2.2
遠くからパタパタと上履きの足音が近づいてきた。ちょうど終礼が終わった頃だろうか。ああ、やっぱり来ちゃったか。そう思った。
「佐原先生!」
嬉しそうな顔をして近づいてくる彼女の姿には、ちぎれんばかりに振り乱す忠犬の尻尾でも見えそうな気がした。
ーねえ、聞いてよ静香!
そう言えば自分も彼女と同じ年の頃には、あんな風に静香に対し無邪気に笑いながら全力でぶつかりに行っていた。そのたびに目上の人を呼び捨てにするなど何事かとよく怒られたものだった。
「どうしたの、そんなに慌てて。」
なつかしさを内包しながら俺は目の前の彼女に話しかけた。
「先生に話したいことがあるの。だから来ちゃった。」
興奮気味の彼女は昨日会った時に比べ、大分はつらつとした印象を受けた。あの時はもっと憂いを帯びていたというか、大人しいような印象をうけたのだが、今はどちらかというと真逆である。
一体彼女の本当の姿は昨日の彼女と今目の前にいる彼女、どちらなのだろう。
ついついそんなことを考えてしまう。ただその感情の起伏も、高校生という時期特有のもののような気がして、微笑ましいなと思った。
「わかったよ。ただね、ここがどこなのか、ちゃんと理解している?」
落ち着かせようと抑えた声でそう言うと、彼女は恥ずかしそうに自身の口に手を当てた。
「ちょうど一服しにいこうと思っていたんだ。そのついででよかったら聞いてあげよう。」
「なんだか上からじゃありませんか?その言い方。」
「まあ、大人ですからね。嫌ならいいけど。」
ちょっとした意地悪のつもりだった。
しかし、やはり今日の彼女は思いのほか感情的だった。
その無防備な様子にこちらの方がかえってどきりとさせられてしまう。
「先生の意地悪。」
「なに、今気が付いたの?」
ほんの少しでも自身の感情が波立ったなどと悟られてはいけない。
俺はさっさと歩き出し、彼女に自分の表情を見られないようにした。
俺がいきなり歩き出したものだから彼女は慌ててその少し後ろをついてくる。やはり忠犬みたいな子だ。
「そういえばさ」
廊下を歩きながら、俺は昨日の失敗を思い出していた。
話があるといって来たわりにはまったく話し出す気配もなかったので、この間に昨日聞きそびれた名前を聞こうと思い、振り返る。
すると何故か、彼女は俺の方に少し手を伸ばした状態で固まっていた。
いたずらしようとして見つかった子供みたいだなと思う。
「ん?なに?」
「えっと、シャツに何か付いていたから取ろうと思って。」
彼女の本心というか狙いというか、それはよくわからなかったが、すぐに逸らした視線と真っ赤になって俯いた表情を見たらそれが嘘だということだけはすぐにわかった。
俺はなにも気付かなかったという風を装って
「あ、本当?とってくれる?」
などと彼女の嘘にそのまま乗ってみせた。
彼女は咄嗟についてしまった嘘を本当に近づけるためか、俺の背中に指を伸ばす。その手は小さくて、若者らしい肉感があった。同じ部位だというのに、記憶に残る静香の細長い手とはまるで別もののようだ。
彼女はしかし、伸ばしたその手をすぐに引っ込めた。
「ごめんなさい、見間違いだったみたい。」
「そう?まあいいや。ありがとう。」
俺はますます彼女の意図を測り損ねてしまった。
しかしこれ以上深堀をするのがよくないこともなんとなくわかっていた。
だからなにもなかったかのようにただ黙々と歩き進めた。
「ねえ、先生。」
「なに?」
突然、今度は彼女の方から俺を呼んだ。
「さっき、私に何か言おうとしなかった?」
「ああ。そうそう、名前だよ名前。」
「名前?」
彼女はきょとんとした表情を浮かべていたが、すぐになんのことか思い当たったようだった。
「ああ、わたしの?」
「それ以外になにがあるの。」
彼女はしっかりしているようでどこか抜けている節がある。
そんな一面を知ったところで何になるのだと自分自身に笑ったところで、ちょうど非常口の明かりの灯る扉へ辿り着いた。
扉を開ける瞬間に香る、春の生ぬるい空気が俺は嫌いだった。
だから一刻も早く煙草の匂いでかき消してやろうと思った。
しかし、焦ってはいけないと少し気持ちを落ち着かせる。
「あ、ちゃんと扉閉めてね。これ以上誰かに知られたら今度こそ俺怒られちゃうから。」
これ以上だれかにここを知られるわけにはいかない。
