階段を一つ上って廊下に出ると、すぐにそれは見えてきた。

 本当はすぐに内容が分からないように隠しておきたかったけど、そこまでの余裕はなかった。

 僕のあとについてきたみんなも、床に並べられたそれに気づいた様子だった。徐々に足取りを緩めていき、それの起点となる場所の手前で立ち止まった。

 最初に口を開いたのは加瀬くんだった。

「ド、ドミノ……!?」
「す、すげえな。どこまで続いてるんだ?」
「ただ並べただけっていうわけではなさそうですね」

 小清水先生の驚きの声に、対照に冷静な晃嗣くんの声が続いた。

 廊下の途中から始まったドミノはそのまま調理室へと入っていき、そして反対の出口から再び伸びてまた別の教室へと続いている。

「これ、全部この時間だけで並べたの……?」

 赤川さんは信じられないというように言った。

「みんなみたいにすごいアイディアも特別な才能もないけどさ、地道な作業なら得意だし、みんなに対抗するにはコツコツ頑張るしかなかったから」

 一晩という限られた時間の中で、ひたすらに集中して作業を続けて、どうにか完成させることができた企画だった。同時に準備を始めた青葉やみんなを待たせてしまったけど、その分、自分のすべてを出し切ることができたと胸を張れる。

 僕はみんなの方を向いてから、ありったけの想いを込めてそれを伝えた。

「僕はまだ数ヶ月しかこの部活にはいないけど、それでもたくさんの経験ができたから。この企画に、その想いを全部詰め込んでみたんだ」

 言ってから、僕はそれの起点となる最初の一枚のそばにしゃがんだ。

 いよいよ始まるのか、とみんなが集中して見守るのが分かった。緊張して、思わずのどを鳴らした。

 これは、リハーサルなしの正真正銘の一発勝負だ。どこかで途切れるようなことがあったら、間違いなく青葉の完璧な企画には勝ち目がない。

 僕は祈るような想いを込めて、

「それでは、時間を旅するドミノのツアーをお楽しみください」

 トン、と、長い旅の始まりとなる最初の一枚を指で倒した。

 そこからは一瞬だった。パタパタと音をたてながら、等間隔に並べられたそれらは、文字通りにドミノ倒しで横倒れになっていく。その流れは勢いよく廊下を進んでいき、僕たちはそれを追いかけて歩いた。

 さすがに廊下にずっとドミノを並べる余裕はなかったから、途中には距離を稼ぐ仕掛けを置いていた。倒れたドミノの力でビー玉を押して、割りばしで作ったレールの上を走らせる。そして、その先に置かれたドミノをまた倒す。それが想定通りに動くと、見守っていたみんなが歓声を上げた。

「すごいな、ドミノだけじゃなくて仕掛けもありかよ」
「こういう仕掛け、昔好きでよく見てたな」

 小清水先生と加瀬くんの楽しげな声。掴みは悪くないみたいだ。

 廊下をまっすぐに進んだドミノは調理室のドアまで来ると、緩やかに曲がってその中へと入っていく。いよいよ最初のポイントだ。

 それを追って中に入る時、青葉は何かに気づいたようにつぶやいた。

「そういえば、調理室って……」

 全員が調理室の中に入ると、調理台の脇の流しに置かれた仕掛けにみんなの意識が向くのが分かった。そこに置かれているのは、ペットボトルのコーラだ。

「……そうか。古河の最初の企画だ」

 加瀬くんがそうつぶやく間にもドミノはパタパタと倒れながら進んでいき、調理台の上へと続く仕掛けを作動させた。台の上と下をつなぐのは、糸を使った仕掛けだ。床のドミノが糸を引くと、台の上に並べられたドミノが倒される仕組みになっている。それが無事に動作して台の上に移ると、最初の勝負どころだ。

 大掛かりな仕掛けは家でも同じものを作ってシミュレーションを繰り返してきたけど、実際とは環境も違うし、それが同じ通りに動く保証はない。今はただ、自分の計算を信じて祈るしかない。

 ぎゅっ、と思わず両手に力が入った。

 台の脇にある流しの付近を通る時だ。コーラのペットボトルの隣には高台を作ってあり、そこにはいくつものメントスが置かれている。仕掛けとしては、その高台を紐で引いて傾け、上に置いたメントスを間に置いたじょうごを通して、一気にコーラのペットボトルの中へと落とす算段だった。

 みんなもやろうとすることに気づいたのか、見守るように静かになった。いよいよ、仕掛けの作動する箇所へと到達する。

 いってくれ……!

