都内にある大手住宅メーカーのお客様相談室では、パソコンのキーボードを叩く音と電話の声が飛び交っている。多くの派遣社員たちが時給分の仕事をこなす中、文健は大きな溜息を吐いた。

 奥から二番目の女が、もうかれこれ三十分は「申し訳ございません」と謝罪ばかりを口にしている。そろそろお呼びがかかるだろう。

 そらみろ、女の手が上がった。面倒だと思う気持ちを顔に出さないように急ぐ素振りで駆け寄ると、女はデスクの上の裏紙に『クレームです。上司を出せと言っています』と書いていた。字は綺麗ではなかった。

「わかった。一旦保留にして」

 文健がそう言うと女は安心したように、

「上司に代わりますので、少々お待ち下さい」

 と言って保留ボタンを押した。

「芳野さん、この客頭おかしいんですけど! 商品の原価を教えることは出来ないってずっと言ってんのに、『何故言えないんだ』『お前じゃ話にならないから上の奴を出せ』ってしつこくて! 超ムカつくんですけど!」

「うん。とりあえず代わるからこれ付けて」

 若い派遣社員の女は感情を抑えられず、上司である文健の前でも平気で客の悪口を言っていた。文健は女からヘッドセットを受け取って彼女にヒアリング用のイヤホンを渡し、保留解除ボタンを押した。

 朝一から厄介で面倒な客だった。あの客を宥めるのに一時間半かかった挙句、終わったと思ったら今度は別のオペレーターの手が上がり、もう一セット対応に追われた。

 都内の私立大学を卒業した文健が、人材派遣会社の正社員としてメーカーのコールセンター業務を取りまとめる部署に配属されてから、二年目になる。

 文健には不満を持っていることがたくさんある。一つ目は、朝一で難癖をつけてくる客。勿論、電話では丁寧な謝罪と納得のいく説明を心がけているが、胸中で悪態をつくことなんて日常茶飯事である。

 二つ目は、従業員たちの態度。上司である文健に対しての口の利き方や、対応を代わって貰っても当たり前だと思っているのか、お礼も言わない態度が気に入らなかった。クレームを処理するのも自分たちの仕事だと理解していないからそういう態度になるのだ、と彼女たちに面と向かって言えない文健はストレスを募らせていた。

 そして三つ目は、アナログの機械である。今時のコールセンターはパソコン一つで通話履歴も残せるし、チャットのようにパソコンにメッセージを飛ばすことも出来るのが当たり前なのに、文健の職場ではまだ取り入れられていない。クライアントが導入資金を渋っているからだ。だから問題が起こらないように、起きてしまってもすぐに対応出来るように、窓口の責任者である文健は常に島全体に目を配らせなければならず、無駄な体力を使っているのだった。

 長く辛い一日を終えて2DKのアパートに帰宅しても、一人暮らしの文健の部屋には待っている人は誰もいない。ただいまも言わずに電気をつけ、何よりも先にパソコンの電源を入れるのが文健の習慣だった。スーツを脱ぎ、手を洗って、買ってきた弁当を食べながら立ち上げたパソコンでお気に入りのサイトを巡回していく。

 腹が膨れ食欲が満たされたら、ワードを立ち上げる。いつかこんな会社辞めてやる、文健がそう思わない日はない。まだ誰にも言っていない野望を、文健は縦書き設定にしたワードの空白に叩き込んでいった。

 文健が書いているのは、妄想を詰め込んだ小説だった。こいつを新人賞に出して賞を獲り、ゆくゆくはベストセラー作家になって印税生活をする。文健の夢は、彼の日常に光を与える貴重な活力源であった。今日もまた文字を打ちながら、文健の夜は更けていくのだった。