全面禁煙ですなんて言われた日にはもう、俺はやっていけないだろう。
「私はいいんですか?」
「君はもう共犯者だから。」
「え?」
「前回は事故だった。でも今回は自分の意志でついてきた。ならばもう共犯だよ。」
彼女は微かにためらいの様相を見せたが、すぐに俺に言われた通りに扉を閉めた。俺はそれを見届けてから今度こそ煙草を取り出す。
ボックスではなくソフトを選んでしまうのも、自分にはきついこの銘柄を選んでしまうのも、結局はすべて静香の影を追っているにすぎないのだけど、習慣となった彼女の名残はいまだに変えることができなくて、変われない自分自身に少しばかり辟易した。ゆっくりと吸い込み、細く長く、白い煙を吐き出す。これはただの煙なのか、ため息の可視化なのか、俺にはもうその区別すらもつかなかった。
「それで?話したいことがあるんじゃなかったの?」
「そう、そうなんです。私新しく友達が出来たんです。」
それは想定外の答えだった。
「君は別に友達がいないタイプではないだろうに。なにがそんなに嬉しかったの?」
彼女は俺が成長の過程でとっくにどこかに置き忘れてきた輝きをその目に携え、俺のことをまっすぐに見ながら話し始めた。
「ずっと前から憧れていた子なんです。すごく綺麗な子で、だけど他の女の子みたいに特定のグループに属しているってわけでもない。自分をしっかり持ってるっていうか。そういう女の子なんです。その子と今日友達になれて、私、すごく嬉しくて。」
それを聞いてああ、なるほどと俺はすぐに納得した。彼女はきっと「いい子」だから、周りの人間の顔色を無意識のうちに伺ってしまうのだろう。そういう子にとって、孤高の一匹狼のような子というのはいつの時代も憧れの対象になるのである。ましてや同性だ。隣の芝は青く見えるというやつなのだろう。
とはいえ、それをこんなにも素直な感情として語る彼女は、俺から見れば相当に眩しい存在であるし、友達になりたいと思ったその新しい友人とやらが彼女の内面に魅かれたのもよくわかる気がした。
ただ先ほども思ったが、どちらかというと彼女はそういう自身の感情というものをもっと内に抱え込む人なのだと思っていたから、それだけはやはり不思議だった。
「なんだか意外だな。君はあまりそういう風に感情的に話す人ではないと勝手に思っていた。」
彼女は意表を突かれたように一瞬黙り込んでしまう。
「あれ、本当だ。なんでだろう。佐原先生の前だと、なんだか素直に自分の考えとか気持ちを話せるみたいです。」
狙った言葉なのか、はたまた自然にこぼれた言葉なのか、実際のところは知らないが、なんでだろうだなんて随分と挑発的なことを言うものである。
俺は「そりゃあ光栄だ」と言い、また新たな煙草に火をつけた。
彼女は何かを考えるようにしながら俺の煙草の煙をじっと眺めた。
その顔はほんの少し不満げで、むくれていた。
「先生、煙草っておいしいの?」
突然、彼女がそんなことを言い出した。
「未成年には早い。」
「別に吸いたいなんて言ってないですよ。ただ知りたかっただけです。」
「別に、おいしくはないよ。」
彼女はますます訳がわからないといった表情で首を傾げる。
「じゃあ、なんで先生は煙草を吸うんです?」
なぜ、そう問われて、俺の頭には静香の横顔が浮かんだ。
時が流れれば記憶だって色あせる、そう思っていたのに、彼女との記憶は時が経つほどにかえって咽かえるほどの濃密な香りでもって色を増し、俺にまとわりついてくる。
「忘れないためかな。」
口をついて出てきたのは思ってもみない答えだった。
「忘れないため?」
先端が灰になってボロリと崩れる。
忘れないためではないだろう、忘れられないからの間違えだ。
それはきっと似ているけど致命的なほどの違いなのだ。
しかしそんなこと、彼女に言ったところで無意味でしかないのはよくわかっている。
だから俺はその言葉をそっと飲み込み、煙に巻いた。
「そう、いろいろとね。」
「色々って?」
彼女のまっすぐな瞳に覗き込まれると、どうにも嘘や隠し事の類がしにくい気持ちになってしまう。
これはやっかいだなと思いつつ、俺は早々に「秘密」とだけ答えた。
「それよりも、結局のところ俺はどこの誰と話をしているのか、まだ教えてはもらえないの?」
本当にただ知りたかった気持ちが半分、話をそらしたかったのが半分といったところだが、どうにも彼女にはお見通しだったようである。女という生き物はいくつであっても恐ろしい。
