3.2
「ハルくん、久しぶりに買い物連れて行って。」
日曜日、せっかくの休みだし昼まで寝て過ごそうと思っていた矢先のことだ。盛大に玄関のチャイムが鳴った。
最初は居留守を決め込もうと思っていたのだが、どうにも呼び鈴の音は鳴り止む気配がない。
壊れてしまったかのようになり続けるその音に、俺はいよいよ観念してドアを開けた。
「優香…。せっかくの休みに俺は出掛けたくないし、休日くらいはのんびり寝て過ごしたいんだけど。」
「やっぱりいた。だっておばさんに言われたんだもの。優香ちゃん、春人はどうせ家でごろごろしてるんだろうから外に連れ出してやってって。」
「母さんの差し金か…。」
俺が深い溜め息をつくと、優香は覗き込むように俺の顔を見た。
「ねえ、用意とかあるでしょ。とりあえず中、入れてくれない?」
俺はいよいよ観念して優香を家に招き入れた。
「ハルくん家来たの、なんだかんだで初めてだね。意外と片付いている…というか、ものがないね。」
優香は物珍しそうにしながらキョロキョロと俺の部屋を眺め回していた。
「少なくとも女子高生の気に入るものなんかこの部屋にはないだろうよ。着替えるからあっちむいてて。」
「はーい。」
くるりと優香が壁を向いている間に、俺はひとまず出掛けられる程度の服に着替えた。
「ハルくんが実家出てからどれくらい?」
えっとと指折り数え始める彼女に俺は声をかける。
「2月からだから3ヶ月。赴任のための準備とか、仕事のこととか、いろいろあって忙しかったからいざ始めてみたらあっという間に過ぎていったな。」
「ああ、そうなんだ。あのハルくんが一人暮らしするって聞いたときはちゃんと生きていけるのかなって心配だったけど、意外とどうにかなるものなのね。人間って成長する生き物なんだなって私感動したわ。」
「お前、俺のことなんだと思っているわけ。」
優香と俺は実家が隣同士で家族ぐるみの付き合いがあった。小さい頃からよく遊んでいたからお互いに兄妹みたいに育ってきたし、親も俺たちのことをそんな風に見てきた。今更俺もこいつを女の子として見ることはないけれど、それにしたって年頃の男の一人暮らしの家に女子高生一人送り込むのはどうかと思う。俺の親も、優香の親も。
「ハルくんさ、今いくつだっけ。」
「なに急に。」
「いいから。」
「24だけど。」
俺が答えるなり優香はふうとため息をつきながら、やれやれと首を横にふった。
「ハルくん、その年でいい人もいなくて休日引きこもりって、正直、どうかと思う。」
女子高生は言葉にためらいがない分言葉が鋭利に突き刺さる。
「悪かったな。」
「もうそっち向いてもいい?」と優香が尋ね、俺も「大丈夫」と答える。
振り返った彼女はてっきり茶化してくるものだと思っていたが、予想に反してその顔は曇っていた。
「ハルくんさ、もしかしてまだ引きずってるの?あの人のこと。」
彼女の言葉に俺はいきなり核心を突かれたようでドキリとした。
長年の付き合いだ。そんな些細な俺の表情の変化で優香はすぐに悟ったらしい。
「ハルくん、その人もうどこにいるのかもわからないんでしょ?
勝手にいなくなっちゃったような人なんて追いかけていてもしょうがないじゃない。」
そんなことは言われなくたってわかっている。それでも俺は彼女を信じていたかった。なにか言えない事情があって、きっと離れてしまったんだ。その何かさえ解決できればまた一緒に過ごせるかもしれない。俺だってもう立派な大人なんだし、あの頃と違って今度は静香を守ってやれる。
彼女がいなくなったあと、俺はそうやって何度も自分に言い聞かせながら日々を過ごしてきた。心が折れそうになることも同じように何度もあったけれど、あのバカ真面目で律儀な彼女が、かつて交わした約束を忘れているとは到底思えなかったのだ。
「約束したんだ。いつか絶対、きれいな蝶を見せてやるって。」
「蝶?」
「そう、蝶。」
静香にしてみれば、いち男子高校生の戯言に過ぎなかったのかもしれない。
それでも当時の俺は本気で彼女のことを好いていた。
一目惚れだった。
あの日、ワットエバーを口ずさみながら煙草を吸う彼女の横顔に、俺は一瞬で心を持っていかれた。
だから毎日のように顔を出し、うざいと思われるくらいに彼女のことを知ろうとした。
何が好きで、何が嫌いなのか、そのすべてを知りたいと思った。
それこそ薄っぺらい言い方かもしれないが、彼女が世界の全てなのだと俺は本気で信じ込んでいた。
彼女と出会って一年が過ぎた、春の終わりの頃、彼女は図書室にいながら珍しく作業をせずにぼんやりと窓の外を眺めていた。
窓の外の景色を眺めている、というよりは、窓の外の何かに視線を向けているという風だった。
