文健が立っている場所は、生き物はおろか植物すら見当たらない砂漠だった。広大な砂漠は地平線の彼方まで広がっているものの、うだるような暑さはなく、適度な気温と湿度が保たれていた。

 靴の中に入り込んだ砂を取り除きながら、思考を巡らせた。これからどうすればいいのだろう。胡桃と美保は辿り着いているだろうか。そもそも、高士は無事なのだろうか。いやそれを言ってしまえば、自分自身が安全な状況にいるのかも危ういじゃないか。

 文健の心中を大きく占めているのは、漠然とした大きな不安だ。だが一人という状況は大いに不安材料ではあるものの、唯一の利点も存在している。文健は大きく息を吸った。

「マジどうすんだよ俺! 神様の国に来たとかどういうこと!? いつからこんなメルヘンな男になったんだよ! ビックリだよ! てか、無事に日本に帰れるのか!? 雰囲気に流されたんじゃないか!? なんで二十四にもなって、こんなことになるんだよお!」

 一人になったということは、思う存分弱音を吐けるということだ。胡桃や美保の前では男としてのプライドが少なからず顔を見せ、正直、格好つけていた部分もあった。

 日常生活では張り上げることのない大声で弱音を口に出し、少しだけ気分がすっきりしたところで勢いよく頬を叩いた。乾いた音の大きさと、ひりひりとした頬の痛みはしっかり比例していて、聴覚でも痛覚でも気合が入った気がした。

「ちくしょう高士! お前、主人公キャラに見せかけて実はヒロインだったとか、冗談じゃないぞ! お前にばかり美味しい役をやらせてたまるか!」

 高士に対して抱いていた、屈折した羨望を力に変えるときがきた。文健は周りを見渡し大きく息を吸って、地平線に向かって再び叫んだ。

「俺は変わるぞ! 生まれ変わるんだあああああ!」

「何に生まれ変わるっていうの?」

「うわあああ!」

 突然の声に驚き、決意の宣言より悲鳴の方が大きくなってしまった。いつの間に現れたのか、黒髪の美人が奇異の目で文健を見ながら隣に立っていた。女は細身で背が高く、文健は彼女を見るために視線を上げる必要があった。おそるおそる女のことを観察してみると、目鼻立ちのしっかりした彼女は、美しさと恐怖で人を従属させる不思議な力があった。

 ここは神の国だ。普段の生活では絶対に考えられないが、神様がいて当たり前なのだ。文健は緊張しながらも疑問を口にした。

「あなたは……神様なのでしょうか?」

「そう、私は勝利の女神よ。あんたたちはクロカワとかいう、くっだらないあだ名をつけているみたいだけどね」

「く、胡桃と美保に会ったんですか!?」

「それより質問に答えなさい。あんたは何に生まれ変わるっていうの?」

 恐怖。彼女と話して最初に文健が抱いた感情は、恐怖だった。下手をしたら殺されてしまいそうな、失敗が許されない緊迫した空気が砂漠中に充満している気がする。

 だがここでクロカワの圧力に屈して場を濁したり、媚びへつらったりしていては、今までと何も変わらない。

「俺……俺は、自分以外になりたいんです。臆病で、自己防衛のために言い訳ばかりしてきた俺や、世の中を馬鹿にして自分だけは才能があると自惚れてきた俺。それなのに、いざというときに女の子一人も守る度胸もなかった俺。……そんな嫌な俺を全部やめて……いや、たとえやめられなくても、弱さから目を背けない勇気は持っていたいんです。そこから新しい自分、理想の自分になるための努力はし続けていきたいと、そう思っているんです」

 勇気を振り絞って初めて口にした文健の決意の言葉を聞いたクロカワは、嫌悪感丸出しの表情を見せた。

「自己否定をする男って最悪ね。生死を司るのは私の仕事じゃないけど、殺してあげてもいいわよ。どうする? 死んでおく?」

「い、嫌です! 死にたくないです!」

 冷や汗を全身に浮かべて首をぶんぶんと横に振ると、クロカワはふっと一瞬だけ息を漏らした。

「死にたくない……か。ねえ、あんたは何か一つでも、私を認めさせるような技量は持っていないの? 二十四年も生きてきて何も誇れるものがないのなら、人生に意味はない。だったら今死んでも、何十年後かに死んでも同じことでしょう?」