「岡本結衣子です。二年C組です。」
「ああ、コバセンのクラスか。」
「先生、なんでうちの担任の先生のあだ名知っているの?」
先日委員会に来ていた生徒は彼女と同じクラスで、その担任の名前も会話の中で言っていた。
彼女たちの担任はかつての自分の恩師でもあった。なんだか不思議な気分である。
「俺もここの卒業生だから。」
「え、そうなんですか?」
彼女は自分との共通点の発見に、驚きと同時に喜びを隠しきれない様子だった。
「先生にも学生の頃があったんですね。」
「そりゃあるさ。なんだと思っているの。」
たった今自分が彼女の担任を恩師だと思ったように、彼女から見たら自分も立派なひとりの先生なのだ。
自分は正規雇用ではなく非常勤講師の立場なわけだが、立ち位置や役職など生徒から見れば関係ない。
ああそうだ、自分は彼女にとって先生なのだと、そのたった一言で強く意識させられた。
「先生の学生時代ってどんな感じだったんですか?」
今日の彼女はやたらと質問をしたがる。
続けざまに彼女から繰り出される質問はあまり答えたくないものであった。
とてもじゃないが自慢できるような生徒ではなかったのだ。若気の至りという言葉がぴったりの悪ガキだったなどと彼女に知られては、せっかく今認識したばかりだというのに、先生としての面目丸つぶれである。
「ええ、まあ少なくとも君みたいな真面目な生徒ではなかったね。」
「卒業アルバムとかないんですか?写真とか。」
やけに食いついてくる。そんなにこの話題は彼女の琴線に触れてしまったのだろうか。
「あっても見せないよ。先生の威厳にかけて。」
「そもそも威厳なんてないから大丈夫ですよ。」
「それはいくらなんでもひどいだろう。」
あっけらかんと言ってのけるその笑顔が少し憎らしくもあり、愛らしくもあった。遠くで生徒の話し声が聞こえて、俺は煙草をしまいながら腕時計に目をやる。思いのほか時間が経過していた。
「さて、そろそろ戻るかな。」
「ええ、もう?」
名残惜しそうな表情にほんの少しだけ後ろ髪をひかれる思いがした。
彼女はたしかに俺の前だと妙に素直というか感情をストレートに表現するようになるらしい。
静香にはなかった彼女のそんな一面は自分にとって非常に新鮮なもので、その姿に気持ちが僅かに動かされてしまっている。それはもう自明であった。
「これ以上さぼっていたらさすがに怒られるから。」
「ほら、行くよ」といって、さっさと扉を開ける。
俺はもう一度、深い呼吸をした。
彼女はもう帰らなければならないそうで、俺が図書室に戻るのとは逆の方向へと進んでいった。
帰り際、笑顔を浮かべて手を振る彼女の後ろ姿を見送り、俺はまた本の番人となるため来た道を引き返す。
テスト期間でもないこの時期は、人もまばらでとても静かだ。
話し声がどうのとかそういう話ではなく、単純に人の出入りが少ないという意味で。
俺はカウンターに戻り、やり残していた雑務に手を付け始めた。
ここの仕事はすべて、静香が学生時代に教えてくれた。
教えてくれたというよりも、勝手に通いつめて、彼女がそれに付き合ってくれていた、という表現の方が正しいかもしれない。
「静香、なにしてんの。」
俺はいつもわざと彼女の名前を呼び捨てにしたし、彼女もまたそれをわかっているようだった。
静香はとても綺麗な女性だったが、いつもシャツにカーディガンというスタイルで、パンツかロングのスカートかという差異はあるものの、いつも代わり映えのない服装をしていた。まるで俺達の制服のように。
「まったく、君はいつになったら私を先生と呼んでくれるんだ。」
彼女は文句を言いながらも、まんざらではないような表情を浮かべる。
静香は煙草を吸っているとき以外は決まってこのカウンターでなにか作業をしていた。
その日も彼女はカウンターで黙々とバーコードのシールを本に貼り付けているところだった。新しく図書室の仲間入りを果たした新着本には割り当てられたバーコードのシールが貼られる。その後汚れや雨から本を守るためにブッカーと呼ばれる透明なシールのようなもので表紙をコーティングするのだ。
その時静香がしていたのはバーコードを貼っていく作業で俺は何度も手伝っていたからもう要領は心得ていた。
「俺、手伝ってあげよっか。もうそれ覚えたし。」