「静香、なにしてるの?」
彼女は何も言わず窓辺をそっと指さした。
いつもならば「静香じゃなくて蝶野先生、だろう。佐原君。」と指摘が入るというのに、その日の彼女は何も言わなかった。
指さされた先にはひとつ、蛹があった。
否、蛹だったものが、そこにはあった。
羽化する前のその蛹は何かに潰されたのか、もはやもとの形を成してはいなかった。
「さなぎ?」
「そう。」
彼女はそれをただ黙って見つめていた。
もとより何を考えているのかよくわからないところがあったが、そのときは尚更彼女の考えがわからなかった。
「虫、好きだったっけ?」
「いいや。むしろ苦手。」
「じゃあなんでそんなもん見てんの?」
静香はまた黙り込んでしまう。このところ、彼女はどうにも様子がおかしかった。
「静香?」
「佐原君は」
急に名前を呼ばれて俺はどきりとした。
「佐原君は、この蛹を見てどう思った?」
「え?どうって?」
「この蛹、本当はこの先、どうなっていたと思う?」
彼女の質問の意図するところが俺にはわからなかった。
俺は足りない頭を振り絞って答えを導き出そうとする。
「蝶か何かになるんじゃねえの?」
「そう。」
静香はまた言葉をなくしてしまう。
俺はその静寂に耐えきれなくなった。
「なあ、どうしたんだよ静香。今日の静香、なんか変だぞ。」
彼女は俺の目をじっと見つめて、また窓際の蛹に視線を戻した。
「この蛹は、羽化して美しい蝶になったのかもしれないし、実は蝶ではなく蛾になっていたかもしれない。しかしどちらであってもいい。羽化をして、ちゃんと別の何かになれたなら。」
「別のなにか?」
「ああ。それにどちらになっても羽がある。ちゃんと羽化して羽が生えればどこへだって飛んでいける。」
「それが、どうしたっていうんだよ。」
「じゃあ、羽化できなかったら?」
「え?」
「羽化することができず、何かの拍子でそのまま蛹で終わってしまったら?この蛹みたいに、空を飛ぶことを夢見ながら、その殻の中で生涯を終えてしまったら?」
静香はまた言葉を途切れさせてしまった。それからそっと窓に触れると、その蛹を見下ろした。
「私はね、佐原君。ずっとそれが、怖いんだよ。」
「どういう、意味?」
「そのままの意味さ。特に君みたいな人は、まっすぐだから。周りの人間や環境に左右されやすい。」
俺は彼女の言葉にますます混乱した。蛹の話をしていたのではなかったのか。
なぜいきなり俺の話が出てくるのだ。
「わけわかんねえよ。結局、なに。静香はなにが言いたいの。」
俺は苛立ちを隠しきれないでいた。彼女もそれを理解していた。
理解した上で、俺を見た。
「君はどうか、きれいな蝶になってくれ。どこまでもどこまでも、飛んでいけるような、そんな蝶に。」
「…静香?」
なんでもないよと言って微笑む彼女はどこかに消えてしまいそうな気がして、俺はその時思わず彼女の手を掴んでいた。
「どうした、佐原君。」
なんて言ったらいいのかはわからなかった。
ただ、今この手を離したら、それこそこの人はどこかに飛んでいってしまうような、そんな気がした。
「離してくれ、佐原君。痛いよ。」
思わず力を込めてしまっていたことに気付き、俺は咄嗟に彼女の手を離した。
「ごめん。」
「いや。大丈夫。」
それから少しの間、俺も静香も言葉を発さなかった。
ただただ静かな時間だけが流れていた。
その日は他に誰も図書室には来なくて、この世にはもう俺と静香しかいないみたいだった。
それこそ、この図書室という本の海に二人きりで取り残されて、深く深く沈んでいく難破船のように。
たとえその中で苦しんで窒息してしまっても、静香と一緒ならそれでもいいと思っていた。
だからこそあの日、俺は言葉にしてしまったのだ。
言ってはいけなかった言葉とは知らず、覚悟があると思いこんで。
「俺、静香が好きだ。」
あのときの彼女の今にも泣き出してしまいそうな表情は、なおも瞼の裏にくっきりと焼き付いて離れない。
彼女は唇を噛み締めて、震えながら目を逸らした。
「だめなんだ。だめなんだよ佐原君。さっきも言っただろう?君はまだ、どこにだって飛んでいける可能性があるのだと。私じゃ、だめなんだ。私は君を…きっと壊してしまう。さっきの蛹みたいに。」
「そんなこと…」
「だから」
彼女は今までにないくらい強い口調で俺に言った。そこには俺のまだ知らない静香の一面が垣間見えた。
「だから、もし君が綺麗な蝶となって自由に空を飛べるようになったなら、そのときにもう一度、考えてほしい。自分が向かいたい先はどこなのか。その着地点が本当に私でいいのか。」
「…そんなこと言って、静香は先にどこかに飛んでいっちゃうんだろう?」
