4.1
 休み明けはいつも嬉しそうな顔の子と憂鬱そうな顔の子が二分する。
私は本当は前者になるはずだったのだけど、昨日の交差点での二人の姿を見てしまってからはすっかり後者になってしまった。
昨日見かけたのは間違いなく優香と佐原先生だったし、二人は手を繋いでいた。とても親しげだったし、あきらかにいち教師と生徒という間柄ではなかった。それにわずかに見えた優香の表情でわかる。彼女があれだけ感情を表に出しているということはそれだけ信頼を置いているということだ。それが恋人の類なのか、それ以外のなにかなのかはわからないけど、なにか特別な間柄なのは間違いないだろう。私にはない繋がりを見せつけられたような気がして、私はどんな顔をして二人に会えばいいのかわからなかった。
「おはよう、結衣子。」
そんなことを考えている間に、いつの間にか優香が登校してきた。
私はなんとか笑みを浮かべて優香に挨拶を返す。
「おはよう、優香。あれ、珍しいね。ちょっとだけ今日化粧してる?」
よく見なければわからない程度にだが、彼女の唇がわずかに色付いていた。
「化粧ってほどじゃないけど、昨日出かけたついでにリップを買ったの。」
彼女は鞄から可愛らしいリップを取り出した。ほんのり色づく程度のものだが、彼女にしてみれば珍しい買い物だった。昨日出掛けたときに、ということは佐原先生と一緒に買いに行ったのだろう。
私の中で黒いモヤのような感情がのそりと動いた。
「結衣子、ちょっといい?」
タイミングよくクラスメイトが私を呼んだ。
優香は何かを言いかけていた様子だったが、これ以上一緒にいたら私はこの不穏な黒い影に飲み込まれてしまいそうで、優香にごめんねと言い席を立つと、そそくさとその場から逃げ出した。
それからというもの、あの黒いモヤのような感情に気がついてしまってからは、どことなく優香を避けるようになってしまった。あからさまに避けているというわけではないし、話だってもちろんするのだが、それでも観察眼に長けている優香のことだ、きっと気付いてしまっているだろう。
クラスの友人と談笑していると、時折優香の視線を感じた。
少し悲しそうな、寂しそうな視線だったが、私はその時、あなたにはあの人がいるじゃない、そう思ってしまい、思わず見て見ぬふりをした。これが世にいう嫉妬というやつなのかと思い至るとなんだか恥ずかしい気持ちがした。
その日は抜き打ちの服装検査の日で、担当は数学の瀬尾先生と体育の牧野先生の二人だった。
「飯田さん、今日少し化粧してるでしょう。校則違反ですよ。髪色は地毛だと届け出が出ているから大丈夫ですが、そちらに関してはいただけませんね。あとでちゃんと落としなさい。」
優香は瀬尾先生からの指導に「はーい」と答えた。
あまり目立つような色でもなかったのに、やはり先生というのは生徒のことをよく見ているのだろうなと思う。
「はい次の人」
私も呼ばれて先生の前に立つ。
「岡本さんはいつもきちんとしていて素晴らしいですね。これからもどうかそのままで。」
「はい。」
何事もなく通過する。
しかし通過してから私は気がついた。
今朝は登校する時急いでいたので駅まで自転車を使っていた。その時少し邪魔だったからスカートの丈を短くしていたのだが、うっかりそれを直すのを忘れていたのだ。
所定の長さよりも幾分か短いスカート丈を瀬尾先生は気付かずに見過ごした。
『いつもいい子』というレッテルがフィルターとなっていたのかもしれない。
「まあ、何事もなく通過できたんだから、いいか。」
私は慣れないその丈をいつもの長さに戻してから教室に戻っていった。
またひとつモヤのような感情が生まれてしまいそうになって私は慌てて自席についた。

 その日は放課後になっても、私は図書室に行く勇気が持てなかった。
休みの間は佐原先生に会うことをあれだけ楽しみに過ごしていたというのに、今はなんだか顔を見るのが怖かった。やはりそれも、あの黒いモヤに飲み込まれてしまいそうな、そんな気がしたからだ。
「起立、礼。」
終礼の終わり、優香は私に声をかけようとしている風だったが、なんて声をかけたらいいのかわからなかったのか、「じゃあ、また明日。」とだけ言うと落ち込んだように鞄を持って教室をあとにした。
なんだか悪いことをしてしまったという罪悪感に駆られ、私もすぐに校舎を出ようとした。
しかし私は運悪く(といったら失礼かもしれないが)担任の先生に呼ばれてしまった。
「岡本、ちょっと頼み事いいか?俺じゃなくて瀬尾先生なんだけど、この前のノート返却があるから、今日の放課後か明日の午前中くらいに職員室まで取りに来てほしいって。」