 自然と、祈るように両手を握り合わせていた。そして、倒れたドミノが糸を引いて仕掛けを作動させた。と、想定通りに高台が傾いてメントスが落ちていく。じょうごを通して狙いが定められたそれらは、そのままボトボトとペットボトルの中へと落下していき――

 やがて、勢いよくコーラの泡があふれ出た。

 思わず、ガッツポーズをしていた。

「おお! 決まったな!」
「メントスコーラでも面白くできるんだ」

 加瀬くんと赤川さんが感心したように言った。他の三人も感嘆の声を漏らして、ぶくぶくとあふれ出るそれを見つめている。

 初めての企画でそれを見せた時、みんなは見ていられないと言うような表情をしていたのに、今は楽しそうに、興味深そうにそれを見つめている。

 手ごたえは、確かにあった。

 その間もドミノは続いている。メントスコーラの仕掛けを終えると、調理台を下りて、今度は反対側の出口の方へと向かっていく。その途中だ。ドミノの通り道に、真っ黒な小さな暖簾を置いてある。みんなは再び今も進んでいるドミノの方に視線を戻すと、それに気づいた。

 一番大きく反応したのは晃嗣くんだ。

「あれって、オレのおばけ屋敷……!」

 暖簾をくぐると、左右には不気味な絵画や薄汚れたテディベア、そして道をふさぐように、座った体勢の子供の人形が置かれている。近くの流しの水はポタポタと垂れて、不安をあおる音を立てる。

「まさか……全部やるつもりなの?」

 青葉がつぶやいた。

 ドミノは間にかませた仕掛けを使って転ばすように人形を倒すと、その奥へとまたつながっていく。そして、調理室を抜けて廊下に戻ると、また次の仕掛けを作動させていく。僕が入部した後に見たすべての企画を、ドミノの通り道に織り込んでいた。

 それらの仕掛けは想定した通りに動いて、ゴールに向かって順調に進んでいく。先に進むにつれ、みんなの口からこぼれる言葉が減っていく。惹き込んでいけている自信はあった。

 バットを模した棒を動かしてペットボトルのキャップを転がし、そして、その先のドミノを倒す。そんな仕掛けも完璧に決まった。この前の部活の、加瀬くんと晃嗣くんが見せてくれたペットキャップ野球だ。

 倒れていくドミノを見ながら、小清水先生は興奮気味に言った。

「何が来るか分からないわくわく感、芸術的な仕掛けと斬新な切り口。……すげえぞこりゃあ」

 僕も、一人静かに興奮していた。

 手ごたえと、高揚感と、不安。それらが入り混じって、ドキドキと心臓が高鳴っている。ドミノは理科室に入っていた。この理科室で最後の仕掛けを終えて教室を出ると、そこがもうゴールだ。

 最後の仕掛けは、前回僕と赤川さんで作った人体模型のダンスだ。ネットで買った小さなガイコツの人形におままごと用のドレスを着せて、ドミノの通路に落とし込んだ。糸を使って仕掛けで、ガイコツの両腕を広げながら回転させることで、向かいのドミノを倒す算段だ。それが決まればすべての難所は越えたことになる。

 これが最後、これさえ決まれば……!