彼女は力なく首を横に振りながら、小さく言葉を口にした。
「私はどこへもいけないよ。だってまだ蛹のままだから。ずっと羽化するその日を夢見てるんだ。ちゃんと羽化して、自分の羽で、空を飛ぶ日を夢見てるんだよ。今も、ずっとね。」
消え入りそうな声でそういう彼女を俺はどうにかして元気づけたかった。
さらに言えば、そんな彼女を救いたいと思った。
「もし、静香がそう願うなら、待っていてよ。」
「待つ?」
「そう、待っていて。俺、絶対静香のいう綺麗な蝶になって、お前のとこまで飛んでいくから。その時まだ静香が蛹の中だっていうなら、無理矢理にでも俺がその殻叩き割ってさ、外に引っ張り出してやるよ。どうだ、それなら文句ねえだろ。」
静香は呆気にとられたような顔をして、それからいつもみたいに笑ってみせた。
「君は本当に、いつだって予想の範疇を大きく上回る回答を出してくる。面白い子だよ、佐原君は。」
外はだんだんと茜色から夜の闇に染まっていき、差し込む夕陽も少しずつ弱々しい光に変わっていった。
下校時刻はとうに過ぎていたし、図書室の閉館時間もとうに過ぎていた。
きっと最終下校時刻を告げる放送やチャイムだって流れていただろう。
しかし俺達はそれにも気付かないほどにお互いのことに夢中だった。
「遅いから、今日はもう帰りなさい。」
静香の言葉に俺は「わかった」といって鞄を手にした。
図書室を出ようと扉を開けたとき、ふっと図書室の明かりが消えた。
振り返ると薄暗がりの中佇む静香の姿があった。
彼女の表情は判然としなかったが、キラリと一筋、彼女の輪郭に沿って何かが光るのが見えた。
「待ってるからね、春人。」
声は聞こえなかったが、確かに彼女の口はそう言っているように見えた。
翌日、彼女は学校から突然姿を消すことになる。
「ハルくん?」
電子ケトルの湯が沸けたときのカチリという音で俺はようやくハッとした。
「わるい。ちょっと考え事してた。コーヒー一杯だけ飲んだらちゃんと出かけるから、それでいいだろう?」
「うん。」
優香は言うときにははっきりと物事を言ってしまうところがあるが、その分人のことはよく見ている。
俺の様子がいつもと違うことも、未だに静香を忘れられないでいることも、おそらくすべてお見通しなのだろう。
マグカップにインスタントのドリップコーヒーをセットし、今しがた沸けたばかりの湯を注ぐ。六畳一間のワンルームいっぱいにコーヒーの香りが広がっていく。
「そういえばさ」
なにか話をしようと話題を探る。無論女子高生の流行なんてものを成人男性が知る由もなく、話題は学校のことしかなかった。
「そういえば、最近お前のクラスの女の子がよく図書室に顔をだすんだ。知っているかな?たしか、岡本さん。」
「え、結衣子?ハルくん知り合いだったの?」
「え、優香こそ、ただのクラスメイトくらいなのかと思っていたけど、もしかして友達?」
優香は自分が興味を持った対象でなければ人の名前をほとんど覚えない。
そんな彼女がフルネームをしっかり覚えているというのは余程のことだった。
「結衣子は私の数少ない同じクラスの友達。最近仲良くなれたの。ずっと仲良くなりたくて、私、頑張ったんだ。」
それを聞いて、ああと納得した。
彼女、岡本結衣子の言っていた群れを作らない憧れの友人とは優香のことだったのか。
世間って狭いな。コーヒーを口にしながらそんなことを思う。
優香は少し慌てたような素振りで俺のことを見た。
「まって、結衣子はハルくんに私のこと、なんか言ってた?」
「うん。」
優香はあれこれ考えて百面相をした後に、一呼吸おいて俺に聞いた。
「結衣子は、私のことなんて?」
「ずっと憧れていた子とやっと友達になれたんだ。私今とても幸せだって。そんな感じの話をしていたよ。」
「結衣子…。」
こんなに嬉しそうな優香は初めて見た。俺は不思議に思って優香に問う。
「岡本さん、たしかにいい子だとは思うけど、何がそこまで優香を動かしたの?」
優香はそれを聞かれてきょとんとした顔をした。
「何って。全部だよ全部。みんなに対して大丈夫って言っちゃう強がりも、それが彼女の持ち合わせている優しさなんだってことも。だからこそ抱えてしまう寂しさみたいなものも。とにかくあの子はまっすぐで、私はそんな彼女の打算のない生き方が好きだなって思ってるの。彼女からしたら私は群れをなさなくてかっこいいらしいけど、本当の自分はそんなことなくて、ただの面倒臭がりなだけだもの。他人との煩わしい人間関係をとるくらいなら一人のほうがマシってだけの話で。でも結衣子はそういう人との関係ってものをすごく大切にできる子だから、私はそういうところが大好きだし、こっちはこっちで憧れてるの。」