静香はそう提案する俺をじっと見て、それから首を横に振った。
「いや、ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ。」
「なんだよ、遠慮すんなよ。」
「そんなものじゃないよ。ただ今は自分でやりたい気分なのさ。」
俺は断られたことに勝手に拗ねて、手近にあった椅子をカウンターまで引き寄せるとどかりと座って頬杖をついた。静香はそんな俺を見て小さく笑みを浮かべると、また自身の作業に戻ってしまった。俺は仕方なくそのまま彼女の仕事姿を眺めることにした。
細くしなやかな指がぺリぺリと音を立ててシールを台紙からはがし取っていく。
シールを持っていない方の手で積み上げられた山から一冊、真新しい本を手に取ると、手にしたシールを順々に貼り付けていく。淡々と、その作業が何度も繰り返されていく。
「ねえ、なんで今日はだめなの。」
俺の言葉に静香は視線を一瞬こちらに向けた。
機械のように流れていた作業が急に止まる。少し残念な気持ちになった。
「頼んでもよかったのだけど、考え事をしたい気分だったから。」
「それと手伝っちゃいけないこととなんの関係があるのさ。」
「いけないなんて言ってないよ。そうじゃなくて、そうだな。何か考え事をするとき、ただじっと物思いにふけるよりも手を動かしていた方がいいことってないかい?」
「それはなんとなくわかる。」
「そういうことだよ。」
静香は俺の顔をもう一度だけ見て、また作業に戻る。
俺は急において行かれたような寂しさを感じて、苦しくなった。
「静香は何をそんなに考えているわけ。俺には話せないような悩みでもあるの。」
先ほどとは違い真面目な調子の声で俺が尋ねると、静香はうつむいていた顔を上げた。
「そうだね。君には言えない悩み、たしかにそうなのかもしれない。」
彼女のその言葉が、当時の自分にはひどく突き刺さった。
「それは俺が…頼りない、年下のガキだから?」
「いやちがう、そうじゃない。」
「じゃあ、なんで」
彼女は今まで見たこともないほど儚い、悲しそうな顔をした。
その顔は笑っていたけど、笑ってはいなかった。
「佐原君、人間というのはね、本当に大事な相手だからこそ言えないことというものが、たしかに存在するんだよ。」
あまりにもその目がまっすぐ俺を捉えたから、俺はその時、思わず目を逸らしてしまった。
その時の静香の目が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
「わかんねえよ、そんなの。」
膝の上に置いていた手は、いつの間にか自身の制服のズボンを握りしめていた。
彼女の表情になにか得体の知れない陰りのようなものを感じ、どうしようもなく不安になってしまったのかもしれない。それは完全に無意識のうちの行動で、自分でも握った拳の強さに驚いていた。
「いずれ君にもわかる日が来るよ。」
静香はそんな俺を諭すように、そう言った。
先ほどまで沢山積んであったバーコード待ちの本の山は、いつのまにか残り一冊となっていた。考え事をするにはこの仕事はちょうどよいのだと、あの時彼女はそう言っていたが、それは少し違うように思う。あれは考え事をしていたのではなく、何かを思い返していたのではないだろうか。今こうして、俺が静香とのことを思い出していたように、彼女もまた別の誰かを思い浮かべていたのではないだろうか。だとしたら、あの日の俺はとんでもなく孤独で、滑稽だった。
最後の一冊にバーコードのシールを貼り付けると、それを待っていたかのように下校時刻を告げるチャイムが鳴り響く。俺はその場で小さく伸びをした。
「さて、今日はもう帰るとするか。」
見渡すともう生徒の姿はどこにもなくて、俺は遠い日の思い出を閉じ込めるかのように、図書室の扉に鍵をかけた。
夕日が射して茜色に染まる本の海はあの頃と変わらなくて、ただ唯一変わってしまったかつての主の不在が、どうしようもなく悲しく、俺はやりきれない気持ちでいっぱいになった。
遠くからパタパタと上履きの足音が近づいてきた。ちょうど終礼が終わった頃だろうか。ああ、やっぱり来ちゃったか。そう思った。
「佐原先生!」
嬉しそうな顔をして近づいてくる彼女の姿には、ちぎれんばかりに振り乱す忠犬の尻尾でも見えそうな気がした。
ーねえ、聞いてよ静香!
