イロモノ戦隊レインボーレンジャー!!

 都内のとある大手住宅メーカーのお客様相談室では、パソコンのキーボードを叩く音と電話の声が飛び交っている。多くの派遣社員たちが時給分の仕事をこなす中、文健(ふみたけ)は大きな溜息を吐いた。

 奥から二番目の女が、もうかれこれ三十分は「申し訳ございません」と謝罪ばかりを口にしている。そろそろお呼びがかかるだろう。

 そらみろ、女の手が上がった。面倒だと思う気持ちを顔に出さないように急ぐ素振りで駆け寄ると、女はデスクの上の裏紙に『クレームです。上司を出せと言っています』と書いていた。字は綺麗ではなかった。

「わかった。一旦保留にして」

 文健がそう言うと女は安心したように、

「上司に代わりますので、少々お待ちください」

 と言って保留ボタンを押した。

芳野(よしの)さん、この客頭おかしいんですけど! 商品の原価を教えることはできないってずっと言ってんのに、『なぜ言えないんだ』『お前じゃ話にならないから上の奴を出せ』ってしつこくて! 超ムカつくんですけど!」

「うん。とりあえず代わるからこれ付けて」

 若い派遣社員の女は感情を抑えられず、上司である文健の前でも平気で客の悪口を言っていた。文健は女からヘッドセットを受け取って彼女にヒアリング用のイヤホンを渡し、保留解除ボタンを押した。

 朝一から厄介で面倒な客だった。あの客を宥めるのに一時間半かかった挙句、終わったと思ったら今度は別のオペレーターの手が上がり、もう一セット対応に追われた。

 都内の私立大学を卒業した文健が、人材派遣会社の正社員としてメーカーのコールセンター業務を取りまとめる部署に配属されてから、二年目になる。

 文健には不満を持っていることがたくさんある。一つ目は、朝一で難癖をつけてくる客。もちろん、電話では丁寧な謝罪と納得のいく説明を心がけているが、胸中で悪態をつくことなんて日常茶飯事だ。

 二つ目は、従業員たちの態度。上司である文健に対しての口の利き方や、対応を代わってもらっても当たり前だと思っているのか、お礼も言わない態度が気に入らなかった。「クレーム処理も自分たちの仕事だろうが」と彼女たちに面と向かって言えない文健は、ストレスを募らせていた。

 そして三つ目は、アナログの機械である。今時のコールセンターはパソコン一つで通話履歴も残せるし、チャットのようにパソコンにメッセージを飛ばすこともできるのが当たり前なのに、文健の職場ではまだ取り入れられていない。クライアントが導入資金を渋っているからだ。

 だから問題が起こらないように、起きてしまってもすぐに対応できるように、窓口の責任者である文健は常に島全体に目を配らせなければならず、無駄な体力を使っているのだった。

 長く辛い一日を終えて2DKのアパートに帰宅しても、一人暮らしの文健の部屋には待っている人は誰もいない。ただいまも言わずに電気をつけ、何よりも先にパソコンの電源を入れるのが文健の習慣だった。スーツを脱ぎ、手を洗って、買ってきた弁当を食べながら立ち上げたパソコンでお気に入りのサイトを巡回していく。

 腹が膨れ食欲が満たされたら、ワードを立ち上げる。いつかこんな会社辞めてやる、文健がそう思わない日はない。まだ誰にも言っていない野望を、文健は縦書き設定にしたワードの空白に叩き込む。

 文健が書いているのは、妄想を詰め込んだ小説だった。こいつを新人賞に出して賞を獲り、ゆくゆくはベストセラー作家になって印税生活をする。文健の夢は、彼の日常に光を与える貴重な活力源であった。今日もまた文字を打ちながら、文健の夜は更けていくのだった。

     ☆

 基本的に、毎日が同じことのローテーションだ。

「上司に代われって言ってます」

 今日もまたクレームが来たようだ。

「言ってますじゃねえよ! 他に言うことあるだろうが!」

 そう思いながらも口にすることはせず、文健は冷静な素振りで不機嫌そうな女からヘッドセットを受け取った。女は相当腹が立っていたらしく、文健が渡したヒアリング用のイヤホンをデスクの上に置き、激しく物音を立ててどこかへ行ってしまった。

 電話が終わって彼女が戻って来たら、面談という名の説教をする必要がある。面倒ごとが増えたことに眉根を揉みながら、文健は保留を解除した。

「お電話代わりました。神田の上司の、芳野と申します」

『こんにちは。君は何色のパンツ履いているの?』

 電話応対でやってはいけない行為だということはわかっているが、思わず沈黙してしまった。この間も冬は好きですかなんてくだらないイタズラ電話があったばかりだが、まだあれは可愛いものだった。今日は本物の基地外が来てしまったかもしれない。

 電話の相手は恐らく二十代から三十代であろう女だった。若い女性オペレーターにセクハラ紛いのことを言う輩は珍しくないが、自分にこんなことを言ってくる相手は初めてだった。

 文健は唾を飲み込み、続けた。

「お電話が遠いようですので、もう一度仰ってもらえますか?」

『パンツのことはもういいや。突っ込みに反射神経のない男は面白味がないね』

「……さようでございますか。誠に申し訳ございません」

 暇つぶしに遊ばれていると判断した文健は、電話を切りたくてしょうがなかった。何を言われても言い返さず謝っておけば、飽きて電話を切るだろう。そう考えていたのだが、

『でも君の小説は面白いと思うよ』

「な……!?」

 度肝を抜かれ、またしても黙りこんでしまった。なぜこの女は俺が誰にも言っていない趣味であり野望であり、かつ知られたくない秘密を知っているんだ? 訊きたいことが次々に頭に浮かんだが、ここは職場だ。下手なことを口走ればただでさえ女が多い職場だ、あっという間に噂が広まってしまうだろう。

 しかし幸いにも、クレームを報告した女はヒアリング用のイヤホンを付けずにどこかへ行ってしまっている。文健は周囲にばれないよう慎重に、小声で疑問を口にした。

「……お客様はどうして、そのようなことをご存じなのですか?」

『そんなことはどうでもいい。芳野さん、君が本当に知りたいのは、自分の小説が世の中に認められるのかどうかだ。違うかい?』

「ち……がいませんが、今、あなたと話してもしょうがないことです」

 文健は一層声を潜めた。

『初投稿で運よく一次審査を通ってしまったから、自分には才能があると思い込んだんだろ? その後の投稿はぜーんぶ一次落ちをくらっているくせにね』

 誰にも話していないはずの秘密を知られているという恐怖と、文健の小説を面白いと言ったり貶めたり、女の意図がまるで掴めずに混乱を極めた文健は泣きそうになっていた。

『いやいや、落ち込むことはないよ。まず君はね、名前がいいよ。文健。名前に『文』が入っているなんて、小説家になるために生まれてきたみたいなものじゃないか』

 苗字しか名乗っていないのに、名前、それも漢字まで知られてしまっていることには、さほど驚かなかった。どうせなんでも知っているのだろうと、投げやりになっていたくらいだ。

『……ところでさ。私が君の夢を叶えてあげるって言ったら、乗るかい?』

 文健は一瞬躊躇したため、唾を飲み込む一秒間の間に女を優位にさせてしまった。

『君は頭の回転が遅いね。他人を見下すくせに、馬鹿なんだな。じゃあ明日の十二時に新宿駅東口で待っているよ。黒いブーツに青いスカートを穿いて、キャメルのコートを着ている茶色いロングヘアの二十代の女に声をかけてくれ。それが私、某有名出版社の編集者シロヤマだ。詳しいことは明日話すよ。またね』

「ちょっ……」

 文健の返事を待たずに電話は切れ、機械音だけが文健の鼓膜に響いた。

 女のすべてが怪しすぎて、逆に疑う気持ちが薄れたくらいだ。女には訊きたいことが山ほどある。明日は土曜日で仕事は休み、予定もない。会うだけ会ってみて、話を聞いてみるのがいいのではないだろうか。

 自分に都合のいいように出かける理由を見繕っている文健は、夢を叶えてくれるという言葉に見事に踊らされていた。1パーセントでも夢に近づく可能性があるなら、賭けてみてもマイナスにはならないのではないか。毎日コツコツ頑張ってきたから、神様がわかりやすいチャンスをくれたのだ。文健はこのとき、そう信じて疑わなかった。

 芳野文健は疑り深い性格のくせに、依存心が高い人間だ。だからこそ、あっという間につけこまれたのだった。

     ☆

 文健は大人しそうな顔をしているが、基本的に短気な性格だ。ATMでもたもたしている人を見ればイライラするし、電車で扉付近にいるのに扉が開いても避けない人は大嫌いだ。

 文健のそんな性格は特に、こんな風に落ち着きなく一人でいる街中で存分に発揮される。新宿駅東口のライオンひろばで、不自然にはならない程度に目玉を動かしながら、他人から気持ち悪いと思われないようにシロヤマを待った。電話口で聞いたシロヤマという女の特徴は、『茶髪ロングの二十代の女。黒いブーツに青いスカートを穿いて、キャメルのコートを着ている』というものだ。しかしこの人ごみの中には条件に該当する女は大勢いて、文健は判断に困っていた。

 待つこと二十分。それらしき女性が一人、手すりに腰掛けた。――この人だ、と思った。誰かを待っているように見えるし、何より直感めいたものが働き、文健は彼女がシロヤマだと信じて疑わなかった。

 女は目鼻立ちのバランスがずば抜けて整った容姿をしていて、特に大きな双眸には人を惹き付ける魅力があった。文健が想像するより女がずっと美人だったため、ただでさえ初対面の女性と話すことに緊張する性質だというのに、ハードルがぐっと上がってしまった気がした。だが気分が高揚したことも事実だ。文健は深呼吸をして、女に近づいていった。

「あ、あの……シロヤマさんですよね?」

 勇気を振り絞って声をかけると、女は警戒した顔を見せた。緊張している文健の頭はそれを『積極性とコミュニケーション能力を試すテスト』だと勝手に判断し、続きを口にしなくてはという焦燥に駆られた。

「あの、昨日電話で話しましたよね? 僕が今日出版の話をさせて頂く約束をしております、芳野文健です。今日はよろしくお願いいたします!」

 女はやっと腑に落ちた顔をした。ああ、良かった。やっぱりこの人がシロヤマなのだ。

 しかし、安心したのも束の間だった。

「……人違いじゃないですか?」

 言われた瞬間、文健の背中に冷や汗が噴き出した。勘違いが恥ずかしくてこの場からすぐにでも逃げ出したかったが、口も体も硬直して動けなかった。成程、これが死後硬直というものかと、訳のわからないことを考えながら現実逃避していると、どこか田舎臭い女子高生が真っ直ぐに自分の方へ向かってきた。化粧気のない顔で文健を見たかと思えば落胆したような顔をして、少女は女の方に向き直り懇願した。

「ひ、人が撃たれそうなんです! 助けてください!」

 まさか自分がこんなドラマみたいな経験をすることになるとは、想像もしていなかった。少女が誰彼構わずからかって遊んでいる可能性が高いとは思うが、こんなに真面目そうな少女が息を切らして走って来て、真剣な顔をして言ったものだから、真っ向から否定してしまうのも気が引けた。女はどう反応するのだろうと思っていると、

「場所は?」

「あ、あっちです! あたしについて来てください!」

 少女と一緒に女は走って行ってしまった。少女に声をかけられていない俺は関係ない。文健は自分にそう言い聞かせようとしたが、本当に事件だったなら後味が悪い。

 文健は恐怖と良心の呵責を天秤にかけ、彼女たちを追いかける選択をとった。
 美保(みほ)は好きな芸能人のSNSを徘徊し尽くした後、大きく背伸びをした。

 机の上にはまだ片付けられていない宿題が並べられているが、残された数学に手をつけることを億劫に感じていた。美保は数学が苦手だ。三年生になれば、私立文系大学へ進学希望ゆえに数学から少しは解放されるとは思うけれど、来年の話をしても仕方がない。今はとにかく、目の前の問題集を片付けなければならない。そう頭ではわかっていても、嫌だなと思ったときの九割は逃避に走ってしまうのだ。

 今日も例に漏れず、美保はつけっぱなしにしていたノートパソコンの前に戻った。パソコンは高校入学前の春休みに父親にねだって買ってもらったものだ。進学校に合格したことに対するご褒美兼、真面目な娘に限っておかしなことには使わないだろうという、父親の信頼から勝ち取った戦利品である。

