3.1
好きな人に会うための口実を探すという行為がこんなにも楽しいなんて、私は生まれて初めて知った。今までだっていいなと思う人はいたし、初恋だってとうに終わっている。しかしそのどの相手にだって、ここまでの執着を見せたことはなかった。心が渇望しているというのだろうか。早く会いたくて、顔が見たくて、声が聴きたくて。飢えた動物みたいに彼の姿を思い浮かべては、追い求めてしまう。きっとお酒がやめられないとか煙草がやめられないとか、大人たちが悩んでいる一種の中毒症状というものにこれは近いものなのではないだろうか。今までこんなこと一度もなかったのに、私はおかしくなってしまったのかもしれない。
「はあ。」
冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、コップに注ぐ。
この土日、ずっとそんなことばかり考えている。
学校が休みの間のこの二日間、彼は一体何をしているのだろう。
私達は所詮、学校の生徒と先生という関係性でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
そんな当たり前のことをまざまざと見せつけられているようで、私は歯がゆい思いでいっぱいになった。もしも先生と同じ時代に生まれていたのなら、私は先生のことを好きになっていたのだろうか。それとも大人になった今の先生だからこそ、私はこんなにも好きになってしまったのだろうか。
「はあ。」
もう一度、ため息をつく。
「あんた、恋でもしているのかい。」
台所でお茶を持ったまま、ため息をつく私におばあちゃんが話しかけてきた。
おじいちゃんは随分昔に戦争で亡くなってしまったため、私はその顔を写真でしか見たことがない。残されたおばあちゃんはその時すでに母を身籠っており、こうして今私という存在につながっているのである。
おばあちゃんが愛したというおじいちゃんと私も話してみたかったのだがこればかりは仕方がない。
なので今は私と両親とおばあちゃんと、それから猫のたまと、4人と一匹で暮らしている。今日両親はどちらも出かけており、私はおばあちゃんと一緒に留守番をしていた。
「あんた恋してるんだろう。」
普段そんな話は一切しないおばあちゃんが、もう一度その言葉を繰り返した。
「なに、おばあちゃん、いきなりどうしたの。」
私は居間に向かい、机の上に手にしていたコップを置くと、おばあちゃんの隣に座った。
たまはおばあちゃんの膝の上で気持ちよさそうに腹を膨らませたりへこませたりしていた。
時折くぷすーという奇妙な寝息を立てながら、安心しきった顔をしている。
おばあちゃんは大事そうにたまの体を撫でながら話を続けた。
「結衣子のため息にそういう匂いがしたから。」
「なによそれ。」
私は笑って誤魔化そうとしたが、そんな余裕すら自分が今持ち合わせていないことに初めて気が付いた。
誰かに聞いて欲しかった。両親や友人といった近すぎる人でもなく、佐原先生を知らない誰かに、自身の気持ちを打ち明けてしまいたかったのだろう。
「ねえ、おばあちゃん、おばあちゃんはおじいちゃんのこと、好きだった?」
おばあちゃんはたまを撫でる手を止めることなく答えた。
「ああ、大好きだったよ。誰よりも愛していたし、今だって愛している。」
「私ね、おばあちゃん。今まで好きだなって思う人、いなかったわけじゃないの。だけどね、それでもいつだってどこか冷静な自分がいたんだ。この人はきっとこうしたら喜ぶだろうとか、計算みたいなものを考えたりして。だけど今は、全然余裕なんてない。失礼なことだって平気で言ってしまうし、自分が自分じゃないみたいに感情だけで動かされてしまっているみたいなそんな感じがして、少し怖いの。冷静さなんて欠片もない。私、どうしちゃったんだろう。」
畳の上で私は体育座りをしてぎゅっと膝を抱える。
開け放たれた窓から柔らかな風が入り込んでくる。
おばあちゃんは私の言葉に嬉しそうな声を上げた。
「そうかい。結衣子はとうとう本物の恋に出会ったんだね。」
「本物の、恋?」
「そうさ。」
私はおばあちゃんの言葉を胸の内で繰り返した。
たまは満足したのかおばあちゃんの上で小さく伸びをするとどこかへ行ってしまった。
「恋なんてものはね、生身の人間の感情のぶつかり合いなのさ。無様で不格好、大いに結構じゃないか。そうしてぶつかり合って、はじめてその関係は磨かれていくんだよ。宝石みたいにね。それがなかったらどんなに綺麗な宝石であってもただの石ころ同然なんだよ。結衣子は昔からちょっと人のことを見すぎてしまうところがあったから、私はそれを心配していたのだけど、もう心配は無用みたいだね。」
