自分の才能のなさを羅列することにはやはり抵抗があるが、嘘を吐いても仕方がないから正直に言おう。烏にだって耳はあるし嘴だってあるが、私には音楽の才能がないと思う。
何の曲を聴いても同じに聴こえるし、曲の違いは速いか遅いかくらいでしか判断がつかないし、歌詞は聞こうとしてもまったく記憶に残らないため反芻もできない。
ゆえに、「この曲すごく共感できる」と言っている人間には抵抗がある。私はそんな歌なんてこの世に存在するはずがないと、考えているからだ。
自分のことを知ってくれる、恋する女の気持ちがわかるなんて都合のいいアーティストがいるわけがないし、共感できる歌をセールスポイントに売り出しているアーティストも虫唾が走る程度に好きではない。
今回の標的は死に際にどんな表情をするのだろうか。まだ若造であるゆえ、恐らく自分が死ぬことを理解できないまま息絶えるのだろう。かわいそうだとは微塵も思わないが、今回は鎮魂歌でも歌ってみようかとも思う。歌で人の心を救えると豪語するアーティストの言葉が間違えていることを、私が証明してみせようじゃないか。まあ、私が心を込めて歌ったところで、どうせ相手には伝わらないのだろうけれど。
私が珍しく死に際の人間の気持ちを考えているのは、おそらく現状が原因だ。
飛べないように傷つけられた羽をひきずりながら、私は地べたに血を擦りつけ、少しずつでも前に進もうと努めていた。これが私の最期だと予想できていたなら、ご主人に別れの挨拶を用意したのだが……いや、違う。予想できていたなら、こんな状況にはなっていないか。何もかも私が悪いのだ。自分では気がつかなかったが、慢心と油断があったのだろう。これは戒めみたいなものだ。
私の口調はご主人に影響されているが、私の方が融通の利かない固い印象を与えてしまうために、知らぬ間に敵を作っていることもあるだろう。死に際になって反省するのはいささか遅すぎたが、そのせいでご主人に迷惑をかけていないことを切に願う。
世界中のどこにも、嘘を吐かない種族などいないのだろう。
私のような烏でも餌として狙われたなら敵を騙すし、食物連鎖の下方にいる私に食われる側の動物だって、逃げようと必死に頭を使い、私を騙そうとしてくる。
だから、大きな脳味噌を持っている人間や、神様と呼ばれる方々が――嘘を吐かない理由はないのだ。
徹夜明けの目に朝日が眩しかった。文健はインスタントコーヒーを啜りながら、足元で転がって眠る高士の訳のわからない寝言を聞き流しつつ、運命の日とも呼べる朝を迎えた。
予定時間を過ぎ深夜一時に書き終えた脚本は、今まで文健が書いてきた小説とはまるで種類の違うものになった。下手に難しい言葉や描写を入れようとせず、ノリとテンポを重視して笑えるかどうかは差し置き、ギャグを多めに書いた。いつも書いている小説よりも短い枚数の中で起承転結をしっかり入れることを意識したとき、今までの自分の小説は『転』が唐突過ぎたのかもしれないと思った。ストーリーを動かしたいためだけに、無理な展開を入れる。これでは読者は混乱するだろうし、何を伝えて欲しいのかわからないだろう。
そこまで考えて、以前より自作品を客観的に分析できていることに気がついた。それは文健にとって口元が緩む新しい感覚だった。
「なにニヤニヤしてんのよ、気持ち悪い。早くあんたも着替えて。八時から衣装着てリハーサルをやってみようって言ったのは、あんたでしょ? まあ、リハーサルって厳密に言うと役者の立ち位置や照明を調整するものらしいから、場所が違うのにリハーサルって呼んでいいのかはわかんないけど」
眉間に皺を寄せた胡桃から衣装を手渡された。彼女はすでに、昨夜三人がドンキホーテで買ってきたという安っぽいヒーローコスチュームに着替え終わっている。いざ目にした文健はこの衣装を着ることに抵抗があったが、一番に反発しそうだった胡桃は割り切っているのか、ピンクの衣装にしっかりと身を包んでいる。体に密着する衣装は胡桃の細いくびれやボリュームのある胸部を強調していて、恐ろしく色っぽい彼女にどうしても目が吸い寄せられた。
「ああ、うん。今着替える」
「高士はまだ寝てるの? 起こしとくわよ。……それと、女って男のエロい視線ってすぐわかるものだから、気をつけなさいよ?」
文健は必死に顔を隠しながら別室に移動した。
書き上げた脚本『イロモノ戦隊レインボーレンジャー!』の内容は、シンプルなものだった。悪の組織の一員(高士)が普通の女子高生(美保)を襲おうとしたときに、レインボーレンジャーと名乗る二人(文健、胡桃)が現れて高士を追い払う。二人に礼を述べ素性を問う美保に、二人は自分たちが世の中の風紀を乱す連中、悪の組織を成敗する正義の味方だと説明する。その後ヒーローコスチュームに着替えを完了させた高士と美保も揃ったところで、悪の組織が集う秘密結社に乗り込み、ボスを討伐する。最後は四人が街をパトロールしながら観客を指差し、
「世の中に人の悪意がある限り、悪の組織は必ず復活する。もしかするとあなたたちの周りにも悪い人が潜んでいるかもしれない。そのときは必ず私たちが駆けつけよう!」
そう言って締め括る予定である。飲まず食わずでネットサーフィンをすることもなく、今までにない集中力と勢いで書き上げた入魂の一作だ。みんなにどう評価されるか文健は緊張していたのだが、
「いいんじゃね?」
高士たちは一言で片付けた。ここまであっさりOKが出ると、臆病で疑り深い文健は不安になってしまった。何か意見がないか三人に訊いてみたが、意見を訊く暇があったら劇の練習をした方がいいと胡桃に促されたこともあり、文健の書いた脚本は一切の手直しなしで進められることになった。
そこからは一晩ぶっ通しで練習をして、ようやく休めたのは朝の五時だった。と言っても休んだのは三人だけで、文健は体はヘトヘトだったものの気分が高揚して目が冴えていたため、一睡もしなかった。
「それにしても……俺、似合わないな」
鏡に映る自分の貧相な体に溜息が出た。テレビで見ていたレンジャーたちはしっかりと体を鍛えていたのだなと思った。衣装を身に纏った文健はあまりにも不格好で、観客の前に高士に笑われることは確実だった。
気の重いまま居間に行くと、寝起きで酷い頭をした高士が寝転がりながら胡桃に文句を言っていた。
「胡桃ぃー、やっぱりミニスカポリスとナース服も買っておくべきだったって! 客寄せにもなるんだしよー」
「何が客寄せよ。言っておくけど、高士は下心が丸見えなのよ。大体、わたしはともかく、未成年の美保にまであんな派手な衣装勧めちゃダメでしょうが。あんたが美保に手を出したら、容赦なく警察に突き出すからね」
「胡桃だったらいいって言ったな? じゃあ一発ヤ……」
その先の言葉は、都合よく胡桃の足元に転がっていた高士が体を踏みつけられたことで、発せられることはなかった。
「あ、高士さんおはようございます! 文健さん、お風呂貸してくれてありがとうございました!」
グリーンの衣装に身を包んだ美保がやって来て、丁寧に頭を下げた。胡桃とはまた違う小柄で細い未熟な体つきにもまた、ぐっとくるものがある。視線を感じて横を見ると胡桃と目が合った。さっきの忠告を思い出した文健は、即座に美保から目を逸らした。
「よし。じゃあリハーサルの前に、今日の日の成功を祈って円陣でも組もうぜ」
「こ、ここでですか? あんまり大声出したら近所迷惑になりませんか?」
「大丈夫だろ! な、文健? あ、ついでに今回の作戦名も考えてくれよ!」
「さ、作戦名? 必要ないだろそんなの……というか高士、お前着替え終わってないじゃないか! リーダーがしっかりしていなくてどうする!」
「……よく考えてみれば、あたしと高士さんって最初一般人として登場するから、あたしが着替える必要はなかったんじゃないかと思います……」
美保の正論に文健は口を閉ざした。
「……わたしは作戦名考えるのに賛成かな。『運命の女神の予想を超えるような何かをする作戦』なんて言いづらいし、一言で表せる言葉があった方が絶対いいって。……ね、美保が考えてみたらどう? 一番若いし、良いセンスが光るんじゃない?」
胡桃の一言で、三人の視線が一斉に美保に集中した。
「こういうの、あんまり得意ではないのですが……そうですね……《デベロップメント・サプライジング》なんて、どうでしょうか?」
