文健は自分が一番疲れているのだと、声を大にして言いたかった。
シロヤマに騙され、自分の小説が出版できると信じて大恥をかいた後、美保と胡桃を追いかけて人の多い新宿を全力疾走だ。ただでさえ普段から運動不足なのだ、明日の筋肉痛は間違いないだろう。やっと足を止めることができたかと思えば、銃を持った少女と頭の悪そうな金髪と死神に遭遇し、見知らぬ四人で組んで神様を驚かせる何かをやれと言う。貴重な休みの日にこんな面倒事に巻き込まれてしまったことを思うと、どうしても気が滅入ってしまう。
その中でも文健にとって一番の苦痛は、オリジナル演劇のための脚本を書かなければならないということだった。普段、一人でパソコンの前に座って文字を叩いているときは自分の小説が最も面白くて必ず賞を獲れる気がするのに、今は何も書ける気がしなかった。
大体、どうして俺がやらなきゃいけない? 俺の小説をつまらないと言った奴らのために、なんで俺が苦労しなくちゃいけないんだ? 小学生たちに通報されかけてから、文健は急速に腐り始めていた。損した気分になると卑屈になるのは、文健の悪い癖だった。いいように乗せられて笑われるのも、一時の感情に流されて都合のいい男になるのも嫌だ。そう思い込んだ文健はすっかりやる気が失せてしまった。
高士と胡桃は二人で前を歩きながら楽しそうに話をしていた。こうして一歩引いて二人を見ていると、背の高い高士の体には程よく筋肉がついていて女にモテそうな体型だし、胡桃は言わずもがな小顔で手足も細長くてモデルのようだ。二人とも文句なしの美男美女だし、とてもお似合いのカップルに見えた。
文健は高士のような男が一番嫌いだ。学校では馬鹿みたいに騒いで弱い者イジメに励み、我儘で好き勝手やっているのにもかかわらず友達は多い。それでいて学年の可愛い子は大体高士みたいな男と付き合って、彼らはあっという間に童貞を卒業する。クラスでも決して目立つことはなく、好きな子と話すことすらできなかった文健は、自分が送りたかった青春を高士が経験していたのだと想像すると余計に腹が立ってきた。文健がイライラしている様子が伝わったのか、文健の横を歩いていた美保がおずおずと声をかけてきた。
「ふ、文健さん。何かいいアイデアは浮かびましたか?」
「いいや、全然。そもそも面白い脚本を今日中に書けとか、急すぎるよね。大体脚本とか言われても俺やったことないしさ、無理があるよ」
七つも年下の女の子に愚痴ってしまったことを少し後悔したけれど、撤回するつもりはなかった。それどころか、みんなに少しは自分の不満をわかってもらなければいけないとも思っていた。
「小説を書くってことは、本はよく読むんですか?」
「俺ミーハーだからさ、流行りの本は押さえるようにしているよ。推理小説だけは苦手なんだけどね」
「え? どうしてですか? 犯人を推理するのが下手ってことですか?」
「続きが気になっちゃって、ネットでネタバレを先に見ちゃうんだよ」
「もったいないですよ! ショートケーキも先に苺から食べる人ですか?」
「苺は最後に食べるかな。それ、全然喩えになってないよ」
笑う美保を見ながら、この子はとても良い子だなと思った。文健のことを気遣ってくれるし、直接的な嫌味も言ってこない。だけど美保は文健を尊敬しないだろうし、好意を持ってはいないだろうということは気がついていた。初対面で、美保は文健ではなく胡桃に助けを求めたのだ。第一印象で年下の女よりも頼れない男だと思われたのは、流石にショックだった。
美保の中での好感度を上げたいなと思っていると、美保は前方から目を離さずに心配そうな声で告げた。
「……あれ、ヤバくないですか?」
高士が一人でコンビニに入ったその隙に、駐車場にたむろしていた柄の悪そうな男が三人、コンビニ前で待っている胡桃をいやらしい目つきで見ていたのだ。胡桃は男たちの視線に気づいているのかいないのか、平然とした顔で携帯電話を操作していた。