珍しく口数の多いおばあちゃんに私は不安に思っていたことを聞いてみた。
「でもおばあちゃん、私が好きになったのは年上の男性なの。そういう大人の人ってさ、やっぱり恋愛なんてものには慣れているのだろうし、駆け引きとかそういうことができないと、ぶつかり合ってすら、もらえないんじゃないかな。」
おばあちゃんは私の頭を撫でた。たまみたいに、大事そうに、優しく。
「駆け引きなんてものが出来ているうちは、それは本物の恋とは言わないよ。理性が働いているってことだからね。そんな状態で本気でぶつかり合えるほど、人間は器用な生き物じゃない。それは大人も子供も関係ない。みんな同じさ。結衣子が思っているほど、案外大人は大人じゃない。大人ぶっているだけなんだよ。」
「大人ぶっているだけ?」
「そうさ。だって結衣子もそうだろう?小さい頃の結衣子は、高校生の自分ってもっと大人のお姉さんになっていると思っていなかったかい?」
言われてみればたしかにそうだった。高校生のお姉さんという響きは、まだランドセルを背負っていた頃の自分にとってはまさに憧れの大人の象徴だった。しかし、今実際自分がそうなってみると、そうそう昔と変わっているようには思えなかった。周りのみんなだってそうだ、変わっているようで、その実大きく変わったわけではない。
「その結衣子の想い人が一体どれだけ年上の男なのかはわからないけれど、駆け引きなんてものをしないと振り向いてくれないようなつまらない男ならこちらから願い下げだよ。」
おばあちゃんのこういう気持ちいいほどさっぱりとした言い方は昔から変わることがなく、こんな大人になれたらいいなと思っていた。未だに自分はそれにはほど遠いけれど、話してみてよかったなと思う。
ほんの少しだけ、心が軽くなったのを感じる。
「おばあちゃん、私、頑張ってみる。」
おばあちゃんは「こっちにおいで」と私を呼ぶとしわしわの体で抱きしめてくれた。
「大丈夫。結衣子なら大丈夫さ。あんたは私の自慢の孫なんだ。ありのままの結衣子でぶつかっていってごらん。おばあちゃんはいつでも結衣子の味方だからね。」
私は思わず泣きそうになった。しかしそれをなんとか堪えておばあちゃんの小さな体を抱きしめ返す。
「うん。ありがとう、おばあちゃん。」
「そういえば今日はクリーニングの引き取りに行くとか言ってなかったかい?」
「あ、そうだった。」
先生から借りていたカーディガンをそのまま返すのはさすがに悪い気がして、私はクリーニングに出したのだ。今日はその受取の日だった。
「私は一人でも大丈夫だから、行っておいで。」
「うん。ありがとうおばあちゃん。すぐ戻るね。」
「急がなくていいから、気を付けて行ってくるんだよ。」
「わかった、ありがとう。」
私はすぐに軽い身支度を済ませて家を出た。
クリーニング屋さんは駅前にあるので人通りが多く、学校から近いこともあっていつだれに出くわすとも限らない。最低限の身だしなみは気を付けなくてはならないのだ。
「いってきます。」
玄関の扉を開けると外はすっかり晴れ渡っていて綺麗な青空が広がっていた。
日曜の昼下がりは人通りが多く、恋人たちや家族連れ、イヤホンをして足早に通り過ぎる人など様々だ。
駅前の大通りは見事な桜並木になっていて、当然ながらもう満開の桜は散ってしまっているのだけれど、代わりに今は青々とした緑の葉が空を目指して背伸びをしていた。
「今年も綺麗だったな。」
私は4月のはじめの頃に見た満開の桜並木を思い出していた。
ぼうっと歩いていたからだろう、前方に人がいることに気が付かなかった。
どんとぶつかり、相手の人が少しよろめく。
「ごめんなさい、私ちゃんと前を見ていなくて。」
慌てて謝ると目の前の女性は優しく微笑んでくれた。
「いや、こちらこそ申し訳なかった。久しぶりにこのあたりに来たものだから、ついこの桜並木が見たくなってね、よそ見をしてしまっていたのは私の方だよ。ケガはないかい?」
その人はかっこいいという表現が似合う美しい人だった。服装が地味なので一見するとわからないがお洒落をしたら相当に化けるだろう。
「私は大丈夫ですけど、おねえさんは?」
「私も大丈夫だよ。ありがとう。」
「よかった。」
ほっと胸を撫で下ろす私に彼女はふわりと表情を和らげた。
「君はとても優しい人なんだね。そうだ、少し時間はあるかい?」
彼女は突然そう問いかけた。私が頷くと彼女はさも嬉しそうに「そうか」と言った。
