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 誰かの助けが欲しかった。

 ただ話を聞いてくれるだけでもいい。それを話せる相手を考えた時、頭に浮かんだのは一人だけだった。

 放課後の時間に少し話がしたい、と赤川さんに事前に伝えておいた僕は、帰りのHRが終わると同時に部室で赤川さんを待っていた。文化祭が終わってから、赤川さんとは落ち着いて話をする機会がなかったから、こうして部室で待ち合わせるのも久しぶりだ。

 適当な椅子に座ってスマホを触りながら時間を潰していると、ドアの開く音がした。顔を上げると、想像とは違う顔があった。

「よう」

 入ってきたのは、小清水先生だった。

「え、先生……?」
「俺でごめんな。ちょっと一度春樹と落ち着いて話をしておきたかったからさ」
「い、いえ……」

 赤川さんがなかなか来ないことを考えると、もしかしたら何か事前に二人で話があったのかもしれない。僕がここにいることだって、小清水先生は知らなかったはずだ。

「悩んでそうだな、いろいろ」

 小清水先生は僕の隣に座ると、それを切り出した。

 優しげなその声に、心の中で張り詰めていたものが緩んでいくのを自覚した。いつもは軽い調子で話をするのに、こんな時は大人の声になる先生がずるかった。

「先生、なんだかもう、分からなくなっちゃいました」
「青葉のことか?」
「青葉のことも、みんなのこともです。少しは近づけた気でいたんです。……けど、なんだか青葉のことが分からなくなっちゃって。ずっと一緒にいたのに、実は何も知らなかったんだって気づいたら、みんなのことも分かったふりをしてただけなんじゃないかって……」

 僕の言葉を、先生は何も言わずに優しい顔で聞いている。

 ドアを開けて入ってきたのが、小清水先生で良かったかもしれない。今は、ただこうして話を聞いてくれていることが心地よかった。

「先生は部活のことをどう思ってるんですか? やっぱりもう引退にするべきだって」
「いや。俺はどっちでもいいよ。おまえらが納得して選んだ答えなら、休部にするも卒業まで続けるもそれでいい」

 この後僕はどうすればいいのか、その答えを求めていた自覚はあった。大人が指針を示してくれたら、悩む必要もなくそれに従える。そんな甘えは見透かされていた。

「そんなあからさまにガッカリするなよ。俺だって辛いんだぞ? みんなの学生生活に後悔がないようにってこの部活を作ったのに、この部活自体が心残りになってるんだから」
「す、すみません」

 僕が謝ると先生は苦笑した。

「まあいいんだ。俺だって何か間違っていたのかもしれないしな。……でもな、青葉のことを救えるのはお前だけなんだ」

 最後の言葉はとても真剣な口調だった。恐る恐る隣の先生の表情を覗くと、その口調と同じだけの真剣さがあった。

『青葉がどうして取り乱したのか、その答えは自分で見つけるべきだ』

 加瀬くんの言葉がまたよみがえった。その時の加瀬くんも、同じような口調と表情だった。

「似たようなことを、加瀬くんからも言われました。青葉がどうして取り乱したのか、その答えを見つめるのは僕じゃなきゃいけないって」
「手厳しいな、あいつも。けど、その通りかもな」

 青葉が取り乱した理由を見つけて、そして彼女を救う。二人が課した課題は、あまりにも荷が重すぎた。途方もなくて、思わずうつむいて床を見つめる。

「僕に無理です」と、ふと一つの気がかりを思い出した。「そういえば、僕が初めて部活に参加した時、先生も僕を青春部に推薦したって言ってましたよね? 結局、なんでだったんですか?」

 先生は「ああ」と、思い出したようにつぶやいてから、

「似てるからだよ」
「え?」

 似ているって、誰に?