そう言えば自分も彼女と同じ年の頃には、あんな風に静香に対し無邪気に笑いながら全力でぶつかりに行っていた。そのたびに目上の人を呼び捨てにするなど何事かとよく怒られたものだった。
「どうしたの、そんなに慌てて。」
なつかしさを内包しながら俺は目の前の彼女に話しかけた。
「先生に話したいことがあるの。だから来ちゃった。」
興奮気味の彼女は昨日会った時に比べ、大分はつらつとした印象を受けた。あの時はもっと憂いを帯びていたというか、大人しいような印象をうけたのだが、今はどちらかというと真逆である。
一体彼女の本当の姿は昨日の彼女と今目の前にいる彼女、どちらなのだろう。
ついついそんなことを考えてしまう。ただその感情の起伏も、高校生という時期特有のもののような気がして、微笑ましいなと思った。
「わかったよ。ただね、ここがどこなのか、ちゃんと理解している?」
落ち着かせようと抑えた声でそう言うと、彼女は恥ずかしそうに自身の口に手を当てた。
「ちょうど一服しにいこうと思っていたんだ。そのついででよかったら聞いてあげよう。」
「なんだか上からじゃありませんか?その言い方。」
「まあ、大人ですからね。嫌ならいいけど。」
ちょっとした意地悪のつもりだった。
しかし、やはり今日の彼女は思いのほか感情的だった。
その無防備な様子にこちらの方がかえってどきりとさせられてしまう。
「先生の意地悪。」
「なに、今気が付いたの?」
ほんの少しでも自身の感情が波立ったなどと悟られてはいけない。
俺はさっさと歩き出し、彼女に自分の表情を見られないようにした。
俺がいきなり歩き出したものだから彼女は慌ててその少し後ろをついてくる。やはり忠犬みたいな子だ。
「そういえばさ」
廊下を歩きながら、俺は昨日の失敗を思い出していた。
話があるといって来たわりにはまったく話し出す気配もなかったので、この間に昨日聞きそびれた名前を聞こうと思い、振り返る。
すると何故か、彼女は俺の方に少し手を伸ばした状態で固まっていた。
いたずらしようとして見つかった子供みたいだなと思う。
「ん?なに?」
「えっと、シャツに何か付いていたから取ろうと思って。」
彼女の本心というか狙いというか、それはよくわからなかったが、すぐに逸らした視線と真っ赤になって俯いた表情を見たらそれが嘘だということだけはすぐにわかった。
俺はなにも気付かなかったという風を装って
「あ、本当?とってくれる?」
などと彼女の嘘にそのまま乗ってみせた。
彼女は咄嗟についてしまった嘘を本当に近づけるためか、俺の背中に指を伸ばす。その手は小さくて、若者らしい肉感があった。同じ部位だというのに、記憶に残る静香の細長い手とはまるで別もののようだ。
彼女はしかし、伸ばしたその手をすぐに引っ込めた。
「ごめんなさい、見間違いだったみたい。」
「そう?まあいいや。ありがとう。」
俺はますます彼女の意図を測り損ねてしまった。
しかしこれ以上深堀をするのがよくないこともなんとなくわかっていた。
だからなにもなかったかのようにただ黙々と歩き進めた。
「ねえ、先生。」
「なに?」
突然、今度は彼女の方から俺を呼んだ。
「さっき、私に何か言おうとしなかった?」
「ああ。そうそう、名前だよ名前。」
「名前?」
彼女はきょとんとした表情を浮かべていたが、すぐになんのことか思い当たったようだった。
「ああ、わたしの?」
「それ以外になにがあるの。」
彼女はしっかりしているようでどこか抜けている節がある。
そんな一面を知ったところで何になるのだと自分自身に笑ったところで、ちょうど非常口の明かりの灯る扉へ辿り着いた。
扉を開ける瞬間に香る、春の生ぬるい空気が俺は嫌いだった。
だから一刻も早く煙草の匂いでかき消してやろうと思った。
しかし、焦ってはいけないと少し気持ちを落ち着かせる。
「あ、ちゃんと扉閉めてね。これ以上誰かに知られたら今度こそ俺怒られちゃうから。」
これ以上だれかにここを知られるわけにはいかない。
全面禁煙ですなんて言われた日にはもう、俺はやっていけないだろう。
「私はいいんですか?」
「君はもう共犯者だから。」
「え?」