「ぶつかってしまったお詫びに何か飲み物でもおごるよ。」
「そんな悪いですよ。」
「いいから。ただ私が君と話してみたくなっただけなんだ。だめかな?」
そんな聞き方をされては断れるはずがない。
「じゃあ、近くに公園があるんでそこで缶コーヒーおごってください。」
「かえって気を遣わせてしまったかな。ありがとう。じゃあ、そうしようか。」
私は彼女を公園のある場所まで連れて行き、彼女は公園の入り口で缶コーヒーを買ってくれた。
日曜日だったので公園には移動販売のワゴンが何台か止まっており、ついでだからとクレープまでおごってくれた。彼女は甘いものは苦手なのか何も頼まず、私は生クリームとチョコバナナの入ったものを選んだ。
私たちはそれぞれの缶コーヒーとクレープを手に、空いている適当なベンチに腰掛けた。少し大きめのこの公園には大きな池があり、私たちはそれを眺める形になった。
「なつかしいな。ここの公園も休みの日にはたまに来ていたんだ。当時はあんなに移動販売なんてものはなかったけどね。」
「おねえさんはこのあたりに住んでいたんですか?」
彼女は「そうだよ」とうなずいた。
「実家は遠いのだけど、職場がこの近くにあってね。それでこの近くに住んでいたのさ。」
「そうだったんですね。」
私は買ってもらったクレープを一口頬張った。生クリームとバナナの合わさった濃厚な甘みに思わず顔がほころぶ。そんな私の様子を見て彼女は満足そうな表情をした。
「でもおねえさん、なんでこの時期に桜並木を見に?満開の季節ならわかるけれど。」
私が彼女の方を見ると、一瞬目が合い、そのまま彼女はどこか遠くへ視線を移した。
「もちろんその頃はそりゃ見事なものだけど、この桜並木には特別な思い出があってね。つい来てしまうんだ。どの季節であっても。」
「ふうん。」
私はクレープを頬張りながら続けて彼女に問いかける。
「ところでおねえさんはなんのお仕事をしているんですか?」
「教育関係とでもいうのかな。少し前まではこのあたりで学校図書の司書をしていたよ。」
「へえ、司書の先生なんですね。」
「元、だけどね。」
佐原先生と同じだと思った。
「この近くってことは第三小ですか?」
「いや、私は高校の司書だったから。桧山高校ってわかる?」
彼女が口にしたのは今まさに私が通っている高校の名前に違いなかった。
「え、おねえさん桧山の先生だったんですか?私、今桧山高校の二年生ですよ。」
おねえさんは驚いたような顔をして私を見ると大きく口を開けて笑った。
「なんだ、そっか、まさかこんなところでかつての学校の生徒と鉢合わせるなんて。世間は狭いな。驚いた。」
「偶然とはいえすごいですよね。」
「本当に。そうだ、司書の先生、私の後任は佐々木先生だったろう。彼女は元気にしているかい?」
「ああ、佐々木先生は昨年結婚して寿退社したんです。あ、学校の先生も寿退社って言い方でいいのかな?」
「そうか、佐々木先生ご結婚されたのか。めでたいね。」
そうかそうかと繰り返しながら彼女は幸せそうに笑った。
知り合いとはいえ他人のことなのに、まるで自分のことのように嬉しそうな顔で笑えるこの人は、外見だけじゃなくて中身もきっと美しい人なんだなと感じる。
思わずじっと見つめていると、彼女ともう一度目が合った。もしかしたら気まずかったのかなと私は少し慌てたが、彼女は何かを言おうと少し迷っていたようだった。
「あの、未成年を前にこんなこと聞いてもいいのかはわからないのだけど、煙草吸ってもいいかな?どうしても、癖でね。コーヒーがあるとつい。」
私はそういうことかと納得し「どうぞ」と促した。彼女は「ありがとう」というとポケットから煙草とマッチを取り出し、その先端に火をつけた。
「あれ、その煙草。」
「ん?これがどうかした?」
「偶然知ってしまったというか、現場に出くわしてしまったので内緒なんですけど、佐々木先生のあとに赴任した司書の先生がいて、その人がそれと同じ煙草を吸っていたから。佐原先生っていうんですけど。」
私の言葉に、彼女は手にした煙草を取り落としてしまった。
まだ火をつけたばかりの真新しい煙草が地面にぽとりと落下する。
「おねえさん?」
「あ、いや、ぼうっとしていたら落としてしまったよ。もったいないことをしたな。」
彼女は落とした煙草を拾い上げ携帯灰皿のなかにしまった。
それからもう一本新しいものを箱から取り出し、吸い始める。
「それにしても、生徒の前で煙草を吸うなんて。まったく悪い男だな。」
「やっぱりそう思います?」