男たちは胡桃に下心を持って声をかけ、それを胡桃は迷惑に思うだろう。そこまで予想できているのに、文健は歩く速度が遅くなっていることを自覚していた。自分が胡桃を庇おうとしたところで、男たちの暴言や暴力に対応できるとは思えなかった。
「ねえねえ、オネーサン。俺たちとどっか遊びに行かない? 楽しいトコロ知ってんだよ、行こうよ」
男たちが動いた。胡桃を囲うようにして、ニヤニヤと笑いながら接近している。胡桃は男たちを冷ややかな目で一瞥した後、何も言わずに携帯電話に視線を戻した。胡桃が完全に無視しているのにもかかわらず、男たちは胡桃から離れようとしなかった。
「ふ、文健さん、胡桃さんを助けなくていいんですか!?」
美保の懇願にも足を動かすことができない文健は、美保が自分を見る目が軽蔑のものになっていくのがわかった。ついさっき、頼れない男という汚名を雪ごうと決意したばかりなのに、情けなくも動けなかった。そうだ。人には得意不得意があるように、どうしようもないことだってある。喧嘩なんかただでさえ経験もないのに、一対三では勝てるはずがない。それに、警察沙汰になったら仕事にも差し支えるだろう。そうやって文健が次から次へと溢れてくる言い訳を脳内で並べているうちに、男の一人が胡桃の腰に手を回した。
「ちょっと、触らないでよ」
初めて胡桃が怒りの声を上げると、反応があったことに男たちは喜んだようだった。彼らに車の方に無理やり引っ張られている胡桃は、顰め面をして必死に抵抗していた。男対女、多勢に一人。力で敵うわけがないと小学生でもわかる状況に、文健の背中には脂汗が噴き出した。
美保は文健を見限ったのか、単身で胡桃の元へ走っていった。美保まで被害に合うのは目に見えている。焦った文健が反射的に「待て!」と声にした、そのときだった。
「なに絡まれてんだよ。面倒くせえな」
コンビニから出て来た高士が、買って来た煙草を取り出しながら苛立った声を出した。
「はあ? なんでわたしが怒られなきゃいけないのよ」
胡桃が高士を睨みつけると、三人の男たちは品定めをするように上から下まで高士を見て、胡桃よりも悪意を持って睨みつけた。
「ナンだお前? うっぜーんだけど?」
ポケットに手を突っ込んだまま、男の一人が高士に近づいていった。高士は取り出した煙草を咥えたまま男を見ていた。これだから暴力的で態度のでかい不良は嫌いなんだと文健が思った次の瞬間、その男は短い呻き声と共に膝をついていた。
「近よんじゃねえよ。口くせえ」
文健も男たちも同じように目を見開いた。何が起こったのかよく把握できなかったのだが、状況を察するに、高士がからんできた男を拳で沈めたらしい。あまりにも速く重い一撃に動揺したのか放心している男たちの隙をつき、胡桃が彼らの手を振り払い高士の後ろに避難しているのを見て、文健は安堵の息を漏らした。
残った二人のうち一人は冷静さを欠き、高士に真正面から右ストレートを食らわせようと試みたが、軽々と避けられた挙句、反撃のボディーブローに呻きながら崩れた。最後の一人に高士から近づいていくと、男は捨て台詞を吐くこともなく、あっさりと車に乗り込み退散していった。文健は嫌いな人種の去り際の格好悪さに清々したと同時に、勇気もなく高士の行動を目で追うだけだった自分を恥ずかしく思った。
「……ありがと。てか、すごいね。ボクシングでもやってたの?」
咥えていた煙草に火を点けた高士に胡桃が問いかけた。文健の目には追えない部分があり、高士が男たちを瞬殺したという事実だけを確認していたのだが、どうやら高士の動きはボクシングに近いものらしい。
「まあ……昔、ちょっとな」
「もったいないね、あんためっちゃ強いじゃん。続けていればよかったのに」
「……ボクシングを喧嘩に使った時点で、もう俺はボクサーじゃねえからな……あ、遅えよ二人とも! 文健、罰としてなんか奢れよ」
文健は罪悪感から胡桃に近づくこともできず、その場に足を縫い付けられたように動けなかったが、文健の存在に気がついた高士の方から近づいてきた。何か言われるのではないかと焦った文健の腹に、高士は冗談でボディーブローを決める真似をして笑った。