 同級生のケイコにメッセージを送った。

ミホ《真衣ちゃんの動画見て現実逃避してたらまんず、宿題進まねーべ》

 五分もしない内に返信が来た。

ケイコ《おめ、そっだら言葉遣いしてコメントしたんじゃねーべな? 東京さいっだら馬鹿にされっぜ?W》

ミホ《バリヤバー☆ 超頑張る! ギャルになって帰ってきちゃおうかな~?》

ケイコ《その言葉遣いも合ってんのか、おらじゃ判断できねえから悔しいじゃW》

 青森県の田舎町で生まれ育った美保は、東京に憧れていた。同級生たちとはいつも自分たちの住んでいる場所がいかに田舎かを卑下して笑い、テレビと雑誌、インターネットで得た東京の店や芸能人、お洒落の情報交換に励んでいる。美保は高校を卒業したら絶対にこの町を出て東京の大学へ行こうと、ずっと前から決めていた。

ケイコ《そんだ、美保って「新宿駅の死神」の噂知ってっか?》

 随分と恥ずかしい名前が噂になっているらしい。美保は素直に《知らね》と返信した。

ケイコ《人間の願いを叶えてくれる神様だってよ。死神なのに願いを叶えるってよくわがんねえけど、今ネット上で噂だけが広がってんだず》

ミホ《死神て響きはおっかねえな。でもおらには関係ねえべ。少なくともあと一年は青森で高校生だし、東京の大学に受かったときに覚えてたら、探してみるかなW》

 その後少しだけメッセージのやりとりをした後、美保はしぶしぶパソコンを落とし数学の宿題を片付けてから、眠りについた。

     ☆

 青森の冬は寒いというレベルではない。一時間前からおはようタイマーでストーブをつけているのにもかかわらず、布団から出るのに相当の気合と勇気がいるのだ。美保は悲鳴をあげながら身支度を済ませ、朝ご飯を胃に詰め込み素早く家を出た。

 アイスバーンで凍った道路を車で走る雪国の大人たちは、雪道を走る術を心得ている。十七年間この町で生きている美保も、転ばない程度の最大速度で、白い息を吐きながら固くなった雪を踏みしめて上手く歩いて学校へ向かった。

 美保は毎朝、必ず顔見知りの町人たちに声をかけられる。角の駄菓子屋のタミおばちゃんに、いつも雪かきしている権ジイ、煙草臭い派出所の安井さん。人口二万人のこの町では少子高齢化が進んでおり、若者は地域ぐるみで大切にされていることを、美保は子どもながらに感じていた。

「東京の大学さ行っても、いずれはここさ帰って来てけろな?」

 大人たちにはよく言われるが、美保は東京へ出たら戻る気なんてなかった。一刻も早くここから出たい気持ちをモチベーションに勉強に励んでいるのだ。

(……サボることもあっけどな。さて、だば今日も大人しく学生しますか!)

 学校に着いた美保は、コートについた雪を振り落としながら気合を入れた。

     ☆

 夕食を食べ終え、宿題をしながら今日も休憩中にパソコンを立ち上げた。いつもの流れで一通りネットサーフィンを楽しんだ後でメールをチェックしていると、差出人《シロヤマ》から件名《初めまして》というメールが届いていた。どうせ迷惑メールだろうと思いながらも一応クリックして中を確認してみた。

シロヤマ《新宿駅の死神を一緒に討ちませんか? もし成功すれば、そうですね。報酬は央田(おうだ)大学合格、ってことでどうですか?》

 美保は一瞬で戦慄を覚えた。シロヤマと名乗る差出人が、美保の進学希望大学である央田大学を知っていたからだ。

 しかし冷静に考えてみると、自分をよく知る友人の悪戯の可能性が高いと思った。

ミホ《あなたは誰ですか? あたしの友達ですか?》

シロヤマ《いずれは友達になりたいと思っていますが、今はただの応援者です》

ミホ《質問に答えないなら、これ以降はスルーします》

シロヤマ《待ってください。ねえミホさん、東京旅行へ来ませんか? 真っ白い雪に囲まれた日常にいると、ネオンを見たくなる日もありますよね?》

ミホ《そんな簡単に行けるわけがないでしょう? 交通費だってかかるんですよ? お父さんとお母さんには、なんて言えばいいんですか?》

シロヤマ《二週間後、十二月二十日土曜日。この日、央田大学でオープンキャンパスがあるはずです。それに行きたいと言えばご両親は必ず行かせてくれますよ》

ミホ《必ずって……その根拠は? 前に一度お願いしたときは、絶対にダメって言われてるんですけど》

シロヤマ《私は神ですから。必ずと言えば必ずなんです》

 美保はシロヤマが友人ではないと判断し、警戒した。まるで漫画の世界の人物みたいに発言が痛々しいが、何がしたいのだろうか。考えてみてもわからないので、美保は試しにほんの出来心のつもりで、一階に降りて居間の扉を開いた。

「……ねえ父ちゃん。今月の二十日に央田大学のオープンキャンパスがあるって、前に言ったべ? その……やっぱり行ってみでえんだけど、どうしてもダメがな?」

 炬燵の中で横になってテレビを見ている父親におそるおそる訊いてみると、父親は体を起こして美保の方に向き直った。しつこいと怒られるかもしれないと、美保は構えた。

「……いんや、美保がこっがらの勉強のやる気に繋げてくれるのであれば、行ってもいいど。どうせなら一泊くらいして、東京の空気を感じてごい」

 世の中を知らない田舎の高校生は、シロヤマへの警戒心をあっという間に氷解させた。東京に行ける喜びに脳内のアドレナリンが大量放出して、それこそシロヤマを神であるかのように信じ込んでしまったのだった。

 美保はそれから《シロヤマ》と何度かメールでやりとりをして、指折り数えながら東京へ行けるその日を待った。

     ☆

 自分にできる最大限のお洒落をして、新幹線に乗ってはるばるやって来た初めての東京に感動して写真を撮っている余裕があったのは、最初だけだった。

 美保の住む町の駅は電子掲示板もなく、二時間に一本の電車が当たり前だ。だからぼうっとしているだけで次の電車がやってくる都会の電車が羨ましいと思っていたのだが、人の多すぎる電車に早くも辟易していた。

「これが満員電車かあ! 東京っぽい!」

 なんて感動は、何一つなかった。暑いし痛いし、それに運が悪かったのか車内が臭かったために、早く降りたいという気持ちしか湧いて来なかった。東京に住んでいる人はこれに毎日乗っているのかと考えただけで、都民全員を敬いたくなった。

 だが央田大学でのオープンキャンパスでは、とても有意義な時間を過ごすことができた。より一層この大学に入りたいという思いを強めた美保が次に向かったのは、新宿駅だった。気持ちが昂っている今の状態なら、シロヤマの依頼も難なくこなせるような気がしていた。それにやらなければならないことは早く終わらせて、東京観光に集中したかったのだ。

 シロヤマは新宿駅の死神を討つための手段として、銃殺を提案していた。

ミホ《待って下さい。人殺しはやりたくないです》

シロヤマ《相手は人間ではないから平気ですよ》

ミホ《人が多いと思うんですけど、撃つところを見られたら、あたしの人生終わりじゃないですか?》

シロヤマ《安心してください。人払いはしていますので、存在するべき人しか立ち入れないようになっています》
 
 シロヤマは聞く耳を持たず、美保の家に新宿駅東口のコインロッカーの鍵を郵送してきた。当然のように、差出人の名前と住所の記載はなかった。

 魔境と呼ばれる新宿駅の構造に見事に迷子になりつつも、何度も駅員に東口への行き方を訊いて美保はようやく目的地に辿り着いた。鞄に入れていた鍵を該当するロッカーの鍵穴に差し入れると、ロックが外れる音が聞こえた。美保は慎重に中を覗き、唾を飲み込んだ。白い袋に包まれてはいるものの、隠し切れない存在感。あの中には間違いなく銃が入っていることがわかった。

 学芸会レベルという、お遊び演技のことを指すあまり誉れのない言葉があるが、今の美保の演技はまさにそのものだった。人を殺すわけではないと言っても、銃を持つことが違法だということくらい美保だって知っている。自然にしようと努力はしているものの、周りから見ればまるで不自然な動きで、美保はロッカー内から銃を取り出して逃げるようにその場から走り去った。

 美保は携帯電話を取り出し、もう一度画像を確認した。シロヤマから《彼が新宿の死神だよ》とメールで送られてきた男の画像は、短髪を金色に染めている二十代前半に見える男だった。画像だけで判断すると、頭は悪そうだがくっきりした顔立ちで、美保の通う高校にいたら間違いなく人気の出るタイプだと思った。

 名前は境高士というらしく、今日の十二時頃に新宿三丁目の細い裏道で煙草をふかしているところを狙え、という指示だった。

(てかこの人、本当に死神なんだべか? 普通の人間にしか見えねえけど……)

 直前になって不安になりながらも、シロヤマの言うことだから間違いはないのだろうと素直に従った。極度の興奮と緊張から、深く考える思考能力がなかったとも言える。十二時よりかなり早めに目的地に到着した美保は、行き交う人々がみんな自分を見ているような気がしてならなかった。

(おら、田舎臭いから馬鹿にされてんのかな? 変な人に攫われたりしねえよな? 新宿の死神さん早く来てけろ! おっかねえじゃ!)

 恐怖と戦いながら祈るような思いで待っていると、ついに待ち人はやって来た。彼は中学生くらいの少女と一緒にやってきて、煙草に火を点けた。行動を共にしている少女がいるのは聞いていないが、間違いなく境高士である。美保は上がりきった心拍数を下げるため一度深呼吸をして、銃を取り出そうとし――目を丸くした。

 少女が高士に銃を突きつけていたのだ。本来自分がやるべき役割を、少女が担当しているということになる。

 どうすればいいのだろうか。判断に困った美保は急いでシロヤマにメールを送ってみたが、返事は返ってこなかった。

 予想していた以上に、人が人に銃を向ける光景というのは恐ろしいものだった。引き返すなら今しかないと思った。シロヤマは「相手は人間ではない」と言っていたけれど、境高士の姿形はやはりどうみても人間だ。自分やあの少女が彼を殺してしまえば、絶対に罪になると思った。しかし、一人で彼らに声をかけに行くのは怖い。誰か大人と一緒に声をかけようと考え周りを見渡してみたが、人払いをしていると言ったシロヤマの言葉は本当だったようで、こんな衝撃的な光景が目の前で繰り出されているのに周辺には誰もいなかった。

 美保はこの場を離れ大通りに出た。大通りは打って変わって人が多く、声をかけるのにも慎重になるくらいだった。下手に怖い人に声をかけて状況が悪化したら最悪だし、弱そうな人に声をかけて返り討ちにあったら目も当てられない。

 どうしようかと焦って走り回っているうちに、新宿駅東口前の広場に辿り着いていた。そこで美保の視界に入ったのは、スーツ姿の地味な男だった。サラリーマンならしっかりしてそうだと考えたのだ。女の人と一緒にいることも安心材料に見えて、美保は二人に駆け寄った。

 突然息を切らして前に立った美保を見て、二人とも驚いているようだった。スーツの男は近くで見ると想像以上に細くて弱弱しく、美保を見ただけで動揺していて何かあっても責任逃れをしそうだと思った。対して、女の方は美保を品定めするかのようにじっと見据えていて、その視線が少し怖かったものの堂々として頼れる雰囲気だった。

 美保の本能が、女の方に頼めと指令する。

「ひ、人が撃たれそうなんです! 助けてください!」

 美保の予想は当たっていた。男は狼狽えているだけだったが、女は落ち着いていた。

「場所は?」

「あ、あっちです! あたしについて来てください!」

 走り出した美保の後をついてくる女は、ブーツなのにスニーカーの美保よりも俊敏に走っていて格好いいなと思った。男はその後ろを慌てたようについて来た。呼んでないのにと声をかける時間すら惜しく、美保は二人を引き連れて現場に向かった。