優香が誰かのことをこんなに沢山話してくるなんて本当に珍しいことだった。
「本当に好きなんだな、岡本さんのこと。」
そう尋ねると彼女はとびきりの笑顔で答えた。
「結衣子と私は友達だもの。だからハルくん、最近結衣子がよく図書室に顔だしているって言っていたけど、結衣子のこと泣かせたりしたら許さないんだからね。」
「なんで俺が泣かすんだよ。」
「ハルくんの鈍感。」
もう知らないと言って優香はぷいと、そっぽを向いた。
もしこの先あの子を泣かせてしまうとしたら、そのときはきっと、彼女があのとき垣間見せた瞳の奥の火種を大きくしてしまった時だろう。あの日、思わず口走ってしまった俺みたいに。
そうしたら俺はもう、出すべき答えがとうに決まっているから。
俺には彼女を泣かせてしまう未来しか、持ち合わせていないのだ。
多分、優香もそれをわかって俺に今こんな話をしている。
それはきっと、無理やり彼女を受け入れろということではなくて、その日が来たら、彼女が納得できるような答えをしっかり提示するべきだ、そういう意図だろう。
子供だからとあしらって彼女を傷つけるようなことをしたら許さない、そういう警告なのだ。
「ほらもう、コーヒーも堪能したでしょう。待ちくたびれたわ。早く出掛けようよ。」
優香はしびれを切らしたように俺を催促する。
岡本さんもそうだが、なぜ彼女たちは普段口数少なな印象なのに俺の前だとこんなに饒舌なのだろうか。
「俺ってナメられやすいのかな。」
「ハルくん、優しいからね。」
意地悪くそう言うと優香は立ち上がり俺に手を伸ばした。
「さあほら立って、行くよハルくん。」
「はいはい、わかったよ。」
観念して俺はその手を取り、立ち上がった。
玄関の扉を開けると眩しい青空が燦然と輝いていた。
「太陽光が俺を殺そうとしている…。」
「バカ。そんなんで殺されるような男じゃないでしょ。はい、さっさと歩く。」
優香は容赦なく俺の手を掴むとずんずんとアパートの階段を降りていく。
彼女の履いたサンダルのヒールが硬い鉄階段の上でコツコツと音をたてる。
昔はヒールなんてない子ども用のサンダルをペタペタ言わせていたというのに。
「優香も大人になったんだな。」
思わず声に出してしまうと、優香は振り向いて笑った。
「もう、女子高生にそんなこと言ったらセクハラだよハルくん。逮捕だよ逮捕。」
「ええ、俺この歳で前科ありになっちゃうの?それは嫌だな。」
ケラケラと笑う彼女の横顔は昔のままで、俺はなぜかそんな変わらないものにホッとした。
変わっていくものと変わらないものがあって、自分自身はほとんど変わっている気がしない。
大人になると特に、時が流れていく体感スピードだけは加速するのに、彼女たちの年齢の頃と比べると、俺は随分と保守的になり、変化を恐れる生き物になった。
そう考えてようやく、俺はあの日の静香の気持ちに一歩、近づけたような気がした。
「私はどこへもいけないよ。」
目まぐるしく変化を続けていく世界で、俺達は大人になるに連れ、自分自身を守ろうとどんどん硬い殻に閉じこもっていく。まるで逆再生でもするみたいに、仮に一度、蝶になってはばたけたとしても、また蛹に戻っていく。
そして羽を失ったが最後、変化を続ける世界から、蛹は取り残されてしまうのだ。
あの日の蛹のように、窓際にひっそりと。
「ハルくん?」
優香が俺の顔を覗き込むようにして名前を呼んだ。
「ん?なに?」
彼女は心配げな表情で俺を見上げている。
「なんだかすごく、むずかしそうな顔をしていたから。具合でも悪いのかなって。」
「いや、そうじゃないよ。ごめん、大丈夫。それで、優香は何が見たいんだっけ?」
彼女はさっきまでの不安の色をパッと払拭して満面の笑みを浮かべながら、「あれと、これと…」と指折り数えだした。その様子に俺自身も安堵する。
「そんなにあるのかよ。」
「女子高生の限りある貴重な休日をわざわざハルくんのためにこうして費やしてるんだから当然でしょ?」
俺達はくだらない話を続けながら駅に向かって歩いていたが、彼女に手を引かれて歩く道すがら、どこからか視線のようなものを感じた。
「なんだろ。」
俺は立ち止まり、振り返る。それに引っ張られるようにして優香の歩みも止まった。
「なに、どうしたのハルくん。」
怪訝そうな顔をして優香も振り返る。
通りの向こう側、確かになにか視線のようなものを感じたような気がしたのだけど。
「いや、なんでもない。気の所為だったみたい。」
「変なハルくん。まあいいや、じゃあ行こう?」
優香はまた俺の前を歩いていく。
俺はただ、その後ろをついて歩いた。