「まあこの状況で私が言えたことじゃないか。」
私たちはお互いに顔を見合わせてクスクスと笑った。
しばらく間をおいて、おねえさんは煙草を吸いながら私を横目に見ると
「もしかして君は、その先生のことが好きなのかい?」
そう聞いてきた。今度は私が思わずクレープの最後の一口を落としそうになった。
「どうして?」
「煙草を吸わない人間が煙草の銘柄を気にするのは、大抵そういうことだろう?」
なるほど、たしかにそうなのかもしれない。
彼女は私の表情を見るなり、すべてを悟ったようだった。
「本当に、悪い子だ。」
「え?」
「いや、なんでもないよ。ちょっとかつての教え子を思い出しただけさ。」
「教え子?」
この人が先生だったならきっと学生生活はとても楽しく実りのあるものになっただろう。その教え子という人が私は羨ましかった。
「おねえさんの教え子ってどんな人だったんですか?」
私がおねえさんに尋ねると、彼女は少し苦笑した。
「本が好きでもないくせに暇だからって図書室に入り浸って、よく私のことをからかってきていたよ。授業はサボるし服装検査にはいつも引っかかるような悪ガキだったけど、まっすぐで一生懸命で、いい子だったよ。」
「その人は今どうしているんです?」
「さあねえ。どこかで元気にやっているんじゃないかな。」
「でも、それだけ印象に残っている人ならおねえさんも会いたいんじゃないですか?その人に。」
彼女はしばし悩んでいたが、もう一度煙草を吸うと、真っ白な煙を吐き出しながら青く澄んだ空を眩しそうに見上げた。
「連絡先も知らないし、それはあえて伝えなかった。私は、逃げてしまったからね、たとえ彼の現在を知ったとして、会う資格なんてないんだよ。きっと深く傷つけてしまったから、合わせる顔がない。」
彼女はとても悲しそうな目でそう言った。
私は会ったばかりだったけれど、この人にそんな顔をしてほしくなかった。
「何があったのかなんて、私にはわからないけれど、きっとおねえさんにもなにか事情があったんだと思うんです。それをその人だってわかってる。会いたいって、思ってますよ。私がその人だったらどんな理由だったとしてもやっぱりまた会いたいって、思っちゃいますもん。だって…。」
「だって?」
「おねえさん、綺麗だから。」
彼女の動きがぴたりと止まった。
彼女が私を通して誰かを、おそらくその『教え子』の姿を見ているのだということはすぐにわかった。
私がなにか言葉を探していると、彼女はそれを察したかのように立ち上がった。
「引き止めて悪かったね。どこかへ行く途中だったんだろう。君と話ができてよかったよ。やはり君はとても優しい人だった。ありがとう。」
そう言うとその人は、それは美しい笑みを私に向けてくれた。
「あの、おねえさん。」
「ん?なんだい?」
「また、会えますか?」
私は以前佐原先生にしたものと同じ質問を彼女に投げかけた。
「ああ、まだ少しの間はこの近くに滞在している予定だから。」
それから彼女は思いついたように鞄からペンとメモ帳を取り出すと、何かを書いて一枚破り、私に手渡した。
「何かあったら連絡してくれ。あと一週間くらいならこの近くにいるから。」
それじゃあねと彼女は軽く手を振って颯爽と歩いていってしまった。
手渡されたメモ帳を見ると、そこには電話番号と名前が記されていた。
私はそれをなくさないように大事に財布の中にいれると、おねえさんが去っていった方とは逆の道へ歩き出した。
「ありがとうございました。」
感じの良い店員さんから大事な先生のカーディガンを受け取り、私は帰路につく。
とても嬉しい出会いはあったけれど、予定よりも帰りの時間がすっかり遅くなってしまった。今日は両親の帰りは遅い。おばあちゃんを一人にしてしまっているのが心配だ。早く帰らなければ。
そう思って大通りの信号の色が変わるのを待っていたとき、視界の隅に見覚えのある横顔が見えた。
大通りの向こう側、それは間違いなく佐原先生の姿だった。
まさか休みの日に会えるなんて、今日は本当にツイている。
「佐原先生!」と声をかけようと私は軽く息を吸い込むが、しかし私が彼の名前を呼ぶことはなかった。
最初は車の影で見えなかったが、よく見ると彼は女性と一緒だった。
仲良さそうに話をしながら歩く先生の隣に見えたのは、楽しそうに笑う優香の姿だった。
通り過ぎていく車の音がなんだか大きく聞こえて、佐原先生と初めて出会ったあの日の放課後を思い出す。信号はとっくに青に変わったというのに、私は一歩も動けないまま、ただその場に立ち尽くしていた。
