1.1
「大丈夫、私やっておくね。」
いつの頃からか口癖のようになったその言葉は、魔法のようだと私は思う。
あるいは便利なアイテムといったところだろうか。
自分で言うのもなんだけれど、私はおそらく他の人より勉強も仕事も一通りこなせる方だと思う。自身のやることが増えようが一向に気にならないし、それよりも、私がそのたった一言を言うだけで周りの人間が笑顔になるということの方がよほど重要なのだ。
「ありがとう結衣子。本当助かったよー。」
ほらね、そう思いながら私は「ううん、気にしないで」とにこやかに返す。
いつもの通り。寸分の狂いもない。
「のんちゃん、ねえまだ?」
「はやくー。」
どこか間延びした声で彼女を呼ぶ声がした。
教室の入り口にはいつの間にか数人の女子生徒が集まっており、彼女のことを待っているようだった。その集団は皆、揃いのユニフォームのように部活で日に焼けた肌をしていて、それは私とは別世界の人間だと見せつけているかのようだった。
彼女には彼女の生きる世界があり、彼女を待つ仲間がいる。
「結衣子ってさ、本当に良い人だよね。」
彼女からしたらそれは褒め言葉の類だったのだろう。
しかしなぜか、その時の私は無性に空しくなって、ほんの少し泣きそうになった。
「全然、そんなことないよ。」
めずらしく、限りなく本音に近い言葉が出た。

彼女が頼まれていたのはクラス全員分の授業ノートを数学の瀬尾先生のもとへ届けるという至極簡単なものだった。私は早く済ませてしまおうと、すぐに職員室へと向かう。
両手に抱えたノートの山はクラスメイト達による日々の記録の蓄積だ。
それは思いの外ずっしりと重みがあった。
まだ春の終わりとはいえ、もうすぐ梅雨前だというのに今日はやけに肌寒い。
長袖ブラウス一枚だった私はセーターを着てくればよかったなと少しばかり後悔していた。
階段を下りてすぐ、職員室を覗くと担任教師と英語教師が楽しそうに談笑していた。肝心の瀬尾先生の姿はどこにも見当たらない。
「あれ、岡本じゃないか。どうしたんだ?」
担任の小林先生は私の顔を見るなり、談笑を中断し席を立った。
職員室にはコーヒーの香りが漂っていて、ここが子供ではなく大人の居場所なのだということをぼんやりと感じる。
「西尾さんが瀬尾先生から頼まれていたものを代わりに持ってきたんです。クラス分の授業ノートなんですけど、瀬尾先生はご不在ですか?」
「そうだったか、ありがとう。瀬尾先生ならさっきまでいたんだけど。今ちょっと席を外していてね、すぐ戻るとは思うのだけど。俺から伝えておこうか?」
「それじゃ、すみませんがお願いします。」
私は軽く頭を下げてノートの山を指示された場所に置き、すぐに職員室を後にした。
両手の重みから解放されてすっかり身軽になったというのに、放課後特有のだるいような、それでいて浮足立っている空気のせいか、私の気持ちは反比例してどんどん重みを増していった。
時折、こういう曇天のような重たい気持ちに苛まれることがある。
一度こうなってしまうともうだめで、どうにか気持ちが再浮上してくれるのをただ待つしかないのである。友達がいないわけでも、ましてやなにか特別な事情を抱えているわけでもない。しかしそれでもどうしようもなく、この学校という小さな箱の中にすら、どこにも自分の居場所がないような、そんな錯覚に囚われてしまうのだ。逃れようもなく、成す術もないままに。
「なんでなのかな」
自分の心が重く沈み切ってしまう前に、そんな感情から目を背けて、ひたすら教室へ向かう足を速める。こうする以外の切り抜け方を私は知らない。
無意識化に聞こえてくるどこかのクラスの話し声がその日は妙に耳について、思わず耳を塞ぎたくなった。そんな時だった。
風に乗って、誰かの鼻歌がかすかに私の鼓膜を揺らした。
まるで深い水底で酸素を求めるように、私はふらふらとその声の方へと吸い寄せられていった。

まず目に入ったのはふわりと浮かぶ白い煙だった。
非常口のある扉の向こう側、わずかに空いた隙間にそっと近づくと、若い男性がコンクリートの壁にもたれながら煙草をふかしているのが見えた。
鼻歌を歌っていたのはどうやら彼らしい。
あれはそう、最近図書室の司書の先生として赴任してきた佐原先生だ。
「あ」
思わず私が声を上げると彼はハッとしたようにこちらを見て、とても気まずそうな顔をした。
こちらに気が付いたからなのか、それとももう吸い終わるところだったのか、彼は手にした煙草を携帯灰皿にしまうと、なんとも言えない表情でこちらを振り向いた。
背後では静かな雨が絹糸のように降り注ぎ、周囲には先ほどの煙草の香りがまだ微かに漂っている。
