと続くドアの前には広い踊り場があるだけで、そこにはめぼしいものの一つもなかった。ドアの上部には窓がついていて、そこから空が徐々に白んできているのが見えた。

 夜明けの頃には、この旧校舎を後にしなければいけない。だんだんと部活の時間が終わりに近づいてきている実感がして、胸が少し苦しくなった。

「で、こんな場所に連れてきてなんなの? 特に企画の準備があるようには見えないけど」

 階段を上り疲れた様子の赤川さんは不機嫌だ。けど、加瀬くんはそれを気にした様子もない。

「まあまあ」と、言いながらドアの脇の壁を指さす。「ここ、見てみろって」
言われるままに壁へと目を向けると、そこにはたくさんのペンの落書きや何か鋭利なもので文字を掘った跡があった。この校舎がまだ使われていたころ、その当時の生徒たちがこっそりと残した足跡だ。
「こんなところあったんだ」
「ああ。俺たちも先人に続こうぜ」

 と、加瀬くんはポケットから何か細長い道具を取り出した。

「……キリ?」
「その通り!」と、加瀬くんは言いながら、その先端を壁に当てて文字を刻んでいく。書かれたのは、「加瀬伊織」と自分の名前だった。
「最後に何か証みたいなものを残したくてな。この旧校舎で、俺たち青春部が活動していたんだっていうさ。だから、みんなで残そうぜ」

 加瀬くんはまたポケットを漁ると、今度は人数分のそれを取り出して、僕たちに手渡していく。みんなは困惑しながらもそれを受け取ったけど、最後の小清水先生はすぐには受け取らなくて、真面目な表情だった。

「企画における三つのルールのうち一つ、校舎に傷をつけないこと。――これ、バリバリにルール違反だぞ」
「やっぱりダメ……?」

 しゅんとする加瀬くんに、小清水先生は困ったように笑ってから、

「ま、どうせ明日には壊されるんだからな。特別だ」

 と、先生がキリを受け取ると、加瀬くんは満面の笑みだった。先生が壁の前にしゃがむと、僕たちもそれに続くように壁に向かった。

 僕たちは、思い思いに壁に文字を刻んでいく。名前だったり、今日の日付だったり、感謝の言葉だったり、みんな自由だった。僕も「古河春樹」と名前を刻んだあと、何を書くか少し悩んで、やっぱり素直に「ありがとう!」と言葉を選んだ。

 見慣れた名前が並ぶ中に、一つだけ知らない女性の名前があった。その名前の意味に気づいて、隣の小清水先生の顔を見た。目が合うと、先生は恥ずかしそうに笑った。

 彼女も、この旧校舎で一緒に活動した仲間だった。

 やがて全員が壁に文字を刻み終えると、加瀬くんはスマホを取り出して壁に刻んだその文字を写真に撮った。

 立ち上がると壁の全体を眺めるようにして、やがて、はあ、とため息を吐いた。

「嫌だなあ、総体。もう来週じゃねえか」
「いよいよ、だね」

 僕はまだ、プレッシャーに苦しむ加瀬くんにかけるべき最適の言葉を知らない。だから、結局口を出たのはありふれたものだ。だけど、大事なのはきっと言葉じゃない。

 僕がまっすぐに笑いかけると、加瀬くんは照れたように顔を逸らした。

「だけどまあ、今日は楽しかったから、その分頑張らないとな。期待に応えるのが主将の務めなわけだし」

 その加瀬くんの隣に、赤川さんが寄り添うように立った。

「私も応援に行くから。伊織なら大丈夫だよ」
「それは心強いな……大会が終わったら、絶対に返事伝えるから」

 加瀬くんは、普段より少し真面目な声だった。

 二人が寄り添うその姿を見ていたら、この先どんなプレッシャーがあったとしても、きっと乗り越えていけると信じられた。

 加瀬くんも、赤川さんも、押しつぶされたりなんか絶対にしない。

 しゃがみながら壁の文字を見ていた青葉は、んー、と声を上げながら大きく伸びをして立ち上がった。

「さすがにもう眠くなってきたかも」
「途中に少し仮眠をとったとはいえ、夜通しずっと活動していましたからね」

 晃嗣くんが同意すると、赤川さんも眠そうな声で、

「徹夜なんて、これが初めてかも」
「なんだよ、おまえら情けないな」と、加瀬くんは一人元気そうだ。

 僕はみんなの会話を聞きながら、屋上へと続くドアの窓を見ていた。ほんのさっきよりも太陽が高く昇っているのが分かって、どんどんと明るくなっていく外の光が憎たらしい。窓の向こうを睨んでいた。

 この夜が、一生明けなければいいのに。この時間がずっと――

 階段の柵に背中を預けるようにして、みんなを見つめている小清水先生が見えた。最後に先生とも話をしておきたくて一歩近づいた時、先に先生の隣に並んだのは、みんなの輪から抜けて出た加瀬くんだった。