好きな人に会うための口実を探すという行為がこんなにも楽しいなんて、私は生まれて初めて知った。今までだっていいなと思う人はいたし、初恋だってとうに終わっている。しかしそのどの相手にだって、ここまでの執着を見せたことはなかった。心が渇望しているというのだろうか。早く会いたくて、顔が見たくて、声が聴きたくて。飢えた動物みたいに彼の姿を思い浮かべては、追い求めてしまう。きっとお酒がやめられないとか煙草がやめられないとか、大人たちが悩んでいる一種の中毒症状というものにこれは近いものなのではないだろうか。今までこんなこと一度もなかったのに、私はおかしくなってしまったのかもしれない。
「はあ。」
冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、コップに注ぐ。
この土日、ずっとそんなことばかり考えている。
学校が休みの間のこの二日間、彼は一体何をしているのだろう。
私達は所詮、学校の生徒と先生という関係性でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。
そんな当たり前のことをまざまざと見せつけられているようで、私は歯がゆい思いでいっぱいになった。もしも先生と同じ時代に生まれていたのなら、私は先生のことを好きになっていたのだろうか。それとも大人になった今の先生だからこそ、私はこんなにも好きになってしまったのだろうか。
「はあ。」
もう一度、ため息をつく。
「あんた、恋でもしているのかい。」
台所でお茶を持ったまま、ため息をつく私におばあちゃんが話しかけてきた。
おじいちゃんは随分昔に戦争で亡くなってしまったため、私はその顔を写真でしか見たことがない。残されたおばあちゃんはその時すでに母を身籠っており、こうして今私という存在につながっているのである。
おばあちゃんが愛したというおじいちゃんと私も話してみたかったのだがこればかりは仕方がない。
なので今は私と両親とおばあちゃんと、それから猫のたまと、4人と一匹で暮らしている。今日両親はどちらも出かけており、私はおばあちゃんと一緒に留守番をしていた。
「あんた恋してるんだろう。」
普段そんな話は一切しないおばあちゃんが、もう一度その言葉を繰り返した。
「なに、おばあちゃん、いきなりどうしたの。」
私は居間に向かい、机の上に手にしていたコップを置くと、おばあちゃんの隣に座った。
たまはおばあちゃんの膝の上で気持ちよさそうに腹を膨らませたりへこませたりしていた。
時折くぷすーという奇妙な寝息を立てながら、安心しきった顔をしている。
おばあちゃんは大事そうにたまの体を撫でながら話を続けた。
「結衣子のため息にそういう匂いがしたから。」
「なによそれ。」
私は笑って誤魔化そうとしたが、そんな余裕すら自分が今持ち合わせていないことに初めて気が付いた。
誰かに聞いて欲しかった。両親や友人といった近すぎる人でもなく、佐原先生を知らない誰かに、自身の気持ちを打ち明けてしまいたかったのだろう。
「ねえ、おばあちゃん、おばあちゃんはおじいちゃんのこと、好きだった?」
おばあちゃんはたまを撫でる手を止めることなく答えた。
「ああ、大好きだったよ。誰よりも愛していたし、今だって愛している。」
「私ね、おばあちゃん。今まで好きだなって思う人、いなかったわけじゃないの。だけどね、それでもいつだってどこか冷静な自分がいたんだ。この人はきっとこうしたら喜ぶだろうとか、計算みたいなものを考えたりして。だけど今は、全然余裕なんてない。失礼なことだって平気で言ってしまうし、自分が自分じゃないみたいに感情だけで動かされてしまっているみたいなそんな感じがして、少し怖いの。冷静さなんて欠片もない。私、どうしちゃったんだろう。」
畳の上で私は体育座りをしてぎゅっと膝を抱える。
開け放たれた窓から柔らかな風が入り込んでくる。
おばあちゃんは私の言葉に嬉しそうな声を上げた。
「そうかい。結衣子はとうとう本物の恋に出会ったんだね。」
「本物の、恋?」
「そうさ。」
私はおばあちゃんの言葉を胸の内で繰り返した。
たまは満足したのかおばあちゃんの上で小さく伸びをするとどこかへ行ってしまった。
「恋なんてものはね、生身の人間の感情のぶつかり合いなのさ。無様で不格好、大いに結構じゃないか。そうしてぶつかり合って、はじめてその関係は磨かれていくんだよ。宝石みたいにね。それがなかったらどんなに綺麗な宝石であってもただの石ころ同然なんだよ。結衣子は昔からちょっと人のことを見すぎてしまうところがあったから、私はそれを心配していたのだけど、もう心配は無用みたいだね。」