美保の提案に場が沈黙した。失念していたが、美保は思春期真っ最中――つまり、厄介なセンスを持ち合わせている可能性も考慮しておくべきだったのだ。
「……その心は?」
文健がおそるおそる尋ねた。
「えっと、『発展途上な驚かせ計画』ってことから、名づけました!」
そのまんまじゃないか! と内心突っ込みを入れていると、
「おー! 美保ちゃんすげえな! 英語わかるんだな! よし、決まりだ! それでいこう!」
高士が目を輝かせながら美保を絶賛していた。からかっているように見えないということは、もう覆ることはない。我儘で自己中心的なリーダーが決めてしまったのだから。
「んじゃ今日は、シロヤマも運命の女神も驚かせてやろうぜ! 俺たちの《デベロップメント・サプライジング》の成功を祈って! えいえいおー!」
「「「おー!」」」
隣人に騒音注意をされることに怯えつつ、円陣を組む前よりやる気が出てきた自分の単純さが可笑しかった。文健は安物のヒーローコスチュームに身を包みつつ、背筋を伸ばした。
胡桃曰く、公共の場で演劇するためには正規の手続きを踏む必要があるうえ、とても借りられる条件ではないということだった。ゆえに、路上講演をするしかないことに納得はしている。しかし、
「……やっぱり、場所変えないか? ここは人が多すぎるし、ガラの悪い奴も多そうだ。からまれたりしたら嫌だし……」
ここに来て文健は二の足を踏んでいた。高士たちが講演場所に決めたのは、新宿駅南口の改札前だった。夜話し合ったときはハイテンションが手伝い、ここで劇をすることに抵抗もなかったのだが、実際に訪れ人の多さを目の当たりにしたことで、急に現実に戻された気分だった。目が回るような人通りの中で自主制作のヒーローショーを行うことは、文健にとって恥ずかしすぎる拷問のように思えたのだ。
「さ、流石にあたしもちょっと恥ずかしいです……。もう少し人のいない場所とか……どうでしょうか?」
美保も文健と同様、物怖じしたようだ。
「わたしはどこでもいいわよ。高士はどう思う?」
リーダーということを差し引いても、胡桃は高士の意見を伺うことが多い。文健の勘は当たらないことが多いのだが、胡桃は高士に惹かれているのではないかと憶測していた。高士は路上喫煙禁止と掲げられた看板を恨めしそうに見ながら、ポケットに煙草を戻した。
「いや、ここでやる。移動するのも考え直すのも面倒くせえし」
文健は知り合いが新宿に来ていないことを祈りつつ、この劇が終わったらしばらく新宿には足を運ぶまいと心に誓った。
「じゃあ、少しでも宣伝してきた方がいいわよね。わたし、ちょっと行ってくる」
胡桃は手持ち無沙汰に駄弁っている男二人に声をかけに行った。三十秒もしないうちに三人は談笑し、盛り上がっているように見えた。男二人と別れてからも、胡桃は行き交う人々を観察しながら、止まってくれる人を捕まえて上手く告知しているようだ。人見知りをする文健が微妙な居心地の悪さを覚えながらじっとしていると、胡桃が戻って来た。
「適当に告知して来たわよ。口約束だけだけど、多分来てくれると思う」
「……知らない男とよく普通に話せるね」
「まあね。高士の言葉を借りれば、レインボーピンクってビッチだし? これくらいはね」
胡桃の艶かしい表情に思わず赤面してしまったことを、彼女はきっと気づいているだろう。文健は顔を隠すように携帯電話を取り出し、深呼吸をしてからSNSに書き込んだ。
『新宿南口前で十二時からなんか劇をやるみたい。結構面白そうかも』
これが今の文健に出来る精一杯の勇気だったが、勇気を振り絞ることは気持ちがいいことだった。
全員着替え終わり、小道具の準備も完了した。出陣準備は整ったのだ。
天気は曇り。午後十二時、寄せ集めのメンバーによるヒーローショーが開演された。
「私の名前はコノハ! どこにでもいる普通の女子高生!」
レインボーグリーン兼被害者役の美保が、顔を真っ赤にしながら台詞を口にして物語は始まった。
「ある日、学校から帰ろうとした私は、全身真っ黒なスーツにサングラスの見るからに怪しい男に、からまれてしまったのだった!」
圧倒的に予算が足りないために悪役の高士が着ているのはただの文健の仕事用のスーツになってしまったが、高士には裾が短く、手首と足首が見えてしまうのが切ない発見だった。
「こんなところに、おあ……おは向かいのお嬢さんがいるじゃねえか! ちょっと、俺について来てもらおうか!」
なんだ「おは向かい」って。練習したのにまるで進歩がなかった高士の棒読みっぷりと、「おあつらえ向き」の台詞を忘れていることに力が抜けた。だが笑って誤魔化そうとしていないあたり、高士なりに真面目にやっているのだろう。
「きゃー! 助けてー!」
「そこまでよ! 平和を乱す悪人め!」
美保が悲鳴を上げた瞬間、ピンクのヒーローコスチュームを身に纏った胡桃がポーズをつけて参上した。色気のある胡桃の肢体は、興味なさ気に通り過ぎる男たちの視線を多く引きつけたようだ。いや、冷静に観察している場合ではない。次は文健の出番だ。羽織っていたコートを脱ぐと、ヒーローコスチュームの防寒性のなさに悲鳴を上げそうになった。北風が素肌に染み込んでいく感覚をぐっと堪えつつ、文健は舞台に飛び出した。
「俺たちが存在する限り、悪事は働けないと思え!」
練習通り、胡桃と共にポーズを決めることに成功した。このポーズ、自分で考えてみたものの非常に恥ずかしい。文健が繰り出した何の威力もなさそうな右ストレートに高士は大袈裟に吹っ飛び、
「ちくしょう! 覚えてろよ!」
と、ありがちな捨て台詞を吐いてそそくさと舞台袖、というより、歩行者から見えないように立てられた段ボールのパーテーションに引っ込んだ。演技とはいえ、自分の拳が高士みたいな喧嘩の強い奴を吹っ飛ばしたことは気分がいい。
「あなたたちは一体、何者なんですか?」
「私たちはあなたを襲ったような、世の中の風紀を乱す悪の組織を成敗する正義の味方! その名も、イロモノ戦隊レインボーレンジャー! 私は華麗な美貌で敵を惑わせる、レインボーピンク! チームの花よ」
「同じく! クールな参謀、レインボーブルー! 俺たちが来たからにはもう安心だ。安心して帰宅するといい」
胡桃と文健がそれぞれ台詞を決めると、
「おいおい冷てえなあー。女の子を家まで送ってやらねえのかよー?」
冷やかし顔で見ていた若者に茶々を入れられ、何人かが馬鹿にしたように笑った。ヒーローマスクの下で冷や汗を流しながら、いつものように言い訳を脳内に並べ始めた文健だったが、冷やかされてもみんなが演劇を続けているのを見て逃げ道を作ることを止めた。小さく息を吐き、この劇をやり遂げることだけに集中した。
前向きに考えてみれば、観客から突っ込みがあったということは見ている人がいたということだ。恥ずかしくて周りを見ることができていなかったが、よくよく見渡してみると一瞥をくれるだけの人が大多数ではあるが、数人は足を止めていた。
「誰にも負ける気がしねえ! レインボーイエロー!」
「キュートな魅力で敵も癒す! レインボーグリーン!」
高士と美保もヒーローコスチュームへの着替えを終わらせ、レインボーレンジャーとして役を演じていた。美保も吹っ切れたのか照れを微塵も感じさせない演技だったし、高士は下手くそなりに楽しんでやっているようだった。
淡々と芝居は進んでいき、観客が増えてきたのも気のせいではないと思い始めた頃、文健は何か大きなことをしている気分になっていた。このままいけば生まれ変われるような不思議な感覚だった。この劇が終われば結果はどうであれ、成長できる気がしていた。
だが、文健は演劇のことをよくわかっていなかった。役者が一人でも芝居から気を逸らしてしまった瞬間に、事態が一変するなんて想像できなかったのだ。
劇も終盤、レインボーレンジャーが悪の組織が集う秘密結社に向かっている最中のことだった。イエロー役の高士が突然、足を止めた。脚本にない動きに戸惑った文健が高士の視線の先を追うと、駅の壁沿いに一羽の烏が横たわっていた。烏は全身から血を流していて、かろうじて動いているのが見えなければ、死んでいると思っただろう。
まだ劇は終わっていないというのに何を思ったか、高士は烏の元へ近づこうとした。驚いた文健が思わず高士の肩を掴むと、ヒーローマスク越しからでもわかる殺気で高士は文健を睨みつけた。文健は一瞬たじろいだものの、間違ったことをしていない自信はあった。肩を掴んだままかぶりを振り、「気になるのはわかるが、今は劇に集中しろ」と諭した。高士にも伝わったと信じて疑わなかった。