彼はまだ赴任してきて間もないし、私は図書館に通うほど読書家というわけでもなかったため彼のことはあまり目にしたことがなかったが、こうしてあらためてよく見ると、細身だけど骨ばっていて、遠目で見ていたときよりもちょっとだけ体感的に大きく見える。少し大きめのカーディガンも、癖のある髪の毛も、教職というものに向いているかどうかは別として、そのすべてが彼のアイデンティティであるかのように思えた。眠たそうな瞳でどこかを見つめる彼は、まだ年齢としてはそんなに離れていないのだろうが、しかしあまり大きく表情を変えないためか、パッと見だと幾分年上の人に見える。
「別にここは吸ってもいい場所なんだけど、ごめん、内緒にしてくれる?」
しばらく黙っていた先生は、ようやく口を開いたかと思うと、そう言うなり筋張った指を口元に持っていき、しーというポーズをとった。
小さな子供のように「内緒にして」などとねだる姿が、あまりにもその人のイメージとかけ離れ、ちぐはぐだったものだから、私は思わず吹き出してしまった。
「先生、いきなり何を言うのかと思ったら、大人なのになんだか小さな子供みたいですね。」
今日という日はなぜか本音がこぼれやすい。
私は言ったあとにさすがに失礼だったかなと不安に思ったが、そんな私の危惧など知らないように、先生は困ったようにぽりぽりと頭をかいた。
「ああ、それよく言われるんだよね。」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ。お前ってなに考えてるのかわかんねえよなとか、ガキとか。」
「ええ、嘘でしょう?」
「僕は嘘なんかつかないですよ。」
目を閉じて微笑を浮かべる先生に、私は可笑しくなってもう一度笑ってしまう。
そんな私をちらりと一瞥した先生は、何かに気が付いたように、突然羽織っていたカーディガンを脱いだ。
「どうしたの先生?」
私が問いかけると同時に、先生は私の肩に着ていたカーディガンをかけてくれた。
先ほどまで先生が身に着けていたそれは、先生の熱でほのかに温かく、思っていたよりもずっと大きかった。
「ブラウス一枚じゃ今日は寒いでしょ。それ持って帰っていいから、着て帰りな。風邪ひくよ。」
「でもそれじゃ先生が寒いんじゃ。」
「僕は今ちょっと暑いかなって思っていたからちょうどいいんです。もう戻るしね。」
もし本当に暑いと思っていたのなら腕まくりのひとつでもしていただろうに、先ほどまできっちりと袖を伸ばして着用していた彼には、まったくその素振りは見えなかった。
嘘なんてつかないなんて言いながら、早速嘘ついたじゃないか。
「先生って面白い人ですね。」
「なにそれどういう意味。」
「なんでもないですよ。」
気が付けば、不思議ともうさきほどまでの息苦しさは感じられなかった。
「ほら、用がないならもう帰りなさい。」
「先生みたいなことを言いますね。」
「先生ですからね。」
先生は煙草の箱をシャツの胸ポケットに無造作に突っ込むと、「あ」といってこちらを見た。
「どうしたんですか?」
「これってセクハラにはならないよね?」
私は先生の言葉がよくわからなくて思わず沈黙してしまった。
「黙らないでよ。怖いじゃん。俺まだ職失いたくないんだけど。」
ようやく言わんとしていることを理解した私だったが、そのときは違うことに興味をそそられていた。
「先生、普段は自分のこと俺っていうの?」
先生はしまったというように口を押え、唸る。
「これ以上いるともっと秘密が増えちゃうから。困っちゃうんで本当にもう帰りなさい。」
「じゃあ先生その代わり、また会いに来ていい?」
今度は先生が私を見て笑った。
「だめって言っても来るんでしょ?」
先生はもたれた壁から体を離す。
「なんてね、いつでもどうぞ。」
そう言い残すとポケットに手を突っ込んであくびをしながら図書室へと戻って行った。
私はひとり彼が開けていった非常口の扉の外で立ち尽くし、その後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
胸の鼓動がうるさいくらいに早くなる。
今までほとんど話したことなどなかったというのに、おかしな話だ。
しかし実際に私は今こんなにも胸を高鳴らせ、どうしようもないほどに彼に興味を抱いてしまっている。もっと知りたい、そんな渇望が私の心をかき乱していく。一体なぜそこまで惹かれてしまうのか、その理由はまるで分らなかった。
それでもただひとつ明確なのは、私はたったいまこの瞬間に、自分にはなかった新しい感情に出会ってしまったということだ。
校舎の中に入り少しだけ廊下を進むと、私はもう一度、先ほどまで彼のいた場所を振り返った。
その視線の先には非常口の在り処を示す表示灯が光っていた。
「…非常事態だ。」
桜も散り、春の終わりを迎えようという放課後、私は初めての恋の香りを知った。
それはほんの少し苦いような、それでいて香ばしい、不思議な香りだった。