珍しく口数の多いおばあちゃんに私は不安に思っていたことを聞いてみた。
「でもおばあちゃん、私が好きになったのは年上の男性なの。そういう大人の人ってさ、やっぱり恋愛なんてものには慣れているのだろうし、駆け引きとかそういうことができないと、ぶつかり合ってすら、もらえないんじゃないかな。」
おばあちゃんは私の頭を撫でた。たまみたいに、大事そうに、優しく。
「駆け引きなんてものが出来ているうちは、それは本物の恋とは言わないよ。理性が働いているってことだからね。そんな状態で本気でぶつかり合えるほど、人間は器用な生き物じゃない。それは大人も子供も関係ない。みんな同じさ。結衣子が思っているほど、案外大人は大人じゃない。大人ぶっているだけなんだよ。」
「大人ぶっているだけ?」
「そうさ。だって結衣子もそうだろう?小さい頃の結衣子は、高校生の自分ってもっと大人のお姉さんになっていると思っていなかったかい?」
言われてみればたしかにそうだった。高校生のお姉さんという響きは、まだランドセルを背負っていた頃の自分にとってはまさに憧れの大人の象徴だった。しかし、今実際自分がそうなってみると、そうそう昔と変わっているようには思えなかった。周りのみんなだってそうだ、変わっているようで、その実大きく変わったわけではない。
「その結衣子の想い人が一体どれだけ年上の男なのかはわからないけれど、駆け引きなんてものをしないと振り向いてくれないようなつまらない男ならこちらから願い下げだよ。」
おばあちゃんのこういう気持ちいいほどさっぱりとした言い方は昔から変わることがなく、こんな大人になれたらいいなと思っていた。未だに自分はそれにはほど遠いけれど、話してみてよかったなと思う。
ほんの少しだけ、心が軽くなったのを感じる。
「おばあちゃん、私、頑張ってみる。」
おばあちゃんは「こっちにおいで」と私を呼ぶとしわしわの体で抱きしめてくれた。
「大丈夫。結衣子なら大丈夫さ。あんたは私の自慢の孫なんだ。ありのままの結衣子でぶつかっていってごらん。おばあちゃんはいつでも結衣子の味方だからね。」
私は思わず泣きそうになった。しかしそれをなんとか堪えておばあちゃんの小さな体を抱きしめ返す。
「うん。ありがとう、おばあちゃん。」
「そういえば今日はクリーニングの引き取りに行くとか言ってなかったかい?」
「あ、そうだった。」
先生から借りていたカーディガンをそのまま返すのはさすがに悪い気がして、私はクリーニングに出したのだ。今日はその受取の日だった。
「私は一人でも大丈夫だから、行っておいで。」
「うん。ありがとうおばあちゃん。すぐ戻るね。」
「急がなくていいから、気を付けて行ってくるんだよ。」
「わかった、ありがとう。」
私はすぐに軽い身支度を済ませて家を出た。
クリーニング屋さんは駅前にあるので人通りが多く、学校から近いこともあっていつだれに出くわすとも限らない。最低限の身だしなみは気を付けなくてはならないのだ。
「いってきます。」
玄関の扉を開けると外はすっかり晴れ渡っていて綺麗な青空が広がっていた。
日曜の昼下がりは人通りが多く、恋人たちや家族連れ、イヤホンをして足早に通り過ぎる人など様々だ。
駅前の大通りは見事な桜並木になっていて、当然ながらもう満開の桜は散ってしまっているのだけれど、代わりに今は青々とした緑の葉が空を目指して背伸びをしていた。
「今年も綺麗だったな。」
私は4月のはじめの頃に見た満開の桜並木を思い出していた。
ぼうっと歩いていたからだろう、前方に人がいることに気が付かなかった。
どんとぶつかり、相手の人が少しよろめく。
「ごめんなさい、私ちゃんと前を見ていなくて。」
慌てて謝ると目の前の女性は優しく微笑んでくれた。
「いや、こちらこそ申し訳なかった。久しぶりにこのあたりに来たものだから、ついこの桜並木が見たくなってね、よそ見をしてしまっていたのは私の方だよ。ケガはないかい?」
その人はかっこいいという表現が似合う美しい人だった。服装が地味なので一見するとわからないがお洒落をしたら相当に化けるだろう。
「私は大丈夫ですけど、おねえさんは?」
「私も大丈夫だよ。ありがとう。」
「よかった。」
ほっと胸を撫で下ろす私に彼女はふわりと表情を和らげた。
「君はとても優しい人なんだね。そうだ、少し時間はあるかい?」
彼女は突然そう問いかけた。私が頷くと彼女はさも嬉しそうに「そうか」と言った。