 そう訊こうとした。その直前、先生はおもむろに立ち上がると、「少し昔話をしようか。幼馴染の少年と少女の話だ」と、そんなことを切り出した。突拍子もない話の切り替えに僕は、「え?」と口からこぼれただけだった。

「少年はなんの特徴もない凡人で、けど少女の方は誰もが認める天才だ。少年にとって少女は憧れで、彼女についていくためにそれはもう頑張った。一切の遊びを捨てるくらいにな。……けど、遥か高みにいる少女のことをずっと遠い存在だと思っていたんだ」

 そっくりだ、と思った。僕と、そして青葉に。

 先生の昔話の男の子と女の子は自然と、僕と青葉の姿で頭の中に浮かんでいた。幼馴染の女の子は、近くにいるはずなのにとても遠い。

「少年の努力も実って、どうにか二人は同じ高校に入った。レベルの高い高校だったけど、少女は常に成績トップで、やがては生徒会長にもなった。だけどそのせいかな、彼女はいつも一人だったんだ。……それなのに少年は、そんな孤高の彼女をカッコいいと思って、ずっと遠くから憧れの視線を向けるだけだった」

 頭に浮かんだのは、教室で一人過ごしている青葉の姿だった。確かに普段の青葉は孤高という言葉で表せるかもしれないけど、今は青春部という居場所がある。先生の話の女の子は、高校に入り、青春部に入るまでの青葉に似ていた。

 先生は遠くの壁を見つめて、表情の読めない顔をしていた。

「そんなある日だ。少年の元に突然、彼女が事故に遭ったという報せが届いた。ふらついた拍子に車道に出て轢かれてしまったらしい。徐々に薄れていく意識の中、彼女は言った。『一人のまま死ぬのは嫌だ』と。その最後の言葉を少年が知ったのは、彼女が息を引き取ったあとだった」
「そんな……」

 他人事に思えなくて、思わずそんな言葉が口を出ていた。頭の中には病室で横たわる青葉のイメージが浮かんでいた。慌てて打ち消そうと首を振ってみても、脳はそんなに都合のいいものじゃない。

「ただの事故だ。……けど、少年はそう思わなかった。『これは、僕が殺したも同然だ』と。その時初めて少年は、今までの人生の空しさに気づいたんだ。その数年後、教師となった少年はその学校に帰ってきて、苦しみの中にいる後輩たちを救うために、おかしな部活を立ち上げた――って話だ」

 ようやくつながった気がした。文化祭の後夜祭の時、先生が話してくれた青春部立ち上げの経緯。少し歯抜けな気がしたあの話には、これほどの背景があったなんて。

 先生が似ていると言ったのは……

「本当、昔の俺にそっくりだよ。それに、青葉も昔話の少女にな。性格とか立場だけじゃなくて、見た目までさ。おまえが青葉の幼馴染だって知った時は驚いたよ」
「だから誘ったんですか? 僕が、昔の自分にそっくりだったから」
「そうだな。春樹にもいろいろ気づいてほしくて誘ったんだけど、もしかしたら少し期待もあったかな」
「期待?」
「ああ。俺は幼馴染のあいつを救えなかったからさ。あの時俺が失くした未来を、お前らに見たかったのかもしれないな」

 と、小清水先生は引き締めた表情で僕の顔を見つめた。

「俺は、おまえならきっと青葉のことを救えると思ってる」

 すぐ隣から向けられた視線の重さに、たまらなくなって目をそらした。

 そんな話をされて、僕はどうすればいいんだろう。

 こんな僕に向かって青葉を救えだなんて、明らかな人選ミスだ。それに、僕にはその資格すらない。

「無理ですよ。そもそも、青葉が何に悩んでるのかも分からないのに」
「一応、さっきの話は俺からのヒントのつもりだったんだけどな」
「そんなこと言われても、先生の幼馴染の人と青葉の悩みは違います」

