12
帰り道は、ただひたすら機械のように両足を動かすだけだった。
何かを考えるのも億劫で、できるだけ意識を殻の中に閉じ込めようとしていた。それでも時々、不意にみんなの顔が頭に浮かんでしまう。それはどれも、決まって僕を責めるような顔だった。
なんでみんな、僕にそんな目を向けるんだ。僕みたいな凡人に、なんで期待なんてかけるんだ。加瀬くんや赤川さんは、青葉の悩みもきっと見抜いている。なのに、なんでそれを僕に求めるんだろう。
なんで――
学校から近くの通学路は、他の帰宅する生徒たちでにぎやかだ。部室に寄った分、少し人数は少なくなっていたけど、それでも一人で歩いていると、周りの話し声が耳に入ってしまう。
歩道の前を歩く二人の女子生徒が、大きな声で何か盛り上がっている。歩くペースが遅いのに焦れて、二人を抜かそうとした。その時――
「西峰さんはいいよね、大学も選び放題でさ。絶対ろくに苦労もしてないくせに」
「ホント、なんでもできる人はいいよね。ああいう本物の天才を見ちゃうと、真面目に頑張ってるのがバカらしくなるし」
そんな会話が耳に届いた。とっさに二人を抜くのをやめて、また前を歩く二人の歩調に合わせた。
胃の辺りに、どろりとした熱いものが込み上げていた。
青葉に対して裏でそういう意見を口にしている人がいることは、昔から知ってはいた。良くも悪くも青葉は目立つ。だけど、目の前でこんな話をされて、平静でいられるわけがなかった。今すぐ目の前の二人に声をかけて、「知ったようなことを言うな」と文句を吐き出してやりたい。
と、そんなことを思った瞬間、気づいてしまった。青葉のことを理解していないのは、僕自身じゃないか。
このところずっと、青葉のことが分からなくなってばかりだった。誰よりも近くに居続けたはずなのに、本当の彼女のことは何も知らなかったのだと、そう気づいたはずだった。
目の前の二人と同じだ。僕は今まで、本当の青葉を分かっていないことに気づきもしないで、僕の思う彼女を勝手に語り続けていたんだ。
二人に怒りを抱くだけの資格なんて僕にはなくて、それどころか、僕は彼女たちと同じ側に立っていたのか。
両足の動きさえ、ついに止めてしまっていた。
青葉はなんでもできる天才で、当たり前の人とは違う世界に生きている。苦労知らずで、どこまでも遥か高みへ上っていくことが約束された人間。
それが、僕たち凡人が考える西峰青葉という人物だ。
でも、本当に……?
ふと目線を隣に向けると、小さな公園があった。いつもはあまり人のいないそこに、一人の小学校低学年くらいの女の子がいた。女の子は必死な顔で一輪車にまたがり、ふらふらと進んでいる。と、まだ練習中なのか、すぐにバランスを崩して転んでしまう。
その女の子の姿に、懐かしい記憶がよみがえった。
それが幼稚園の頃だったか、小学校に入ってすぐの頃だったか、記憶は定かじゃない。ある日、青葉は突然僕を外に連れ出すと、自在に一輪車を乗り回して見せた。一輪車を乗りこなしたのは、同級生の中では青葉が一番先で、他の子はまだ挑戦さえしていなかった。僕にはそれが自分のことのように誇らしくて、すごいすごい、と、ただ手放しでほめていた。その時、青葉のその姿を見ていたのは、僕の他に誰もいなかった。
一輪車の上で器用にバランスを取っている青葉が、得意げに言った。
こんなの簡単だよ。またがる瞬間だけ気をつけたらすぐ乗れちゃった。
青葉は天才だ。幼稚園で初めて話をして、トランプの対戦ゲームで圧倒された時から、僕はずっとそう思っていた。だから、青葉にはなんだって当たり前にできてしまうんだ、と。
だけど、そうじゃない。
僕はずっと、青葉の完璧じゃない部分から目をそらしていた。
例えば、その一輪車の記憶。一輪車に乗って誇らしげにする青葉の身体には、転んでできたような擦り傷がいっぱいだった。
次々と記憶がよみがえる。逆上がりのコツを得意げに語っていた青葉の言葉はやけに受け売りみたいだったし、大きなテストの前には顔色が優れないことが多かった。
全部覚えていたことのはずなのに。きっと分かっていて、それでもずっと気づかないふりをしていた。
青葉は決して、努力のいらない天才なんかじゃない。確かに人よりも飲み込みは速いし手際もいいかもしれない。
だけど、苦労知らずだなんて誰が決めた?