「ほら、次はどこ行くんだよ。案内してくれよ最年長。あ、美保ちゃん、変なもん見せて悪かったな。これは全部そこのケバいねーちゃんのせいだからさ」
「はあ? あんたの目って腐ってる?」
無傷とはいえ、高士は体を張って助けた胡桃に礼を強要するようなことはせず、何の見返りも求めていなかった。おそらく高士は、ただ目の前の女が困っていたから当たり前のように助けたに過ぎないのだろう。なんと格好良いことか。
高士を見て、文健はある決意を固めた。
何もできなかった自分と、自分の中にある密かな憧れ。目にして感じたものを今、明確に小説にしたいと思った。
――悔しいから、高士には絶対に言わないけれど。
☆
「戦隊物を書くことにした」
文健が物語を思いついたと言ったため、四人は散策を打ち切って文健の家に戻って来た。
当たり前のように人の家の暖房を入れ冷蔵庫を開ける高士に文句を言うよりも先に、文健の中で湧き上がった情熱が体に残っているうちに、一刻も早く小説を書きたいという気持ちが勝った。
「文健には戦隊物の知識はあるの?」
文健の提案に誰よりも先に反応したのは胡桃だった。
「子どもの頃に見ていたくらいで、全然詳しくない。だけど今、どうしても書きたくなったんだよ」
「戦隊物って、昔と今じゃ大分雰囲気変わっていると思うわよ? ほら、今の時代ママたちからの人気も狙って、キャストはイケメンにしているとか聞かない? ここからブレイクした芸能人っていっぱいいるし」
五色のヒーローたちが三十分のドラマの中で悪をやっつける。文健にはその程度の知識しかないうえに、詳しく調べる時間もない。だけど、どうしてもやりたかった。これしかないという思い込みだが、小説を書くには十分な動機だと思った。運命の女神を驚かせる何かをしようというこの計画を立て、劇をやると決めたときに、脚本について三人は文健に一任すると言ったのだ。誰かに反対されようとも、意思を曲げる気はない。
「おいおい、なんのために俺が金髪にしていると思う? イエロー役をやるためだ」
独裁政治への反乱どんとこいという姿勢で構えていた文健だったが、実際に高士がそう言って自分の背中を叩いてくれたことで安堵した。高士は乱暴で口が悪いが、自分にはないものをたくさん持っているからだろうか。高士に認めてもらえると嬉しいと思ってしまうのだ。
「じゃあイエローじゃないわね。ゴールドじゃん」
胡桃がそう返すと、高士は大袈裟に溜息を吐いた。
「お前はほんっと、わかってねえな。あ、ちなみにお前はビッチっぽいからピンクな」
「はあ? ビッチじゃないし。ていうか本物のピンクレンジャーに超失礼」
反論しながらもピンク担当に異論はないのか、胡桃はそれ以上文句を言わなかった。
「イメージカラーって、なんかアイドルみたいでわくわくしますね! あ、あたしは何色になりますか?」
「美保ちゃんはね、グリーン! 青森って緑って感じ!」
高士は美保にだけは優しいため、胡桃が気分を害さないか文健は気を揉んでしまう。
「文健。お前はブルーだ」
「……冷静沈着なキャラ、ってことか?」
「違えよ調子乗んな。うじうじして鬱っぽいからだよ」
「……上等だ! ブルー最強のシナリオにして、イエローをボコボコにしてやるからな!」
黄色、ピンク、緑、青。戦隊物は大体五色五人だと記憶しているが、一色足りないのは人数の関係で仕方がない。そう思っていると、高士が深刻そうな顔をしていた。
「……待て。レッドがいなくね?」
「元々四人しかいないからな。レッドなしでいいだろ。それか、高士がイエローじゃなくてレッドやるか?」
「俺はイエローがいいんだよ! でも戦隊物にはレッドがいるだろうが! ……ちっ、しょうがねえ、とりあえずレッドは保留にしとくか。シロヤマもルーシーもレッドっていうより、ブラックだしな」
「ルーシーって誰だよ」と文健が訊く前に、美保が首を傾げた。
「ルーシーさんって、高士さんに銃を向けていた女の子ですよね? お二人はどういう関係なんですか?」