文健が頬への強烈な痛みを覚えたのは、地面に尻をつけ、高士に右ストレートで殴り飛ばされたことを認識してからだった。一瞬その場が静まり返り、後にざわめきの声が大きくなった。ヘラヘラと笑う若者や、突然の暴力に顔を顰める淑女。様々なリアクションを浮かべる人々が見ている中、文健は殴られた左頬を押さえつつ混乱と戦っていた。
高士は口も頭も悪い男だが、コンビニでからまれた胡桃を助けたときのように、理由なく暴力を振るう男ではないと思っていた。正義の味方みたいな、文健にはない強さに憧れて脚本を書いたというのに、どうして――
「なんで、高士……!」
「悪い、説明している暇がねえ」
高士は黄色いヒーローコスチュームを着たままその場を去り、地面に横たわる血まみれの烏を拾い上げたかと思えば、すぐに人ごみの中に姿を消してしまった。
「高士!」
「こ、高士さん!」
胡桃と美保が彼の名前を呼ぶ声を、文健は他人事のように聞いていた。
中途半端に終わってしまった演劇の後始末に追われつつ、放心状態の文健の手を引いて駅前を後にするのは容易ではなかった。
胡桃は冷やかしの声や暴言に耐えながら、なるべく美保に負担のかからないよう観てくれていた人たちに率先して頭を下げた。なんでわたしがこんなことをしなければならないのだろう、逃げてしまいたいと本気で思った。
ようやく落ち着くことができたのは、ファミリーレストランの座席に腰掛けてからだった。
「……文健さん、着替えて来てください。あっちにトイレがありますから」
美保に言われて自分の格好を確認した文健は、コートを羽織らされているだけで、コートの下はヒーローコスチュームのままであることにようやく気づいたようだ。生気のない顔で立ち上がり、ふらふらとトイレに入っていった。少しして戻ってきた文健の左頬は見事に腫れていて、少しでも腫れを引かせようとドリンクバーで氷を拝借した美保がお絞りを冷やし、文健の頬に当てていた。
高士が劇を放り出してから後始末を何も手伝ってくれなかった文健に、胡桃が腹を立てなかったといえば嘘になる。だが時間が経つにつれ、文健がこんなにショックを受けていることが意外で冷静になっていった。文健は高士のことを信頼していたのだろう。裏切られたことに誰よりも傷ついているのかもしれないと彼の気持ちを憶測した胡桃は、文健に同情の念を抱きつつあった。
文健程ではないが、胡桃だって高士に対しての怒りや疑問を抱いていたし、それに何より心配で胸中をかき回されていた。高士は何がしたかったのだろう。わたしたちの思いを裏切ってまで、優先すべきことがあったのだろうか。
「……顔、大丈夫? 痛そうね」
文健に声をかけると、彼は顔を上げないまま、搾り出すように言葉を吐き出した。
「……胡桃にからんで来た奴は、一撃で意識を失っていただろ? 高士はさ、手加減して俺を殴ったんだ。……中途半端な優しさが、余計にやりきれない。そんなことするくらいなら、なんで、あいつ……」
文健が飲み込んだ言葉の続きは胡桃にもわかった。文健は一度大きく深呼吸をして、気持ちを整えてから苦笑いを浮かべた。
「……高士、本当に俺の脚本読んだのかな。馬鹿だから、意味をわかってなかったんじゃないのかな。……いや、リハーサルではできていたから、こんなことを言うのは逃避でしかないってわかってる。でもさ……本当に、しかも俺たちから見て『完全超悪』になって、どうするんだって話だよなあ……」
三人の間に流れる空気は重く、周りの客席から聞こえてくる楽しそうな声がやけに騒がしく感じられた。
「……でも、高士さんがいなくなってしまったので、《デベロップメント・サプライジング》を成功させることは、難しくなってしまいましたね……今からどうします? ……解散、しますか……?」
二人の様子を窺った美保は、提案しながらも否定してほしそうな表情をしていた。確かに、彼女の性格や立場では、年上の胡桃と文健を引っ張っていくことは難しいだろう。だったら、今の文健は頼れそうにないし自分がなんとかしなくては。胡桃がそう決意を固めたとき、文健は頬に当てていたおしぼりをテーブルの上に置いた。
「……シロヤマさんを呼び出そう。あの人なら、何かわかるかもしれない」
「……え? ふ、文健さんがそう言ってくれるなんて、意外でした」
美保が目を白黒させていた。胡桃も全くもって同感だった。
「いやまあ、俺一応最年長だしさ。さっきまで二人には迷惑かけちゃったし、俺が二人を引っ張らなくちゃいけないと思ったんだよ。ここでやらなきゃ男じゃないよな。たった数分でもヒーロー役をやったんだし、ここで変われなくてどうするんだって思って」
まるで自分に言い聞かせるように、恥ずかしそうに語る文健を、胡桃も美保も温かく見守る気持ちになっていた。
「ありがとうございます、文健さん。あたし文健さんのこと見直しました!」
「うん、素敵だと思う。文健についていくから」
「なんで二人ともそんなに上から目線なんだよ……じゃあ、呼んでみるよ」
笑顔を取り戻した文健は、一旦大きな深呼吸をした。
「――シロヤマさん、出て来てくれ。俺たちの話を聞いてくれ」
彼なりに心を込めて言葉にした様子だったが、シロヤマが出てくる気配は微塵も感じらず、たまらず胡桃は吹き出してしまった。
「ちょ、なに笑ってんだよ!」
「だって、これは笑うでしょ! なんでここで体張ったギャグかますのよ!」
「ギャグじゃない! 俺はいたって真剣だ!」
「だから余計に笑えるんでしょ? あー、おかしい。……でも、呼び出すためには条件とかあるのかしら? ランプの魔人的な?」
「ば、場所が悪いんですかね? ファミレスじゃダメ、とかですか?」
「いやー、方法はともかく。文健がすごく恥ずかしかったことは深く弄らないでおくね? 『シロヤマさん、出て来てくれ』、って、目を瞑ってさ、」
「もう弄っているじゃないか! 忘れてくれよ!」
顔を真っ赤にした文健がふて腐れたように胡桃から視線を逸らしたとき、シロヤマはそこにいた。
「うわああああ!」
「なんだ、自分から呼び出しておいて無礼な奴だな」
シロヤマはぶっきらぼうにそう言って、文健の目の前に置いてあった水を飲み「まずい」と渋い顔をした。この展開を誰が予想できただろうか。突然現れたシロヤマに全員が戸惑った。
「高士はもうお前たちの前には戻って来ないぞ。あいつはルーシーの仇を討つために、戻って来られない場所に行ったからな」
胡桃が疑問をぶつけるよりも早く、シロヤマは答えを口にした。
「ルーシーの仇って……。ルーシーって、昨日高士に銃を向けていた女の子のことよね?」
「あれは仮の姿に過ぎん。ルーシーは今日、血まみれで横たわっていた烏だ。それより文健、でかいパフェが食べたいから注文しろ。しかし、禁煙席というのはいいな。私は酒は好むが嫌煙家でね。高士がいると煙草臭くて食欲も湧かないからな」
シロヤマの注文に、文健は従順にオーダーボタンを押した。
「ど、どういうことですか?」
「ああ。高士はな、私の使い魔であるルーシーが殺されかけたことに立腹して、私の同業者である犯人のところに殴りこみに行ったんだよ」
前のめりで質問する美保に対し、シロヤマはパフェが待ちきれないのか、ウエイトレスを見ながら心ここにあらずの状態で答えた。
「同業者? 誰ですか? 運命の女神様ですか? というか殴りこみって、高士さんは神の世界にでも行ったってことですか?」
「美保、一度の台詞の中では質問は一つにしてくれ。……まあ結論から言えば、犯人は運命の女神ではない。やったのは勝利の女神だよ」
「……え、ちょっと待って、新メンバー? 急に言われてもわかんないって。大体、その勝利の女神は、どうしてあんたの使い魔に関わってきたのよ?」
「最後まで聞け。勝利の女神は私と運命の女神の会話が最近増加傾向にあるのが、どうにも気に食わなかったみたいでね。無理にでも私の気を引こうと、ルーシーに手を出したらしい。全く、勝利の女神はいつも子どもみたいなことをするから困っている」
「ぜ……全然わからないんですけど。もう少し詳しく話してよ」
クエスチョンマークが頭上に出ているのが視認できるくらい、三人は混乱していた。