 戻ってみると、まだ少女は高士に銃口を向けたままの硬直状態にあった。美保は二人を指差し、

「この人たちです!」

 息を切らしながら告げた。女は頷き、冷静にかつ堂々と少女に近づいた。

「あなた、銃を下ろした方がいいわよ」

「……どうして?」

「あなたがここでこの人を撃ったら、わたしは目撃者になる。警察に行くのって面倒でしょ?」

 沈黙が空間を包んだ。瞬きも出来ないくらい緊張していた美保は、この時間が果てしなく長い時間に思われた。

 やがて少女は満足そうに微笑み、銃を下げた。

「……やっと、揃った」

 銃口が人に向けられていないことにようやく安堵した美保だったが、

「おい!? お前、喋れるのかよルーシー!」

 高士の意味不明な言葉に小首を傾げた。
 冷静な表情を取り繕ってはいるものの、普段は滅多なことでは物怖じしない胡桃ですら困惑していた。

 女子高生に「助けてください」と言われて連れてこられた路地裏で、平然とした顔で銃を持っている女子中学生と、今にも銃殺されそうな金髪男がいただけでも驚きなのに、なんだろうこの展開は。

「おい!? お前、喋れるのかよルーシー!」

 ルーシーと呼ばれた銃を持った女子中学生は、金髪男を完全に無視して違う方向を向いていた。同じ方向に視線を移した胡桃が見たのは、

「すまんな。今日お前たちをここに集めたのは、私の都合だ」

 黒目の大きな瞳に、体温が感じられない程に白い肌を持つ、黒髪のショートボブがよく似合う十代にしか見えない容姿の少女だった。ルーシーは偉そうな口調の少女の姿を確認すると、丁寧な礼をした後でふっと姿を消した。

 脳味噌の整理が追いつかず唖然とする胡桃を置いて、金髪男が一歩前に出て少女に問いかけた。

「お前、誰だ?」

「私は死神だ。名前は持たないが、便宜上この世界ではシロヤマと名乗っている」

 ――シロヤマ。キャバクラにやってきたあの男と同じ姓だ。胡桃が二人の共通点を探そうと思考回路を働かせ始めた頃、眼鏡男と女子高生は目を丸くし、悲鳴にも似た声を上げていた。今の話を二人は素直に信じたようだが、死神という単語は胡桃にとって非現実的過ぎて、胡散臭く思えてならなかった。

 胡桃と同様、金髪男も平然としていた。やっぱり、いい大人がこんな嘘を信じて怖がる訳ないわよね、と眼鏡男に軽い軽蔑の気持ちを抱きつつ胡桃は溜息を吐いた。

「驚かないのか、お前たちは」

 シロヤマと名乗った少女は、胡桃と金髪男を見て興味深そうに訊いた。

「だって死神とか有り得ないし。子どもじゃないんだから、信じるわけないじゃん。普通はそう思うよね?」

 胡桃は同意を得るために金髪男に話を振った。

「え、死神って存在するだろ? 公務員みてえな仕事だって、ダチが言ってたし」

 金髪男があっけらかんと答えた瞬間、その場の空気が変わった。予想外の回答に硬直してしまった胡桃の代わりに、おどおどしていた眼鏡男が勢いよく突っ込みを入れた。

「ちょ、どう考えても公務員っておかしいだろ! そんなの嘘に決まってるわ!」

「は? マジかよ!? 俺、中学生の従妹に得意気に教えちゃったけど!?」

「だ、大丈夫ですよ! 従妹さんはきっと冗談だと思って、乗ってあげただけだと思います!」

 金髪男のフォローをした女子高生は、癖のある黒髪をサイドに纏め、膝丈のプリーツスカートから細い脚を覗かせていた。素朴で愛嬌のある顔をしているのに、不慣れであろう化粧が可愛らしさを殺していて勿体ないと思った。初めて話しかけられたときも思ったが、彼女はイントネーションがどこかおかしい。おそらく田舎からたまたま東京に遊びに来た子なのだろうと予想した。

「私にはお前たちが騒いでいる理由が理解できないが、高士が言ったことは当たっている。死神の仕事は正社員の形態をとっていて、年功序列の終身雇用だ。安定した職業だから、特に日本の死人たちから人気がある職業の一つということに間違いはない」

「俺、就職したいんだけど! 採用してくれ!」

「死んでから出直して来い。採用率は六千万分の一の超狭き門だがな」

 シロヤマに一刀両断で不採用通知を出された金髪男を見て、少し笑ってしまった。

「……それで、死神さんがわたしたちになんの用なの?」

 緩んでしまった口元を隠すように、あくまで冷静な声色で胡桃は訊いた。

「胡桃の質問はもっともだ。しかし私はお前たちに直接用があるわけではなく、ある女との五十年前の約束を果たそうとしただけだ。悪いが、お前たちのことは利用させてもらったぞ」

「ど、どういうことですか?」

 眼鏡男が動揺していた。

「文健、神の名前をどれくらい言える? ギリシャ神話に出てくる有名な神ですら、正確に全員言うことは困難だろう? 世界にはいろいろな神がいて、お前たちが知っている神なんてほんの一部に過ぎない。まあ数が多いといっても、私たち神と呼ばれる種族が住んでいるのは神の国《プラマリア・センタ》に限られるから、近所だったり職場が同じだったりする神同士には交友がある。世話になった神にはお歳暮を贈ったりもするぞ」

「お、お歳暮……」

 あまりに神のイメージとはかけ離れた単語に、思わずオウム返しをしてしまった。

「それでな、私は人間の運命を扱う神《運命の女神》とはどうも馬が合わなくて仲が悪いんだ。いや、神として彼女は先輩にあたるのだが、私が新卒のときからやけに突っかかってくるんだよ。そんなある日、酒を飲んでいた私たちは少々口論になった。私が『運命というのは必然なのだから、お前の力は関係ない』と言ったら、『じゃあ、私が予想もできない運命が存在するのかどうか証明してみてよ』なんて言われてな。売り言葉に買い言葉で、つい」

 あまりの胡散臭さに誰も口を開けずにいる間にも、シロヤマは話を続けていった。

「私は、運命の女神に予想外だと言わせる何かを起こしたかった。一泡吹かせてやりたかったのだ。それで、考えた。神というのは皆例外なく天才だから、反対に馬鹿を何人か集めたならば、そいつらは神には予想もできない何かをしてくれるんじゃないかってね。だから私は、馬鹿な人間を集めようとした。お前らみたいなタイプの違う馬鹿が同じ時代に揃うまで、五十年待ったのだ。お前たちを同時間に一箇所に集めるために、努力したんだぞ? 青年実業家を装いキャバクラに行ったり、ネットで痛いハンドルネームを名乗ってみたり、対応の悪いコールセンターに電話をかけたりね」

 やはり、キャバクラに来たシロヤマと目の前の死神は同一人物だった。眼鏡男も女子高生も腑に落ちた顔をしていたが、なぜか金髪男だけが首を傾げて頭を掻いていた。

「そしてやっと訪れた、お前たちが集まる今日という日。目的地までの道が直線では運命の女神の予想範囲内になってしまうかもしれないと懸念して、なるべく遠回りに動かし、意味のない行動もさせた。そんな手間をかけてまで馬鹿な人間を四人も集めたのだから、『運命』という因果の螺旋から外れた、予定調和外の面白い何かが起こるかと期待したのだが……まあ、なかなか上手くいかないものだな。結局、面白いことが起きることはなかった。運命の女神の力を認めざるを得ない結果となってしまった。……おい、今もどうせどこかで見て、嘲笑しているのだろう?」

 誰に問いかけたのかわかりにくいシロヤマの言葉に胡桃が首を傾げたそのとき、なんの前触れもなく雪が降り出した。天気予報士も真っ青の見事な予報外れ、新宿に降る今年初の雪に、人々は空を見上げて湧き上がっているに違いない。

 ――この雪を他の三人はどう思っているのだろう。少なくとも胡桃は『運命の女神』の存在を肌で感じたことに、寒さのせいではない鳥肌を立てていた。

「正直、この結果は残念でならない。予想を誤った私が悪いのだが、お前たちに期待していた分落胆も大きいのだ。私はこの辺で撤退することにする。ああ、安心しろ。私は鬼じゃない、死神だ。その時期ではない人間の命を無闇に奪うことはしない。私が消えたら、私の存在も話した内容もすべて忘れているから杞憂もいらないぞ。じゃあな」

 別れの挨拶にもなっていない簡潔な説明だけして、シロヤマは消えようとした。あまりにも一方的な態度に「ちょっと」と胡桃が手を伸ばすより先に、その腕を掴んで引き止めた男がいた。

「あのさー、勝手に期待して勝手に失望されちゃ、たまったもんじゃねえんだよ」

 金髪男に細い腕を乱暴に掴まれたシロヤマは、不快そうに眉を顰めた。

「俺たちが馬鹿だから集めた? 俺はこいつらのことは何も知らねえけど、自分が馬鹿だってことは言われなくても知ってんだよ。素行も良くなかった俺は、昔から周りの大人には『ろくな大人にはならない』って諦められてた。……だからよ。どんな形であれ、お前に少しでも期待されたことは……単純に嬉しかったんだわ」

 シロヤマは金髪男に腕を掴まれたまま、無機質な瞳で彼を見ていた。

 胡桃は「わたしは馬鹿じゃないわよ」と反論したい気持ちもあったが、声にならないのはきっと自分自身のどこかで、彼の言葉を認めているからだった。眼鏡男も女子高生も胡桃の気持ちと同様だったのかもしれない。はらはらと舞う粉雪が世界を囲い込む中、誰も口を開かなかった。

「……それで? それが私の腕を掴む理由になるのか? さっきは無闇に命を奪わないと言ったが、これでも神だ。理由があれば、今すぐにお前を殺すことだって容易いのだぞ」

「お前は俺たちを利用したんだろ? いいじゃん、上等! 期待に応えてやる。俺たちがお前の役に立ってやるよ! なあ? お前らも面白そうだと思うだろ?」

 金髪男は振り向いて胡桃を含む三人の顔を見渡した。こういう馬鹿っぽくて軽そうな男は、慎重で安全思考の男が多い胡桃の周りにはいないタイプだった。

「ちょ、ちょっと待て! か、勝手に話を進めてどういうつもりだ! そういうことは俺たちの意思を聞いてからだろ!」

 眼鏡男の反発も当然だと思った。おそらくこの中で一番年上のサラリーマンにとって、勢いで話しているようにしか見えない金髪男には腹が立つに違いない。どちらかと言えば胡桃も眼鏡男の考えに賛同だった。シロヤマに期待されたことは嬉しかったが、達成できなかったときのリスクや具体的な案が浮かばない限り、安請け合いするべきではない。

 あんたには悪いけど、と言いかけたそのとき、

「あたしは、高士さんの話に乗ります!」

 意外なところから金髪男の味方が増えた。女子高生が頬を紅くしながら、手を挙げたのだ。

「いいじゃないですか、やりましょう! 運命がすでに決められていて、それに従っていく人生なんて受験生としては否定したいですし! ここで何かを変えられたら、今後の人生、色々なことが頑張れると思うんです!」

 田舎臭い少女が訛りながらも懸命に言葉を紡ぐ姿に、不思議と心が揺さぶられた。かつては自分も持っていたはずの、真っ直ぐな純粋さを突きつけられた気がしたからだろうか。言葉にできない想いはやがて胸いっぱいに広がり、胡桃の喉を突き抜けようとせんばかりに、堪えきれない感情に変わった。

 ここでやらなければ、元には戻れない。勘としか言えない直感が胡桃を突き動かした。それは胡桃にとっては珍しい衝動的な行動で、何か見えないものに急かされたかのようだった。

「……やっぱ、わたしもその話に乗らせてもらうわ」

 胡桃の言葉に、眼鏡男は目を丸くした。

「何か奇跡を起こしてやろうと計算して行動したとき、結果として起こった出来事は奇跡ではなく、運命と呼ぶのではないか?」

「違うわ。人が誰かのために動きたいと思うことは本能だから、運命じゃない」

 シロヤマを否定した言葉が自分の口から出たものとは思えず、恥ずかしさが体中を駆け巡った。だが、不思議と悪い気分にはならなかった。

「んで? お前はどうすんの? 乗るのか? 乗らないのか?」

 眼鏡男に向かって金髪男が訊いていたが、胡桃にはもう眼鏡男の答えはわかっていた。周りに流されやすそうで、マイノリティが苦手であろうこの男なら、

「……なんだよもう。やればいいんだろう、やれば! わかったよ、やるよ! 成功は約束できないけど、やれることはやるよ!」

 賛同するに決まっているのだ。金髪男はニヤリと笑った。

「シロヤマ、三日だ。三日後には、お前も運命の女神も目玉がひっくり返るような何かを見せてやるよ」

 人差し指をシロヤマに向けて堂々と宣言した金髪男に対して、女子高生が申し訳なさそうに手を挙げた。

「あ、あの……あたし、明日の夜には新幹線に乗って、青森に帰らなきゃいけないんですけど……」

 五秒の沈黙の後、金髪男は咳払いをした。

「……シロヤマ、明日だ。明日の夕方までには、お前も運命の女神も目玉がひっくり返るような何かを見せてやるよ」

 宣言のやり直しに、シロヤマは呆れたように笑っていた。

「決まらない男だな。わかった、明日だな。明日私と運命の女神は、お前たちの様子をどこかで見ている。わかっているとは思うが……二度も失望させるなよ?」

「おう、楽しみにしてろ。よし、行くぞお前ら」

 歩き出した金髪男につられ、胡桃たちはその場を後にした。

 ふと振り返ってみると、シロヤマの姿はもうそこになかった。
 シロヤマと別れた四人は今後の作戦会議を行うべく、名前と年齢だけ軽く情報交換しながら電車を乗り継ぎ、文健の家に向かった。