「さあ? 今日電車で会ったばっかだから、よく知らね。言葉を話せないっていう訳わかんねえ設定だったなー。シロヤマの知り合いじゃね?」
高士の言葉にいちいち反応するのは文健の仕事になりつつあったが、流石にこの回答には胡桃も美保も目を丸くしていた。
「……ばっかじゃないの? なんでそんな得体の知れない子と一緒に行動していたの? っていうか、そのルーシーはどこに行ったのよ?」
「だから知らねえって。そういや、シロヤマが出て来たあたりでいなくなってたな」
「……本当、あんたって男は……まあ、ルーシーのことは一旦忘れるとして、一夜限りのヒーローショーって割とロマンティックよね。衣装とかはどうする? 今から作るとかは現実的に無理だから、どっかで買うかレンタルする? あー、でも店も閉まっているだろうし、どうしようかしら」
「……胡桃、意外とやる気だな。俺はそこまでしなくてもいいと思ってたけど」
一見クールな胡桃が文健の提案した戦隊物に前向きであるということに、嬉しさを覚えた。恥ずかしさを隠そうと斜に構えてしまうのは、文健がまだ大人になりきれていない証拠だ。
胡桃は文健の心境なんて露知らず、さらりと答えた。
「たまには真剣にやってみないと、”戻れない”気がするのよ。……で、小説家兼脚本家の文健さん? どんなお話にするつもりなんですか?」
小説家兼脚本家。わざと言われているにしても、妙にくすぐったくて心地よい響きだ。
「あ、ああ。えーと、戦隊物の定番は勧善懲悪だと思っている。そこだけは俺たちも方向性を変えるつもりはないよ」
「完全超悪? ダメだろ、ヒーローじゃねえじゃん」
浮かれた気分は高士の発言によって台無しにさせられた。
「……馬鹿は黙っててくれ。それで、三人に頼みがある。書いている最中に集中力が切れてしまうのを避けたいから、俺が脚本を書き終わるまで外にいてくれないか?」
文健の我儘をみんなは二つ返事で了承し、「期待してる」と告げて部屋を出ていった。
シロヤマに騙され、自分の小説が出版できると信じて大恥をかいた後、美保と胡桃を追いかけて人の多い新宿を全力疾走だ。ただでさえ普段から運動不足なのだ、明日の筋肉痛は間違いないだろう。やっと足を止めることができたかと思えば、銃を持った少女と頭の悪そうな金髪と死神に遭遇し、見知らぬ四人で組んで神様を驚かせる何かをやれと言う。貴重な休みの日にこんな面倒事に巻き込まれてしまったことを思うと、どうしても気が滅入ってしまう。
その中でも文健にとって一番の苦痛は、オリジナル演劇のための脚本を書かなければならないということだった。普段、一人でパソコンの前に座って文字を叩いているときは自分の小説が最も面白くて必ず賞を獲れる気がするのに、今は何も書ける気がしなかった。
大体、どうして俺がやらなきゃいけない? 俺の小説をつまらないと言った奴らのために、なんで俺が苦労しなくちゃいけないんだ? 小学生たちに通報されかけてから、文健は急速に腐り始めていた。損した気分になると卑屈になるのは、文健の悪い癖だった。いいように乗せられて笑われるのも、一時の感情に流されて都合のいい男になるのも嫌だ。そう思い込んだ文健はすっかりやる気が失せてしまった。
高士と胡桃は二人で前を歩きながら楽しそうに話をしていた。こうして一歩引いて二人を見ていると、背の高い高士の体には程よく筋肉がついていて女にモテそうな体型だし、胡桃は言わずもがな小顔で手足も細長くてモデルのようだ。二人とも文句なしの美男美女だし、とてもお似合いのカップルに見えた。
文健は高士のような男が一番嫌いだ。学校では馬鹿みたいに騒いで弱い者イジメに励み、我儘で好き勝手やっているのにもかかわらず友達は多い。それでいて学年の可愛い子は大体高士みたいな男と付き合って、彼らはあっという間に童貞を卒業する。クラスでも決して目立つことはなく、好きな子と話すことすらできなかった文健は、自分が送りたかった青春を高士が経験していたのだと想像すると余計に腹が立ってきた。文健がイライラしている様子が伝わったのか、文健の横を歩いていた美保がおずおずと声をかけてきた。