「前にも言ったとは思うが、私は神の国《プラマリア・センタ》では年齢も若い方で新入りに分類されるから、もう長い間その地位に就いている勝利の女神も運命の女神も、本来大先輩なんだ。だが二人はどうも、新入りの私をからかうのが面白いのか、こぞって好意をアピールしてきては私を困らせて楽しんでいるのだ。長生きしている神のやることはよくわからん」
「え……っと。つまり、勝利の女神様はシロヤマさんと運命の女神様に嫉妬したってことですか?」
「嫉妬? ふむ、そうとも言えるかもな。私はどちらかと言えば、執着といった方が近いとは思うがね」
文健が頭を抱えていた。胡桃も同じ気持ちだった。
「おいおいなんだよ……神様って百合だらけじゃないか!」
「百合? なんだ文健、ここで花の名前が出てくるのは意味がわからない。説明してくれ」
「それは後にしてちょうだい……ねえシロヤマ、ルーシーと高士にはどんな繋がりがあったの? 仇を討ちたくて戻って来られない場所に行ったなんて、高士はルーシーに命でも助けられたの?」
これまでの質問には即答してきたシロヤマが、胡桃の質問には少しだけ間を置いて言葉を選んでいるように見えた。
「……正直、私にもよくわからないのだ。ルーシーは高士と一緒に新宿に来ただけだ。高士が女子中学生に変装していたルーシーの正体に気がついたことも、ルーシーが傷つけられたことに腹を立てたことも、私や勝利の女神、そして運命の女神にも予想外のことだったのだ」
――今、何かとても重要な鍵になる言葉を耳にした気がして、胡桃は息が止まった。文健も美保も気がついたようで、思わず三人は顔を見合わせた。
シロヤマが発した「予想外」という単語。それが意味するのは、
「……よ、予想外って。つまり、運命の女神にとって予想外だったということは……?」
「そうだ。私とお前たちの目的は、達成されたことになる。奴の鼻を明かせたことに礼を言わせてもらおう。ありがとう。それから、予想外のことをしたことでお前たちの運命は僅かではあるが、運命の女神の仕事から外れた。今後の人生、注意して生きるといい」
あまりにも呆気なくあっさりと、四人で力を合わせ頑張ってきた《デベロップメント・サプライジング》が達成されたと聞かされ、呆然としてしまった。その間にウエイトレスが運んできたデラックスパフェを、シロヤマは上のアイスと生クリームの部分だけ平らげた。
「……あまり美味くないな。それでは、私はここで失礼する。じゃあな」
立ち上がったシロヤマの袖を、真正面に座っていた美保が掴んで引き止めた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 一人で一方的に話して、あたしたちの頭が追いつかないうちに去って行こうとしないでください! こ、これから高士さんはどうなるんですか!?」
「高士は戻って来られないと言っただろう? あいつの人生の大半は暴力に占められていたが、学習することも成長することもなく最期まで暴力で終わるとはね。本当にわかりやすい馬鹿だった」
シロヤマの言葉で高士の人生が容易に想像できた。胡桃がふと視線を逸らすと、文健と美保が胡桃を見て頷いていた。
「あたしたちも、高士さんが行った場所に行きます! 高士さんを連れ戻して、それで、ちゃんとお別れを言わなきゃ、あたしたちは解散できないんです!」
「……言葉が通じていないのか? 美保はやはりまだ幼すぎるな。人間の自己都合に付き合う神がどこにいる?」
「そうですよ子どもですよ! でも、高校二年生って人生で今しかなぐで! だば好き勝手言ったっていいでねえですか! だって、まだ未来があるんですから!」
興奮しているのかすっかり方言が出てしまった美保は、言い終わった後で顔を赤くして黙り込んだ。美保の言葉は胡桃にとって意外だった。美保はもっと大人しくて、身を弁えた子だと思っていたのだ。
「……自分にはまだ未来があると、どうして思う? 私は死神だ。何度も人間の死を見てきた。世の中には理不尽な死がどれだけ多いと思う? お前だって、明日には死んでいる可能性は否定できないのだぞ」
「……高士さんに胡桃さん、文健さんと出会って、話して、目標を決めて行動して、何かを感じたんです。説明になっていないとは思いますけど、お二人にはきっと伝わると思います」
――ああ、そういうことね。確かに胡桃は美保の言わんとすることがわかった。
胡桃が美保の未来を羨ましいと思ったように、文健の夢に嫉妬したように、高士の自由さに触れたいと思ったように。四人が出会ったことでそれぞれ何らかの影響を受け、変わろうとしているということだ。
素敵な気持ちの共有じゃないか。胡桃は笑いながら美保の肩を叩いた。
「わたしと文健も同じ気持ちよ。もう一度高士に会いたいし、連れ戻したいとも思ってる。ね、お願いシロヤマ。わたしたちを、高士のところに連れていって」
「……胡桃は無難で現実的、リスクを負わない生き方を好んでいたはずだが?」
「まあね。でもさ、それだとつまんないかなって。美保ほど若くはないけど、わたしだってまだ二十歳だし? 冒険するのもたまにはいいでしょ?」
シロヤマが腑に落ちない顔をしていたが、胡桃自身、自分の行動に筋道の通った説明が出来ないのだから当然だと思った。
「揃いも揃ってコウシコウシとよくわからないな。出会って二日目の他人だろうに」
「それでも……作為的な出会いだったとしても、こんなに気になって、助けたいと思う存在になってしまった。あなたの言葉を借りれば、これも運命なんだと思います」
シロヤマの疑問に答えたのは胡桃でも美保でもなく、文健だった。
「……文健、割と恥ずかしいこと言うわね。やっぱり、作家様は言うことが違うのかしら?」
「う、うるさいな! いちいち茶化すのはやめろ!」
シロヤマは何を思っているのか、しばらく言葉を発さずに黒の大きな瞳で大部分が残ったままのパフェを見つめていた。三人が真剣にシロヤマを見つめ続けていると、溜息交じりに言った。
「……連れて行くのはいい。だが、帰り道の保証はしないぞ」
「あ、ありがとうございます!」
美保がシロヤマの手を取り勢いよく礼を述べると、シロヤマは面倒くさそうに掴まれた手を振りほどいた。
「勘違いするな。私はお前たちの訴えに揺れたわけではなく、運命の女神や勝利の女神が慌てる姿が見られるのではないかと、期待したからに過ぎない」
「ありがとう。あなたが協力してくれる理由はそれで十分よ。それで、高士は具体的にはどこにいるの? そこに行くために、わたしたちは何をすればいいの?」
「高士が行ったのは私たちが住んでいる神の国、《プラマリア・センタ》だ。人間が神の存在する領域に足を踏み入れる以上、お前たちは覚悟を決める必要がある。行き方は簡単だ。一回死ねばいい」
シロヤマの軽い物言いに、胡桃は「OK」と気軽に返事をしそうになった。文健と美保も愕然とし、シロヤマの言葉を受け入れられていないように見えた。
「……え、ちょ、ちょっと待ってくださいよ! ってことは高士って、え!? 死んだってことですか!?」
「いや、まだだ。高士は今、正確に言えば仮死状態にある。生きている人間は《プラマリア・センタ》に入ることは許されない。死ぬか、もしくは生死を彷徨っている人間だけが足を踏み入れることが出来るのだ。通常の死の場合、死んだ人間は天国に行くか地獄に行くか、あるいは《プラマリア・センタ》内で私のように神の仕事をするか、選定されるわけだが……まあ、この話は置いておく。お前たちも高士のところに行きたいなら、死ぬか仮死状態か、どちらかを選べ」
「「「仮死でお願いします」」」
三人の声は綺麗に揃った。
「わかった。では早速出発するか?」
「……あの、その前に一つ提案があります! 運命の女神様とか勝利の女神様では呼びにくいですから、ニックネームをつけませんか?」
思いがけない美保の提案に、胡桃と文健は瞬時に顔を見合わせた。美保のセンスは《デベロップメント・サプライジング》命名の際に十分に理解している。もうあんな悲劇を起こすわけにはいかない。胡桃が文健に「何か提案しなさいよ」と目で訴えると、文健は小さく頷いた。良かった。伝わったようだ。
「俺の提案を聞いて欲しい。運命と勝利だから……『ディスティニーゴッド』に、『ビクトリーゴッド』はどうだろう?」
(美保と同発想じゃないの! っていうか、女神だったらゴッドじゃなくてゴッドネスだし!)