「ね、お互いさ、きちんとお互いの自己紹介をしようよ。明日の夜には他人になっている関係だとしても、お互いの立場や性格をある程度把握することは、運命の女神の期待を裏切る案を閃くためには必要だと思うの」

 江戸川区にある文健の2DKのアパートに到着するやいなや、胡桃が提案した。暖房がまだ効いていない八畳間に、エアコンの空気を送り出す音がやけに響いて聞こえた。

「……じゃあ、とりあえずわたしから。わたしは相葉胡桃。二十歳で愛知県出身。普段は大学生なんだけど、キャバでバイトしてるんだ。シロヤマとはそこで会ったの。趣味はショッピングと旅行かな。家で映画見るのも好きだけど」

(キャ、キャバって、あのキャバクラのことだべか? うわあ、やっぱ都会の綺麗な人はすげえなあ~……)

 美保は胡桃を見ながら憧れに似た気持ちを抱いた。美保にとって、東京に住んでいる綺麗な人というだけで尊敬に値する。美保が夢見る将来像に近い存在が近くにいるのだ。人生の先輩と話す機会があっただけでも、東京に来た意味があったというものだ。

「キャバ嬢か。お前、店で人気あったの?」

 高士が直球の質問を投げていた。

「まあね。週二のわりには稼いでいる方かも」

「へー。じゃあ今度指名するから割引してよ」

「お金のない指名客は時間の無駄」

「んだよ、サービス精神の足りない嬢だな。なあ文健、俺ビール飲みてえんだけど」

「少しは遠慮しろよ……大体、なんで許可もしてないのに俺んちで話し合いなんだよ!」

「……ちょっとあんたたちさあ、ちゃんとわたしの自己紹介聞いてた? キャバ嬢ってとこしか聞いてなかったでしょ?」

(っていうか、なんか流れで、と、都会の一人暮らしの男の部屋に入っちまってるだ! おら、危ねえんでねえのか!? おらみてえな田舎娘なんて、ぱっぱと食われて異国に売られちまうんでねえのか!?)

 一人内心パニックを起こしている美保の心境など露知らず、文句を言いながらも冷蔵庫からビールを取り出した文健に「サンキュ」と言って、高士は喉を鳴らして美味しそうに飲んでいた。

「あー、美味え! んじゃ、次は俺な。俺は境高士。今年二十二歳だけど、定職には就いてねえな。単発のバイトをやりながら麻雀とかパチンコしてる」

「……それって、稼げるのか?」

「稼げるときは、一日で一ヶ月は余裕で生活できるくらいには。ダメなときは一日で一ヶ月生活できないくらいに負けるけどな。ま、文健みたいな真面目そうな奴は、趣味で遊ぶくらいにしといた方がいいぞ」

(こ、この人……とんでもねえワルだべ! やっぱり売られる!?)

 美保が硬直している中で、高士は文健にもビールを勧めた。

「まあ飲めよ、お前のだけど」

「俺の方が年上なんだよ。なんでお前はそんなに偉そうに話すんだ」

 文健は文句を言いながらも姿勢を正し、胡桃と美保を見ながら咳払いをした。

「えー……と。俺は、芳野文健。二十四歳で、えー……会社員だ」

 言葉の続かない文健に、胡桃がやや冷ややかな笑顔を浮かべた。

「……え? それだけ?」

「……どうせ俺は、つまんない奴だよ」

 中身のない文健の自己紹介を聞きながらぼうっとしていると、三人の視線が自分に集まっていることに気がついた。次は美保が自己紹介をする番のようだ。文健のことを特徴ないなと思いつつも、人のことを言えないくらい地味な美保は急に緊張してきた。

「あ、あたしは椎名美保です。こ、高校二年生です! たまたま東京に来ている青森の人間なので、方言や鈍りで言葉が伝わりにくいこともあると思いますが、こ、これがら一日半、どうぞよろしくお願いします!」

 いつもより高くなった声を恥ずかしく思った。頭を下げると高士が「おおー」と感嘆の声をあげた。

「やっべ、リアルJKだ。ガッコ楽しい?」

「は、はい!」

「俺さー、わかんないことがあるんだけど。なんで美保ちゃんはシロヤマに馬鹿の括りにされてんだろな? 賢そうなのに」

 自惚れにはなるが、それは美保も不思議に思っていた。進学校に通っているし、志望している大学だって偏差値は高い。生活態度も悪くないはずだし、田舎で普通に生活して来ただけなのにシロヤマは美保を馬鹿呼ばわりしていた。腑に落ちない点は多々ある。

 だけど「期待されて嬉しかった」と言った高士の言葉に、心の底から同感した気持ちに嘘偽りはなかった。

「まあ、自分で気がついていないだけかもしれないし。それを考えるのも良い機会なんじゃない? なかなかないよ? 死神と運命の女神が目を掛けてくれるって」

 この冷静で落ち着いている胡桃も、堅実にサラリーマンをしている文健もきっと、馬鹿呼ばわりされたことに納得はしていないのだろうと思った。東京の大人にもわからないことはあるのだなと、一つ賢くなった気になりながら美保は愛想笑いで返した。


「ところで文健。『出版の話をする約束』って、なんだったの?」

 たわいのない話で親睦を深めている最中のことだった。ふいに思い出したかのように胡桃が訊いた瞬間、文健は見て取れるくらいに動揺していた。

(な、なんだ? あんなに目が泳ぐ人、初めて見たっぺ)

「お、俺の勘違いだったんだから、気にするなよ」

「そうなの? じゃあさ、あんたがわたしに会うときに持っていた鞄の中には何が入っていたの? わたしの予想だと、漫画か小説だと思うんだけど」

「ば、馬鹿言うな。そんなわけ……」

「見せてよ、見てみたい。ね、高士も美保もそう思うでしょ?」

 急に話を振られた美保だったが、興味はあったため素直に頷いた。

「隠し事はやめようぜー? それに、俺たちはどうせ明後日には他人だ。見られたって別に恥ずかしくないだろ?」

 高士は見た目通り力づくでねじ伏せるタイプのようだ。文健が抵抗しても高士は平然とした顔で文健を左手で抑えつつ、右手で文健の鞄を胡桃に投げた。胡桃は「失礼しまーす」と告げてから鞄を開けた。

「あ、小説だったか。読んでいい?」

「くそ……もう好きにしろよ!」

 諦めたのか、文健はふて腐れるように部屋を出ていった。少し気の毒に思ったが、彼が書いた小説を読んでみたいという好奇心が罪悪感より勝ってしまった美保は何も言えなかった。先に原稿の一枚目を読んだ胡桃が美保に渡し、美保が読んだら高士に渡す。そうして文健の書いた小説を順々に読んでいった。

 一枚目を読んだ。日本語がわかりにくかった。

 二枚目を読んだ。主人公とヒロインが誰なのかはわかったけれど、二人の会話に寒気がした。

 三枚目を読んだ。あまりのご都合主義に思わず笑ってしまった。

 …………。

 十五枚目を読んだ。もういいかな、と思った。

 高士はもうとっくに飽きてしまったようで、五枚目を過ぎた辺りからは読まずにゲームをしていた。胡桃はまだ読んでいたが、

「……面白いですか?」

 と美保が訊くと、わざとらしい作り笑顔をしながら答えた。

「多分ね、美保と同じ感想だよ」



 しばらくして戻って来た文健は、ふて腐れた顔をしつつも感想が欲しそうだった。

(うわ、面倒くさい人だべ……!)

 面白いとは思えなかった小説の感想を素直に口にすることは憚られたし、だからと言ってお世辞を延べて賞賛するのも気が引ける。文健と目を合わせないようにしていると、

「お前の小説さー、超つまんねえな!」

 あっけらかんと高士が言った。美保と胡桃がおそるおそる文健の表情を窺うと、彼は顔を真っ赤にしていた。

「な……わ、わかってるよ! でも、ほ、本を読まなそうなお前に言われたくはない!」

「本を読まない俺みたいな奴にも面白いって思わせるのが、面白い小説なんじゃねえの?」

 高士の歯に衣着せぬ感想に、美保は感動すら覚えた。

(こ、高士さん、おらが言えねえことを……すごい!)

 しかし感動したのも一瞬、高士は文健の小説をけなしながらも驚くべき提案をしてきた。

「なあ、明日はお前が作った小説を俺たちで演劇するっていうのはどうだ? 運命の女神が『あ~ん! こんなの初めて~!』なんて思うような面白いやつ、書いてくれよ」

「……はあ!? お、俺が!? なんでだよ! 無理に決まってるだろ!? だ、第一お前、俺の小説、つまらないって言ったじゃないか!」

「おう、俺はつまんねえって思ったよ。でもよ、お前は面白いと思って書いた自信作なんだろ? 自信が持てるっていうのは才能だと思うぜ。だから大丈夫だ」

 唖然とする文健を放置して、高士は胡桃と美保の方を見た。

「な? お前らもいいと思うだろ?」

「あんたはまたそうやって……。あのね、ゴリ押しすればなんでも通るって思っていたら痛い目みるわよ? 作者が面白いと思っていても売れない小説なんて、世の中には腐るほどあると思う。……だけど、出会って一日の他人同士が、オリジナルの劇を演じたのにもかかわらず成功させるって、確かに予想外かもしれない。時間もないし他に代替案も浮かばないし、いいんじゃない?」

 憧れの胡桃がそう言うならいいかと思った美保も、首を縦に振った。

「決まりだな。……しっかしさあ、フツメンで取り得もなくて男としての魅力が全然ない主人公が、美女にモテまくるってのはおかしくね? これ、お前の理想なの? 自己投影ってやつ? 痛いねー!」

「ち、違う! 読者のことを考えてこういうキャラ設定にしたんだ! こういう話には需要があるんだよ!」

 文健の顔が真っ赤になっているのを見て、悲しいことに高士の憶測が的中していることを美保は確信してしまった。

「それに話もさあ、ありきたりなんだよな。普段本を読まない俺にすら展開が読めるんだぜ? もう少し考えて話作れよ」

「だったらお前ならどうするんだよ! 書けもしないくせに、偉そうなこと言わないでくれよ!」

 激昂している文健に対して、高士はふむ、と腕を組んた。

「……そうだな。俺なら主人公を超スーパーエリート人にするね。そいつはあまりに頭が良いから、世界中の問題をささっと解決すんだよ。有名人で金もあってマッチョだから女にもモテモテで、とっかえひっかえ遊んでいるうちに、一度だけ関係を持った宇宙人に見初められて、宇宙規模の結婚式を挙げんの。そんで産まれてくる子どももスーパーマンにすれば、続編も簡単だろ?」

「お前の考えた話の方がありえないだろ! 小説をなめるな!」

 得意気な高士を指差して文健は怒鳴った。美保は文健を見ていて彼のことが心配になってきた。知り合ったばかりの人間に怒ったり叫んだりして、ストレスと血圧が急上昇しているはずだ。落ち着かせなければと思い、意を決して高士に意見することを決めた。