「ハルくん、久しぶりに買い物連れて行って。」
日曜日、せっかくの休みだし昼まで寝て過ごそうと思っていた矢先のことだ。盛大に玄関のチャイムが鳴った。
最初は居留守を決め込もうと思っていたのだが、どうにも呼び鈴の音は鳴り止む気配がない。
壊れてしまったかのようになり続けるその音に、俺はいよいよ観念してドアを開けた。
「優香…。せっかくの休みに俺は出掛けたくないし、休日くらいはのんびり寝て過ごしたいんだけど。」
「やっぱりいた。だっておばさんに言われたんだもの。優香ちゃん、春人はどうせ家でごろごろしてるんだろうから外に連れ出してやってって。」
「母さんの差し金か…。」
俺が深い溜め息をつくと、優香は覗き込むように俺の顔を見た。
「ねえ、用意とかあるでしょ。とりあえず中、入れてくれない?」
俺はいよいよ観念して優香を家に招き入れた。
「ハルくん家来たの、なんだかんだで初めてだね。意外と片付いている…というか、ものがないね。」
優香は物珍しそうにしながらキョロキョロと俺の部屋を眺め回していた。
「少なくとも女子高生の気に入るものなんかこの部屋にはないだろうよ。着替えるからあっちむいてて。」
「はーい。」
くるりと優香が壁を向いている間に、俺はひとまず出掛けられる程度の服に着替えた。
「ハルくんが実家出てからどれくらい?」
えっとと指折り数え始める彼女に俺は声をかける。
「2月からだから3ヶ月。赴任のための準備とか、仕事のこととか、いろいろあって忙しかったからいざ始めてみたらあっという間に過ぎていったな。」
「ああ、そうなんだ。あのハルくんが一人暮らしするって聞いたときはちゃんと生きていけるのかなって心配だったけど、意外とどうにかなるものなのね。人間って成長する生き物なんだなって私感動したわ。」
「お前、俺のことなんだと思っているわけ。」
優香と俺は実家が隣同士で家族ぐるみの付き合いがあった。小さい頃からよく遊んでいたからお互いに兄妹みたいに育ってきたし、親も俺たちのことをそんな風に見てきた。今更俺もこいつを女の子として見ることはないけれど、それにしたって年頃の男の一人暮らしの家に女子高生一人送り込むのはどうかと思う。俺の親も、優香の親も。
「ハルくんさ、今いくつだっけ。」
「なに急に。」
「いいから。」
「24だけど。」
俺が答えるなり優香はふうとため息をつきながら、やれやれと首を横にふった。
「ハルくん、その年でいい人もいなくて休日引きこもりって、正直、どうかと思う。」
女子高生は言葉にためらいがない分言葉が鋭利に突き刺さる。
「悪かったな。」
「もうそっち向いてもいい?」と優香が尋ね、俺も「大丈夫」と答える。
振り返った彼女はてっきり茶化してくるものだと思っていたが、予想に反してその顔は曇っていた。
「ハルくんさ、もしかしてまだ引きずってるの?あの人のこと。」
彼女の言葉に俺はいきなり核心を突かれたようでドキリとした。
長年の付き合いだ。そんな些細な俺の表情の変化で優香はすぐに悟ったらしい。
「ハルくん、その人もうどこにいるのかもわからないんでしょ?
勝手にいなくなっちゃったような人なんて追いかけていてもしょうがないじゃない。」
そんなことは言われなくたってわかっている。それでも俺は彼女を信じていたかった。なにか言えない事情があって、きっと離れてしまったんだ。その何かさえ解決できればまた一緒に過ごせるかもしれない。俺だってもう立派な大人なんだし、あの頃と違って今度は静香を守ってやれる。
彼女がいなくなったあと、俺はそうやって何度も自分に言い聞かせながら日々を過ごしてきた。心が折れそうになることも同じように何度もあったけれど、あのバカ真面目で律儀な彼女が、かつて交わした約束を忘れているとは到底思えなかったのだ。
「約束したんだ。いつか絶対、きれいな蝶を見せてやるって。」
「蝶?」
「そう、蝶。」
静香にしてみれば、いち男子高校生の戯言に過ぎなかったのかもしれない。
それでも当時の俺は本気で彼女のことを好いていた。
一目惚れだった。
あの日、ワットエバーを口ずさみながら煙草を吸う彼女の横顔に、俺は一瞬で心を持っていかれた。
だから毎日のように顔を出し、うざいと思われるくらいに彼女のことを知ろうとした。
何が好きで、何が嫌いなのか、そのすべてを知りたいと思った。
それこそ薄っぺらい言い方かもしれないが、彼女が世界の全てなのだと俺は本気で信じ込んでいた。
彼女と出会って一年が過ぎた、春の終わりの頃、彼女は図書室にいながら珍しく作業をせずにぼんやりと窓の外を眺めていた。
窓の外の景色を眺めている、というよりは、窓の外の何かに視線を向けているという風だった。