 基本的に、毎日が同じことのローテーションだ。

「上司に代われって言ってます」

 今日もまたクレームが来たようだ。

「言ってますじゃねえよ! 他に言うことあるだろうが!」

 そう思いながらも口にすることはせず、文健は冷静な素振りで不機嫌そうな女からヘッドセットを受け取った。女は相当腹が立っていたらしく、文健が渡したヒアリング用のイヤホンをデスクの上に置き、激しく物音を立ててどこかへ行ってしまった。

 電話が終わって彼女が戻って来たら、面談という名の説教をする必要がある。面倒ごとが増えたことに眉根を揉みながら、文健は保留を解除した。

「お電話代わりました。神田の上司の、芳野と申します」

『こんにちは。君は何色のパンツ履いているの?』

 電話応対でやってはいけない行為だということはわかっているが、思わず沈黙してしまった。この間も冬は好きですかなんてくだらない悪戯電話があったばかりだが、あれは可愛いものだった。今日は本物の基地外が来てしまったかもしれない。電話の相手は恐らく二十代から三十代であろう女だった。若い女性オペレーターにセクハラ紛いのことを言う輩は珍しくないが、自分にこんなことを言ってくる相手は初めてだった。

 文健は唾を飲み込み、続けた。

「お電話が遠いようですので、もう一度仰っていただけますか?」

『パンツのことはもういいや。突っ込みに反射神経のない男は面白味がないね』

「……さようでございますか。誠に申し訳ございません」

 暇つぶしに遊ばれていると判断した文健は、電話を切りたくてしょうがなかった。何を言われても言い返さず謝っておけば、飽きて電話を切るだろう。そう考えていたのだが、

『でも君の小説は面白いと思うよ』

「な……!?」

 度肝を抜かれ、またしても黙りこんでしまった。何故この女は俺が誰にも言っていない趣味であり野望であり、かつ知られたくない秘密を知っているんだ? 訊きたいことが次々に頭に浮かんだが、ここは職場だ。下手なことを口走ればただでさえ女が多い職場だ、あっという間に噂が広まってしまうだろう。

 しかし幸いにも、クレームを報告した女はヒアリング用のイヤホンを付けずにどこかへ行ってしまっている。文健は周囲にばれないよう慎重に、小声で疑問を口にした。

「……お客様は何故、そのようなことをご存じなのですか?」

『そんなことはどうでもいい。芳野さん、君が本当に知りたいのは、自分の小説が世の中に認められるのかどうかだ。違うかい?』

「ち……がいませんが、今、あなたと話してもしょうがないことです」

 文健は一層声を潜めた。

『初投稿で運よく一次審査を通ってしまったから、自分には才能があると思い込んだんだろ? その後の投稿はぜーんぶ一次落ちをくらっているくせにね』

 誰にも話していないはずの秘密を知られているという恐怖は勿論、文健の小説を面白いと言ったり貶めたり、女の意図がまるで掴めない文健は泣きそうになっていた。

『いやいや、落ち込むことはないよ。まず君はね、名前がいいよ。文健。名前に『文』が入っているなんて、小説家になるために生まれてきたみたいなものじゃないか』

 苗字しか名乗っていないのに、名前、それも漢字まで知られてしまっていることには、さほど驚かなかった。どうせ何でも知っているのだろうと、投げやりになっていたくらいだ。

『……ところでさ。私が君の夢を叶えてあげるって言ったら、乗ってみるかい?』

 文健は一瞬躊躇したため、唾を飲み込む一秒間の間に女を優位にさせてしまった。

『君は頭の回転が遅いね。他人を見下すくせに、馬鹿なんだな。じゃあ明日の十二時に新宿駅東口で待っているよ。黒いブーツに青いスカートを穿いて、キャメルのコートを着ている茶色いロングヘアの二十代の女に声をかけてくれ。それが私、某有名出版社の編集者シロヤマだ。詳しいことは明日話すよ。またね』

「ちょっ……」

 文健の返事を待たずに電話は切れ、機械音だけが文健の鼓膜に響いた。

 女の全てが怪しすぎて、逆に疑う気持ちが薄れたくらいだ。女には訊きたいことが山ほどある。明日は土曜日で仕事は休み、予定もない。会うだけ会ってみて、話を聞いてみるのがいいのではないだろうか。