「ちょっと、高士さん言い過ぎです! 文健さんの小説はあたしには思いつかない話ですし、すごいなあって思いますよ!」

「……じゃあ、美保ならどんな話を作るんだよ?」

 唇を尖らせながら窺ってきた文健の面倒くささに、イラっとしたのは内緒だ。

「フォローしてあげたんだから、そこで満足しておいてくださいよ!」と届かない声を上げながら、美保は懸命に頭の中で話を急造する。

「え、えーと……。あ、地味で目立たない主人公が、ひょんなことから学校でも有名な超イケメンの秘密を知ってしまって、だんだん……」

「俺の小説の主人公とヒロインが逆になっただけじゃないか!」

 文健の悲しき突っ込みに、高士が声を出して笑った。

「美保ちゃん、面白れえなー。なあ文健、ヒロインにはなりにくそうな胡桃みたいな女をお前の小説に出してみたらどうだ?」

「……難しいな。基本的に読者人気を出すためには、ヒロインは清楚で美人、萌え要素がないと厳しいんだが……まあ状況によってはありかな」

「状況って?」

「例えば、家族のために仕方なくキャバ嬢をやっているけど実は全然男経験がないとか、大学では眼鏡で三つ編みの地味なイジメられっ子とかさ」

「おー、なるほど! ギャップにそそるってわけか!」

 盛り上がりを見せている男二人に、胡桃が心底軽蔑した眼差しを向けていた。

「……あんたたちさあ、キモ過ぎ」

「そ、そんなつもりじゃない」と必死になって否定する文健と笑う高士を見て、タイプは違うけれどこの二人はなかなかいいコンビになりそうだなと思った。

「あー、キモ。……でもさ、なんとかなる気がしてきたわ。大体、年代バラバラで普段は違う生活している人間が一箇所に集められて何かするって、この現実自体がしょぼい小説みたいな話じゃん? だから文健、背負うことはないわよ。何やったって現実よりは上手くいく気がするもの」

 胡桃の言葉を聞いた文健が目を逸らしつつも少しだけ赤くなったのを、美保はしっかりと見てしまったのだった。
 演劇用の脚本を書くことが決まった文健のアイデア探しのため、胡桃たちは外に出ることにした。

「どうせ大したもんはできねえんだから、リラックスしろよ」

 難しい顔をして歩く文健の肩に、高士が腕を回して笑っている。美保は歩きながら忙しなく首を動かして、東京の風景にいちいち感動しているようだ。本人は言われたくないだろうけど、その田舎臭さがどこか可愛い。素直で、穢れてなくて、未来がある。正直、羨ましいと胡桃は思った。

 自分は大学に入ってから、真面目に勉強してきただろうか。化粧の腕を上げて、お洒落をして、良い男と付き合って、SNSに近況を報告して、どれだけ友人たちの中でランクを上げるか、それだけを考えている気がする。大学に入る前は何を思っていただろう? もっと違うことを考えていなかっただろうか。

 今の胡桃の夢は、良い会社に入ってお金持ちと結婚すること。別に悪いことじゃない。現実的なだけだ。だけど今、こんなに焦った気持ちになっているのはどうしてだろう――美保の無垢な若さに嫉妬しているからだろうか。それとも、実力は伴っていないものの自分の力で夢を叶えようとする文健から刺激を受けたからだろうか。

 今すぐに答えが出せないのなら、考えていても仕方がない。やるべきことの優先順位をつけるなら、まずは明日、運命の女神を満足させることが最優先だ。キャバクラに足を運ぶ男たち相手だったら、何を話して何をしてあげれば喜んでくれるのか大体わかるようにはなったけれど、女神様は勝手が違う。テンプレじゃない、予想外の面白さをご所望とのことだ。

 改めて目標達成が難しいことを思い知り、溜息が零れた。胡桃は自分には想像力が足りないと自己分析できている。自分がいいアイデアを思いつかないなら、これから文健が書く脚本を否定する権利はない。どうなるのか先が見えない経験をするのは久しぶりだなと思いながら歩いていると、「あの」と美保が手を上げた。

「文健さんが書かなきゃいけないのは小説って言うより、その、脚本ですよね? 誰か演劇や脚本に詳しい方っていらっしゃるんですか……?」

 美保の言葉に誰も手を挙げなかった。高士にいたっては「脚本ってなんだ?」と首を傾げている始末だし、文健は「詳しいわけないだろ」とまたふて腐れた顔をしている。美保が助けを求めて胡桃を見ているが、胡桃も演劇方面には明るくないため何も言えない。高士に話を振って逃げよう。

「……それより早く、何か文健のアイデアになるようなモノを探そうよ。ほら、高士。あんたがリーダーなんだから指示出して」

「あ? 俺がリーダーなのか?」

 みんなもそう思っていたのだろう、反論は起こらなかった。高士は嫌がることも辞退することもなく歩き続けていたが、バス停のベンチに人影を見つけると振り返った。

「まずはリーダーの俺があそこにいるばあちゃんたちに話しかけてくるから、ちょっと待ってろ」

「え? どうしておばあちゃんに?」

「バカ、ばあちゃんたちは物知りだし、会話が面白れえんだぞ? 俺のばあちゃんなんてな……いや、いいわ。ちょっと行って来る」

 高士はバスを待つおばあちゃん二人に気さくに声をかけ始めた。胡桃たちは少し離れたところで様子を見ていたが、特に何か特別なことをしているわけではなさそうだった。高士が何かを話して、おばあちゃんたちは笑っている。高士は人見知りしないと思っていたが、予想を裏切らない男だ。あれでもっと賢くて、お金を持っていたら好きになっていただろうなと考えてしまった胡桃は自嘲した。結局、自分は男をステータスでしか見ていない。この男となら恋愛できて、この男とはできないと勝手に品定めしてしまう。こんな考えを美保の近くですることは抵抗があった。

「……戻って来ませんね」

 美保が呟き、胡桃が時計を確認するとすでに十五分が経っていた。おばあちゃんたちはバスを見送ってまで高士と談笑している。これは止めに行かないと、いつまで経っても戻って来ないだろう。胡桃は溜息を吐きながら高士に近づいた。

「高士、もう時間だよ。早く行こ?」

 彼女っぽい振る舞いで高士の腕を掴むと、おばあちゃんたちは「あらー」なんて笑いながら、

「こうちゃんまたね。彼女さんと仲良くね」

 そう言って手を振ってくれた。おばあちゃんたちの微笑みに胸が温かくなる。一礼して歩き出すと、高士は「またなー!」と子どものように手を振っていた。

 高士を連れて文健と美保に合流すると、文健は待ちくたびれたのか不機嫌そうだった。

「随分遅かったな。何か参考になりそうな話は聞けたのか?」

「おう。ちっこい方のばあちゃんさ、正月に孫が遊びに来たときに肩叩き券を貰ったんだけどもったいなくて使えねえって言っててさあ。早く使わないとあの世に行っちまうぞ? って忠告してやったら、ひ孫を見るまで死なないってよ。明日シロヤマに会ったら、ばあちゃんたちの魂を持っていかねえように言っとかねえとな」

 対照的に高士はとても上機嫌で、文健の不機嫌なオーラを全く意に介さず饒舌に会話内容を報告していた。

「今の話はどう? 文健、脚本の参考になった?」

「……ひ孫の誕生を楽しみにするって話は、俺らが演じられる話じゃないだろう」

 なるほど同感だ。高士が楽しかっただけの徒労に終わった十五分だったということだ。再度胡桃が時計を見ると十八時半になっていた。冬至まで後数日。陽が落ちるのは早く、辺りはもう真っ暗だ。陽が落ちても何の成果も得られていない四人は、とりあえず公園に行ってみることにした。胡桃はあまり来る機会のない江戸川区だが、緑も公園も多くていい街だなと思った。

 少し歩いて広めの公園に辿り着くと、小学校四、五年生くらいの男の子たちが三人、外灯の下で夢中になって携帯ゲーム機を向け合っていた。

「こんな暗い中でゲームやっていたら、すごく目が悪くなりそうね。ね、今ってなんのゲームが人気あるの?」

 全くゲームをやらない胡桃は、マリオとカービィ、ポケモンくらいしか知らない。

「あたしもそれ程詳しくはないですが、あの子たちがやっているのは多分モンハンだと思います。狩りがどうとか言っていますし」

 モンハン。どんなゲームかはわからないが、言葉だけなら聞いたことがある。

「それって、流行ってるの?」

「流行っていますよ! 人気が高くてシリーズ化していますし、売れています」

 流行っていて売れているものは、人の注目を浴びやすいのではないだろうか。設定を丸ごと引用したら問題だろうけれど、少しアレンジして演劇としてやってみるなら、食いつく人たちは少なからずいるはずだ。人の足を止めることができるなら、題材にするのもアリだと思った。

「ね、文健。あの小学生たちにゲームの内容詳しく訊いてきなよ。参考になりそう」

「お、俺? 俺はこういうの苦手なんだよ、高士が行ってきてくれよ」

「俺が行ってもいいけどよー。もし決まったとしたら話を書くのはお前なんだから、お前が行った方がいいんじゃねえの?」

 文健は困ったように胡桃を見た。その視線を不快に感じた胡桃は冷たく言い放った。

「脚本家はあんたよ。逃げないで」

 文健はごにょごにょと濁していたが、美保の心配そうな瞳に大人のプライドが耐えられなかったのか、ついに小学生軍団の中に突進していった。ベンチから様子を見ていると、文健は不自然な笑顔、不自然な動きでまるで不審者のようだった。

 小学生たちは文健を訝しそうな視線で見つめた後、携帯電話を取り出した。文健が必死に何かを否定していると、彼らはゲーム機を持ったまま立ち上がり公園を出て行った。

 とぼとぼと胡桃たちの元に戻ってきた文健を、美保が心配そうな顔をして出迎えた。

「お、おかえりなさい! どうでしたか?」

「……通報されかけた」

 げらげらと笑う高士に「お前のせいだからな!」と文健は理不尽に怒っている。八つ当たりもいいところだなと、胡桃は溜息を吐いた。

「……あ、あの、胡桃さん、どうかしましたか?」

「……なんでもないわ。ねえ、小学生への取材も失敗しちゃう文健にも小説家になるって夢があるじゃない? 美保は将来やりたいこととか決まっているの?」

「えっと、実を言うとですね、大学に行きたい一番の理由は東京に出たいっていう不純な動機でして。でも、方向性は決まっています。在学中に短期留学をして、英語圏の国に行きたいと考えています。それから栄養士の資格を取って、病院に勤務したいんです。栄養士で英語も話せたら勤め先の幅が広がりそうですし! 担任の先生にいろいろと相談に乗ってもらっていますけど、もう少し頑張って勉強しなさいって言われます。あ、でも今はとにかく、東京のことで頭がいっぱいです! あはは!」

 夢を語る美保の姿が眩しくて、思わず目を背けてしまった。それに、美保の口から出た「先生」という単語が、かつて胡桃が過去に抱いたモノを思い出す起爆剤になり、精神が大いに揺さぶられた。

 胡桃は複雑な心境を決して顔に出さないよう、大人ぶって訊いてみた。

「そっか。だったら美保は、先生や学校は好き?」

 美保はにっこりと笑って答えた。

「田舎だということを差し引いて考えれば、ですけどね」
 文健は自分が一番疲れているのだと、声を大にして言いたかった。

 シロヤマに騙され、自分の小説が出版できると信じて大恥をかいた後、美保と胡桃を追いかけて人の多い新宿を全力疾走だ。ただでさえ普段から運動不足なのだ、明日の筋肉痛は間違いないだろう。やっと足を止めることができたかと思えば、銃を持った少女と頭の悪そうな金髪と死神に遭遇し、見知らぬ四人で組んで神様を驚かせる何かをやれと言う。貴重な休みの日にこんな面倒事に巻き込まれてしまったことを思うと、どうしても気が滅入ってしまう。

 その中でも文健にとって一番の苦痛は、オリジナル演劇のための脚本を書かなければならないということだった。普段、一人でパソコンの前に座って文字を叩いているときは自分の小説が最も面白くて必ず賞を獲れる気がするのに、今は何も書ける気がしなかった。

 大体、どうして俺がやらなきゃいけない? 俺の小説をつまらないと言った奴らのために、なんで俺が苦労しなくちゃいけないんだ? 小学生たちに通報されかけてから、文健は急速に腐り始めていた。損した気分になると卑屈になるのは、文健の悪い癖だった。いいように乗せられて笑われるのも、一時の感情に流されて都合のいい男になるのも嫌だ。そう思い込んだ文健はすっかりやる気が失せてしまった。

 高士と胡桃は二人で前を歩きながら楽しそうに話をしていた。こうして一歩引いて二人を見ていると、背の高い高士の体には程よく筋肉がついていて女にモテそうな体型だし、胡桃は言わずもがな小顔で手足も細長くてモデルのようだ。二人とも文句なしの美男美女だし、とてもお似合いのカップルに見えた。

