ルーシーの止血を行ったことで、高士の手のひらは真っ赤に染まっていた。返り血なら幾度となく浴びてきた高士だが、誰かを治療したことで自分が血塗れになるなんて、久しぶりの体験だった。

 子どもの頃からやんちゃで目立つことが好きだった高士は、何かとからまれる機会が多かった。体の大きい年上の悪ガキたちに何度となく怪我を負わされ家に帰ってくる息子を心配した高士の両親は、自衛を目的に高士をボクシングジムに通わせることに決めた。

 物事を継続して行うことが苦手だった高士は、ジムに入会させられた当初は「行きたくない」「辞めたい」と両親に何度も懇願して嫌がった。しかし高士は、練習で殴られ、倒される度に辞めたいと口にする回数が減っていった。元々闘争心が強かった少年は相手に負けたくない一心で、少しずつ真面目に練習に取り組むようになっていったからだ。

 鍛える努力を覚えた高士は、すぐに天才と呼ばれるようになった。持って生まれた体のバネを生かした瞬発力、目の良さ、相手を恐れない度胸。才能がある人間が日々練習を怠らなかった結果、ボクシング界で名を馳せる少年になっていた。両親もボクシングジムのコーチも、周囲の人間は皆、高士の将来に期待していた。

 だが中学校一年生の夏休み直前、高士の人生は百八十度変わることになる。

 コーチから絶対にボクシングを喧嘩に利用するなと言われていたのにもかかわらず、生意気だという理由で上級生に呼び出しをくらったとき、煽られて頭に血が昇った高士は我を忘れて約束を破ってしまったのだ。からんで来た上級生はたった四人。最早全国レベルのボクサーとなっていた高士が数任せの腕力に縋る相手に負けるはずもなく、相手に大怪我を負わせてしまったのだ。

 この事件がきっかけで地元の不良たちに目をつけられた高士は、悪い付き合いが増えていくことになった。単純で周りに流されやすい高士はすぐに彼らに馴染み、悪名高い不良の一人になっていった。

 からまれることは少なくなったが、意味もなく人を殴ることも多くなった。ボクシングジムにはコーチの言いつけを破ってしまった決まりの悪さもあって足が遠のいていたが、中学二年生に進級した春、いつの間にか辞めさせられていたことを母親が涙ながらに語った。久々にまともに顔を見た母親との話の中で高士は、コーチはおろか両親からも見離されていたことを悟った。

 誰からも期待されない人生は、毎日好きなことだけをしていればいいから楽だった。高士は嗜好という範囲を超えて、未成年のうちから煙草に酒、そしてギャンブルに手を出し堕落の一途を辿った。何とか高校は卒業出来たものの、まともな職に就けるはずもなく、日払いのバイトをしながらギャンブルに金を費やした。負ける方が多いため、借金が増えていくのは当たり前だった。

 高士はルーシーのまだ温かさの残る胸をそっと触った。そんな生き方をしてきた高士だからこそ、自分を仮死状態に追い込んでまで《プラマリア・センタ》に来て、死に際の烏を助けようとする理由がわかっていた。

 これまでの人生で無意味に人を傷つけた分を、目の前で血を流しているのに助けられなかった仲間の分を、少しでも一緒に過ごしたルーシーを自らの手で救うことで、楽になりたいと思っているのだと。

「随分と自分勝手な理由で悪いな。……つか、俺も血で真っ赤になっちまったけど、お前も相当なもんだな」

 止血のためにルーシーに巻いた服は血を吸い込み、真っ赤になっていた。止血帯を増やそうと再びシャツを引き裂いてルーシーの体に巻きつける。高士がルーシーを見つけてから今まで、ルーシーは痛みを感じているのだろうが鳴くこともせず、ただ高士にされるがままだった。大した怪我でもないくせに痛い痛いと喚く連中に比べれば、よっぽど好感が持てる。

「やるなあルーシー。お前が人間だったら、相当強い奴だったかもな。俺は烏でも、強い烏になる自信はあるけどな」

 笑いながらそう言うと、ルーシーは何か言いたかったのか、真っ黒な目玉で高士を見捉えていた。ルーシーの目玉に映る自分と目が合う。金色の髪の毛は社会への反発心からでも目立ちたいからでもなく、ただ何となくの理由だ。この後東京に帰れるならば、気分転換に坊主にするかもしれない。

 東京という人が溢れている街で、昨日出会った三人を思い出した。

 彼らは高士の周りにはいないタイプの性格をしていたが、飽き性な高士が一緒にいて一瞬も退屈しなかった。ただ、彼らが互いに刺激し合って変わりたいと願った気持ちを、高士だけは抱かなかった。