と、胡桃は心の中で突っ込みを入れた。
「聞いてください! あたし、いい名前を思いつきました! 運命の女神様は『実在する魅惑のマドンナ』、勝利の女神様は『世界を統べる高貴な女帝』なんて、どうでしょう?」
大変なことになった。一刻も早く軌道修正しなければという使命感にかられた。
「ふむ。呼びやすいかは別として、奴らが喜びそうな名前だな」
シロヤマもまた、的外れなことを口にして美保の追い風になっている。ここはもう、適当でもなんでもいいから別案を出す必要があった。
「呼びにくいからあだ名つけようって言ってるのに、余計にややこしくしてどうするのよ。もうさ、適当でいいんじゃない? シロヤマって名前に沿って色縛りで、運命の女神はアイザワ、勝利の女神はクロカワ、それでどうかしら?」
「安易すぎませんかね? でも、胡桃さんが言うならあたしは賛成です」
美保が納得してくれたことに胡桃はほっと胸を撫で下ろした。文健は何か言いたそうだったが、見てみぬフリを決めこんだ。
「と、いうわけで話はついたわ。シロヤマ、わたしたちはいつでも準備OKよ」
「なんだ、つまらん名前になったな。じゃあ行くか」
シロヤマは左手の小指を使って空中に何かを描いた。図形のようだったが、胡桃には何を描いているのか具体的に読み取ることは不可能だった。
「お前たちには地球上でどんな死に方をしても、絶命することのないまじないをかけた。さあ、好きに死んでくるがいい。仮死状態になった体は回収しておいてやる」
「え、それだけですか? 《プラマリア・センタ》に着いてからの作戦とか、何かないんですか?」
「群れなくては何もできないのならば、どちらにせよ高士を助けるなんて不可能だ。人間は死んだらどうせ一人なのだから」
不安そうな文健の訴えを一蹴し、シロヤマは立ち上がった。もう何も訊くことはない。あとは、自分たちの勇気が試されるだけだ。
「第一、私は大勢の中にいるときは強気な癖に、一人になった途端に何もできなくなる人間の性質を嫌悪している。だが、強制するつもりもない。私はあくまで好奇心から手を貸しただけだからな。まじないの有効期限は一時間だ。怯えたならばこのまま解散しても構わないぞ。では、再び会うときがあれば」
シロヤマはそう言って今度こそ完全に姿を消した。面倒見のよすぎる死神らしくない死神ではあったが、去り際だけは神様の立場で言葉を残していった。
三人に、残酷な選択肢を残したのだから。
☆
胡桃は新宿駅東南口、ルミネ前のエスカレーターの上にいた。やる気の無さそうにティッシュ配りをする若者、携帯電話を耳に当てる女子、本当にいろいろな人が密集している。
胡桃にとっては当たり前のこの光景に、美保は憧れていると言った。口元に笑みが零れる。胡桃だって、二年前に上京してきたときは同じような感想を抱いていたはずなのに、もう思い出せないのだ。
元々自分は地味なタイプではないと思っていたけれど、一日一日を適当に過ごしているうちに、都会に染まったと言われるようになった。なんのために上京して大学に行っているのか、目的を見失ったままなのに。
「……調子乗ってんのは、わたしか」
独り言を呟いてみても誰も振り向くことはなく、胡桃の存在そのものが雑踏に消えていくようだった。ここで死にかければ注目は浴びるだろうけれど、本気で心配してくれる人はその中で何人くらいなのだろう。
シロヤマが消えた後、残された胡桃たちはお互いの意思を確認しなかった。神の国《プラマリア・センタ》に行くも行かないも、口に出して確認し合うことではないと三人は無意識に判断した。群れるなというシロヤマの言葉を脳裏に焼き付けたまま、それぞれが死に場所を選ぶために一旦別れた。向こうで合流できるかもわからないし、もしかしたらこのまま帰宅しているのかもしれない。
それも個人の自由だし、胡桃には何も言う資格はないけれど。
それでも、みんなと向こうで再会できたなら、今よりずっと生きていくことへの夢や希望が持てる気がした。
だから胡桃は飛ぶことを決めた。助走をつけて駆け出し、思い切り右足を踏み切り――地上へと落下していった。
毟り取られた羽の根元の皮膚は熱く、血が止まらない。だが使い魔として、自分の怪我ごときでご主人を呼ぶなんて迷惑をかけてしまうことは、断じてできない。
《プラマリア・センタ》で暴行を受け新宿の大通りに捨てられた私は、かろうじて人の目につきにくい場所まで移動した。死に際を大勢の人間に見られるのは、耐え難い苦痛だったのだ。
勝利の女神様は私が恐怖で腰が抜けるくらい、ご主人に対しての執着心が強い。ご主人は無事なのだろうか? 勝利の女神様はご主人を溺愛しているから傷物にはしないだろうが、拉致監禁くらいは軽く実行してしまうだろう。
私はこれまで仕事をしながら人間の感情や文化を学んできたつもりであったが、神と呼ばれる彼女たちの心情にはあまり興味を持たなかった。何事にもあまり関心を示さず、表情豊かとは言えないご主人を見る限りではこの仮説は立てにくいのだが、神という種族がもしも人間以上に強欲で残酷であるならば、私もご主人も助かる見込みはないだろう。
――そうか、成程。私は今更ながらに理解したことがある。
神にも個性があるように、人間も一括りにして考えることはできないのではないだろうか?
私は趣味で接触する人間には多くの質問をして思考データを取ってはいるものの、それすら多数派か少数派に分けられるくらいで、誰一人として同じデータにはならないではないか。死に際に悟った内容にしては、あまりにも普通過ぎて面白味に欠ける結論だ。これでは偉そうに語ってきた方々に顔向けするのも恥ずかしい。
「しっかしルーシー。お前マジで変装下手だなー。電車で会ったあの不思議中学生とお前が同じ奴なんて、誰だってわかるだろ。もっと上手くやらねえと、死神の使い魔なんてできねえんじゃねえの?」
私の体を手に取る骨っぽい手に瞳孔が反応した。相当に痛いのだから気安く傷口に触らないでほしい。大体この男、笑いながらからかってきているが、普通私の変身を見破るなど有り得ないことだ。貴方が特殊すぎるのだと伝えたいのに、声が出ないのがもどかしい。
「つか、なんで喋れない設定にしたんだよ? 姿形は人間になれても『カアー』しか言えないからか?」
違う。烏の姿なら唇の構造上確かに不可能だが、地球上のあらゆる人間語を理解している私なら、人間に化ければ話すことなど容易である。だがこの男は単純馬鹿であるがゆえ、普通のことをしては興味を引けない、目的を果たせないと思ったのだ。
今にして思えば、考える時間を取れる筆談にして正解だった。下手なことを口走ってしまったときに、彼が何をするのか私には想像もつかないからだ。
彼は路地裏の奥深く、日陰で寒さの厳しい場所まで移動してからそっと私を地面に置いた。
「ここまで来れば野次馬もこねえだろ……てか、鳥も人間と一緒のやり方で止血していいのか? まあいいや。消毒液なんかねえけど、俺は喧嘩と止血だけは得意なんだよ。尊敬してくれていいぞ」
彼はそう言って、黄色いコスチュームの中に着ていたインナーシャツを脱いで引き裂いた。包帯のように細長く千切ったそれを使って血が止まらない私の体をきつく縛り、止血を試みているようだ。叫び出したくなる程痛かったが確かに手際はよく、出血から来る貧血、具合の悪さは少し良くなった気がした。
「おお、俺もまだまだ現役じゃねえか。最近は殴られて止血するなんてことはなかったから、腕が衰えたかと思ってたぜ」
「ほう、器用なものだな。お前のような人間でも、長所というものがあるのか」
「うっせ、黙れ。……じゃあ、ルーシーのことは頼んだぜ。俺は勝利の女神サマをぶん殴るために、お前に教えてもらったやり方でちょっくら、カミサマの国とやらに行ってくるからよ」
彼と話している声の主に私は反応した。高くも低くもない美しい声色。そして独特の話し方。まさかと思って瞳を動かした私は、目を疑った。ご主人が境高士というこの男を《プラマリア・センタ》に送ろうとしていることが、信じられなかったのだ。
いや、よく考えてみればご主人の様子は最初から変だった。
人間を死に誘うのが私で、彼らの死を見届けるのがご主人の仕事である。ご主人は死神という職業に赴任したときから完璧に仕事内容を理解していて、私が使い魔として派遣されたときにはすでに冷徹で人間に無関心、淡々と働く少女という印象が強かった。
しかし昨日からご主人の様子はおかしい。仕事の範疇を超えている気がするのである。
境高士の行動を興味深そうに眺め、相葉胡桃の考えを黙って聞いて、芳野文健の情けない性格を好み、椎名美保に対してはご主人が高校生である身分のうちに亡くなった過去を持つからか、贔屓と呼べる範囲で気にかけている。普段冷徹なご主人がこんなことをしていれば、運命の女神様も勝利の女神様もご主人にちょっかいをかけたくなるのは当然と言えるだろう。
死に際の使い魔の分際でご主人の心情を無礼にも考察しているうちに、とある好奇心が湧き上がってきた。
……ふと、試してみたくなったのだ。彼らが互いにどんな影響を及ぼし、生まれた絆によって何を変えることができるのか。
実に価値のある実験だ。その結果、もし私が予想も期待もしない方向へ未来が進むなら――おそらく、私の価値観も烏生も根本から変わるのだろう。
好奇心は猫を殺すと聞く。あの賢い天才猫ですら、最期はそれにやられた。
私も死ぬ可能性が非常に高いが、この実験結果がわかるなら、満足のいく冥土の土産になるというものだ。
「つ、着いたんだべか……」
どうせ死ぬなら田舎者でも知っている有名な路線で、という理由で山手線に飛び込んだ美保は、真っ白な雪景色の中にいた。
そこは神の国というより、地元の風景にあまりにもよく似ていた。高層ビルもスクランブル交差点もない真っ白い光景に呆然としつつも、黙って立っていたままでは凍てつく風に体を冷やすだけだ。美保は降り積もった雪の中を歩いてみることにした。
風景は勝手知ったる田舎だというのにもかかわらず、知っている人間に会うことはなかった。駄菓子屋のタミおばちゃんも、いつも雪かきしている権ジイも、煙草臭い安井さんも誰も存在しなかった。
白い町を一人歩く美保の耳には、自分が雪を踏む音だけが聞こえていた。段々と寂しくなってきた美保は、誰にも気づかれることのない涙を浮かべ始めていた。孤独に慣れていないことを今更ながらに知ったのだ。