「ぶつかってしまったお詫びに何か飲み物でもおごるよ。」
「そんな悪いですよ。」
「いいから。ただ私が君と話してみたくなっただけなんだ。だめかな?」
そんな聞き方をされては断れるはずがない。
「じゃあ、近くに公園があるんでそこで缶コーヒーおごってください。」
「かえって気を遣わせてしまったかな。ありがとう。じゃあ、そうしようか。」
私は彼女を公園のある場所まで連れて行き、彼女は公園の入り口で缶コーヒーを買ってくれた。
日曜日だったので公園には移動販売のワゴンが何台か止まっており、ついでだからとクレープまでおごってくれた。彼女は甘いものは苦手なのか何も頼まず、私は生クリームとチョコバナナの入ったものを選んだ。
私たちはそれぞれの缶コーヒーとクレープを手に、空いている適当なベンチに腰掛けた。少し大きめのこの公園には大きな池があり、私たちはそれを眺める形になった。
「なつかしいな。ここの公園も休みの日にはたまに来ていたんだ。当時はあんなに移動販売なんてものはなかったけどね。」
「おねえさんはこのあたりに住んでいたんですか?」
彼女は「そうだよ」とうなずいた。
「実家は遠いのだけど、職場がこの近くにあってね。それでこの近くに住んでいたのさ。」
「そうだったんですね。」
私は買ってもらったクレープを一口頬張った。生クリームとバナナの合わさった濃厚な甘みに思わず顔がほころぶ。そんな私の様子を見て彼女は満足そうな表情をした。
「でもおねえさん、なんでこの時期に桜並木を見に?満開の季節ならわかるけれど。」
私が彼女の方を見ると、一瞬目が合い、そのまま彼女はどこか遠くへ視線を移した。
「もちろんその頃はそりゃ見事なものだけど、この桜並木には特別な思い出があってね。つい来てしまうんだ。どの季節であっても。」
「ふうん。」
私はクレープを頬張りながら続けて彼女に問いかける。
「ところでおねえさんはなんのお仕事をしているんですか?」
「教育関係とでもいうのかな。少し前まではこのあたりで学校図書の司書をしていたよ。」
「へえ、司書の先生なんですね。」
「元、だけどね。」
佐原先生と同じだと思った。
「この近くってことは第三小ですか?」
「いや、私は高校の司書だったから。桧山高校ってわかる?」
彼女が口にしたのは今まさに私が通っている高校の名前に違いなかった。
「え、おねえさん桧山の先生だったんですか?私、今桧山高校の二年生ですよ。」
おねえさんは驚いたような顔をして私を見ると大きく口を開けて笑った。
「なんだ、そっか、まさかこんなところでかつての学校の生徒と鉢合わせるなんて。世間は狭いな。驚いた。」
「偶然とはいえすごいですよね。」
「本当に。そうだ、司書の先生、私の後任は佐々木先生だったろう。彼女は元気にしているかい?」
「ああ、佐々木先生は昨年結婚して寿退社したんです。あ、学校の先生も寿退社って言い方でいいのかな?」
「そうか、佐々木先生ご結婚されたのか。めでたいね。」
そうかそうかと繰り返しながら彼女は幸せそうに笑った。
知り合いとはいえ他人のことなのに、まるで自分のことのように嬉しそうな顔で笑えるこの人は、外見だけじゃなくて中身もきっと美しい人なんだなと感じる。
思わずじっと見つめていると、彼女ともう一度目が合った。もしかしたら気まずかったのかなと私は少し慌てたが、彼女は何かを言おうと少し迷っていたようだった。
「あの、未成年を前にこんなこと聞いてもいいのかはわからないのだけど、煙草吸ってもいいかな?どうしても、癖でね。コーヒーがあるとつい。」
私はそういうことかと納得し「どうぞ」と促した。彼女は「ありがとう」というとポケットから煙草とマッチを取り出し、その先端に火をつけた。
「あれ、その煙草。」
「ん?これがどうかした?」
「偶然知ってしまったというか、現場に出くわしてしまったので内緒なんですけど、佐々木先生のあとに赴任した司書の先生がいて、その人がそれと同じ煙草を吸っていたから。佐原先生っていうんですけど。」
私の言葉に、彼女は手にした煙草を取り落としてしまった。
まだ火をつけたばかりの真新しい煙草が地面にぽとりと落下する。
「おねえさん?」
「あ、いや、ぼうっとしていたら落としてしまったよ。もったいないことをしたな。」
彼女は落とした煙草を拾い上げ携帯灰皿のなかにしまった。
それからもう一本新しいものを箱から取り出し、吸い始める。
「それにしても、生徒の前で煙草を吸うなんて。まったく悪い男だな。」
「やっぱりそう思います?」