「ふ、文健さん。何かいいアイデアは浮かびましたか?」
「いいや、全然。そもそも面白い脚本を今日中に書けとか、急すぎるよね。大体脚本とか言われても俺やったことないしさ、無理があるよ」
七つも年下の女の子に愚痴ってしまったことを少し後悔したけれど、撤回するつもりはなかった。それどころか、みんなに少しは自分の不満をわかってもらなければいけないとも思っていた。
「小説を書くってことは、本はよく読むんですか?」
「俺ミーハーだからさ、流行りの本は押さえるようにしているよ。推理小説だけは苦手なんだけどね」
「え? どうしてですか? 犯人を推理するのが下手ってことですか?」
「続きが気になっちゃって、ネットでネタバレを先に見ちゃうんだよ」
「もったいないですよ! ショートケーキも先に苺から食べる人ですか?」
「苺は最後に食べるかな。それ、全然喩えになってないよ」
笑う美保を見ながら、この子はとても良い子だなと思った。文健のことを気遣ってくれるし、直接的な嫌味も言ってこない。だけど美保は文健を尊敬しないだろうし、好意を持ってはいないだろうということは気がついていた。初対面で、美保は文健ではなく胡桃に助けを求めたのだ。第一印象で年下の女よりも頼れない男だと思われたのは、流石にショックだった。
美保の中での好感度を上げたいなと思っていると、美保は前方から目を離さずに心配そうな声で告げた。
「……あれ、ヤバくないですか?」
高士が一人でコンビニに入ったその隙に、駐車場にたむろしていた柄の悪そうな男が三人、コンビニ前で待っている胡桃をいやらしい目つきで見ていたのだ。胡桃は男たちの視線に気づいているのかいないのか、平然とした顔で携帯電話を操作していた。
男たちは胡桃に下心を持って声をかけ、それを胡桃は迷惑に思うだろう。そこまで予想できているのに、文健は歩く速度が遅くなっていることを自覚していた。自分が胡桃を庇おうとしたところで、男たちの暴言や暴力に対応できるとは思えなかった。
「ねえねえ、オネーサン。俺たちとどっか遊びに行かない? 楽しいトコロ知ってんだよ、行こうよ」
男たちが動いた。胡桃を囲うようにして、ニヤニヤと笑いながら接近している。胡桃は男たちを冷ややかな目で一瞥した後、何も言わずに携帯電話に視線を戻した。胡桃が完全に無視しているのにもかかわらず、男たちは胡桃から離れようとしなかった。
「ふ、文健さん、胡桃さんを助けなくていいんですか!?」
美保の懇願にも足を動かすことができない文健は、美保が自分を見る目が軽蔑のものになっていくのがわかった。ついさっき、頼れない男という汚名を雪ごうと決意したばかりなのに、情けなくも動けなかった。そうだ。人には得意不得意があるように、どうしようもないことだってある。喧嘩なんかただでさえ経験もないのに、一対三では勝てるはずがない。それに、警察沙汰になったら仕事にも差し支えるだろう。そうやって文健が次から次へと溢れてくる言い訳を脳内で並べているうちに、男の一人が胡桃の腰に手を回した。
「ちょっと、触らないでよ」
初めて胡桃が怒りの声を上げると、反応があったことに男たちは喜んだようだった。彼らに車の方に無理やり引っ張られている胡桃は、顰め面をして必死に抵抗していた。男対女、多勢に一人。力で敵うわけがないと小学生でもわかる状況に、文健の背中には脂汗が噴き出した。
美保は文健を見限ったのか、単身で胡桃の元へ走っていった。美保まで被害に合うのは目に見えている。焦った文健が反射的に「待て!」と声にした、そのときだった。
「なに絡まれてんだよ。面倒くせえな」
コンビニから出て来た高士が、買って来た煙草を取り出しながら苛立った声を出した。
「はあ? なんでわたしが怒られなきゃいけないのよ」
胡桃が高士を睨みつけると、三人の男たちは品定めをするように上から下まで高士を見て、胡桃よりも悪意を持って睨みつけた。