「前回は事故だった。でも今回は自分の意志でついてきた。ならばもう共犯だよ。」
彼女は微かにためらいの様相を見せたが、すぐに俺に言われた通りに扉を閉めた。俺はそれを見届けてから今度こそ煙草を取り出す。
ボックスではなくソフトを選んでしまうのも、自分にはきついこの銘柄を選んでしまうのも、結局はすべて静香の影を追っているにすぎないのだけど、習慣となった彼女の名残はいまだに変えることができなくて、変われない自分自身に少しばかり辟易した。ゆっくりと吸い込み、細く長く、白い煙を吐き出す。これはただの煙なのか、ため息の可視化なのか、俺にはもうその区別すらもつかなかった。
「それで?話したいことがあるんじゃなかったの?」
「そう、そうなんです。私新しく友達が出来たんです。」
それは想定外の答えだった。
「君は別に友達がいないタイプではないだろうに。なにがそんなに嬉しかったの?」
彼女は俺が成長の過程でとっくにどこかに置き忘れてきた輝きをその目に携え、俺のことをまっすぐに見ながら話し始めた。
「ずっと前から憧れていた子なんです。すごく綺麗な子で、だけど他の女の子みたいに特定のグループに属しているってわけでもない。自分をしっかり持ってるっていうか。そういう女の子なんです。その子と今日友達になれて、私、すごく嬉しくて。」
それを聞いてああ、なるほどと俺はすぐに納得した。彼女はきっと「いい子」だから、周りの人間の顔色を無意識のうちに伺ってしまうのだろう。そういう子にとって、孤高の一匹狼のような子というのはいつの時代も憧れの対象になるのである。ましてや同性だ。隣の芝は青く見えるというやつなのだろう。
とはいえ、それをこんなにも素直な感情として語る彼女は、俺から見れば相当に眩しい存在であるし、友達になりたいと思ったその新しい友人とやらが彼女の内面に魅かれたのもよくわかる気がした。
ただ先ほども思ったが、どちらかというと彼女はそういう自身の感情というものをもっと内に抱え込む人なのだと思っていたから、それだけはやはり不思議だった。
「なんだか意外だな。君はあまりそういう風に感情的に話す人ではないと勝手に思っていた。」
彼女は意表を突かれたように一瞬黙り込んでしまう。
「あれ、本当だ。なんでだろう。佐原先生の前だと、なんだか素直に自分の考えとか気持ちを話せるみたいです。」
狙った言葉なのか、はたまた自然にこぼれた言葉なのか、実際のところは知らないが、なんでだろうだなんて随分と挑発的なことを言うものである。
俺は「そりゃあ光栄だ」と言い、また新たな煙草に火をつけた。
彼女は何かを考えるようにしながら俺の煙草の煙をじっと眺めた。
その顔はほんの少し不満げで、むくれていた。
「先生、煙草っておいしいの?」
突然、彼女がそんなことを言い出した。
「未成年には早い。」
「別に吸いたいなんて言ってないですよ。ただ知りたかっただけです。」
「別に、おいしくはないよ。」
彼女はますます訳がわからないといった表情で首を傾げる。
「じゃあ、なんで先生は煙草を吸うんです?」
なぜ、そう問われて、俺の頭には静香の横顔が浮かんだ。
時が流れれば記憶だって色あせる、そう思っていたのに、彼女との記憶は時が経つほどにかえって咽かえるほどの濃密な香りでもって色を増し、俺にまとわりついてくる。
「忘れないためかな。」
口をついて出てきたのは思ってもみない答えだった。
「忘れないため?」
先端が灰になってボロリと崩れる。
忘れないためではないだろう、忘れられないからの間違えだ。
それはきっと似ているけど致命的なほどの違いなのだ。
しかしそんなこと、彼女に言ったところで無意味でしかないのはよくわかっている。
だから俺はその言葉をそっと飲み込み、煙に巻いた。
「そう、いろいろとね。」
「色々って?」
彼女のまっすぐな瞳に覗き込まれると、どうにも嘘や隠し事の類がしにくい気持ちになってしまう。
これはやっかいだなと思いつつ、俺は早々に「秘密」とだけ答えた。
「それよりも、結局のところ俺はどこの誰と話をしているのか、まだ教えてはもらえないの?」