 文健は高士のような男が一番嫌いだ。学校では馬鹿みたいに騒いで弱い者イジメに励み、我儘で好き勝手やっているのにもかかわらず友達は多い。それでいて学年の可愛い子は大体高士みたいな男と付き合って、彼らはあっという間に童貞を卒業する。クラスでも決して目立つことはなく、好きな子と話すことすらできなかった文健は、自分が送りたかった青春を高士が経験していたのだと想像すると余計に腹が立ってきた。文健がイライラしている様子が伝わったのか、文健の横を歩いていた美保がおずおずと声をかけてきた。

「ふ、文健さん。何かいいアイデアは浮かびましたか?」

「いいや、全然。そもそも面白い脚本を今日中に書けとか、急すぎるよね。大体脚本とか言われても俺やったことないしさ、無理があるよ」

 七つも年下の女の子に愚痴ってしまったことを少し後悔したけれど、撤回するつもりはなかった。それどころか、みんなに少しは自分の不満をわかってもらなければいけないとも思っていた。

「小説を書くってことは、本はよく読むんですか?」

「俺ミーハーだからさ、流行りの本は押さえるようにしているよ。推理小説だけは苦手なんだけどね」

「え? どうしてですか? 犯人を推理するのが下手ってことですか?」

「続きが気になっちゃって、ネットでネタバレを先に見ちゃうんだよ」

「もったいないですよ! ショートケーキも先に苺から食べる人ですか?」

「苺は最後に食べるかな。それ、全然喩えになってないよ」

 笑う美保を見ながら、この子はとても良い子だなと思った。文健のことを気遣ってくれるし、直接的な嫌味も言ってこない。だけど美保は文健を尊敬しないだろうし、好意を持ってはいないだろうということは気がついていた。初対面で、美保は文健ではなく胡桃に助けを求めたのだ。第一印象で年下の女よりも頼れない男だと思われたのは、流石にショックだった。

 美保の中での好感度を上げたいなと思っていると、美保は前方から目を離さずに心配そうな声で告げた。

「……あれ、ヤバくないですか?」

 高士が一人でコンビニに入ったその隙に、駐車場にたむろしていた柄の悪そうな男が三人、コンビニ前で待っている胡桃をいやらしい目つきで見ていたのだ。胡桃は男たちの視線に気づいているのかいないのか、平然とした顔で携帯電話を操作していた。

 男たちは胡桃に下心を持って声をかけ、それを胡桃は迷惑に思うだろう。そこまで予想できているのに、文健は歩く速度が遅くなっていることを自覚していた。自分が胡桃を庇おうとしたところで、男たちの暴言や暴力に対応できるとは思えなかった。

「ねえねえ、オネーサン。俺たちとどっか遊びに行かない? 楽しいトコロ知ってんだよ、行こうよ」

 男たちが動いた。胡桃を囲うようにして、ニヤニヤと笑いながら接近している。胡桃は男たちを冷ややかな目で一瞥した後、何も言わずに携帯電話に視線を戻した。胡桃が完全に無視しているのにもかかわらず、男たちは胡桃から離れようとしなかった。

「ふ、文健さん、胡桃さんを助けなくていいんですか!?」

 美保の懇願にも足を動かすことができない文健は、美保が自分を見る目が軽蔑のものになっていくのがわかった。ついさっき、頼れない男という汚名を雪ごうと決意したばかりなのに、情けなくも動けなかった。そうだ。人には得意不得意があるように、どうしようもないことだってある。喧嘩なんかただでさえ経験もないのに、一対三では勝てるはずがない。それに、警察沙汰になったら仕事にも差し支えるだろう。そうやって文健が次から次へと溢れてくる言い訳を脳内で並べているうちに、男の一人が胡桃の腰に手を回した。

「ちょっと、触らないでよ」

 初めて胡桃が怒りの声を上げると、反応があったことに男たちは喜んだようだった。彼らに車の方に無理やり引っ張られている胡桃は、顰め面をして必死に抵抗していた。男対女、多勢に一人。力で敵うわけがないと小学生でもわかる状況に、文健の背中には脂汗が噴き出した。

 美保は文健を見限ったのか、単身で胡桃の元へ走っていった。美保まで被害に合うのは目に見えている。焦った文健が反射的に「待て!」と声にした、そのときだった。

「なに絡まれてんだよ。面倒くせえな」

 コンビニから出て来た高士が、買って来た煙草を取り出しながら苛立った声を出した。

「はあ? なんでわたしが怒られなきゃいけないのよ」

 胡桃が高士を睨みつけると、三人の男たちは品定めをするように上から下まで高士を見て、胡桃よりも悪意を持って睨みつけた。

「ナンだお前? うっぜーんだけど?」

 ポケットに手を突っ込んだまま、男の一人が高士に近づいていった。高士は取り出した煙草を咥えたまま男を見ていた。これだから暴力的で態度のでかい不良は嫌いなんだと文健が思った次の瞬間、その男は短い呻き声と共に膝をついていた。

「近よんじゃねえよ。口くせえ」

 文健も男たちも同じように目を見開いた。何が起こったのかよく把握できなかったのだが、状況を察するに、高士がからんできた男を拳で沈めたらしい。あまりにも速く重い一撃に動揺したのか放心している男たちの隙をつき、胡桃が彼らの手を振り払い高士の後ろに避難しているのを見て、文健は安堵の息を漏らした。

 残った二人のうち一人は冷静さを欠き、高士に真正面から右ストレートを食らわせようと試みたが、軽々と避けられた挙句、反撃のボディーブローに呻きながら崩れた。最後の一人に高士から近づいていくと、男は捨て台詞を吐くこともなく、あっさりと車に乗り込み退散していった。文健は嫌いな人種の去り際の格好悪さに清々したと同時に、勇気もなく高士の行動を目で追うだけだった自分を恥ずかしく思った。

「……ありがと。てか、すごいね。ボクシングでもやってたの?」

 咥えていた煙草に火を点けた高士に胡桃が問いかけた。文健の目には追えない部分があり、高士が男たちを瞬殺したという事実だけを確認していたのだが、どうやら高士の動きはボクシングに近いものらしい。

「まあ……昔、ちょっとな」

「もったいないね、あんためっちゃ強いじゃん。続けていればよかったのに」

「……ボクシングを喧嘩に使った時点で、もう俺はボクサーじゃねえからな……あ、遅えよ二人とも! 文健、罰としてなんか奢れよ」

 文健は罪悪感から胡桃に近づくこともできず、その場に足を縫い付けられたように動けなかったが、文健の存在に気がついた高士の方から近づいてきた。何か言われるのではないかと焦った文健の腹に、高士は冗談でボディーブローを決める真似をして笑った。

「ほら、次はどこ行くんだよ。案内してくれよ最年長。あ、美保ちゃん、変なもん見せて悪かったな。これは全部そこのケバいねーちゃんのせいだからさ」

「はあ? あんたの目って腐ってる?」

 無傷とはいえ、高士は体を張って助けた胡桃に礼を強要するようなことはせず、何の見返りも求めていなかった。おそらく高士は、ただ目の前の女が困っていたから当たり前のように助けたに過ぎないのだろう。なんと格好良いことか。

 高士を見て、文健はある決意を固めた。

 何もできなかった自分と、自分の中にある密かな憧れ。目にして感じたものを今、明確に小説にしたいと思った。

 ――悔しいから、高士には絶対に言わないけれど。

     ☆

「戦隊物を書くことにした」

 文健が物語を思いついたと言ったため、四人は散策を打ち切って文健の家に戻って来た。

 当たり前のように人の家の暖房を入れ冷蔵庫を開ける高士に文句を言うよりも先に、文健の中で湧き上がった情熱が体に残っているうちに、一刻も早く小説を書きたいという気持ちが勝った。

「文健には戦隊物の知識はあるの?」

 文健の提案に誰よりも先に反応したのは胡桃だった。

「子どもの頃に見ていたくらいで、全然詳しくない。だけど今、どうしても書きたくなったんだよ」

「戦隊物って、昔と今じゃ大分雰囲気変わっていると思うわよ? ほら、今の時代ママたちからの人気も狙って、キャストはイケメンにしているとか聞かない? ここからブレイクした芸能人っていっぱいいるし」

 五色のヒーローたちが三十分のドラマの中で悪をやっつける。文健にはその程度の知識しかないうえに、詳しく調べる時間もない。だけど、どうしてもやりたかった。これしかないという思い込みだが、小説を書くには十分な動機だと思った。運命の女神を驚かせる何かをしようというこの計画を立て、劇をやると決めたときに、脚本について三人は文健に一任すると言ったのだ。誰かに反対されようとも、意思を曲げる気はない。

「おいおい、なんのために俺が金髪にしていると思う? イエロー役をやるためだ」

 独裁政治への反乱どんとこいという姿勢で構えていた文健だったが、実際に高士がそう言って自分の背中を叩いてくれたことで安堵した。高士は乱暴で口が悪いが、自分にはないものをたくさん持っているからだろうか。高士に認めてもらえると嬉しいと思ってしまうのだ。

「じゃあイエローじゃないわね。ゴールドじゃん」

 胡桃がそう返すと、高士は大袈裟に溜息を吐いた。

「お前はほんっと、わかってねえな。あ、ちなみにお前はビッチっぽいからピンクな」

「はあ? ビッチじゃないし。ていうか本物のピンクレンジャーに超失礼」

 反論しながらもピンク担当に異論はないのか、胡桃はそれ以上文句を言わなかった。

「イメージカラーって、なんかアイドルみたいでわくわくしますね! あ、あたしは何色になりますか?」

「美保ちゃんはね、グリーン! 青森って緑って感じ!」

 高士は美保にだけは優しいため、胡桃が気分を害さないか文健は気を揉んでしまう。

「文健。お前はブルーだ」

「……冷静沈着なキャラ、ってことか?」

「違えよ調子乗んな。うじうじして鬱っぽいからだよ」

「……上等だ! ブルー最強のシナリオにして、イエローをボコボコにしてやるからな!」

 黄色、ピンク、緑、青。戦隊物は大体五色五人だと記憶しているが、一色足りないのは人数の関係で仕方がない。そう思っていると、高士が深刻そうな顔をしていた。

「……待て。レッドがいなくね?」

「元々四人しかいないからな。レッドなしでいいだろ。それか、高士がイエローじゃなくてレッドやるか?」

「俺はイエローがいいんだよ! でも戦隊物にはレッドがいるだろうが! ……ちっ、しょうがねえ、とりあえずレッドは保留にしとくか。シロヤマもルーシーもレッドっていうより、ブラックだしな」

「ルーシーって誰だよ」と文健が訊く前に、美保が首を傾げた。

「ルーシーさんって、高士さんに銃を向けていた女の子ですよね? お二人はどういう関係なんですか?」

「さあ? 今日電車で会ったばっかだから、よく知らね。言葉を話せないっていう訳わかんねえ設定だったなー。シロヤマの知り合いじゃね?」

 高士の言葉にいちいち反応するのは文健の仕事になりつつあったが、流石にこの回答には胡桃も美保も目を丸くしていた。

「……ばっかじゃないの? なんでそんな得体の知れない子と一緒に行動していたの? っていうか、そのルーシーはどこに行ったのよ?」

「だから知らねえって。そういや、シロヤマが出て来たあたりでいなくなってたな」

「……本当、あんたって男は……まあ、ルーシーのことは一旦忘れるとして、一夜限りのヒーローショーって割とロマンティックよね。衣装とかはどうする? 今から作るとかは現実的に無理だから、どっかで買うかレンタルする? あー、でも店も閉まっているだろうし、どうしようかしら」

「……胡桃、意外とやる気だな。俺はそこまでしなくてもいいと思ってたけど」

 一見クールな胡桃が文健の提案した戦隊物に前向きであるということに、嬉しさを覚えた。恥ずかしさを隠そうと斜に構えてしまうのは、文健がまだ大人になりきれていない証拠だ。

 胡桃は文健の心境なんて露知らず、さらりと答えた。

「たまには真剣にやってみないと、”戻れない”気がするのよ。……で、小説家兼脚本家の文健さん? どんなお話にするつもりなんですか?」

 小説家兼脚本家。わざと言われているにしても、妙にくすぐったくて心地よい響きだ。

「あ、ああ。えーと、戦隊物の定番は勧善懲悪だと思っている。そこだけは俺たちも方向性を変えるつもりはないよ」

「完全超悪? ダメだろ、ヒーローじゃねえじゃん」

 浮かれた気分は高士の発言によって台無しにさせられた。

「……馬鹿は黙っててくれ。それで、三人に頼みがある。書いている最中に集中力が切れてしまうのを避けたいから、俺が脚本を書き終わるまで外にいてくれないか?」

 文健の我儘をみんなは二つ返事で了承し、「期待してる」と告げて部屋を出ていった。
 文健の要望に応え、高士、胡桃、美保の三人は外に出た。

 すでに時刻は二十時半を回っている。二十四時まで時間が欲しいと言った文健の言いつけを守ると、十七歳の美保は外にいては補導される時間になってしまう。そこで美保は少しでも大人っぽく見せるため胡桃に化粧を施してもらったのだが、自分でやったときとは比較にならない程の変化に、大人の階段を昇った気がして気分が高揚していた。

(さすが胡桃さんだべ! こんなに綺麗にしてもらえるなんて感激だあ~! 記念に撮って貰った写真、早くケイコに送りてぇ~!)