「それは……人生に意味を求める傲慢が俺に認められるなら、の話ですよね? ……あ、あなたの言葉を聞いていると、俺は分不相応な評価を受けているように思いますが……」

「死神が連れてきた人間って、生意気な口を利くのが普通なのかしら? 誰があんたの言い分を聞きたいって言った?」

 クロカワを納得させる理由を説明出来なければ、彼女は問答無用で文健を殺すだろう。たった数回のやりとりだが、文健は徐々に掴んできた。クロカワは理不尽で高圧的、自分の言ったことが絶対に正しいと思っていて、こちらの言い分には決して耳を傾けない。

 ――そう、文健が毎日対応している、クレーマーと同じ性質であると。

 慣れた状況下にいると思うことで、文健の頭の中は鮮明になっていった。これならホームで戦うようなものだ。高士や胡桃にからかわれ、弄られていたときの方が、よっぽど対応に困ったというものだ。

 腕っ節には自信がない。喧嘩なんか怖くてしたこともない。だけど。

 今日だけで何度目になるだろうか。文健は決意の深呼吸をした後、精一杯、申し訳なさそうな声でその言葉を口にした。

「誠に申し訳ございませんでした。あなたの仰る通りです」

 毎日毎日クレーム対応の仕事をしている文健には、悪態をついてくる客や何かと突っかかってくる客を宥める心得があった。まずはひたすら謝り相手の感情を一旦落ち着かせてから、プライドを傷つけないように持ち上げて、互いの主張を確認しながら妥協点を決めていくのだ。

 クロカワは文健の行動に驚いたのか、あるいは呆れ返って何も言う気にならなかったのか、似合わぬ沈黙を持たせたまま文健の下げた頭のつむじを見ているようだった。文健はクロカワの発言を待ち続けた。待つことは辛くとも、有効であることは経験上知っていたからだ。

「……面倒くさ」

 やがて我慢の出来なくなったクロカワが声を漏らした。文健は来た、と思った。

「俺はあなたを納得させられるような技量もないし、人生で何かを残してきたわけでもありません。今の俺は現実世界で何の取り得もない、不満ばかり漏らしているただのサラリーマンです。……いや、現実どころか俺は、空想の世界でもパッとしない男です。妄想を書き散らした自作の小説ですら、面白味に欠けると言われました。……だからこそ俺は、これからの人生でたくさんの経験をして多くのことを学び、人生や小説の糧にしていきたいと思うのです。まだここで死ぬわけにはいきません」

 ここが勝負どころなのだ。文健の戦い方は社会人として上司に叱られ、職場の女には陰口を叩かれ、ストレスの中で生きてきた男のものだ。これだけは決して高士には真似出来ない戦法だ。

「ふうん。じゃあさ、そこまで言うなら、あんたの小説の能力とやらを見せてよ。あんたの小説に見込みがありそうなら生きる価値があって、見込みがなさそうなら死んでもいいってことでしょ? そうね……私の愛する死神をテーマに一作書いてもらおうかしら」

 生き長らえるための説得は上手くいったつもりだったが、予想もしなかった理論で返されてしまった。書いた小説がつまらなかったら死ぬという条件ならば、高士たちの感想を信じれば文健は十中八九死ぬことになる。

「か、紙とペンか、パソコンがないと……あと、時間はどれくらい貰えますか?」

 ただ、初めから「出来ない」と言って断る選択肢は取らなかった。ここで逃げていては意味がないのだ。クロカワは面倒くさそうな顔を見せた後、何やら呪文のような言葉を口にした。

 次の瞬間、文健はうんざりする程見慣れた職場にいた。いつもと違うのは、派遣社員も同僚もクライアントもおらず、ひっきりなしに鳴る電話が一本も鳴らない、静かな環境下にあるということだ。