本当にただ知りたかった気持ちが半分、話をそらしたかったのが半分といったところだが、どうにも彼女にはお見通しだったようである。女という生き物はいくつであっても恐ろしい。
「岡本結衣子です。二年C組です。」
「ああ、コバセンのクラスか。」
「先生、なんでうちの担任の先生のあだ名知っているの?」
先日委員会に来ていた生徒は彼女と同じクラスで、その担任の名前も会話の中で言っていた。
彼女たちの担任はかつての自分の恩師でもあった。なんだか不思議な気分である。
「俺もここの卒業生だから。」
「え、そうなんですか?」
彼女は自分との共通点の発見に、驚きと同時に喜びを隠しきれない様子だった。
「先生にも学生の頃があったんですね。」
「そりゃあるさ。なんだと思っているの。」
たった今自分が彼女の担任を恩師だと思ったように、彼女から見たら自分も立派なひとりの先生なのだ。
自分は正規雇用ではなく非常勤講師の立場なわけだが、立ち位置や役職など生徒から見れば関係ない。
ああそうだ、自分は彼女にとって先生なのだと、そのたった一言で強く意識させられた。
「先生の学生時代ってどんな感じだったんですか?」
今日の彼女はやたらと質問をしたがる。
続けざまに彼女から繰り出される質問はあまり答えたくないものであった。
とてもじゃないが自慢できるような生徒ではなかったのだ。若気の至りという言葉がぴったりの悪ガキだったなどと彼女に知られては、せっかく今認識したばかりだというのに、先生としての面目丸つぶれである。
「ええ、まあ少なくとも君みたいな真面目な生徒ではなかったね。」
「卒業アルバムとかないんですか?写真とか。」
やけに食いついてくる。そんなにこの話題は彼女の琴線に触れてしまったのだろうか。
「あっても見せないよ。先生の威厳にかけて。」
「そもそも威厳なんてないから大丈夫ですよ。」
「それはいくらなんでもひどいだろう。」
あっけらかんと言ってのけるその笑顔が少し憎らしくもあり、愛らしくもあった。遠くで生徒の話し声が聞こえて、俺は煙草をしまいながら腕時計に目をやる。思いのほか時間が経過していた。
「さて、そろそろ戻るかな。」
「ええ、もう?」
名残惜しそうな表情にほんの少しだけ後ろ髪をひかれる思いがした。
彼女はたしかに俺の前だと妙に素直というか感情をストレートに表現するようになるらしい。
静香にはなかった彼女のそんな一面は自分にとって非常に新鮮なもので、その姿に気持ちが僅かに動かされてしまっている。それはもう自明であった。
「これ以上さぼっていたらさすがに怒られるから。」
「ほら、行くよ」といって、さっさと扉を開ける。
俺はもう一度、深い呼吸をした。
彼女はもう帰らなければならないそうで、俺が図書室に戻るのとは逆の方向へと進んでいった。
帰り際、笑顔を浮かべて手を振る彼女の後ろ姿を見送り、俺はまた本の番人となるため来た道を引き返す。
テスト期間でもないこの時期は、人もまばらでとても静かだ。
話し声がどうのとかそういう話ではなく、単純に人の出入りが少ないという意味で。
俺はカウンターに戻り、やり残していた雑務に手を付け始めた。
ここの仕事はすべて、静香が学生時代に教えてくれた。
教えてくれたというよりも、勝手に通いつめて、彼女がそれに付き合ってくれていた、という表現の方が正しいかもしれない。
「静香、なにしてんの。」
俺はいつもわざと彼女の名前を呼び捨てにしたし、彼女もまたそれをわかっているようだった。
静香はとても綺麗な女性だったが、いつもシャツにカーディガンというスタイルで、パンツかロングのスカートかという差異はあるものの、いつも代わり映えのない服装をしていた。まるで俺達の制服のように。
「まったく、君はいつになったら私を先生と呼んでくれるんだ。」
彼女は文句を言いながらも、まんざらではないような表情を浮かべる。
静香は煙草を吸っているとき以外は決まってこのカウンターでなにか作業をしていた。
その日も彼女はカウンターで黙々とバーコードのシールを本に貼り付けているところだった。新しく図書室の仲間入りを果たした新着本には割り当てられたバーコードのシールが貼られる。その後汚れや雨から本を守るためにブッカーと呼ばれる透明なシールのようなもので表紙をコーティングするのだ。