 三人は今、明日の公演場所を探していた。目立つためには人が多い場所が良いだろうと考え文健の家の最寄り駅から新宿へ再び移動したのはいいものの、この時間でも人がごった返している新宿駅前では、とても劇なんてやれない気がしていた。

「ヒーローショーって動き回るものなの? どれくらいのスペースが必要になるのかしら……美保? 聞いてる?」

「あ、はい! き、聞いてます! ええと、人が多く集まる場所で、適度に歩き回れるくらいのスペースは考えておくのが無難だと思います!」

 人が多すぎて無理かもなんて思っていたくせに、そんなありきたりな意見しか言えない自分が恥ずかしかった。

「みんなが見そうな目立つ場所って考えると、あそことかいいんじゃね?」

 高士が指したのは『新宿ステーションステージア』だった。よく芸能人の告知だったり新商品のイベントで使用されている場所である。

「ああいう公共のスペースを借りるのって、高いんじゃない?」

「小さいから大したことないんじゃね? 一日五万くらいか? 一人一万五千出せばいけるって!」

「……あんたコンビニ入るとき財布に千円しかないって言っていたけど、口座にはお金入っているの?」

「俺は、ほら。文健先生っていうスポンサーがいるから」

「文健に頼るんじゃないわよ。それに、美保のことも考えなさいよ。高校生よ? っていうか、こんな新宿の一等地、そんなに安く借りられないと思うけど」

 胡桃は携帯電話に視線を落とし、細い指を動かした。

「えーっと……新宿ステーションステージアは……平日使用料金五十五万円、土日祝使用料金、八十万円! 予約は原則一年前からだってさ」

「話になんねえ! やめだやめだ!」

 流石新宿の一等地だ。美保は苦笑いを浮かべた。

「それにしてもリーマンが多いな。こんな時間まで働くとか大変だねえ。そこまでして働く意味ってあんのかね?」

「何言ってんの、立派でしょうが。高士はなりたくてもなれないわよ」

 なかなか辛辣な意見だと思ったが、高士は別段怒った様子もなく平然としていた。美保は最初高士が怖い人だと思っていたが、勝手な思い込みだったと反省している。むしろ、接し方に困る対象が高士ではなく文健になるとは思っていなかった。文健は良い大人なのにすぐに逃げ出すし、弱気なのにプライドが高くて、気をつけてはいるのだがつい冷徹な眼差しを向けてしまう。文健も美保にとやかく言われたくはないだろうし、お互いに干渉しないのがベストなのかもしれない。

 路上で煙草を吸おうとした高士を胡桃が叱り、喫煙所へ行くよう命令した。必然的に胡桃と美保は、寒い中外で高士を待つはめとなった。

「ほんっと、自己中な男よね。美保、煙草が我慢できない男とイビキが煩い男は付き合わない方がいいわよ。絶対に嫌気が差すから」

 白い息を吐きながら胡桃が恨めしそうに呟いた。苦笑いで答えつつも、胡桃に訊きたいことがあった美保は千載一遇のチャンスだと思って、前のめりになった。

「あの、胡桃さんも大学進学を機に上京されているんですよね? やっぱり、大学も東京も楽しいですか?」

「そうね。大学は今までと違って自由が多くて面白いわよ。うん、遊ぶところは多いし、美味しいお店も多いし、わたしは地元よりも東京の方が好きかな」

 美保のテンションが上がった。絶対に央田大学に受かってやる、そんな気持ちが湧き上がってくる。だが水を差すように、胡桃は「でもね」と続けた。

「東京ってさ、楽しいけど良いことばかりじゃないよ。楽しくなるかどうかは自分次第ってよくいうけど、それなりに自己判断ができる頭の良さも必要になる。……わたしみたいに流されやすい馬鹿は、特に注意が必要だった。美保は見たくないものを見ないようにしているみたいだから、少し冷静になった方がいいかもね。もちろん、勉強に対するやる気はなくさない程度にね」

 ――お前は周りが見えていない。そう忠告を受けた気がした美保は、高士や文健ではなく憧れの胡桃から言われたことで、少なからずショックを受けた。だけど、胡桃の言うことなら素直に受け入れられる部分もある。美保は今まで見ようとしていなかった部分を視界に収めようと、目玉と神経を外に向かせた。

 東京の夜は眩しく騒がしく、目が眩んだ。こんなにたくさんの人がいるのに、ほぼ他人というのも嘘みたいな確率だ。地元なら、休日のショッピングモールに行けば誰か一人は知り合いに会うというのに。

 酔っ払ったおじさんに群がる若者や、水商売のお姉さんたちが黒い服を着た男に声をかけられている光景を目にした。大声でたむろする人間もいれば、人と目を合わさずに足早に歩く人間もいた。視点を少しだけ変えてみると、あんなに憧れていた東京にいるにもかかわらず、ふと田舎を恋しく思う気持ちになった。

「……胡桃さんが流されやすいとか、馬鹿とか言われても全然信じられません。年上の高士さんや文健さんより、ずっとしっかりしているのに」

 だが、胸に生まれた新しい感情をまだ否定したい気持ちもある。美保は胡桃の言葉に異を唱えることで、一旦その気持ちと距離を置こうとした。

「うーん……高士はともかく、文健は文句ばっかり言っているけど芯が固まっているからね。多分、わたしよりも全然しっかりしているわよ」

「そうなんでしょうか? あたしにはわかりませんけど……」

 美保が小首を傾げたタイミングで、高士が喫煙所から出てこちらに向かってくるのが見えた。胡桃は高士の元へ歩を進めつつ笑って、

「まあ、とりあえずは文健が作った脚本を見てから判断しようか。あいつの中にある何かがわかるかもしれないし」

 美保はさっき読んだ文健の小説を思い出し、ますます首を傾げざるを得なかった。
 自分の才能のなさを羅列することにはやはり抵抗があるが、嘘を吐いても仕方がないから正直に言おう。烏にだって耳はあるし嘴だってあるが、私には音楽の才能がないと思う。

 何の曲を聴いても同じに聴こえるし、曲の違いは速いか遅いかくらいでしか判断がつかないし、歌詞は聞こうとしてもまったく記憶に残らないため反芻もできない。

 ゆえに、「この曲すごく共感できる」と言っている人間には抵抗がある。私はそんな歌なんてこの世に存在するはずがないと、考えているからだ。

 自分のことを知ってくれる、恋する女の気持ちがわかるなんて都合のいいアーティストがいるわけがないし、共感できる歌をセールスポイントに売り出しているアーティストも虫唾が走る程度に好きではない。

 今回の標的は死に際にどんな表情をするのだろうか。まだ若造であるゆえ、恐らく自分が死ぬことを理解できないまま息絶えるのだろう。かわいそうだとは微塵も思わないが、今回は鎮魂歌でも歌ってみようかとも思う。歌で人の心を救えると豪語するアーティストの言葉が間違えていることを、私が証明してみせようじゃないか。まあ、私が心を込めて歌ったところで、どうせ相手には伝わらないのだろうけれど。

 私が珍しく死に際の人間の気持ちを考えているのは、おそらく現状が原因だ。

 飛べないように傷つけられた羽をひきずりながら、私は地べたに血を擦りつけ、少しずつでも前に進もうと努めていた。これが私の最期だと予想できていたなら、ご主人に別れの挨拶を用意したのだが……いや、違う。予想できていたなら、こんな状況にはなっていないか。何もかも私が悪いのだ。自分では気がつかなかったが、慢心と油断があったのだろう。これは戒めみたいなものだ。

 私の口調はご主人に影響されているが、私の方が融通の利かない固い印象を与えてしまうために、知らぬ間に敵を作っていることもあるだろう。死に際になって反省するのはいささか遅すぎたが、そのせいでご主人に迷惑をかけていないことを切に願う。

 世界中のどこにも、嘘を吐かない種族などいないのだろう。

 私のような烏でも餌として狙われたなら敵を騙すし、食物連鎖の下方にいる私に食われる側の動物だって、逃げようと必死に頭を使い、私を騙そうとしてくる。

 だから、大きな脳味噌を持っている人間や、神様と呼ばれる方々が――嘘を吐かない理由はないのだ。
 徹夜明けの目に朝日が眩しかった。文健はインスタントコーヒーを啜りながら、足元で転がって眠る高士の訳のわからない寝言を聞き流しつつ、運命の日とも呼べる朝を迎えた。

 予定時間を過ぎ深夜一時に書き終えた脚本は、今まで文健が書いてきた小説とはまるで種類の違うものになった。下手に難しい言葉や描写を入れようとせず、ノリとテンポを重視して笑えるかどうかは差し置き、ギャグを多めに書いた。いつも書いている小説よりも短い枚数の中で起承転結をしっかり入れることを意識したとき、今までの自分の小説は『転』が唐突過ぎたのかもしれないと思った。ストーリーを動かしたいためだけに、無理な展開を入れる。これでは読者は混乱するだろうし、何を伝えて欲しいのかわからないだろう。

 そこまで考えて、以前より自作品を客観的に分析できていることに気がついた。それは文健にとって口元が緩む新しい感覚だった。

「なにニヤニヤしてんのよ、気持ち悪い。早くあんたも着替えて。八時から衣装着てリハーサルをやってみようって言ったのは、あんたでしょ? まあ、リハーサルって厳密に言うと役者の立ち位置や照明を調整するものらしいから、場所が違うのにリハーサルって呼んでいいのかはわかんないけど」

 眉間に皺を寄せた胡桃から衣装を手渡された。彼女はすでに、昨夜三人がドンキホーテで買ってきたという安っぽいヒーローコスチュームに着替え終わっている。いざ目にした文健はこの衣装を着ることに抵抗があったが、一番に反発しそうだった胡桃は割り切っているのか、ピンクの衣装にしっかりと身を包んでいる。体に密着する衣装は胡桃の細いくびれやボリュームのある胸部を強調していて、恐ろしく色っぽい彼女にどうしても目が吸い寄せられた。

「ああ、うん。今着替える」

「高士はまだ寝てるの? 起こしとくわよ。……それと、女って男のエロい視線ってすぐわかるものだから、気をつけなさいよ?」

 文健は必死に顔を隠しながら別室に移動した。

 書き上げた脚本『イロモノ戦隊レインボーレンジャー!』の内容は、シンプルなものだった。悪の組織の一員(高士)が普通の女子高生(美保)を襲おうとしたときに、レインボーレンジャーと名乗る二人(文健、胡桃)が現れて高士を追い払う。二人に礼を述べ素性を問う美保に、二人は自分たちが世の中の風紀を乱す連中、悪の組織を成敗する正義の味方だと説明する。その後ヒーローコスチュームに着替えを完了させた高士と美保も揃ったところで、悪の組織が集う秘密結社に乗り込み、ボスを討伐する。最後は四人が街をパトロールしながら観客を指差し、

「世の中に人の悪意がある限り、悪の組織は必ず復活する。もしかするとあなたたちの周りにも悪い人が潜んでいるかもしれない。そのときは必ず私たちが駆けつけよう!」

 そう言って締め括る予定である。飲まず食わずでネットサーフィンをすることもなく、今までにない集中力と勢いで書き上げた入魂の一作だ。みんなにどう評価されるか文健は緊張していたのだが、

「いいんじゃね?」

 高士たちは一言で片付けた。ここまであっさりOKが出ると、臆病で疑り深い文健は不安になってしまった。何か意見がないか三人に訊いてみたが、意見を訊く暇があったら劇の練習をした方がいいと胡桃に促されたこともあり、文健の書いた脚本は一切の手直しなしで進められることになった。

 そこからは一晩ぶっ通しで練習をして、ようやく休めたのは朝の五時だった。と言っても休んだのは三人だけで、文健は体はヘトヘトだったものの気分が高揚して目が冴えていたため、一睡もしなかった。