神の国《プラマリア・センタ》に来たはずなのに、なぜこんな状況下にいるのか美保にはわからなかった。しかしとにかく高士を見つけないことには目的を果たせない。胡桃も文健もきっとここに来ているはずだと信じ、寂しい気持ちを堪えながら歩き続けた。
そうして歩きながら、無意識のうちに美保が向かっていたのは我が家だった。家が見えると、灯りがついていることが嬉しくなって足早になった。田舎特有の鍵のかかっていない玄関から堂々と入り、父と母の姿を確認した美保は安堵の息を漏らした。
「父ちゃん、母ちゃん、ただいま」
だが、話しかけてみたものの二人が返事をすることはなかった。美保の存在なんて認識していないかのように、父は炬燵でTVを見続け、母は台所で料理をしていた。何度も話しかけてみたが反応は変わらなかった。
ひどく落胆した美保は、自分の部屋に行ってみることにした。そこには一人、パソコンの前で笑っている自分がいた。
ああ、そうだ。あたしは田舎っぽい古臭い説教ばかりしてくる両親を鬱陶しいと思い、干渉を避け一人で部屋に篭ることを好んでいた。そんなあたしが今更寂しさを紛らわすために自宅に寄って、両親に甘えようなんて虫の良すぎる話だったのだ。
失望のうちに外へ出て空を見上げると、まだ雪は降り続けていて、止む気配もなかった。美保が歩いてきた軌跡、足跡がすっかりわからなくなっているのを見たとき、精神的に限界がきた。
頬を伝う涙が雪の上に落ちると、蒸発音と共にシロヤマが現れた。
「無事に着けたようだな」
「……シ、シロヤマさん、ですか……? あれ、どうして……?」
「他に誰に見えるというのだ。お前の目は腐っているのか?」
「す、すいません。……あの、胡桃さんと文健さんは……」
「さあな。ここに来る前に言ったように、個人で行動もできないようなら高士に会えるはずもないと思え」
「大勢の中にいるときは強気な癖に、一人になった途端に何もできなくなる人間の性質を嫌悪している」とシロヤマは言っていた。それは大衆に流されやすく、気の小さい美保にとってまさに当てはまる性質で、一人で行動することは想像以上に勇気がいることを、今現在身をもって実感していた。
一人にされた途端にこうして涙しているようでは、シロヤマはもちろん、胡桃や文健にも顔向けできないと思った。だから強くならなければいけないのに、美保が寂しくて仕方のない今、シロヤマが現れたのは意外だった。シロヤマのおかげで美保の心は少しだけ救われたのだから。
「……シロヤマさん、えっと、あの……いろいろとありがとうございました」
「何に対して礼を言われているのか、私にはわからないのだが?」
「いえ、なんでもありません。では、あたしは引き続き高士さんを探したいと思います」
美保がシロヤマに一礼し、再び雪道を歩き出そうとしたときだった。
「え~! 本当に来ちゃったのお? 私の支配が及びにくいところに行ったからって、いくらなんでもやりすぎなんじゃな~い?」
間延びしていて高く、鼻にかかった甘ったるい声が耳朶に響いた。美保が振り向くと、金髪で緩いウェーブのかかった長い髪を指先でくるくるといじる女が立っていた。
美保を見ている瞳は、コバルトブルーの宝石そのもの。真っ白な肌は白磁のような、言葉では形容しがたい美しい女性だった。到底人間のものとは思えないその美貌に、美保の直感が働いた。
「う、運命の女神さまですか……?」
美保の問いかけに反応した女は、柔らかで上品な笑みで答えた。
(うわあー! ぱ、パーフェクトスマイルだべ!)
あまりの美しさに興奮していると、シロヤマが溜息を吐いた。
「おい、なんでお前がここにいる。呼んだ覚えはない。面倒事を増やすな」
「だってえ~! 死神チャンが面白そうなことしてるんだもーん! 仲間に入れてよ~」
運命の女神の上品な雰囲気は口を閉じていれば、という条件下でしか成り立たないことが判明した。彼女の喋り方は無理にギャル語を使おうとしている女子高生より酷いかもしれない。
「それにぃ、私と死神チャンがこうしてイチャイチャしていればさ~、あのヒトが怒って面白いことになるんじゃないかなあって思ってぇ~」
運命の女神ーー胡桃がつけたあだ名で言えばアイザワは、どうやら愉快犯のようだった。シロヤマの腰に手を伸ばして必要以上に接近している彼女のことを、シロヤマは面倒なのか慣れっこなのか、無表情のまま黙って振りほどこうとしていた。
「運命の女神さあ、私の許可なく何してるわけ?」
ほんの一瞬、美保が瞬きをした瞬間の出来事だった。シロヤマとアイザワの間を切り裂くように、またしても一人の女が現れた。
長身に細身な肢体、それでいてグラマラスなその人は、目鼻立ちがくっきりしている正統派の美人で、自分に自信がある雰囲気を全身から纏わせていた。彼女は痛みとは無縁の艶やかな黒髪を腰まで靡かせ、強引にシロヤマを引き寄せた。
「死神は私の女だって言ったわよね? あんた、勝手なことばっかしていると、負け犬として生きていくことになるけどいいのね?」
「え~。なんで勝利の女神チャンにそんなこと言われなきゃいけないのぉ? 私にだってぇ、死神チャンに触る権利はあると思うんだけど~?」
「私は誰のモノでもない。二人とも離れろ、鬱陶しい」
この勝気な美人が勝利の女神・クロカワであると認識するより先に、すごいものを見てしまったという興奮で美保の瞳孔はすっかり開いてしまった。青森じゃ……いや、東京でも見られないようなタイプの違う美女たちを間近で見られただけでなく、三角関係の修羅場を目の当たりにしたのだ。
(……あ、でもシロヤマさんから矢印は出ていないようだから、三角関係とは言えないんだべか?)
なんて考えていると、クロカワが美保を見て鼻で笑った。
「あんたは椎名美保ね……ふうん。近いうちに大勢との学力勝負に身を投げる相が見えるということは、受験生ね。でも残念、あんたは負けるわよ。だって、今私がそう決めたもの」
「ええ!? そんな……ま、まだ一年あります! 一生懸命勉強するので、あたしの未来をまだ決定しないでください!」
「そうだよかわいそうだよ~! あんまり意地悪すると、ネットに勝利の女神チャンの悪口書いちゃうからね~☆」
「やめておけ。お前みたいなタイプは間違いなく炎上させる人間だ。……いや、神か」
恐ろしい未来予言を撤回してもらおうと必死な美保を面白がるアイザワと、冷静に突っ込むシロヤマに「他人事だと思って!」という怒りが湧いたが胸の中に留めた。
自分でも驚いているのだが、三人の神々の中でも特に高圧的なオーラを放つクロカワに恐怖しているのにもかかわらず、美保は意見しようとしていた。
涙は引っ込めた。まだまだ自分は成長過程で未熟だと言っても、ここだけは揺らいではいけない。そう、このために。高士のしたことは間違っていないと証明するために、高士を助けるために、美保はここまで来たのだから。
「あ、あの! クロカワさん! シロヤマさんの気を引きたいのはわかります! でも、だからと言ってルーシーさんに手を出したのは、間違いだと思うんです!」
「……はあ? 誰に向かって口利いてんの? っていうか、クロカワって何?」
「お前の言葉は田舎のヤンキー女にしか聞こえなくて下品だ。神の品格を疑われるから少しは気をつけろ。クロカワというのは、私が人間界で名乗るシロヤマという名前に沿って、こいつらがお前に付けたあだ名だ。ちなみに運命の女神はアイザワだ」
「え~? なにそれダッサ~! でも、あだ名なんて滅多につけられないから新鮮~! 私はアイザワね、了解! アイちゃんって呼んで☆ 私もシロちゃんとクロちゃんって呼ぶ!」
「お前もだアイザワ。喋り方を何とかしろ」
楽しんでいるアイザワに対して、シロヤマに注意されたことが癪に障ったのか単純にあだ名が気に入らなかったのか、クロカワは露骨に不快そうな顔つきになった。
「まあいいわ。あんたみたいな世間知らずの小娘って、大体口だけなのよね。井の中の蛙ってやつ? 金も権威も実力もなくてなんにもできないくせに、私に意見なんて百億年早いのよ。あと、田舎くさい訛りを気にしているみたいだけど、無駄ね。笑えるくらい訛ってるし。都会に憧れているみたいだけど、あんたからは芋臭さが抜けそうにないんだから、黙って田んぼに囲まれながらひっそりと生きていればいいのよ」
クロカワの言葉は誰が聞いても美保を馬鹿にしているものだった。シロヤマとアイザワは一方的に暴言を吐かれた美保の様子を黙って見ていた。自分に注がれる侮蔑、興味。それらの不躾な視線を体にねっとりと浴びながら、美保は腹の底から湧き上がってくる感情に適する単語を脳裏に思い浮かべていた。
――瞬間、美保の中で何かが爆発した。
クロカワの発言はどうしても許容できない、逆鱗に触れる言葉であったことを認識してしまったのだ。
「……おめに、何がわがる」
「は?」
「雪国の女子校生、ナメるでねえぞ! こちとら氷点下の中ストッキング穿いて、膝下五センチ規則の制服のスカートをベルトで上げて、少しでも可愛くみせようと必死に努力してんだ! 化粧品だって、近所のドラッグストアのレジのおばちゃんたちにまだ早えだのわちゃわちゃ言われながら、少ねえ小遣いで毎月少しずつ買ってらのよ! 雑誌とかネットと睨めっこして努力してんだ! 服だってさ! みんな地元のイオンで買うから被りまくるんだっづの! それでも友達と差を付けたぐて、コーディネートに必死に頭使ってんだ! そういう田舎者の涙ぐましい努力を身内で言い合うのは笑えっけど、おめみでえな綺麗な神様に芋臭えなんて言われて、馬鹿にされるのはどうしても我慢できねえ!」
急に人が変わったように捲し立てる美保を神たちは驚いたように見ていたが、今の美保に溢れてくる感情を止めることは困難だった。
「別にいいでねえか! 現実を知らないガキでもカッペでも! そんなもん、これから生きていけば嫌でも知っていくことだべや! 偉そうなこと言うでねえ! 何もない? そらそうだべ! おらはまだ十七だもの! でも、何もないわけでねえ。未来がある! だったら今この歳で青森で、好き勝手妄想を膨らませてる痛いガキでいいべや! あんたらみたいな神様にはわからねえロマンが、田舎の女子高生の脳味噌には溢れてんだ!」
柄にもなく大声を出した後、酸欠になりかけた頭を助けるために大きく息を吸った。冷たくて澄んだ空気が体中に行き渡った頃、美保はようやく事の重大さに気がついた。
(あれ……? お、おら、神様にとんでもない暴言を吐いたんでねえか……?)