「ナンだお前? うっぜーんだけど?」
ポケットに手を突っ込んだまま、男の一人が高士に近づいていった。高士は取り出した煙草を咥えたまま男を見ていた。これだから暴力的で態度のでかい不良は嫌いなんだと文健が思った次の瞬間、その男は短い呻き声と共に膝をついていた。
「近よんじゃねえよ。口くせえ」
文健も男たちも同じように目を見開いた。何が起こったのかよく把握できなかったのだが、状況を察するに、高士がからんできた男を拳で沈めたらしい。あまりにも速く重い一撃に動揺したのか放心している男たちの隙をつき、胡桃が彼らの手を振り払い高士の後ろに避難しているのを見て、文健は安堵の息を漏らした。
残った二人のうち一人は冷静さを欠き、高士に真正面から右ストレートを食らわせようと試みたが、軽々と避けられた挙句、反撃のボディーブローに呻きながら崩れた。最後の一人に高士から近づいていくと、男は捨て台詞を吐くこともなく、あっさりと車に乗り込み退散していった。文健は嫌いな人種の去り際の格好悪さに清々したと同時に、勇気もなく高士の行動を目で追うだけだった自分を恥ずかしく思った。
「……ありがと。てか、すごいね。ボクシングでもやってたの?」
咥えていた煙草に火を点けた高士に胡桃が問いかけた。文健の目には追えない部分があり、高士が男たちを瞬殺したという事実だけを確認していたのだが、どうやら高士の動きはボクシングに近いものらしい。
「まあ……昔、ちょっとな」
「もったいないね、あんためっちゃ強いじゃん。続けていればよかったのに」
「……ボクシングを喧嘩に使った時点で、もう俺はボクサーじゃねえからな……あ、遅えよ二人とも! 文健、罰としてなんか奢れよ」
文健は罪悪感から胡桃に近づくこともできず、その場に足を縫い付けられたように動けなかったが、文健の存在に気がついた高士の方から近づいてきた。何か言われるのではないかと焦った文健の腹に、高士は冗談でボディーブローを決める真似をして笑った。
「ほら、次はどこ行くんだよ。案内してくれよ最年長。あ、美保ちゃん、変なもん見せて悪かったな。これは全部そこのケバいねーちゃんのせいだからさ」
「はあ? あんたの目って腐ってる?」
無傷とはいえ、高士は体を張って助けた胡桃に礼を強要するようなことはせず、何の見返りも求めていなかった。おそらく高士は、ただ目の前の女が困っていたから当たり前のように助けたに過ぎないのだろう。なんと格好良いことか。
高士を見て、文健はある決意を固めた。
何もできなかった自分と、自分の中にある密かな憧れ。目にして感じたものを今、明確に小説にしたいと思った。
――悔しいから、高士には絶対に言わないけれど。
☆
「戦隊物を書くことにした」
文健が物語を思いついたと言ったため、四人は散策を打ち切って文健の家に戻って来た。
当たり前のように人の家の暖房を入れ冷蔵庫を開ける高士に文句を言うよりも先に、文健の中で湧き上がった情熱が体に残っているうちに、一刻も早く小説を書きたいという気持ちが勝った。
「文健には戦隊物の知識はあるの?」
文健の提案に誰よりも先に反応したのは胡桃だった。
「子どもの頃に見ていたくらいで、全然詳しくない。だけど今、どうしても書きたくなったんだよ」
「戦隊物って、昔と今じゃ大分雰囲気変わっていると思うわよ? ほら、今の時代ママたちからの人気も狙って、キャストはイケメンにしているとか聞かない? ここからブレイクした芸能人っていっぱいいるし」
五色のヒーローたちが三十分のドラマの中で悪をやっつける。文健にはその程度の知識しかないうえに、詳しく調べる時間もない。だけど、どうしてもやりたかった。これしかないという思い込みだが、小説を書くには十分な動機だと思った。運命の女神を驚かせる何かをしようというこの計画を立て、劇をやると決めたときに、脚本について三人は文健に一任すると言ったのだ。誰かに反対されようとも、意思を曲げる気はない。