――決まっている。そんなの、裏で青葉がどんな努力をしていたのか考えもしないで、呑気に「すごいすごい」と褒め続けた、僕ら自身じゃないか。
加瀬くんも、赤川さんも、晃嗣くんも、周りが決めた自分のイメージに囚われて苦しんでいることを、僕は知っているはずだ。たとえその苦しみまで理解できなくても、どれほど特別に見える人間にだってそれぞれの苦しみがあることを、僕は青春部に入って知ることができたはずだった。
それなのに、なんで青葉だけは違うと思っていたんだろう。
たぶん僕は、青葉には完璧でいてほしかった。だから、この前の模試が厳しい結果に終わってしまったと知った時、それを受け入れたくないと思ってしまったんだ。
思えば、青葉はずっと一人だった。
僕が初めて青葉と話をしたその時も、一人で静かにトランプ遊びをしていて、周りには彼女に近づこうとする人はひとりもいなかった。
小学校に上がっても、中学校に上がってもそれは変わらない。その才能を羨み、期待し、憧れる人はいても、友達と呼べるような存在はずっといなかったはずだ。
「そうか。そうだったんだ」
僕は小さくつぶやいた。
きっと青春部は、青葉にとって初めての居場所だったんだ。誰からも特別視されずに、本当の自分をさらけ出して遊ぶことのできる唯一の場所。ずっと、誰かの期待に応えることしか生き方を知らなかった青葉が、高校生になってようやく手に入れた居場所。
それを何の前触れもなく奪われるなんて、そんなの耐えられるはずがなかった。
だから、部活の引退の話が出た時、あれほど取り乱してしまって、目指した未来に向かって頑張る気力さえなくなってしまったんだ。
青葉を孤独にしたのは、僕たちが彼女を特別視しすぎてしまったからだ。
僕はずっとすぐそばを歩きながらも、近くにいる彼女じゃなくて、遥か遠くにいる偶像の彼女を見ていた。
孤高の天才――西峰青葉を作ったのは、間違いなくこの僕だ。
ずっと見上げるだけだった僕が、青葉のためにできることは――
と、その瞬間。ふと思いついてしまった。もう一つの宿題の答えだ。
考えようとすると出てこないけど、ふとした拍子に思いつくのはよくあることだ。
せめて最後にもう一度だけ部活がしたい。それを叶えるための赤川さんからの宿題。旧校舎に忍び込む、その方法をひらめいていた。
僕はその場でくるりと回れ右をすると、再び学校を目指して走り出していた。明日なんて、待っていられなかった。
みんなはまだ学校に残ってるかな。
分からないけど、今はそれをメールで確認する時間さえ惜しい。
と、歩道の向かいから歩いてくる一人の女子生徒の姿を見て、走る足はそのペースを落としていた。向かいから歩いてくるのは、青葉だった。
向こうも僕に気づくと、驚いて一瞬足を止めかけてから、またゆっくりとこっちに向かって歩き始める。
手を伸ばせば触れられる位置まで近づくと、僕たちはお互いにその足を止めた。しばらくの間、じっと目を合わせたままでいた。
こうして面と向かい合うのは、ずいぶんと久しぶりに思えた。きっと、それほどあいだは開いていないけど、こんなことは初めてだったから。
僕は青葉の顔を見つめまま、表情にも言葉にもしっかりと力を込めて言った。
「今から、みんなで集まれないかな」
帰り道は、ただひたすら機械のように両足を動かすだけだった。
何かを考えるのも億劫で、できるだけ意識を殻の中に閉じ込めようとしていた。それでも時々、不意にみんなの顔が頭に浮かんでしまう。それはどれも、決まって僕を責めるような顔だった。
なんでみんな、僕にそんな目を向けるんだ。僕みたいな凡人に、なんで期待なんてかけるんだ。加瀬くんや赤川さんは、青葉の悩みもきっと見抜いている。なのに、なんでそれを僕に求めるんだろう。
なんで――