「ここなら、必要なモノがそこらじゅうにあるでしょ? 私は待つのが大嫌いだから、十分で書きなさい」

 クロカワの注文を聞いた文健は目眩を起こして倒れそうになった。彼女が理不尽なお客様から派遣会社の中では最も恐れられている存在、無理難題を強いるクライアントへとレベルアップしていたからである。

 文健は焦りながら急いでパソコンに電源を入れたが、起動の時間すら惜しくなりシャープペンシルを手に持った。プロットも組んでいないのに十分でA4用紙一枚に小説を書くなんて、文健の実力では不可能に等しい。文字を大きくしたりして、ある程度誤魔化すことも必要だろう。だが、それでいいのか? 普段応募している新人賞の応募要項に従った文字数で書かなくては、意味がない気がする。いや、行列を細かく数えている暇すらない。早くネタを考えなくては――!

 色々なことを考えているうちに、すでに何分か経過していて愕然とした。落ち着け、冷静になれ。死神がテーマならば、普通だったら人の生死を書くことが必要不可欠な気がするが、読者であるクロカワはこの死神に恋をしているという。ということは、クロカワは人の死を扱った物語ではなく、単純に恋愛小説を読みたがっているのだろう。そして勿論、勝利の女神である彼女は恋愛でも敗北は認めない女に違いない。

 BLや百合や人外をテーマにした小説が世の中に溢れ返っている昨今だからこそ、新鮮さが重要になる。どうやって面白い話を作ればいいのだろうか。文健はシロヤマを思い浮かべた。突然現れ、文健たち四人を賭け事のために集めた、自分勝手で小柄な少女の容姿をした死神。しかし死神という名の持つ冷徹なイメージとは異なり、淡々としているものの情がないわけではなく、高士にもう一度会いたいと必死に訴えた文健たちを《プラマリア・センタ》へ渡航させるなど優しいところもあった。

 ふと、文健は一つの物語を思いついた。あの無気力で自己中心的な死神がどんな恋愛をするのかと想像したら、不思議と到着地点は一つしかなかった。推敲している時間などない。必死にペンを走らせ、殴り書きで余白を埋めていった。一心不乱に集中して物語を書いていると、『レインボーレンジャー!』を書き上げたときのように、アドレナリンが脳味噌から放出されているのがわかった。

 クロカワが「時間よ」と告げたのと同時に、文健はペンを置いた。

「さて、私を待たせた罪は重いわよ。評価に対してはシビアにいくから」

 文健が差し出したA4用紙を奪い取るようにして、クロカワは紙に目を落とした。

『死神が生きる世界

 死神はまだ、恋を知らない。
 死神が知っているのは、人間が死んでいくときの絶望的な表情と、死んだ後の動かない表情だけだった。
 ある日、白黒の毎日を送る死神の前に一人の神様が現れて「私の恋人になりなさい」と言った。美しいけれど強引なその神様に、死神は好意を持たなかった。だが、自分を好いてくれる誰かの存在が、死神の心に影響を与えたことは違いなかった。
 死神は少しだけ背筋を伸ばし、目を見開いて、今日も世界中を飛び回る。
 これから出会う、死を待つ人々の元へ。少しでも繋がりを大切にするために』

 小説を読み終わったクロカワは、紙をくしゃくしゃに丸めて床に放った。彼女が不機嫌そうな顔をしている原因はわかっていた。実力不足は勿論、生き延びるためとはいえクロカワに媚びた小説を書かなかったことだ。

『レインボーレンジャー!』を書こうと決めたときのような、書きたいものを書く純粋で穢れのない興奮と集中、やる気。あの感覚を上書きして忘れてしまうことを恐れたのだ。

「まず、タイトルにまるでセンスが感じられないわね。内容は当然三文小説以下、誰にでも思いつく内容だし、何よりこの私が、死神が変化するきっかけに過ぎない女にされたのが許せない。あの子は私のものなのだから、私だけを見ていればいい。私は勝利の女神なのだから、私が正しいと言ったら絶対なのよ」

 シロヤマを物扱いするクロカワに、文健は衝動的に反論していた。

「……今、俺のクライアントであるあなたを満足させられなかったのは、俺の力不足です。申し訳ございません。……しかしお言葉ですが、あなたの考え方では……シロヤマさんの心を射止めることは、出来ないと思います」