「静香、なにしてるの?」
彼女は何も言わず窓辺をそっと指さした。
いつもならば「静香じゃなくて蝶野先生、だろう。佐原君。」と指摘が入るというのに、その日の彼女は何も言わなかった。
指さされた先にはひとつ、蛹があった。
否、蛹だったものが、そこにはあった。
羽化する前のその蛹は何かに潰されたのか、もはやもとの形を成してはいなかった。
「さなぎ?」
「そう。」
彼女はそれをただ黙って見つめていた。
もとより何を考えているのかよくわからないところがあったが、そのときは尚更彼女の考えがわからなかった。
「虫、好きだったっけ?」
「いいや。むしろ苦手。」
「じゃあなんでそんなもん見てんの?」
静香はまた黙り込んでしまう。このところ、彼女はどうにも様子がおかしかった。
「静香?」
「佐原君は」
急に名前を呼ばれて俺はどきりとした。
「佐原君は、この蛹を見てどう思った?」
「え?どうって?」
「この蛹、本当はこの先、どうなっていたと思う?」
彼女の質問の意図するところが俺にはわからなかった。
俺は足りない頭を振り絞って答えを導き出そうとする。
「蝶か何かになるんじゃねえの?」
「そう。」
静香はまた言葉をなくしてしまう。
俺はその静寂に耐えきれなくなった。
「なあ、どうしたんだよ静香。今日の静香、なんか変だぞ。」
彼女は俺の目をじっと見つめて、また窓際の蛹に視線を戻した。
「この蛹は、羽化して美しい蝶になったのかもしれないし、実は蝶ではなく蛾になっていたかもしれない。しかしどちらであってもいい。羽化をして、ちゃんと別の何かになれたなら。」
「別のなにか?」
「ああ。それにどちらになっても羽がある。ちゃんと羽化して羽が生えればどこへだって飛んでいける。」
「それが、どうしたっていうんだよ。」
「じゃあ、羽化できなかったら?」
「え?」
「羽化することができず、何かの拍子でそのまま蛹で終わってしまったら?この蛹みたいに、空を飛ぶことを夢見ながら、その殻の中で生涯を終えてしまったら?」
静香はまた言葉を途切れさせてしまった。それからそっと窓に触れると、その蛹を見下ろした。
「私はね、佐原君。ずっとそれが、怖いんだよ。」
「どういう、意味?」
「そのままの意味さ。特に君みたいな人は、まっすぐだから。周りの人間や環境に左右されやすい。」
俺は彼女の言葉にますます混乱した。蛹の話をしていたのではなかったのか。
なぜいきなり俺の話が出てくるのだ。
「わけわかんねえよ。結局、なに。静香はなにが言いたいの。」
俺は苛立ちを隠しきれないでいた。彼女もそれを理解していた。
理解した上で、俺を見た。
「君はどうか、きれいな蝶になってくれ。どこまでもどこまでも、飛んでいけるような、そんな蝶に。」
「…静香?」
なんでもないよと言って微笑む彼女はどこかに消えてしまいそうな気がして、俺はその時思わず彼女の手を掴んでいた。
「どうした、佐原君。」
なんて言ったらいいのかはわからなかった。
ただ、今この手を離したら、それこそこの人はどこかに飛んでいってしまうような、そんな気がした。
「離してくれ、佐原君。痛いよ。」
思わず力を込めてしまっていたことに気付き、俺は咄嗟に彼女の手を離した。
「ごめん。」
「いや。大丈夫。」
それから少しの間、俺も静香も言葉を発さなかった。
ただただ静かな時間だけが流れていた。
その日は他に誰も図書室には来なくて、この世にはもう俺と静香しかいないみたいだった。
それこそ、この図書室という本の海に二人きりで取り残されて、深く深く沈んでいく難破船のように。
たとえその中で苦しんで窒息してしまっても、静香と一緒ならそれでもいいと思っていた。
だからこそあの日、俺は言葉にしてしまったのだ。
言ってはいけなかった言葉とは知らず、覚悟があると思いこんで。
「俺、静香が好きだ。」
あのときの彼女の今にも泣き出してしまいそうな表情は、なおも瞼の裏にくっきりと焼き付いて離れない。
彼女は唇を噛み締めて、震えながら目を逸らした。
「だめなんだ。だめなんだよ佐原君。さっきも言っただろう?君はまだ、どこにだって飛んでいける可能性があるのだと。私じゃ、だめなんだ。私は君を…きっと壊してしまう。さっきの蛹みたいに。」
「そんなこと…」
「だから」
彼女は今までにないくらい強い口調で俺に言った。そこには俺のまだ知らない静香の一面が垣間見えた。
「だから、もし君が綺麗な蝶となって自由に空を飛べるようになったなら、そのときにもう一度、考えてほしい。自分が向かいたい先はどこなのか。その着地点が本当に私でいいのか。」
「…そんなこと言って、静香は先にどこかに飛んでいっちゃうんだろう?」