しかし、本来の臆病な性格から胸中を不安が埋め尽くしたのも一瞬だった。驚く程に清清しい気持ちが、美保の不安をあっという間に一蹴していった。美保は堂々と胸を張って、神様と対峙することができたのだ。
「私を侮辱するか。無礼ね。泣いて謝っても許さないから」
だがクロカワはそれを許さなかった。一歩も引かずに謝罪もしなかった美保の頭を片手で掴み、人間に侮辱されたことへの怒りと屈辱で、その美しい顔を歪めていた。
「やだあ~美保チャンっておっかしい~! 熱い青春って感じだね☆ そういうの、私は嫌いじゃないけど~?」
クロカワとは対照的に、アイザワは事の成り行きを楽しんでいるようだ。神様によってこれ程までに性格が違うのかと、初めて体験する痛みに美保が堪えながら考えていると、
「私は、美保の発言を支持する。美保を手にかけるようなことをすれば、クロカワ。お前とは今後一切、目も合わさないことを宣言しよう」
シロヤマから全く予想していなかった助け舟が飛んできた。これにはクロカワも面食らったようで、頭を掴まれている美保は彼女に指の力が緩むのを感じた。
「何を馬鹿なことを言っているの? 死神、あんたも自分の立場をわかっていないの? 神が人間に肩入れすることは、人間界のバランスを崩すことに繋がる。崩れたバランスを元通りにするのがどれだけリスクが高いことか、わからない能無しじゃないわよね?」
「この国に人間を四人も連れてきた時点で、バランスも何もないだろう。然るべき処置は後で行うつもりだし、受けるべき処罰も当然受けよう。……それで、お前はその手を離すのか? 離さないのか?」
シロヤマの無表情をしばらく見つめていたクロカワは、舌打ちをした後美保から手を離した。
「そいつらと関わっているからかしら。馬鹿になったわね、死神。私が調教しなくちゃいけないようね」
「馬鹿はともかく、調教は同僚に使う言葉ではないな。それに、こいつら人間の前では私はシロヤマだ、クロカワ」
クロカワはシロヤマを睨みつけ、姿を消した。
「……東京でのやりとりを見ているときから思ってたけどぉ、シロちゃんって、この田舎娘をかなり贔屓してなーい? ねえねえ、どうしてかな~? シロちゃんの生前と関係あったりするのかな~?」
「そんなわけあるか。私は人間に対して、誰にでも平等で不公平だ」
シロヤマは不愛想にそう答えると、美保の手を取ってアイザワの前から離脱した。
☆
シロヤマに連れて来られたのは、轍一つない真っ白な広い道が続く平原だった。明るい場所なのに影の落ちない不思議な空間の中、二人は横並びに立っていた。
「……シロヤマさん。どうしてクロカワさんに殺されそうになったあたしを、助けてくれたんですか? あたし、なんてお礼を言ったらいいのか……」
「必要性を感じないから言うつもりはない。……だがまあ、強いて言うなら……お前が二回も口にした言葉は、私の過去を救ったのさ」
シロヤマが口にした言葉の意味がまるでわからず首を傾げたとき、初めて彼女の微笑みを見た。
「……とにかく先へ行け。この先も続く真っ白い道を歩き続けていれば、看板よりもわかりやすい目印がお前を導くだろう」
「はい! ありがとうございました!」
シロヤマに丁寧に頭を下げ、美保は言われた通りひたすらに真っ直ぐ歩いた。寂しい気持ちはなくならなかったし、怖いと思う気持ちも当然あった。それでもひたすら前へ、前へと歩いていった。
どれくらい歩いたのだろうか。いつの間にか夜になっていた。それでも二本の足を休めることなく歩いていると、夜空から一枚の黒い羽が落ちてくるのが見えた。雪が作り上げる真っ白い景色の中で落ちてくる黒い羽はとりわけ目を引いて、美保は思わず手を伸ばして掴んでいた。
『屑の世界は何色に見える?』
周りには誰もいないはずなのに、確かに誰かの声が聞こえた。しかし美保が驚いたのも一瞬のことだった。美保の心は不思議なくらい穏やかで、どんなことが起こっても対応できる自信があった。
美保はゆっくりと瞬きをしてから、黒い羽に向かって答えた。
「 」
根拠のない自信を持って答えた美保の体は、解答を待つより早く消え始めていた。しかし徐々に消えていく自分の体を視認しながらも、美保は狼狽しなかった。彼らならどうするのかが自然にわかったからだ。
(シロヤマさんが、おらを馬鹿呼ばわりする理由がわがった)
真っ白い雪の中に体が溶け込んでいくのを見たとき、美保は田舎の美しさと近くにいる家族や友達の大切さに、やっと気づいたのだった。
胡桃は誰かの声を聞いた。誰の声なのかはわからないけれど、他人よりも近く、友達よりは遠い。そんな誰かの声だと思った。
胡桃の眼前には、小さい頃に読んだ絵本に出て来たような、白くて三角屋根のあるありふれた洋風の城が存在感を主張していた。神の国《プラマリア・センタ》は、中世のヨーロッパを基準にした街づくりをしているのだろうか。
「……何あれ。シンデレラ城? 高士を助けに来てお城の前に着いたってことは、あいつはお姫様だったってこと?」
高士を探し出して一緒に東京に戻ることを目的としていても、自分がどこにいるのか、どんな状況下にいるのか、全く把握できていない。眉根を揉みつつ冗談めいたことを考えていると、
「姫様! また一人で街をほっつき歩いて! いけませんと言ったでしょう!」
黒服に白い手袋をはめた、セバスチャンという名前がよく似合う老紳士がいつの間にか現れて、胡桃の手を引いて歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 説明して! わたしは今どこにいるの? っていうか、姫様って何? あなたは誰なの?」
「ははあ、成程。今日はそうやってじいをからかうおつもりなのですね? ええ、じいはよく存じておりますよ。あなたはこの国の第一王女・クルミ様で、私はあなた様が幼い頃から執事としてお世話をさせていただいております、セバスチャンです。今宵は外交のためのダンスパーティーがございますので、部屋にいてくださいと申し上げましたのに」
「……本当にセバスチャンだったのね」
理解不能な回答ではあったものの、セバスチャンはいたって落ち着いた様子で答えた。
再び質問する余裕すら与えられないまま城の中に入っていくと、たくさんの兵士たちや使用人たちが胡桃を見て頭を下げた。この大袈裟な敬われ方を見るに、どうやらセバスチャンが言っていたことは嘘ではないようだ。豪華絢爛な大きな両開きの扉の前に連れてこられると、たくさんの侍女たちが胡桃の着替えと化粧を買って出てきた。
「それでは、パーティーの時間になったらまたお迎えに上がります。それまでごゆっくりとお寛ぎくださいませ」
侍女の中でも最も位の高そうな女が頭を下げて部屋を出て行くと、胡桃は広い部屋に一人残された。体重に合わせて沈むベッドに腰掛けながら、着せられた赤いパーティードレスを見つめた。何も食べられない程きつく巻かれたコルセットのせいで、非常に窮屈な気分だ。
ここにいる自分の立場はわかったけれど、状況は何一つわからない。この豪華だけど閉鎖された部屋の中にいては状況の打破など出来るはずもないと考えた胡桃は、シロヤマに話を訊くことが正解だと思った。
「……シロヤマ、お願い。出てきて」
呼びかけてしばらく待ったが、シロヤマが出て来る気配はなかった。
「あ~! いけないんだ~! 一人で何とかしろって、シロちゃんに言われたんじゃなかったの~?」
しかしシロヤマの代わりに、予想外の人物がベッドの上に座っていた。西洋人の容姿を持つ彼女の人間離れした美しさと、胡桃の心の中を見透かしたかのような言葉に、神様の誰かなのだろうと即座に推測した。
「あなたは……どの神様なの? わたしが王女として存在するこの国が《プラマリア・センタ》なの?」