今日はなぜか、やたら瀬尾先生と縁がある。
「このあと行きます。今日は特に急ぎの予定もないので。」
「そうか、助かるよ。ありがとう。」
「いいえ。」
いつも通り、にこりと笑う。
そうだ、これでいい。そのときにふと、そんなことを思った。
なにも見なかったふりをして、気が付かなかったふりをしてやり過ごせればいい。
特別ななにかになろうとするから、先生の特別であろうとするから、優香にだって気まずい態度をとってしまうし、あの黒いモヤみたいなものに飲み込まれそうになるのだ。自分が自分ではないような、そんな気持ちになってしまう。それならもういっそのこと、最初からなかったことにすればいい。
始まる前に終わらせてしまえば、きっと最初からなかったことと同じになる。
そうだ。それでいい。そうすれば誰も困ることなく、みんな笑顔でいられる。
いつもみたいに。
教室を出て私は職員室へと向かった。
職員室への近道はあの非常口の扉の前を通るのが一番なのだが、今あそこを通ったら、佐原先生と会ってしまう気がした。
そうしたら、せっかく蓋をしようとしたこの感情がかえって溢れ出てしまうだろう。
そんなことになったらもう、私は私でいられなくなってしまう。
私はまた、あの初めて先生と出会った日のような息苦しさを覚えていた。
どこかの教室の誰かの話し声が耳について離れない。
うるさい、うるさい、そう思いながら職員室へ早足で向かう。
ようやく辿り着くと、今度は瀬尾先生がちゃんといた。
「ああ、岡本さん。ありがとう。助かるよ。」
コーヒーを飲みながら書類に目を通していた瀬尾先生は私に気がつくと柔らかく笑った。
綺麗に整えられた髪に、手入れの行き届いた濃紺のスーツ。
教職というものに対して、絵に描いたようにしっくりくる人だなと思った。
佐原先生とはまるで正反対だ。
そう考えた時、不意に彼の煙草を吸う横顔が頭に浮かんだ。
会いたい。どうしようもなくそんな衝動に駆られた。
先程決めたばかりではないか、もうやめようと。
不毛な恋にしかならないのであれば、ただ傷つくだけで、そんなの最初から無意味ではないかと。
「岡本さん?」
瀬尾先生が心配そうにこちらを見ていた。
「どうかしましたか?具合が悪いのなら明日でも構いませんし、他の人にお願いしますが…。」
「ああいえ、ちょっと考え事をしていただけなので。すみません。大丈夫です。」
私が笑みを浮かべると、先生はそうですか?と少し申し訳なさそうにしながらノートを託した。
「本当に、無理はしなくて大丈夫ですからね?」
「心配しすぎですよ。大丈夫です。」
「それならいいのですが。」
私はノートを両手に抱え、数日前と同じようにまた教室へと足を進めた。
そういえば、スカート丈を戻したけれど、やはり瀬尾先生は気が付かなかった。
「やっぱり、いい子ちゃんのことなんて、だれも気には留めないのかな。」
瀬尾先生も、佐原先生も。
手にしたノートの重み以上に心がずっしりと重かった。

最寄り駅に着いた時、まだ空は明るかった。
白いまんまるの月が青い空にポッカリと穴をあけている。
私は遠い空の、その穴の中に身を埋めてしまいたかった。
駅前の桜並木の緑の木々がさわさわと音をたてる。
そのざわめきが私の心境を映し出しているようでますます苦しくなる。
このままではいけないと、なにか飲み物でも買おうと思い、道の端によって財布を開いた。
中には昨日あのおねえさんから手渡されたメモの紙切れが入っていた。
「なにかあったら連絡するといい。」
彼女はたしかにそういった。私はすがるような思いでスマートフォンを取り出すと、その番号をタップする。
何回かのコール音のあとに少しくぐもった声がした。
『はい、もしもし』
出てくれた。電話をかけたのは自分の方だというのに、そんな当たり前のことに私はホッとして思わずこらえていた涙が溢れ出した。彼女はなぜか、すぐに電話の主が私だと気がついたようだった。
『昨日の子だね、どうしたの?泣いているのかい?』
なぜかすべてバレていた。
『今どこにいる?』
私は少し言葉をつまらせながらも昨日と同じ、駅前の桜並木のところだと告げた。
『そうか、それなら昨日の公園で待っていてくれないかな?ちょうど散歩に出かけようと思っていたんだ。少し、話をしよう。いいかな?』
彼女は昨日もそうだったが、そうやって相手にお願いするような言い回しをして、逆に相手の求めていることを実現しようとしてくれる。私のことを優しい人だとこの人は言ったが、自分のほうがずっと優しいということをきっと自分自身で気がついていないのだろう。