学校から近くの通学路は、他の帰宅する生徒たちでにぎやかだ。部室に寄った分、少し人数は少なくなっていたけど、それでも一人で歩いていると、周りの話し声が耳に入ってしまう。
歩道の前を歩く二人の女子生徒が、大きな声で何か盛り上がっている。歩くペースが遅いのに焦れて、二人を抜かそうとした。その時――
「西峰さんはいいよね、大学も選び放題でさ。絶対ろくに苦労もしてないくせに」
「ホント、なんでもできる人はいいよね。ああいう本物の天才を見ちゃうと、真面目に頑張ってるのがバカらしくなるし」
そんな会話が耳に届いた。とっさに二人を抜くのをやめて、また前を歩く二人の歩調に合わせた。
胃の辺りに、どろりとした熱いものが込み上げていた。
青葉に対して裏でそういう意見を口にしている人がいることは、昔から知ってはいた。良くも悪くも青葉は目立つ。だけど、目の前でこんな話をされて、平静でいられるわけがなかった。今すぐ目の前の二人に声をかけて、「知ったようなことを言うな」と文句を吐き出してやりたい。
と、そんなことを思った瞬間、気づいてしまった。青葉のことを理解していないのは、僕自身じゃないか。
このところずっと、青葉のことが分からなくなってばかりだった。誰よりも近くに居続けたはずなのに、本当の彼女のことは何も知らなかったのだと、そう気づいたはずだった。
目の前の二人と同じだ。僕は今まで、本当の青葉を分かっていないことに気づきもしないで、僕の思う彼女を勝手に語り続けていたんだ。
二人に怒りを抱くだけの資格なんて僕にはなくて、それどころか、僕は彼女たちと同じ側に立っていたのか。
両足の動きさえ、ついに止めてしまっていた。
青葉はなんでもできる天才で、当たり前の人とは違う世界に生きている。苦労知らずで、どこまでも遥か高みへ上っていくことが約束された人間。
それが、僕たち凡人が考える西峰青葉という人物だ。
でも、本当に……?
ふと目線を隣に向けると、小さな公園があった。いつもはあまり人のいないそこに、一人の小学校低学年くらいの女の子がいた。女の子は必死な顔で一輪車にまたがり、ふらふらと進んでいる。と、まだ練習中なのか、すぐにバランスを崩して転んでしまう。
その女の子の姿に、懐かしい記憶がよみがえった。
それが幼稚園の頃だったか、小学校に入ってすぐの頃だったか、記憶は定かじゃない。ある日、青葉は突然僕を外に連れ出すと、自在に一輪車を乗り回して見せた。一輪車を乗りこなしたのは、同級生の中では青葉が一番先で、他の子はまだ挑戦さえしていなかった。僕にはそれが自分のことのように誇らしくて、すごいすごい、と、ただ手放しでほめていた。その時、青葉のその姿を見ていたのは、僕の他に誰もいなかった。
一輪車の上で器用にバランスを取っている青葉が、得意げに言った。
こんなの簡単だよ。またがる瞬間だけ気をつけたらすぐ乗れちゃった。
青葉は天才だ。幼稚園で初めて話をして、トランプの対戦ゲームで圧倒された時から、僕はずっとそう思っていた。だから、青葉にはなんだって当たり前にできてしまうんだ、と。
だけど、そうじゃない。
僕はずっと、青葉の完璧じゃない部分から目をそらしていた。
例えば、その一輪車の記憶。一輪車に乗って誇らしげにする青葉の身体には、転んでできたような擦り傷がいっぱいだった。
次々と記憶がよみがえる。逆上がりのコツを得意げに語っていた青葉の言葉はやけに受け売りみたいだったし、大きなテストの前には顔色が優れないことが多かった。
全部覚えていたことのはずなのに。きっと分かっていて、それでもずっと気づかないふりをしていた。
青葉は決して、努力のいらない天才なんかじゃない。確かに人よりも飲み込みは速いし手際もいいかもしれない。
だけど、苦労知らずだなんて誰が決めた?