 足を止めた僕の元に、二人の声が聞こえてきた。

「お疲れ様、先生」
「部長も、お疲れ」
「部長の仕事なんて、あってないようなもんだったけどな。けど、こっちの部長は楽しかったよ」
「そっか。少しはここが気晴らしの場所になったなら良かったよ」

 少しの沈黙が二人の間にあってから、加瀬くんは真面目な声で言った。

「……ありがとな。先生と出会えたから俺は居場所が持てたし、こうしてここまで潰れずにこれた」

 小清水先生は、恥ずかしそうに「やめろよ」と笑った。

 僕はその光景から目を離すことができなかった。照れたように笑いながらも、どこか満たされたような表情の先生に、僕の目は釘付けになる。その表情を僕は、ただカッコいいと思った。

 途端、光が射した。窓から朝日が射し込んで、僕の顔から胸までを照らしている。朝の陽射しの温度が、胸の奥にじわりと広がった気がした。

 いよいよその時だ、と思った。

 先生も窓からの光に気づいたのか、腕の時計を見て時間を確認していた。どれほど永遠を望んだところで、それが叶うことはない。

 僕が目を伏せると同時、小清水先生の掛け声が響いた。

「さあ、もう時間もない。片付け始めるぞ!」

 一瞬の静寂が漂った。先生のその声が企画の終わりを告げるものだということに、みんなはきっと気づいている。だけど、そんな空気を打ち払うかのように、すぐに「おー!」という活気ある声が踊り場に響いた。

 加瀬くんを先頭にして、みんなは階段を下り始める。僕はその背中を見送って、その場で立ったままだった。隣には、同じようにして立ったままいる小清水先生がいた。本当は呼び止めようと思っていた。

「行かないのか?」先生が訊いた。
「えっと、先生に話しておきたいことがあって……」
「なんだ、春樹の方もかよ」
「ひょっとして、先生も僕に?」
「ああ。青葉のこととか、部活のこととか、まあもろもろと感謝を伝えておきたくてさ……いろいろありがとな」
「あの」と、思わず大きな声が出ていた。先生は怪訝にしながらも、僕の言葉を待った。そして、僕はありったけを込めて伝えようと思った。
「先生は、教師失格なんかじゃないです」

 部活の引退の話が出た時、先生は自分のことを教師失格だと言った。だけどそんなこと、少しだってあるはずがない。みんなは、先生が部活を作って顧問という立場にいてくれたからこそ救われたんだ。そして、それは僕だって同じだ。

 だって僕は、先生がいてくれたから――

「それと」と、僕は先生の顔を真正面から見つめて「僕、やりたいこと見つかりました」

 それは、やっとたどり着いた答えだった。ただ青葉についていくだけだった僕が、ずっと探していた新しい道しるべ。

 それが今、ようやく見つかっていた。

「へえ、聞こうじゃないか」

 先生はいたずらっぽい表情で答えを待った。

 僕は、ずっと手のひらに包んで隠していた宝物を見せびらかすように言った。

「僕、教師になります。そして、きっとこの学校に戻ってきます」

 その答えに、小清水先生はニヤリと笑った。

 まだ先生との関係が部活の顧問と部員になる前、進路に迷う僕に先生は、今は遊べと言った。その時から、こうなることが予感されていたのかは分からない。だけど、先生は僕に寄り道をさせてその答えを探させようとしたのだと思う。

 だから先生は僕のことをこの部活に推薦して、そして、そこで僕はまんまと探していた答えを見つけ出していた。

「いいんじゃないのか? 春樹が社会人になる頃には俺ももう異動になっているだろうし、その時は春樹が顧問だな」

 気が早いその話に僕は苦笑する。だけど、きっとそんな未来を本当にしようと、胸の中で密かに自分に約束をした。

「春樹、どうしたの?」

 先に行っていたはずの青葉が、階段の下から僕を見上げていた。青葉が、僕を呼んでいた。

「今行く!」

 そう叫ぶように応えてから、青葉を目指して階段を駆け下りていく。すぐに追いつくと、僕たちは隣同士並んで、今度は二人一緒にみんなのもとを目指して階段を駆け下りた。

 みんなが僕たちを見上げながら、手招きをしている姿が見えた。後ろからはゆっくりと下りてくる先生の気配もある。

 夜が明けて、また別の一日が始まろうとしていた。

 この旧校舎を出たら、ここからはもうそれぞれの道だ。夏休みが明ければ、また学校で顔を合わせることはあるだろうけど、きっと今のような時間が来ないことは分かりきっている。

 だけど、それは悲しいだけじゃない。今が終わってもその先の未来があるし、そして何よりも、この夜のことは絶対に忘れない。

 この旧校舎で笑いあった声は、床に残った上靴の跡は、壁に刻まれた僕たちの名前は、たとえこの校舎が取り壊されたとしても、絶対になくなったりはしないから。

 窓には蜘蛛の巣が張られ、コンクリートにはひびが入っているような古びた校舎を、朝の陽射しが包む。この太陽がもう少し高く昇った頃、この校舎の取り壊しが始められる。

 だけど今はそんなことは頭から追い出して、ただ楽しく笑い合いながら、僕たちはその校舎の中を駆けていた。


おわり