 確かに昔話の少女と青葉は似ているけど、それでも二人は別人だ。今の青葉は、その彼女と違って居場所がある。

 小清水先生は逡巡するかのように、しばらく間を置いてから、

「なあ、春樹。晃嗣のおばけ屋敷の時、旧校舎の幽霊から聞いた言葉って覚えてるか?」
「え……?」

 突然の言葉に驚いた。なんでそんなことを言い出したのかと怪訝に思いつつも、その時の記憶はすぐによみがえった。その声は、僕だけに聞こえたものだった。

『ねえ、一人にしないで……』

 あの時の心臓がひっくり返るほどの恐怖は今でもふとした拍子に思い出されて、たぶんこの先もずっと忘れることはないと思う。

「一応、覚えてますけど。確か、一人しないでって――」と、言いかけたところでつながった。

 幽霊の少女がつぶやいた言葉と、小清水先生の話。そして、どうして突然こんなことを訊いたのか。

「まさか、旧校舎の幽霊って……」

 先生やその幼馴染の少女が高校生の頃は、まだ旧校舎が普段の授業に使われていたはずだ。そして、僕があの日出会った幽霊は一人を恐れる言葉を口にして、小清水先生の話の中の彼女は、一人のままで死んでしまうことを恐れていた。

 予想した通り、小清水先生はうなずいて応えた。

「確証はないけどな。……けど、『一人にしないで』、か。ますますあいつらしいな。ま、幽霊としてはありふれたセリフかもだけど」
「あの幽霊が、先生の……」

 ただ驚いていた。あの幽霊は、晃嗣くんのおばけ屋敷の時に姿を見せてから、それきり僕たちの前に現れていなかった。

「あいつだっていう確信が欲しくて、暗くなってから旧校舎を探し回ったりしてみてるんだけどな。あいつ、ちっとも出てきてくれなくて」

 いつかの放課後の遅い時間、連絡通路から旧校舎に忍び込んで行った小清水先生の後ろ姿を思い出した。あれは、その幼馴染の幽霊を探しに行っていたのか。

「それでも、間違いなくあいつは今も旧校舎にいる。なのに、このままだとあいつを残したまま旧校舎は……」

 口に出されることのなかったその言葉の続きを理解して、ハッと胸が涼しくなった。旧校舎が取り壊された時、そこにいる彼女がどうなってしまうのかは分からない。だけど、間違いなくそれは悲しいことだと思った。

「なあ春樹。俺はあいつを残したまま、旧校舎を取り壊しになんてしたくないんだ。……晃嗣のおばけ屋敷の時、あいつの声を聞けたのは春樹だけなんだ」

 小清水先生は、どこかすがるような声だった。膝の上で組んだ両手には、力が込められているのが見て取れる。

 先生は、今もその幼馴染の彼女のことを想っているんだ。

 いったい、僕に何ができるというんだろう。小清水先生から期待をされているのは分かっていて、それでも僕にはどうすることもできない。どうして彼女の声が僕にだけ聞こえたのかも分からないし、彼女を救い出す方法なんて見当もつかなかった。

 ずっとそばに居続けてきた青葉のことさえ、僕は何も分からないのに。

「僕には、どうすることもできません」

 弱音を一つこぼすと、先生はその時初めて僕の表情に気づいたようだった。

「悪い。つい押し付けるようなことを言っちまった……」
「……いえ」

 小清水先生は、ふいに天を見上げるように天井を向いた。

「俺と同じ後悔をするやつを減らそうと教師になったはずだけど、本当はただあいつに償いがしたかっただけなのかもな。そんな個人的な願望にみんなのことを巻き込んで……教師失格だよ」