 文健のように地に足のついた人生も、胡桃のように望めば手に入る恵まれた環境下にいる人生も、美保のように未来に希望を持っている人生も、高士は興味もないし羨ましいとも思ってはいない。高士は誰かに影響を受けることで、人生について考え、悩むことはない。それらを考えられる思考回路を持っているならば、境高士は境高士ではなくなるからだ。

 高士が人生において悩む瞬間は、一つしかない。

 目の前の出来事に勝つか、負けるか。ただそれだけなのだ。

「……まあでも、面白い奴らだったよな。ルーシーもそう思うだろ?」

 ルーシーの瞳が一瞬、真っ白に変色したように見えた。高士は目を擦ってもう一度ルーシーの瞳を覗き込んでみたが、特に変わりはないようだ。なんだ気のせいかと、ポケットの中の残り僅かな煙草を取り出したときだった。

「――待たせたな、高士!」

 耳朶に届いた声に反射的に振り向くと、そこには着地に失敗したのか、見るからにアンバランスな格好で転がる文健、胡桃、美保の姿があった。

「ど、どいて下さい!」

「痛いってば! てか、なんで文健が女子二人の上にいるわけ?」

「し、仕方ないだろ! お、俺だって好んでお前たちの上にいるわけじゃないんだ!」

 胡桃と美保に怒られた文健が、必死に言い訳していた。

「…………お前ら、何やってんだ?」

 高士は決して安くない代償を払って《プラマリア・センタ》まで来たのだ。そう易々と来られる場所ではないはずなのに、どうして三人がここにいる? 高士には理由が皆目見当もつかなかった。

「決まっているじゃないですか! 高士さんを助けにきたんですよ!」

 首を傾げる高士の方がおかしいと言わんばかりに、美保が相変わらず訛りながらも胸を張って断言した。

「……訳のわかんねえことを。どこの正義の味方だよ」

 なんと言っていいのかわからず、煙草に火を点けて目を逸らすことで逃げを打った高士を、胡桃は鼻で笑った。

「あんたこそ何言ってんのよ。正義の味方って、当たり前でしょ? わたしたちはそのための練習をしてきたんだから。今やらないで、いつやるっていうのよ」

 運命の女神を驚かすことを目的とした《デベロップメント・サプライジング》でやろうとしたのは、出会って一日の他人同士がオリジナルの劇を演じ、成功させることだった。一晩かけてみんなで必死に練習した劇を途中で投げ出したことへの気まずさから高士が口を閉じると、胡桃は高士の目を見つめて問いかけた。

「ところで、あんたにも訊きたいことがあるのよ。……ねえ高士、あんたはさ、屑の世界って何色に見えると思う?」

「……あ? 意味わかんねえよ」

 胡桃の質問は脈絡も正解もないような代物で答えようがないと思ったが、文健や美保まで高士の答えを期待するように、静かな視線を寄越してくる。

「……んだよ、わかったよ考えるよ……よくわかんねえけど、黄色じゃねえの? 屑とか言われる奴って、なんにも考えてなさそうだし」

 適当に回答した高士だったが、答えを聞いた三人は力が抜けたようにふっと笑った。

「なんだよお前ら。訳わかんねえ質問しといて笑うとか、感じわりいな」

「そりゃ笑うに決まってるだろ。俺たちには馬鹿ってだけじゃなく、屑っていう共通点まであったんだからな」

「はあ? じゃあ文健は、何色だと思うんだよ?」

「……俺は、青って答えたよ。屑って、人間としてどうしようもない底辺を指す場合に使用する単語だと思ってきたけど……見方を変えれば、これから上がるしかないって意味を持つ言葉にも思えないか?」

 笑っている三人のテンションについていけない高士が眉を顰めていると、ルーシーに異変が起こった。弱い呼吸を繰り返すだけで羽一つ動かすことの出来なかったルーシーが、最後の力を振り絞るかのようにして、大きく羽ばたき空高く舞い上がったのだ。

 呆気に取られた高士が見守る中、ルーシーが一際大きく「カアー!」と烏そのものの鳴き声を上げると、空に天使の梯子がかかった。そして、雲を切り裂いた光の中にシロヤマの姿を確認したルーシーは、再び地面に落下してそのまま動かなくなった。

「おい、ルーシー! 大丈夫かよ!?」

「大丈夫だ、こいつはまだ死ぬ時期ではないからな。それに……そういう運命だそうだ」

 落下地点に駆け寄る高士より先にルーシーに触れたシロヤマは、白魚のような指を赤く染めていた。主人であるシロヤマに抱かれているルーシーがどことなく嬉しそうに見えた高士は、ルーシーをシロヤマに託すことに決めた。

 やらなければならないことが、目の前に降ってきたからだ。

「そうだよ~! この子はここでは死なない運命なの~☆ それにしても、ご主人様を召喚するために力を振り絞って気を失うだなんて、ルーシーちゃんにしてはちょっと考えなしで意外だよね~! ビックリしちゃったよ~!」