その時静香がしていたのはバーコードを貼っていく作業で俺は何度も手伝っていたからもう要領は心得ていた。
「俺、手伝ってあげよっか。もうそれ覚えたし。」
静香はそう提案する俺をじっと見て、それから首を横に振った。
「いや、ありがとう。気持ちだけ受け取っておくよ。」
「なんだよ、遠慮すんなよ。」
「そんなものじゃないよ。ただ今は自分でやりたい気分なのさ。」
俺は断られたことに勝手に拗ねて、手近にあった椅子をカウンターまで引き寄せるとどかりと座って頬杖をついた。静香はそんな俺を見て小さく笑みを浮かべると、また自身の作業に戻ってしまった。俺は仕方なくそのまま彼女の仕事姿を眺めることにした。
細くしなやかな指がぺリぺリと音を立ててシールを台紙からはがし取っていく。
シールを持っていない方の手で積み上げられた山から一冊、真新しい本を手に取ると、手にしたシールを順々に貼り付けていく。淡々と、その作業が何度も繰り返されていく。
「ねえ、なんで今日はだめなの。」
俺の言葉に静香は視線を一瞬こちらに向けた。
機械のように流れていた作業が急に止まる。少し残念な気持ちになった。
「頼んでもよかったのだけど、考え事をしたい気分だったから。」
「それと手伝っちゃいけないこととなんの関係があるのさ。」
「いけないなんて言ってないよ。そうじゃなくて、そうだな。何か考え事をするとき、ただじっと物思いにふけるよりも手を動かしていた方がいいことってないかい?」
「それはなんとなくわかる。」
「そういうことだよ。」
静香は俺の顔をもう一度だけ見て、また作業に戻る。
俺は急において行かれたような寂しさを感じて、苦しくなった。
「静香は何をそんなに考えているわけ。俺には話せないような悩みでもあるの。」
先ほどとは違い真面目な調子の声で俺が尋ねると、静香はうつむいていた顔を上げた。
「そうだね。君には言えない悩み、たしかにそうなのかもしれない。」
彼女のその言葉が、当時の自分にはひどく突き刺さった。
「それは俺が…頼りない、年下のガキだから?」
「いやちがう、そうじゃない。」
「じゃあ、なんで」
彼女は今まで見たこともないほど儚い、悲しそうな顔をした。
その顔は笑っていたけど、笑ってはいなかった。
「佐原君、人間というのはね、本当に大事な相手だからこそ言えないことというものが、たしかに存在するんだよ。」
あまりにもその目がまっすぐ俺を捉えたから、俺はその時、思わず目を逸らしてしまった。
その時の静香の目が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
「わかんねえよ、そんなの。」
膝の上に置いていた手は、いつの間にか自身の制服のズボンを握りしめていた。
彼女の表情になにか得体の知れない陰りのようなものを感じ、どうしようもなく不安になってしまったのかもしれない。それは完全に無意識のうちの行動で、自分でも握った拳の強さに驚いていた。
「いずれ君にもわかる日が来るよ。」
静香はそんな俺を諭すように、そう言った。
先ほどまで沢山積んであったバーコード待ちの本の山は、いつのまにか残り一冊となっていた。考え事をするにはこの仕事はちょうどよいのだと、あの時彼女はそう言っていたが、それは少し違うように思う。あれは考え事をしていたのではなく、何かを思い返していたのではないだろうか。今こうして、俺が静香とのことを思い出していたように、彼女もまた別の誰かを思い浮かべていたのではないだろうか。だとしたら、あの日の俺はとんでもなく孤独で、滑稽だった。
最後の一冊にバーコードのシールを貼り付けると、それを待っていたかのように下校時刻を告げるチャイムが鳴り響く。俺はその場で小さく伸びをした。
「さて、今日はもう帰るとするか。」
見渡すともう生徒の姿はどこにもなくて、俺は遠い日の思い出を閉じ込めるかのように、図書室の扉に鍵をかけた。
夕日が射して茜色に染まる本の海はあの頃と変わらなくて、ただ唯一変わってしまったかつての主の不在が、どうしようもなく悲しく、俺はやりきれない気持ちでいっぱいになった。