「わかりました。あのベンチのあたりで待っています。」
『ありがとう。そんなにかからずにいけるから。』
じゃあまたねといって電話は切れた。
私はまた昨日と同じ道をたどってあの公園へと足を向ける。
おねえさんの声を聞いてから、木々のざわめきが煩くなくなった。
少しずつ、気持ちが落ち着きを取り戻していく。
深く息を吸い、息を吐く。
さきほどまでほとんど周りの景色なんて見えていなかったのに、公園につく頃には空の青さも地面にできた影の黒さもちゃんと見えるようになっていて、世界が色を取り戻していた。
そうしてベンチに座っていると、昨日去っていった方向からあのおねえさんがやってきた。
少し色の薄いジーンズに白いシャツ。急いで来てくれたのだろう、足元はサンダルだったし、化粧っ気のない顔はそれでも美しかった。
「やあ、昨日ぶりだね。電話をくれたこと、うれしかったよ。また会いたいなと思っていたんだ。」
電話越しに泣いていたことは知られていたし、今も見たくないけど、きっと泣きはらした顔はパンパンだ。
それでも目の前のこの人は変に気を遣うわけでもなく、昨日とまったく同じ素振りで私に声をかけてくれた。
「私もまた、会えたら良いなと思っていました。」
この人の前だといつものように取り繕った笑顔など、うまくできなかった。
彼女はそんな私を見ても、ありのままを受け入れてくれた。
「そんな風に言ってもらえるなんて嬉しいな。」
そう言って、彼女はここに来るときに買ってきたであろう缶コーヒーを開けた。
私の方にもひとつ未開封の缶コーヒーを置いてくれた。
それは昨日会ったときにも私が飲んでいたものだったし、私がさっき自販機で購入したものでもあった。
「なにかもう買っているかなとは思っていたのだけど、まさかかぶるとはね。」
愉快そうに笑いながらそういう彼女は昨日と違って煙草を取り出すことがなかった。
「あの、煙草、吸ってもいいんですよ?」
彼女が気を遣っているのではないかと私は先にそう声をかけたが、彼女は「いや、いいんだ」と言った。
「君が泣いていたのは…これは私の勘だけど、昨日話していた先生のことだろう。その横で同じ煙草を吸うほど、私は悪趣味な女ではないと自負しているつもりだよ。」
彼女は優しくそういった。一体どこまであの電話一本で見透かされていたというのだろう。
「おねえさんはすごいな。なんでわかっちゃうんですか。」
彼女は何かを想起しているようだった。
「昔の教え子がね、君と少し、似ていたんだ。」
「昨日話していた人、ですか?」
「そう、その人。」
彼女はそのほっそりとした体をぐっと伸ばした。
「彼はね、とてもまっすぐな人で、それゆえにどこか危ういなと思っていた。染まりやすいのさ、いろんなものに対して。まっさらだから、なんにでも染まってしまう。」
「それは、これだって決めつけて動けなくなっちゃう人も世の中にはいるし、良いことなんじゃないですか?」
彼女は「君はなかなかいいところに気が付くね」と言って笑った。
「たしかに、決めつけだけで動いてしまうのはあまり感心しない。というよりも、きっとつまらない。だけどね、そういう人間のほうが幾分健全だし、安全だと私は思うんだよ。どんなものであれ自分の価値基準というものをしっかり持っているということだからね。」
段々と、彼女の言わんとしていることがわかってきた。
「真っ直ぐで、それでいてまっさらな、君や、かつてのその教え子は、まだまっさらだからこそ、なんだって受容してしまう。自身の憧れている相手や好意を抱いている相手ならば、なおのこと。それがどれだけ危険なことか、わかるかい?」
染まりやすいということは影響を受けやすいということで、それがいい方向ならばいい。しかしもしも間違った方向に染まっていったら、二度とその白には戻れない。未来は変えられても、過去は変えられない。彼女の言わんとしていることは、そういうことなのだろうか。
「もしも最初の段階で、人の意見で何かを決めてしまったら、きっとその先も君や彼は自身の基準ではなく、その誰か、つまり他人の価値基準で生きていくことになるかもしれない。その責任の所在は自分自身にしかないのに。自分が思う良し悪しではない他人の基準で生きていくほどつまらない人生はないよ。私は、彼が私に信頼や好意を寄せてくれるほど、それが怖かった。でもそれを正直に言って距離を置くこともできなかった。多分私自身、彼のことを随分と気に入ってしまっていたから。そんなの私のエゴイズムでしかないのだけれど、それでも大切な存在には違いなかったから、大事なことだったのに、言えなかった。失うことが、ただ怖かったんだと思う。」