 息を呑んでじっと見守る。みんなの視線も、そのガイコツへと集中していた。やがて、ついにドミノがそこへと到達すると、仕掛けが作動してガイコツにつながる糸がひかれた。

 と、めかしたガイコツの両腕が持ち上がる。そして、そのままゆっくりとその場で回転をして、伸ばした腕が向かいのドミノに触れる。――その直前、ガイコツの動きが止まっていた。

 頭が真っ白になった。

 ここで途切れたら、企画は失敗だ。青葉の企画には絶対に勝てない。

 そんな、嘘だ。祈るような気持でガイコツの仕掛けを見つめても、完全にその動きを止めていて、再び動き出す気配はない。

 途切れたその場に、思わずしゃがみこんだ。今ここで自分の手で向かいのドミノを倒せば、再び動き出してこのままゴールへ行けるだろう。だけど、途中で手を加えたら意味がない。

 だけど、このままじっと待っていたって、もうゴールにはたどり着けない。
諦めて右手を上げかけた、その時だった。みんなの悲鳴混じりのざわめき声が背中に聞こえた。何だろう、と思って振り向くと、すぐ背後にそれは立っていた。

「え……?」

 それは、晃嗣くんのおばけ屋敷の時に現れた女子生徒の幽霊だった。突然のことに呆然としていると、半透明の姿をした彼女は、僕を見て『拓馬』と呼んだ。

 ハッとした。その名前を知っている。それは小清水先生の下の名前だったはずだ。彼女は滑るように移動すると、僕の隣にしゃがみこんだ。

 すぐ隣の彼女が僕の方を向くと、影で隠れていたその顔が見えた。彼女は、明るい表情で微笑んでいた。

 青葉にそっくりだな、と、そんなことを思った。

『ずっと、あなたと一緒に遊びたかったの。やっと、ちゃんと見てくれたね』

 彼女はそう言うと腕を伸ばして、トン、と、倒れることのなかった仕掛けの向こうのドミノを指で倒した。すると、パタパタと音を立てて、途切れていたドミノは再び倒れながら進んでいく。猛スピードで進むそれは、一瞬にして理科室を出ようとしていた。

 追いかけないと、ゴールの瞬間を見逃してしまう。

『行って』

 僕は、満足そうに微笑む彼女に小さくうなずいて応えてから、慌てて立ち上がるとそれを追って走った。理科室のドアを抜けて廊下へと出ると、ドミノの流れは、最後に用意した小さな階段を上っていた。

 ――そして。

 最後の一枚が崖になっている階段の最上段から落下して、その下に置かれた鐘をチン、と鳴らした。

 その後は静寂だった。

 それを見ていたはずのみんなは誰も言葉を放てずにいて、ゴールの瞬間に歓声は一つもなかった。僕たちは、突然のことにただ困惑していた。

 ややあってから、僕は慌てて理科室へと引き返した。どうか、まだそこにいてほしかった。開けっ放しのドアを抜けて、理科室の中へと入る。そして、さっきまで彼女がしゃがんでいたはずの場所に視線を向けた。そこには、倒れたドミノと不発に終わったガイコツの仕掛けがあるだけだった。

 その理科室のどこにも、彼女の姿は見つからなかった。

「古河、今のって……」

 小清水先生が隣に立った。

 彼女の最後の表情を見ることができたのは僕だけだった。だから、伝えなくちゃいけないと思った。

「微笑んでました。すごく、満たされたみたいに。僕のことを先生だと思っていたみたいで、最後に一緒に遊べて満足だったみたいです」
「なんだよそりゃあ、ちょっと妬くな。……けど、良かったよ。きっと今の必死なお前の姿を見て、あいつも救われる想いがあったんだろうさ」
「あの人は、心残りがなくなったんでしょうか」
「本当のところのあいつは、俺にだってわからないさ。けど、ここにいないってことは、きっとそういうことなんだろ。あいつはもう、一人じゃなくなったんだから」

 と、小清水先生は僕の肩に手をそっと乗せて、

「ありがとな、春樹」

 別に僕は、あの人のために何かをしようと思ったわけじゃない。ただ青葉の隣に立つために必死だっただけだ。だけどもし、小清水先生が話してくれた通りに、僕と青葉の関係が先生と彼女の関係に似ているなら、きっと今の僕のやり方は間違いじゃない。

 僕は止まってしまったドミノの仕掛けを手伝ってくれたことを思い出して、もう消えてしまった名前も知らない彼女に向かってつぶやいた。

「ありがとうございました」