彼女は力なく首を横に振りながら、小さく言葉を口にした。
「私はどこへもいけないよ。だってまだ蛹のままだから。ずっと羽化するその日を夢見てるんだ。ちゃんと羽化して、自分の羽で、空を飛ぶ日を夢見てるんだよ。今も、ずっとね。」
消え入りそうな声でそういう彼女を俺はどうにかして元気づけたかった。
さらに言えば、そんな彼女を救いたいと思った。
「もし、静香がそう願うなら、待っていてよ。」
「待つ?」
「そう、待っていて。俺、絶対静香のいう綺麗な蝶になって、お前のとこまで飛んでいくから。その時まだ静香が蛹の中だっていうなら、無理矢理にでも俺がその殻叩き割ってさ、外に引っ張り出してやるよ。どうだ、それなら文句ねえだろ。」
静香は呆気にとられたような顔をして、それからいつもみたいに笑ってみせた。
「君は本当に、いつだって予想の範疇を大きく上回る回答を出してくる。面白い子だよ、佐原君は。」
外はだんだんと茜色から夜の闇に染まっていき、差し込む夕陽も少しずつ弱々しい光に変わっていった。
下校時刻はとうに過ぎていたし、図書室の閉館時間もとうに過ぎていた。
きっと最終下校時刻を告げる放送やチャイムだって流れていただろう。
しかし俺達はそれにも気付かないほどにお互いのことに夢中だった。
「遅いから、今日はもう帰りなさい。」
静香の言葉に俺は「わかった」といって鞄を手にした。
図書室を出ようと扉を開けたとき、ふっと図書室の明かりが消えた。
振り返ると薄暗がりの中佇む静香の姿があった。
彼女の表情は判然としなかったが、キラリと一筋、彼女の輪郭に沿って何かが光るのが見えた。
「待ってるからね、春人。」
声は聞こえなかったが、確かに彼女の口はそう言っているように見えた。
翌日、彼女は学校から突然姿を消すことになる。
「ハルくん?」
電子ケトルの湯が沸けたときのカチリという音で俺はようやくハッとした。
「わるい。ちょっと考え事してた。コーヒー一杯だけ飲んだらちゃんと出かけるから、それでいいだろう?」
「うん。」
優香は言うときにははっきりと物事を言ってしまうところがあるが、その分人のことはよく見ている。
俺の様子がいつもと違うことも、未だに静香を忘れられないでいることも、おそらくすべてお見通しなのだろう。
マグカップにインスタントのドリップコーヒーをセットし、今しがた沸けたばかりの湯を注ぐ。六畳一間のワンルームいっぱいにコーヒーの香りが広がっていく。
「そういえばさ」
なにか話をしようと話題を探る。無論女子高生の流行なんてものを成人男性が知る由もなく、話題は学校のことしかなかった。
「そういえば、最近お前のクラスの女の子がよく図書室に顔をだすんだ。知っているかな?たしか、岡本さん。」
「え、結衣子?ハルくん知り合いだったの?」
「え、優香こそ、ただのクラスメイトくらいなのかと思っていたけど、もしかして友達?」
優香は自分が興味を持った対象でなければ人の名前をほとんど覚えない。
そんな彼女がフルネームをしっかり覚えているというのは余程のことだった。
「結衣子は私の数少ない同じクラスの友達。最近仲良くなれたの。ずっと仲良くなりたくて、私、頑張ったんだ。」
それを聞いて、ああと納得した。
彼女、岡本結衣子の言っていた群れを作らない憧れの友人とは優香のことだったのか。
世間って狭いな。コーヒーを口にしながらそんなことを思う。
優香は少し慌てたような素振りで俺のことを見た。
「まって、結衣子はハルくんに私のこと、なんか言ってた?」
「うん。」
優香はあれこれ考えて百面相をした後に、一呼吸おいて俺に聞いた。
「結衣子は、私のことなんて?」
「ずっと憧れていた子とやっと友達になれたんだ。私今とても幸せだって。そんな感じの話をしていたよ。」
「結衣子…。」
こんなに嬉しそうな優香は初めて見た。俺は不思議に思って優香に問う。
「岡本さん、たしかにいい子だとは思うけど、何がそこまで優香を動かしたの?」
優香はそれを聞かれてきょとんとした顔をした。
「何って。全部だよ全部。みんなに対して大丈夫って言っちゃう強がりも、それが彼女の持ち合わせている優しさなんだってことも。だからこそ抱えてしまう寂しさみたいなものも。とにかくあの子はまっすぐで、私はそんな彼女の打算のない生き方が好きだなって思ってるの。彼女からしたら私は群れをなさなくてかっこいいらしいけど、本当の自分はそんなことなくて、ただの面倒臭がりなだけだもの。他人との煩わしい人間関係をとるくらいなら一人のほうがマシってだけの話で。でも結衣子はそういう人との関係ってものをすごく大切にできる子だから、私はそういうところが大好きだし、こっちはこっちで憧れてるの。」