 シロヤマの後ろからひょっこり、高士とは違って天然の美しい高貴な金髪を靡かせた、色の白い女が顔を出した。彼女の癪に障る口調とルーシーを嘲笑うような態度に、高士の神経が逆撫でされた。

「なんだお前、腹の立つ話し方しやがって。お前がルーシーに手を出した勝利の女神って奴なのか?」

「違うよお~。私はぁ、運命の女神っていうのぉ☆ 私のことはアイザワって呼んで~! よろしくね~☆ ねえねえ、君がタカシちゃん~? 勝利の女神クロちゃんはね~、そろそろ顔を出す運命だから、もう少しだけ待ってね~!」

「俺の名前はコウシだ。てめえ……俺が名前をそう間違われるのが嫌いだって、わかってて言ってんだろ?」

 アイザワは高士の感情を乱して楽しんでいるように見えた。見事に彼女の作戦――というより趣味に引っかかった高士は、ルーシーに手を出した犯人がそろそろ顔を出すという最重要事項を聞き逃す程に、頭に血が昇っていた。

「運命だろうが神だろうが女だろうが、どうでもいいんだよ。俺は売られた喧嘩は買う男だぞ」

「わー! 落ち着いて下さい高士さん! アイザワさんはこういう方なんです! 冷静でいないと、あたしみたいにシロヤマさんに迷惑をかけてしまいます!」

「そうそう。この女はとっても性格悪いんだから、まともに相手しちゃ駄目。それに、ルーシーに手を出したのは勝利の女神クロカワ。違う女だってちゃんと聞いてた?」

 美保が高士を抑えようと声をかけ、胡桃はわざとらしく挑発的にアイザワを見た。この二人とアイザワの間に何があったのかはわからないが、とりあえず目の前の女がルーシーを傷つけたわけではないらしい。一旦落ち着こうと、高士は息を吐いた。

「ひどーい! 私だってぇ、胡桃ちゃんに言いたいことはあるんだけどお~、でも、主役が来たから一旦退くね~☆」

 直後、竜巻に似た強風が吹いた。強風の中心にいる人影を捉えた高士は、もったいぶった演出をするような、嫌いな輩が出てくるであろう前触れに舌打ちをした。

「で、高士って男はどれ? 私が直々に声をかけているのよ。返事をしなさい」

 現れた女の高圧的な物言いは、高士を最高潮に不快にさせた。

「俺だ。お前がルーシーに手を出したのか? 言い訳を聞く前に一発殴ってやるから、早くこっちに来いよ」

「誰に向かって口を利いているの? 私は勝利の女神よ。私の前ではみんな負け犬なのだから、礼儀を弁えなさい」

「相手が誰だろうが関係ねえよ。ルーシーを傷つけたのがお前なら、迷わず同じ目に合わせてルーシーに詫びを入れさせる」

 やられたらやり返す。高士はこの生き方しか知らない。こめかみに青筋を立たせた高士がクロカワに一歩近づくと、美保が高士の腕を引っ張った。

「待って下さい! あたしたちがなんのためにここまで来たと思ってるんですか!」

「俺を助けに来たとかなんとか言ってたな。だったら、俺があの女にルーシーの痛みをわからせてやるまで、そこで待ってろ」

「助けるっていうのは、ただ東京に連れ帰るだけが目的じゃない! お前の人生は暴力で埋め尽くされていたんだろ!? ここらで断ち切らないと、いつかまた死に近づくんだ! 俺たちはなあ、お前にも変わって欲しいんだよ!」

 文健が高士を遮るように前へ出た。

「高士って、本当に馬鹿よね。わたしたちの気持ちになんて、全然気づかないもの」

 胡桃も呆れたように続けて、三人は高士を囲うように立った。結果的に、高士たち四人と神たちが対峙する格好になった。高士には他人の発言の意図を考えるなんて、とても出来ない芸当だ。学生時代、高士の国語の成績はいつだって平均以下だった。

「とにかく、女とモヤシは引っ込んでろ。お前たちに出来ることなんかねえんだよ」

「違う。俺『たち』が出来ることなんて、どのみち一つしかないんだ」

 三人の視線が高士に集まった。戦力になるとも思えない貧相な連中が神を相手に太刀打ち出来るとは考えられなかったが、胡桃が腰をくねらせ無駄に扇情的なポーズをとっているのを見て違和感を覚えた。よく見ると、文健は両手を高く上にあげ、美保は一昔前のアイドルみたいに手でピストルの形を作り、出来もしないウインクを試みている。

 彼らのポージングに戸惑っていると、美保が片目を震わせながら言った。

「あたしたちは、変わりましたよ! 高士さんは、どうするんですか!?」