 それはまさに神の如き速さだった。言い終わった瞬間、クロカワの右手の爪が文健の眼球、後一センチで突き刺さるところまで急接近していた。

「殺すわよ」

 彼女の冷酷な瞳からは殺意が見て取れた。

「……俺たちと話していたシロヤマさんは……つまらなそうな顔をしながらも、人間に可能性を持って接してくれていました。だからこそ、アイザワさんと賭けをしたのでしょう。シロヤマさんは誰かに縛られる生き方よりも、自由で面白い誰かと接する機会を求める方だと思うのです。だから……今のままでは、あなたの恋人にはならないでしょう」

「その見る目のない目玉をくり貫いて、死神にプレゼントしようかしら。……でも、そうね。土下座して私の靴を舐めるのなら、髪の毛を抜いてやる程度で許してあげてもいいわ。禿げ上がったあんたを見れば、死神も笑ってくれるでしょうし」

 怖い、嫌だ、死にたくないと胸中で叫びながらも、震える膝を必死に堪えて、文健はクロカワから目を逸らさなかった。これ程までに恐怖に怯えていても、口を閉ざすつもりはなかったからだ。土下座して楽になってしまいたいと、相変わらず逃げ腰になってしまっている今でも、変わりたいと思った決意をここで簡単に翻していては、高士はおろか自身の未来も救えないだろうと思ったのだ。

「……シ、シロヤマさんの心を射止めるのは……そう、高士の方が可能性は高いと思います。あいつは馬鹿なヤンキーで、借金もある屑みたいな男ですが……情に厚くて、腕っ節が強くて、格好いいんです! 俺は憧れましたよ! シロヤマさんも、高士と接しているときは興味深そうな顔をしていましたし!」

 目玉を抜かれる覚悟を決めて一気に捲くし立て、ぎゅっと目を瞑った。少し経って、まだ無事でいることが不思議でゆっくりと目を開くと、クロカワは文健から視線を逸らして顎に手を当てていた。

「……つまり、あんたは私がその高士とやらに負けると、そう言いたいのね?」

「……お、俺はそう思います」

 クロカワの威圧感と殺気で漏らしそうになっていた文健だったが、目を背けずにそう言い切ると、彼女は文健に突き出していた腕を引っ込めて笑った。

「その男がどんな奴か興味が出てきたわ。見つけて、私の力で負かす」

 恥ずかしくて誰にも言えなかった、文健の中にある高士への憧れをクロカワにぶつけたことによって、話はどうやら予想外の展開に転がりつつあるらしい。クロカワは不敵な笑みを浮かべ、消え去っていった。

「た、助かった……!」

 緊張の糸が切れた文健はその場に座り込んでしまった。いまいち決まらない文健だったが、今までとは違う自分になれたことが嬉しくてつい涙ぐんでしまった。ここにあの三人がいなくて良かったと、泣き笑いしながら心底思ったのだった。


 ようやく立ち上がることが出来た頃、誰もいなくなった職場にコール音が鳴り響いた。

 音の発信源を見ると電話機が一つ光っていた。警戒する気持ちもあったが、クロカワとの戦いを終えたばかりの文健は放心していて深く考えることが出来ず、いつもの習慣でヘッドセットを頭に被って、通話ボタンを押していた。

「お電話ありがとうございます。△△お客様相談窓口、担当芳野でございます」

『屑の世界は何色に見える?』

 受話器越しに聞こえたのは、人とは思えない無機質な男の声だった。普段なら悪戯電話に対しては決まり文句で返す文健だが、このときは自然に答えを口にしていた。

「  」

 文健の答えを聞いた男は無言だったが、やがて文健の耳に「ツー、ツー」という機械音が届いた。どんな答えを期待されていたのかは知らないが、一方的に切られたようだ。

 ヘッドセットを外し机の上に置いた瞬間、文健の体はぐらりと傾いた。三半規管を直に触られてひっくり返されたような不快感だった。あまりの気持ち悪さに目を瞑ると、回路をぷっつりと切られてしまったかのように意識を失った。