優香が誰かのことをこんなに沢山話してくるなんて本当に珍しいことだった。
「本当に好きなんだな、岡本さんのこと。」
そう尋ねると彼女はとびきりの笑顔で答えた。
「結衣子と私は友達だもの。だからハルくん、最近結衣子がよく図書室に顔だしているって言っていたけど、結衣子のこと泣かせたりしたら許さないんだからね。」
「なんで俺が泣かすんだよ。」
「ハルくんの鈍感。」
もう知らないと言って優香はぷいと、そっぽを向いた。
もしこの先あの子を泣かせてしまうとしたら、そのときはきっと、彼女があのとき垣間見せた瞳の奥の火種を大きくしてしまった時だろう。あの日、思わず口走ってしまった俺みたいに。
そうしたら俺はもう、出すべき答えがとうに決まっているから。
俺には彼女を泣かせてしまう未来しか、持ち合わせていないのだ。
多分、優香もそれをわかって俺に今こんな話をしている。
それはきっと、無理やり彼女を受け入れろということではなくて、その日が来たら、彼女が納得できるような答えをしっかり提示するべきだ、そういう意図だろう。
子供だからとあしらって彼女を傷つけるようなことをしたら許さない、そういう警告なのだ。
「ほらもう、コーヒーも堪能したでしょう。待ちくたびれたわ。早く出掛けようよ。」
優香はしびれを切らしたように俺を催促する。
岡本さんもそうだが、なぜ彼女たちは普段口数少なな印象なのに俺の前だとこんなに饒舌なのだろうか。
「俺ってナメられやすいのかな。」
「ハルくん、優しいからね。」
意地悪くそう言うと優香は立ち上がり俺に手を伸ばした。
「さあほら立って、行くよハルくん。」
「はいはい、わかったよ。」
観念して俺はその手を取り、立ち上がった。
玄関の扉を開けると眩しい青空が燦然と輝いていた。
「太陽光が俺を殺そうとしている…。」
「バカ。そんなんで殺されるような男じゃないでしょ。はい、さっさと歩く。」
優香は容赦なく俺の手を掴むとずんずんとアパートの階段を降りていく。
彼女の履いたサンダルのヒールが硬い鉄階段の上でコツコツと音をたてる。
昔はヒールなんてない子ども用のサンダルをペタペタ言わせていたというのに。
「優香も大人になったんだな。」
思わず声に出してしまうと、優香は振り向いて笑った。
「もう、女子高生にそんなこと言ったらセクハラだよハルくん。逮捕だよ逮捕。」
「ええ、俺この歳で前科ありになっちゃうの?それは嫌だな。」
ケラケラと笑う彼女の横顔は昔のままで、俺はなぜかそんな変わらないものにホッとした。
変わっていくものと変わらないものがあって、自分自身はほとんど変わっている気がしない。
大人になると特に、時が流れていく体感スピードだけは加速するのに、彼女たちの年齢の頃と比べると、俺は随分と保守的になり、変化を恐れる生き物になった。
そう考えてようやく、俺はあの日の静香の気持ちに一歩、近づけたような気がした。
「私はどこへもいけないよ。」
目まぐるしく変化を続けていく世界で、俺達は大人になるに連れ、自分自身を守ろうとどんどん硬い殻に閉じこもっていく。まるで逆再生でもするみたいに、仮に一度、蝶になってはばたけたとしても、また蛹に戻っていく。
そして羽を失ったが最後、変化を続ける世界から、蛹は取り残されてしまうのだ。
あの日の蛹のように、窓際にひっそりと。
「ハルくん?」
優香が俺の顔を覗き込むようにして名前を呼んだ。
「ん?なに?」
彼女は心配げな表情で俺を見上げている。
「なんだかすごく、むずかしそうな顔をしていたから。具合でも悪いのかなって。」
「いや、そうじゃないよ。ごめん、大丈夫。それで、優香は何が見たいんだっけ?」
彼女はさっきまでの不安の色をパッと払拭して満面の笑みを浮かべながら、「あれと、これと…」と指折り数えだした。その様子に俺自身も安堵する。
「そんなにあるのかよ。」
「女子高生の限りある貴重な休日をわざわざハルくんのためにこうして費やしてるんだから当然でしょ?」
俺達はくだらない話を続けながら駅に向かって歩いていたが、彼女に手を引かれて歩く道すがら、どこからか視線のようなものを感じた。
「なんだろ。」
俺は立ち止まり、振り返る。それに引っ張られるようにして優香の歩みも止まった。
「なに、どうしたのハルくん。」
怪訝そうな顔をして優香も振り返る。
通りの向こう側、確かになにか視線のようなものを感じたような気がしたのだけど。
「いや、なんでもない。気の所為だったみたい。」
「変なハルくん。まあいいや、じゃあ行こう?」
優香はまた俺の前を歩いていく。
俺はただ、その後ろをついて歩いた。