――決まっている。そんなの、裏で青葉がどんな努力をしていたのか考えもしないで、呑気に「すごいすごい」と褒め続けた、僕ら自身じゃないか。
加瀬くんも、赤川さんも、晃嗣くんも、周りが決めた自分のイメージに囚われて苦しんでいることを、僕は知っているはずだ。たとえその苦しみまで理解できなくても、どれほど特別に見える人間にだってそれぞれの苦しみがあることを、僕は青春部に入って知ることができたはずだった。
それなのに、なんで青葉だけは違うと思っていたんだろう。
たぶん僕は、青葉には完璧でいてほしかった。だから、この前の模試が厳しい結果に終わってしまったと知った時、それを受け入れたくないと思ってしまったんだ。
思えば、青葉はずっと一人だった。
僕が初めて青葉と話をしたその時も、一人で静かにトランプ遊びをしていて、周りには彼女に近づこうとする人はひとりもいなかった。
小学校に上がっても、中学校に上がってもそれは変わらない。その才能を羨み、期待し、憧れる人はいても、友達と呼べるような存在はずっといなかったはずだ。
「そうか。そうだったんだ」
僕は小さくつぶやいた。
きっと青春部は、青葉にとって初めての居場所だったんだ。誰からも特別視されずに、本当の自分をさらけ出して遊ぶことのできる唯一の場所。ずっと、誰かの期待に応えることしか生き方を知らなかった青葉が、高校生になってようやく手に入れた居場所。
それを何の前触れもなく奪われるなんて、そんなの耐えられるはずがなかった。
だから、部活の引退の話が出た時、あれほど取り乱してしまって、目指した未来に向かって頑張る気力さえなくなってしまったんだ。
青葉を孤独にしたのは、僕たちが彼女を特別視しすぎてしまったからだ。
僕はずっとすぐそばを歩きながらも、近くにいる彼女じゃなくて、遥か遠くにいる偶像の彼女を見ていた。
孤高の天才――西峰青葉を作ったのは、間違いなくこの僕だ。
ずっと見上げるだけだった僕が、青葉のためにできることは――
と、その瞬間。ふと思いついてしまった。もう一つの宿題の答えだ。
考えようとすると出てこないけど、ふとした拍子に思いつくのはよくあることだ。
せめて最後にもう一度だけ部活がしたい。それを叶えるための赤川さんからの宿題。旧校舎に忍び込む、その方法をひらめいていた。
僕はその場でくるりと回れ右をすると、再び学校を目指して走り出していた。明日なんて、待っていられなかった。
みんなはまだ学校に残ってるかな。
分からないけど、今はそれをメールで確認する時間さえ惜しい。
と、歩道の向かいから歩いてくる一人の女子生徒の姿を見て、走る足はそのペースを落としていた。向かいから歩いてくるのは、青葉だった。
向こうも僕に気づくと、驚いて一瞬足を止めかけてから、またゆっくりとこっちに向かって歩き始める。
手を伸ばせば触れられる位置まで近づくと、僕たちはお互いにその足を止めた。しばらくの間、じっと目を合わせたままでいた。
こうして面と向かい合うのは、ずいぶんと久しぶりに思えた。きっと、それほどあいだは開いていないけど、こんなことは初めてだったから。
僕は青葉の顔を見つめまま、表情にも言葉にもしっかりと力を込めて言った。
「今から、みんなで集まれないかな」