 自分に都合のいいように出かける理由を見繕っている文健は、夢を叶えてくれるという言葉に見事に踊らされていた。一パーセントでも夢に近づく可能性があるなら、賭けてみてもマイナスにはならないのではないか。毎日コツコツ頑張って来たから、神様がわかりやすいチャンスをくれたのだ。文健はこのとき、そう信じて疑わなかった。

 芳野文健は疑り深い性格のくせに、依存心が高い人間だった。

 だからこそ、あっという間につけこまれたのだった。


 文健は大人しそうな顔をしているが、基本的に短気な性格だ。ATMでもたもたしている人を見れば苛々するし、電車で扉付近にいるのに扉が開いても避けない人は大嫌いだ。

 文健のそんな性格は特に、こんな風に落ち着きなく一人でいる街中で存分に発揮される。新宿駅東口のライオン広場で、不自然にはならない程度に目玉を動かしながら、他人から気持ち悪いと思われないようにシロヤマを待った。電話口で聞いたシロヤマという女の特徴は、『茶髪ロングの二十代の女。黒いブーツに青いスカートを穿いて、キャメルのコートを着ている』というものだ。しかしこの人ごみの中には条件に該当する女は大勢いて、文健は判断に困っていた。

 待つこと二十分。それらしき女性が一人、手すりに腰掛けた。――この人だ、と思った。誰かを待っているように見えるし、何より直感めいたものが働き、文健は彼女がシロヤマだと信じて疑わなかった。

 女は目鼻立ちのバランスがずば抜けて整った容姿をしていて、特に大きな双眸には人を惹き付ける魅力があった。文健が想像するより女がずっと美人だったため、ただでさえ初対面の女性と話すことに緊張する性質だというのに、ハードルがぐっと上がってしまった気がした。だが気分が高揚したことも事実だ。文健は深呼吸をして、女に近づいていった。

「あ、あの……シロヤマさんですよね?」

 勇気を振り絞って声をかけると、女は警戒した顔を見せた。緊張している文健の頭はそれを『積極性とコミュニケーション能力を試すテスト』だと勝手に判断し、続きを口にしなくてはという焦燥に駆られた。

「あの、昨日電話で話しましたよね? 僕が今日出版の話をさせて頂く約束をしております、芳野文健です。今日は宜しくお願い致します!」

 女はやっと腑に落ちた顔をした。ああ、良かった。やっぱりこの人がシロヤマなのだ。

 しかし、安心したのも束の間だった。

「……人違いじゃないですか?」

 言われた瞬間、文健の背中に冷や汗が噴き出した。勘違いが恥ずかしくてこの場からすぐにでも逃げ出したかったが、口も体も硬直して動けなかった。成程、これが死後硬直というものかと、訳のわからないことを考えながら現実逃避していると、どこか田舎臭い女子高生が真っ直ぐに自分の方へ向かってきた。化粧気のない顔で文健を見たかと思えば落胆したような顔をして、少女は女の方に向き直り懇願した。

「ひ、人が撃たれそうなんです! 助けて下さい!」

 まさか自分がこんなドラマみたいな経験をすることになるとは、想像もしていなかった。少女が誰彼構わずからかって遊んでいる可能性が高いとは思うが、こんなに真面目そうな少女が息を切らして走って来て、真剣な顔をして言ったものだから、真っ向から否定してしまうのも気が引けた。女はどう反応するのだろうと思っていると、

「場所は?」

「あ、あっちです! あたしについて来て下さい!」

 少女と一緒に女は走って行ってしまった。少女に声をかけられていない俺は関係ない。文健は自分にそう言い聞かせようとしたが、本当に事件だったなら後味が悪い。

 文健は恐怖と良心の呵責を天秤にかけ、彼女たちを追いかける選択をとった。