「まあこの状況で私が言えたことじゃないか。」
私たちはお互いに顔を見合わせてクスクスと笑った。
しばらく間をおいて、おねえさんは煙草を吸いながら私を横目に見ると
「もしかして君は、その先生のことが好きなのかい?」
そう聞いてきた。今度は私が思わずクレープの最後の一口を落としそうになった。
「どうして?」
「煙草を吸わない人間が煙草の銘柄を気にするのは、大抵そういうことだろう?」
なるほど、たしかにそうなのかもしれない。
彼女は私の表情を見るなり、すべてを悟ったようだった。
「本当に、悪い子だ。」
「え?」
「いや、なんでもないよ。ちょっとかつての教え子を思い出しただけさ。」
「教え子?」
この人が先生だったならきっと学生生活はとても楽しく実りのあるものになっただろう。その教え子という人が私は羨ましかった。
「おねえさんの教え子ってどんな人だったんですか?」
私がおねえさんに尋ねると、彼女は少し苦笑した。
「本が好きでもないくせに暇だからって図書室に入り浸って、よく私のことをからかってきていたよ。授業はサボるし服装検査にはいつも引っかかるような悪ガキだったけど、まっすぐで一生懸命で、いい子だったよ。」
「その人は今どうしているんです?」
「さあねえ。どこかで元気にやっているんじゃないかな。」
「でも、それだけ印象に残っている人ならおねえさんも会いたいんじゃないですか?その人に。」
彼女はしばし悩んでいたが、もう一度煙草を吸うと、真っ白な煙を吐き出しながら青く澄んだ空を眩しそうに見上げた。
「連絡先も知らないし、それはあえて伝えなかった。私は、逃げてしまったからね、たとえ彼の現在を知ったとして、会う資格なんてないんだよ。きっと深く傷つけてしまったから、合わせる顔がない。」
彼女はとても悲しそうな目でそう言った。
私は会ったばかりだったけれど、この人にそんな顔をしてほしくなかった。
「何があったのかなんて、私にはわからないけれど、きっとおねえさんにもなにか事情があったんだと思うんです。それをその人だってわかってる。会いたいって、思ってますよ。私がその人だったらどんな理由だったとしてもやっぱりまた会いたいって、思っちゃいますもん。だって…。」
「だって?」
「おねえさん、綺麗だから。」
彼女の動きがぴたりと止まった。
彼女が私を通して誰かを、おそらくその『教え子』の姿を見ているのだということはすぐにわかった。
私がなにか言葉を探していると、彼女はそれを察したかのように立ち上がった。
「引き止めて悪かったね。どこかへ行く途中だったんだろう。君と話ができてよかったよ。やはり君はとても優しい人だった。ありがとう。」
そう言うとその人は、それは美しい笑みを私に向けてくれた。
「あの、おねえさん。」
「ん?なんだい?」
「また、会えますか?」
私は以前佐原先生にしたものと同じ質問を彼女に投げかけた。
「ああ、まだ少しの間はこの近くに滞在している予定だから。」
それから彼女は思いついたように鞄からペンとメモ帳を取り出すと、何かを書いて一枚破り、私に手渡した。
「何かあったら連絡してくれ。あと一週間くらいならこの近くにいるから。」
それじゃあねと彼女は軽く手を振って颯爽と歩いていってしまった。
手渡されたメモ帳を見ると、そこには電話番号と名前が記されていた。
私はそれをなくさないように大事に財布の中にいれると、おねえさんが去っていった方とは逆の道へ歩き出した。
「ありがとうございました。」
感じの良い店員さんから大事な先生のカーディガンを受け取り、私は帰路につく。
とても嬉しい出会いはあったけれど、予定よりも帰りの時間がすっかり遅くなってしまった。今日は両親の帰りは遅い。おばあちゃんを一人にしてしまっているのが心配だ。早く帰らなければ。
そう思って大通りの信号の色が変わるのを待っていたとき、視界の隅に見覚えのある横顔が見えた。
大通りの向こう側、それは間違いなく佐原先生の姿だった。
まさか休みの日に会えるなんて、今日は本当にツイている。
「佐原先生!」と声をかけようと私は軽く息を吸い込むが、しかし私が彼の名前を呼ぶことはなかった。
最初は車の影で見えなかったが、よく見ると彼は女性と一緒だった。
仲良さそうに話をしながら歩く先生の隣に見えたのは、楽しそうに笑う優香の姿だった。
通り過ぎていく車の音がなんだか大きく聞こえて、佐原先生と初めて出会ったあの日の放課後を思い出す。信号はとっくに青に変わったというのに、私は一歩も動けないまま、ただその場に立ち尽くしていた。