私も彼女も、ただ何も言わず、地面を歩く蟻の行列を眺めていた。
静寂を破るように、彼女はまた続きを話してくれた。
「彼は最後に、私に好意を伝えてくれたんだ。だけど私は弱かったから、そんな彼から逃げ出した。もっともらしいことを言って、正面からぶつけてくれたその気持ちから、私は逃げ出したんだ。大事なことも教えてあげられずに、怯えて尻尾を巻いて逃げるだなんて、本当に教師としては失格なんだけどね。」
苦笑する彼女の横顔に私は胸が締め付けられる思いがした。
彼女は人のことを心から思える人だから、きっとずっと悩んだのだろう。
これまで一体どんな気持ちで過ごしてきたのだろうか。
その人と過ごしている間も、その人と離れてからも。
「おかしいな。君の話をしようとしていたのに、いつのまにか私の昔話になっていた。少し話が過ぎたね。」
そう言って彼女は私の方を向くと、ぎょっとした顔をして硬直した。
それから困ったように戸惑いながら、彼女は私を優しくその腕で抱きしめてくれた。
「どうして、君が泣くんだよ。」
私の目からはいつの間にか、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出していた。
それは止めようとしても止まることはなくて、おねえさんの白いシャツには私の涙が生み出したシミがじんわりと増えていった。乾いてしまえばまた元通りの白いシャツに戻るというのに、それでも私はそのシミがこのまま消えなくなってしまうような、そんな気がしてならなかった。おねえさんはそれでもいいと私のことを抱きしめたまま離そうとせず、落ち着くまでずっと胸を貸してくれた。
ようやく泣き止むと、彼女は苦笑しながら私に言った。
「やっぱり君は、あの子によく似ている。」
「どのへんが?」
「そうやって、他人のために泣いてしまうところとか。特に。」
私は泣きながらずっと思っていた言葉を口にした。
「おねえさん。おねえさんは絶対教師失格なんかじゃないよ。」
「え?」
「絶対に、そんなんじゃないよ。」
精一杯の声でそう告げる私の手を、彼女はそっとその手に包んで「ありがとう」と言った。
「君を元気付けたくてきたのに、私が元気付けられてどうするんだか。」
困ったように彼女がそう言うと、夕刻を告げる音楽が鳴り響いた。
子供は早く帰りましょうというあのおなじみのメロディだ。
「落ち着いたら、もう遅いし、帰ろうか。」
「そうですね。」
そういったものの、おねえさんはまだなにか言い残したことでもあるように、じっと何かを考えていた。
それから腹を括ったとでも言うように、ひとつ息をつくと、彼女は私に向き合った。
「あのね、君に言わなければならないことがあるんだ。これはきっとますます今の君を混乱させてしまうから、今言うべきではないのかもしれないけれど。だけど、さっきも言っただろう。いろんな選択肢がある中で、人の意見ではなく自分で何かを決めることを、君はこれから沢山していかなければならない。ずっとまっさらなままでいては、いけないんだ。誰かに染められてしまう前に、自分自身の色を見出さなければならない。だからこそ、やっぱり言っておこうと思う。」
随分と長い前置きは、彼女自身の心を決めるための時間稼ぎでもあったのかもしれない。
彼女は私の目をしっかりと見つめた。
「かつて私には大切な教え子がいたと、私はそう言ったね。」
「はい。それが…どうしたんです?」
「その教え子の名前は、佐原春人。君の言うところの、先生だ。」
「え…。」
佐原先生と話をした時、自分はこの学校の卒業生だと言っていた。
佐原先生に煙草を吸う理由を聞いた時、彼は「忘れないため」と言った。
佐原先生がいつも吸っていたのは、彼女と同じ銘柄の煙草だった。
佐原先生が煙草を吸う時、いつも眺めていたのは校庭の隅にある桜の木だった。
すべてが、繋がった気がした。
「あの、ひとつだけ聞いてもいいですか。」
「なんだい?」
「この桜並木には特別な思い出があるって、初めて会った時、おねえさんそう言ってましたよね。」
「ああ、言ったね。」
「それは、佐原先生との?」
彼女は少し言いよどんだが、小さくうなずいてみせた。
「ああ、そうだよ。」
「それは、聞いてもいい話ですか?」
「構わないが、今日はもう遅い。また明日にしないか。今度はもう、逃げないから。」
「わかりました。」
私達はまた明日この公園で会う約束をした。
私は見えなくなるまで彼女の背中を見送った。