「それにしても……俺、似合わないな」

 鏡に映る自分の貧相な体に溜息が出た。テレビで見ていたレンジャーたちはしっかりと体を鍛えていたのだなと思った。衣装を身に纏った文健はあまりにも不格好で、観客の前に高士に笑われることは確実だった。

 気の重いまま居間に行くと、寝起きで酷い頭をした高士が寝転がりながら胡桃に文句を言っていた。

「胡桃ぃー、やっぱりミニスカポリスとナース服も買っておくべきだったって! 客寄せにもなるんだしよー」

「何が客寄せよ。言っておくけど、高士は下心が丸見えなのよ。大体、わたしはともかく、未成年の美保にまであんな派手な衣装勧めちゃダメでしょうが。あんたが美保に手を出したら、容赦なく警察に突き出すからね」

「胡桃だったらいいって言ったな? じゃあ一発ヤ……」

 その先の言葉は、都合よく胡桃の足元に転がっていた高士が体を踏みつけられたことで、発せられることはなかった。

「あ、高士さんおはようございます! 文健さん、お風呂貸してくれてありがとうございました!」

 グリーンの衣装に身を包んだ美保がやって来て、丁寧に頭を下げた。胡桃とはまた違う小柄で細い未熟な体つきにもまた、ぐっとくるものがある。視線を感じて横を見ると胡桃と目が合った。さっきの忠告を思い出した文健は、即座に美保から目を逸らした。

「よし。じゃあリハーサルの前に、今日の日の成功を祈って円陣でも組もうぜ」

「こ、ここでですか? あんまり大声出したら近所迷惑になりませんか?」

「大丈夫だろ! な、文健? あ、ついでに今回の作戦名も考えてくれよ!」

「さ、作戦名? 必要ないだろそんなの……というか高士、お前着替え終わってないじゃないか! リーダーがしっかりしていなくてどうする!」

「……よく考えてみれば、あたしと高士さんって最初一般人として登場するから、あたしが着替える必要はなかったんじゃないかと思います……」

 美保の正論に文健は口を閉ざした。

「……わたしは作戦名考えるのに賛成かな。『運命の女神の予想を超えるような何かをする作戦』なんて言いづらいし、一言で表せる言葉があった方が絶対いいって。……ね、美保が考えてみたらどう? 一番若いし、良いセンスが光るんじゃない?」

 胡桃の一言で、三人の視線が一斉に美保に集中した。

「こういうの、あんまり得意ではないのですが……そうですね……《デベロップメント・サプライジング》なんて、どうでしょうか?」

 美保の提案に場が沈黙した。失念していたが、美保は思春期真っ最中――つまり、厄介なセンスを持ち合わせている可能性も考慮しておくべきだったのだ。

「……その心は?」

 文健がおそるおそる尋ねた。

「えっと、『発展途上な驚かせ計画』ってことから、名づけました!」

 そのまんまじゃないか! と内心突っ込みを入れていると、

「おー! 美保ちゃんすげえな! 英語わかるんだな! よし、決まりだ! それでいこう!」

 高士が目を輝かせながら美保を絶賛していた。からかっているように見えないということは、もう覆ることはない。我儘で自己中心的なリーダーが決めてしまったのだから。

「んじゃ今日は、シロヤマも運命の女神も驚かせてやろうぜ! 俺たちの《デベロップメント・サプライジング》の成功を祈って! えいえいおー!」

「「「おー!」」」

 隣人に騒音注意をされることに怯えつつ、円陣を組む前よりやる気が出てきた自分の単純さが可笑しかった。文健は安物のヒーローコスチュームに身を包みつつ、背筋を伸ばした。


 胡桃曰く、公共の場で演劇するためには正規の手続きを踏む必要があるうえ、とても借りられる条件ではないということだった。ゆえに、路上講演をするしかないことに納得はしている。しかし、

「……やっぱり、場所変えないか? ここは人が多すぎるし、ガラの悪い奴も多そうだ。からまれたりしたら嫌だし……」

 ここに来て文健は二の足を踏んでいた。高士たちが講演場所に決めたのは、新宿駅南口の改札前だった。夜話し合ったときはハイテンションが手伝い、ここで劇をすることに抵抗もなかったのだが、実際に訪れ人の多さを目の当たりにしたことで、急に現実に戻された気分だった。目が回るような人通りの中で自主制作のヒーローショーを行うことは、文健にとって恥ずかしすぎる拷問のように思えたのだ。

「さ、流石にあたしもちょっと恥ずかしいです……。もう少し人のいない場所とか……どうでしょうか?」

 美保も文健と同様、物怖じしたようだ。

「わたしはどこでもいいわよ。高士はどう思う?」

 リーダーということを差し引いても、胡桃は高士の意見を伺うことが多い。文健の勘は当たらないことが多いのだが、胡桃は高士に惹かれているのではないかと憶測していた。高士は路上喫煙禁止と掲げられた看板を恨めしそうに見ながら、ポケットに煙草を戻した。

「いや、ここでやる。移動するのも考え直すのも面倒くせえし」

 文健は知り合いが新宿に来ていないことを祈りつつ、この劇が終わったらしばらく新宿には足を運ぶまいと心に誓った。

「じゃあ、少しでも宣伝してきた方がいいわよね。わたし、ちょっと行ってくる」

 胡桃は手持ち無沙汰に駄弁っている男二人に声をかけに行った。三十秒もしないうちに三人は談笑し、盛り上がっているように見えた。男二人と別れてからも、胡桃は行き交う人々を観察しながら、止まってくれる人を捕まえて上手く告知しているようだ。人見知りをする文健が微妙な居心地の悪さを覚えながらじっとしていると、胡桃が戻って来た。

「適当に告知して来たわよ。口約束だけだけど、多分来てくれると思う」

「……知らない男とよく普通に話せるね」

「まあね。高士の言葉を借りれば、レインボーピンクってビッチだし? これくらいはね」

 胡桃の艶かしい表情に思わず赤面してしまったことを、彼女はきっと気づいているだろう。文健は顔を隠すように携帯電話を取り出し、深呼吸をしてからSNSに書き込んだ。

『新宿南口前で十二時からなんか劇をやるみたい。結構面白そうかも』

 これが今の文健に出来る精一杯の勇気だったが、勇気を振り絞ることは気持ちがいいことだった。

 全員着替え終わり、小道具の準備も完了した。出陣準備は整ったのだ。

 天気は曇り。午後十二時、寄せ集めのメンバーによるヒーローショーが開演された。



「私の名前はコノハ! どこにでもいる普通の女子高生!」

 レインボーグリーン兼被害者役の美保が、顔を真っ赤にしながら台詞を口にして物語は始まった。

「ある日、学校から帰ろうとした私は、全身真っ黒なスーツにサングラスの見るからに怪しい男に、からまれてしまったのだった!」

 圧倒的に予算が足りないために悪役の高士が着ているのはただの文健の仕事用のスーツになってしまったが、高士には裾が短く、手首と足首が見えてしまうのが切ない発見だった。

「こんなところに、おあ……おは向かいのお嬢さんがいるじゃねえか! ちょっと、俺について来てもらおうか!」

 なんだ「おは向かい」って。練習したのにまるで進歩がなかった高士の棒読みっぷりと、「おあつらえ向き」の台詞を忘れていることに力が抜けた。だが笑って誤魔化そうとしていないあたり、高士なりに真面目にやっているのだろう。

「きゃー! 助けてー!」

「そこまでよ! 平和を乱す悪人め!」

 美保が悲鳴を上げた瞬間、ピンクのヒーローコスチュームを身に纏った胡桃がポーズをつけて参上した。色気のある胡桃の肢体は、興味なさ気に通り過ぎる男たちの視線を多く引きつけたようだ。いや、冷静に観察している場合ではない。次は文健の出番だ。羽織っていたコートを脱ぐと、ヒーローコスチュームの防寒性のなさに悲鳴を上げそうになった。北風が素肌に染み込んでいく感覚をぐっと堪えつつ、文健は舞台に飛び出した。

「俺たちが存在する限り、悪事は働けないと思え!」

 練習通り、胡桃と共にポーズを決めることに成功した。このポーズ、自分で考えてみたものの非常に恥ずかしい。文健が繰り出した何の威力もなさそうな右ストレートに高士は大袈裟に吹っ飛び、

「ちくしょう! 覚えてろよ!」

 と、ありがちな捨て台詞を吐いてそそくさと舞台袖、というより、歩行者から見えないように立てられた段ボールのパーテーションに引っ込んだ。演技とはいえ、自分の拳が高士みたいな喧嘩の強い奴を吹っ飛ばしたことは気分がいい。

「あなたたちは一体、何者なんですか?」

「私たちはあなたを襲ったような、世の中の風紀を乱す悪の組織を成敗する正義の味方! その名も、イロモノ戦隊レインボーレンジャー! 私は華麗な美貌で敵を惑わせる、レインボーピンク! チームの花よ」

「同じく! クールな参謀、レインボーブルー! 俺たちが来たからにはもう安心だ。安心して帰宅するといい」

 胡桃と文健がそれぞれ台詞を決めると、

「おいおい冷てえなあー。女の子を家まで送ってやらねえのかよー?」

 冷やかし顔で見ていた若者に茶々を入れられ、何人かが馬鹿にしたように笑った。ヒーローマスクの下で冷や汗を流しながら、いつものように言い訳を脳内に並べ始めた文健だったが、冷やかされてもみんなが演劇を続けているのを見て逃げ道を作ることを止めた。小さく息を吐き、この劇をやり遂げることだけに集中した。

 前向きに考えてみれば、観客から突っ込みがあったということは見ている人がいたということだ。恥ずかしくて周りを見ることができていなかったが、よくよく見渡してみると一瞥をくれるだけの人が大多数ではあるが、数人は足を止めていた。

「誰にも負ける気がしねえ! レインボーイエロー!」

「キュートな魅力で敵も癒す! レインボーグリーン!」

 高士と美保もヒーローコスチュームへの着替えを終わらせ、レインボーレンジャーとして役を演じていた。美保も吹っ切れたのか照れを微塵も感じさせない演技だったし、高士は下手くそなりに楽しんでやっているようだった。

 淡々と芝居は進んでいき、観客が増えてきたのも気のせいではないと思い始めた頃、文健は何か大きなことをしている気分になっていた。このままいけば生まれ変われるような不思議な感覚だった。この劇が終われば結果はどうであれ、成長できる気がしていた。

 だが、文健は演劇のことをよくわかっていなかった。役者が一人でも芝居から気を逸らしてしまった瞬間に、事態が一変するなんて想像できなかったのだ。

 劇も終盤、レインボーレンジャーが悪の組織が集う秘密結社に向かっている最中のことだった。イエロー役の高士が突然、足を止めた。脚本にない動きに戸惑った文健が高士の視線の先を追うと、駅の壁沿いに一羽の烏が横たわっていた。烏は全身から血を流していて、かろうじて動いているのが見えなければ、死んでいると思っただろう。

 まだ劇は終わっていないというのに何を思ったか、高士は烏の元へ近づこうとした。驚いた文健が思わず高士の肩を掴むと、ヒーローマスク越しからでもわかる殺気で高士は文健を睨みつけた。文健は一瞬たじろいだものの、間違ったことをしていない自信はあった。肩を掴んだままかぶりを振り、「気になるのはわかるが、今は劇に集中しろ」と諭した。高士にも伝わったと信じて疑わなかった。

 文健が頬への強烈な痛みを覚えたのは、地面に尻をつけ、高士に右ストレートで殴り飛ばされたことを認識してからだった。一瞬その場が静まり返り、後にざわめきの声が大きくなった。ヘラヘラと笑う若者や、突然の暴力に顔を顰める淑女。様々なリアクションを浮かべる人々が見ている中、文健は殴られた左頬を押さえつつ混乱と戦っていた。

 高士は口も頭も悪い男だが、コンビニでからまれた胡桃を助けたときのように、理由なく暴力を振るう男ではないと思っていた。正義の味方みたいな、文健にはない強さに憧れて脚本を書いたというのに、どうして――

「なんで、高士……!」

「悪い、説明している暇がねえ」

 高士は黄色いヒーローコスチュームを着たままその場を去り、地面に横たわる血まみれの烏を拾い上げたかと思えば、すぐに人ごみの中に姿を消してしまった。

「高士!」

「こ、高士さん!」

 胡桃と美保が彼の名前を呼ぶ声を、文健は他人事のように聞いていた。

イロモノ戦隊レインボーレンジャー!!

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