 隣を見ると、小清水先生は初めて見るような弱気だった。そして、どこか見覚えのある顔だ、と思った。その顔を見るのは、いつも鏡の中だ。

 弱気をのぞかせた小清水先生の顔は、僕の顔によく似ている気がした。

 何も言えずにいると、先生は無理やりいつもの明るい顔を作って見せた。

「っと、俺が弱音吐いてちゃしょうがないよな。ひとまず、青葉のことはちゃんと考えてやってくれよ」

 と、突然ドアの開く音がして、明るい声が部屋に響いた。

「拓馬せんせー、まだ話終わらないのー?」

 見ると、赤川さんがドアから顔をのぞかせていた。

「ああ、悪い悪い。ちょうど終わったところかな」

 小清水先生がそう答えると、赤川さんは安心したように部室の中に入ってきた。そのまま部室の中の方まで来ると、僕を一瞥した後、小清水先生に訊いた。

「どう、古河くん元気になった?」
「うーん、どうだろ。まだもうちょいかかるかもな」
「えー。あれだけ得意げに『任せろ』とか言ったくせして?」

 どうやら想像した通り、小清水先生がこの部室に来る前に、事前に二人で話があったみたいだ。

 二人の話が終わるのを待っていると、突然赤川さんが、くるりと僕の方へと振り向いた。と、そのままずんずんと迫ってくる。すぐ至近距離まで近づいてきて、思わず僕は身体を引いてしまった。

 赤川さんは間近から真剣な目で僕を見つめて、

「お願い。一緒に旧校舎に侵入する方法を考えて」
「え? それって……」

 僕たちは、旧校舎に入れなくなったことを理由に、部活の引退を迫られていたはずだ。旧校舎に侵入する方法を考えるということは、つまり部活を続ける方法を探るということだ。

「赤川さんは、加瀬くんの決めたことに従うんじゃなかったの?」
「その決断が、伊織自身のためになるならね」
「え、どういうこと?」

 不意に、赤川さんは目を伏せて不安そうなしぐさを見せた。

「最近、伊織の様子がおかしいの。あれからたまに練習の見学に行くんだけど、最近気が立ってる感じがあって、弓もよく外してて……私たちの前では強がってるけど、本当はかなり心にきてるんだと思う」
「そ、そんな……」
「私ね、伊織は青春部があるから弓道部の方も頑張れてたんだと思う。時々バカみたいに羽目を外してふざけていたから、普段のプレッシャーにも耐えられてたんだよ。なのに、それをこんな風に突然取り上げられて、今まで通りに頑張れるはずないよ」

 僕は何も言えなかった。

 加瀬くんにとって青春部が大事なガス抜きの場になっていることは、分かっていたはずだった。

 なのに僕は、大事な大会の前だからここで部活が終わりになってしまうのも仕方のないことだ、なんてことを思ってしまっていた。

 加瀬くんのことも、頭では分かっていたつもりだったけど、本当の意味では分かっていなかった。

「だからね、最後に一回だけ。ちゃんと整理をつけて終われるための場所が必要だと思うの。……お願い、古河くんも一緒に考えて」
「……青葉も、もう一度部活ができればいつも通りに戻れるのかな」

 僕がそう言いうと、赤川さんは後ろの小清水先生の方を向いて目を見合わせた。と、どこか呆れたように首を振る。

「こっちもなかなか重症か」
「こっちも?」

 赤川さんはそれを無視すると、また僕の方にずいっと距離を詰めた。

「ねえ、本当に青葉のことが分からないと思ってるの? この部活に入って、古河くんはもう気づいてるはずだよ」
「そんなこと言われたって、分かんないよ……」
「じゃあ、考えておいて。旧校舎に入る方法と青葉のことも。……宿題だから」

 赤川さんは突き放すように言うと、そのまま部室を後にした。僕の態度に腹を立てているのが、去っていくその背中からはっきりと伝わっていた。

 小清水先生は僕の方を心配するように見た後、赤川さんを追って部室の外へと出た。僕は、部室に一人だった。

 ……宿題、か。

 赤川さんとペアを組んで、初めて企画の相談をした時、同じように宿題を出されたのを思い出した。あの時はがむしゃらにアイディアを考えて乗り切ったけど、今度の宿題はがむしゃらに考えたところでその答えは見つからない。

 それどころか、もう何かを考えるだけの気力なんて残っていなかった。