「おいおい、なんのために俺が金髪にしていると思う? イエロー役をやるためだ」
独裁政治への反乱どんとこいという姿勢で構えていた文健だったが、実際に高士がそう言って自分の背中を叩いてくれたことで安堵した。高士は乱暴で口が悪いが、自分にはないものをたくさん持っているからだろうか。高士に認めてもらえると嬉しいと思ってしまうのだ。
「じゃあイエローじゃないわね。ゴールドじゃん」
胡桃がそう返すと、高士は大袈裟に溜息を吐いた。
「お前はほんっと、わかってねえな。あ、ちなみにお前はビッチっぽいからピンクな」
「はあ? ビッチじゃないし。ていうか本物のピンクレンジャーに超失礼」
反論しながらもピンク担当に異論はないのか、胡桃はそれ以上文句を言わなかった。
「イメージカラーって、なんかアイドルみたいでわくわくしますね! あ、あたしは何色になりますか?」
「美保ちゃんはね、グリーン! 青森って緑って感じ!」
高士は美保にだけは優しいため、胡桃が気分を害さないか文健は気を揉んでしまう。
「文健。お前はブルーだ」
「……冷静沈着なキャラ、ってことか?」
「違えよ調子乗んな。うじうじして鬱っぽいからだよ」
「……上等だ! ブルー最強のシナリオにして、イエローをボコボコにしてやるからな!」
黄色、ピンク、緑、青。戦隊物は大体五色五人だと記憶しているが、一色足りないのは人数の関係で仕方がない。そう思っていると、高士が深刻そうな顔をしていた。
「……待て。レッドがいなくね?」
「元々四人しかいないからな。レッドなしでいいだろ。それか、高士がイエローじゃなくてレッドやるか?」
「俺はイエローがいいんだよ! でも戦隊物にはレッドがいるだろうが! ……ちっ、しょうがねえ、とりあえずレッドは保留にしとくか。シロヤマもルーシーもレッドっていうより、ブラックだしな」
「ルーシーって誰だよ」と文健が訊く前に、美保が首を傾げた。
「ルーシーさんって、高士さんに銃を向けていた女の子ですよね? お二人はどういう関係なんですか?」
「さあ? 今日電車で会ったばっかだから、よく知らね。言葉を話せないっていう訳わかんねえ設定だったなー。シロヤマの知り合いじゃね?」
高士の言葉にいちいち反応するのは文健の仕事になりつつあったが、流石にこの回答には胡桃も美保も目を丸くしていた。
「……ばっかじゃないの? なんでそんな得体の知れない子と一緒に行動していたの? っていうか、そのルーシーはどこに行ったのよ?」
「だから知らねえって。そういや、シロヤマが出て来たあたりでいなくなってたな」
「……本当、あんたって男は……まあ、ルーシーのことは一旦忘れるとして、一夜限りのヒーローショーって割とロマンティックよね。衣装とかはどうする? 今から作るとかは現実的に無理だから、どっかで買うかレンタルする? あー、でも店も閉まっているだろうし、どうしようかしら」
「……胡桃、意外とやる気だな。俺はそこまでしなくてもいいと思ってたけど」
一見クールな胡桃が文健の提案した戦隊物に前向きであるということに、嬉しさを覚えた。恥ずかしさを隠そうと斜に構えてしまうのは、文健がまだ大人になりきれていない証拠だ。
胡桃は文健の心境なんて露知らず、さらりと答えた。
「たまには真剣にやってみないと、”戻れない”気がするのよ。……で、小説家兼脚本家の文健さん? どんなお話にするつもりなんですか?」
小説家兼脚本家。わざと言われているにしても、妙にくすぐったくて心地よい響きだ。
「あ、ああ。えーと、戦隊物の定番は勧善懲悪だと思っている。そこだけは俺たちも方向性を変えるつもりはないよ」
「完全超悪? ダメだろ、ヒーローじゃねえじゃん」
浮かれた気分は高士の発言によって台無しにさせられた。
「……馬鹿は黙っててくれ。それで、三人に頼みがある。書いている最中に集中力が切れてしまうのを避けたいから、俺が脚本を書き終わるまで外にいてくれないか?」
文健の我儘をみんなは二つ返事で了承し、「期待してる」と告げて部屋を出ていった。