「やっぱり、神ってわかっちゃう~? うん、私は運命の女神だよ~☆ あなたたちにはアイザワって呼ばれてるんだっけぇ? ニックネームつけてくれてありがとね~! あのねー、ここは確かに《プラマリア・センタ》だけど、今いるのは胡桃ちゃんの世界を少しだけ大袈裟にして、ちょびっと夢を加えたときに起こりうる世界の一つなんだ~☆ ここでの胡桃ちゃんはねえ、外見を磨くことに手間をかけられて、特に苦労もせずお金を持っていて、慕ってくれる人だって多くて、いつだってぬるま湯に浸かりながら何一つ不自由のない世界を体感できるんだよ☆ ね? いいでしょ~? ずっとここで生きていってもいいんだよ~?」
文健と美保と三人で決めたあだ名を彼女が知っているということは、すでに二人のどちらかもしくは両方に会ったということだ。無事に到着していることにまずは安堵した。
確かにアイザワの言う通り、ここでの待遇に不満はない。だけど、ここで生きていくという選択肢は有り得なかった。目的が違えてしまうという理由ももちろんあるけれど、胡桃はこの二日間で自分が欲しいものに気づいてしまったのだ。
それは、ここでの生活を受け入れたならば、もう永遠に手に入ることのないものだった。
「……わたしってさ、いかに無難に現実的に効率的に生きていくのかを、常に考えてきたんだよね。だけど、夢や未来に向かって真っ直ぐ進んでいく奴らと出会って、刺激されちゃったみたい。今までは、そういうのって言うのもやるのも格好悪いと思ってたんだけど……羨ましいな、楽しそうだなって思うようになっちゃったんだ。だから、もう少し無理してみようと思うの。無難な道より、やりたいことってやつ?」
夢、未来。これらの単語を口にしたのはいつ以来だろう。無意識に避けてきた言葉は、自分でも驚くくらい胸の中を熱くさせた。
「ふ~ん、そうなんだあ~? でもね、胡桃ちゃんの決意を聞かされた私が『はーい、わかった☆』って、ここから出すと思うのかなあ? シロちゃんがあなたたちにリスクをどう話しているのかは知らないけどお~、神の国に足を踏み入れるっていうのは、そういうことだよぉ? 幸せな状態のまま、ここで永遠の時間を過ごせる運命をあげるなんて、とっても優しい配慮だと思うんだけどなあ~?」
アイザワは楽しそうに胡桃を見つめていた。ああ、そうだ。シロヤマから聞いていた話では、運命の女神とは何よりも愉悦を好む神ではなかったか。大変な女にからまれてしまったものだ。ここでアイザワをなんとかしなければ、高士を連れて東京に帰るどころの話ではない。
人間の運命を操作する、運命の女神。
本来彼女の手中にある人間の運命だが、胡桃たちがアイザワにとって予想外の行動を起こしたことで、「運命の女神の仕事から外れた」とシロヤマは言っていた。
ならば、ここで生きていくという未来がまだ確定したわけではない。それさえわかれば十分に戦えるというものだ。
「じゃあ、あなたとわたしで勝負しましょうよ。わたしが勝ったらここから出して、高士のところに連れて行ってほしいの」
「勝負~? クロちゃんと同じようなこと言うのね~?」
「勝負内容は……そうね。今日のパーティーで男から誘われた回数が多い方が勝ち、でどうかしら?」
「……胡桃ちゃん。それ、本気で言ってるの~?」
胡桃にとって勝負内容は賭けだった。アイザワが自分の容姿に自信を持っているであろうことを当てたのは、女の勘以外に理由はない。安い、見え透いた挑発だった。しかし、煽ることは好きでも煽られることは慣れていないのか、アイザワはいとも簡単に乗ってきた。
「いいよお~。でもお、胡桃ちゃんが言い出した勝負だってことは忘れないでね~? 負けたときのことも、ちゃんと考えておくんだよ~?」
「ありがとう。でも、神様だろうと約束はきっちり守ってもらうからね」
「だいじょーぶ! 神に誓って守るよ~☆ まあ、誓う神が勝利の女神なわけだし、私的には笑っちゃうんだけどね~☆」
☆
三日月が綺麗な煌びやかな夜。パーティーは定刻通りに始まった。
ダンスフロアは華やかな世界そのものであった。シャンデリアが照らす赤い絨毯の上に紳士淑女が集い、気に入った相手と舞っている。高度な政治戦略と欲望に満ち溢れている世界だから失礼のないようにと、セバスチャンには口を酸っぱくして言われている。
とはいえ、胡桃にとって政治の話などどうでもよかった。これは生死と女の意地をかけた一番勝負だ。どうしても緊張してしまうけれど、怖い顔をした女に声をかける男なんていないことはわかっている。ダンスフロアでの嗜み方なんて未知の世界だが、淑女として振舞う以上、微笑みながら声がかかるのを待つのが最善だと思った。
胡桃の考えは正解だったらしく、すぐに一人の男が近づいてきた。
「素敵なレディー、私と一緒に踊りませんか?」
胡桃は優雅に背筋を伸ばしてその手を取って、男に身を委ねながらステップを踏んだ。一流の男は、女性のエスコートの仕方を心得ているのだなと実感した。愛でられながら踊ることは想像を遥かに上回る快感だった。
一人と踊り終えてからは代わる代わる誘いを受けた。その都度胡桃は微笑みで承諾し、ステップを踏み、自分の中にある最大限の魅力を引き出しながら舞った。
踊った人数が二桁を超え、窓から見える三日月の位置が変わってきた頃、胡桃は気がついてしまった。
――アイザワの姿を見かけない。
はっとしてその姿を探すと、アイザワはまるで胡桃が気づくタイミングを見計らっていたかのように、あるいはハンデと言わんばかりに、派手に遅れて登場してきた。そして他を寄せ付けない美貌と圧倒的なオーラで、あっという間に男たちの視線をかっさらっていった。
ほとんどの男が彼女に群がってダンスを申し込んでいる状況の中、胡桃に声をかける男はいなかった。ただ、このまま黙って負けを認める胡桃ではない。自分からダンスを申し込むのは反則だが、自分から声をかけてはいけないというルールは設定されていない。ならば、
「こんばんは。ねえ、少しだけ話し相手になってくださらない?」
胡桃は隅っこでグラスを片手にフロアを眺めていた、一人の男に声をかけた。そばかす顔が印象に残る、中肉中背の青年だった。
「あ、はい。僕で良ければ」
初めは胡桃と目を合わせようとしなかった青年だったが、話しているうちに胡桃の顔を見て笑ってくれるようになった。彼は親の都合でフィリピンからやってきた青年で、名をノエルといった。内向的な性格を直すようにと、無理やりこのパーティーに参加させられたのだという。
しばらく話した後、口には出さずに胡桃は「踊りましょう?」と目で訴えて、ノエルに手を差し出した。緊張した様子で胡桃の手を取ったノエルは、初めは緊張からかぎこちない動きでステップを踏んでいたものの、教養としてダンスを嗜んでいるのか、次第になかなかに上手いリードで胡桃をエスコートしながら踊っていた。二人で踊ることに慣れてくると、ノエルの顔に自信が溢れ出してくるのが伝わってきた。
曲が変わっても二人は踊り続けた。ノエルはタフな青年で、決して息を切らすことはなくダンスには段々と切れすら出てきているようだった。一方、顔には出さないが胡桃はノエルの前に何人もの相手と踊ったこともあって、足が痛くなってきてしまった。
曲が途切れたときに胡桃がアイザワの様子を窺うと、彼女と踊りたい男たちが順番待ちをしていた。このままでは確実に勝負に負けてしまう胡桃は、次の相手を探して人数を稼がなければならなかった。
「ありがとうノエル。とても楽しかったわ。それじゃあまたね」
胡桃は社交的な笑みを浮かべてノエルの元を去ろうとしたが、彼が胡桃の手を掴んで離さなかったためにできなかった。捕まれた力はとても強く、痛い。人が変わったようなノエルに少しだけ怯えながら彼を見上げると、ノエルは胡桃を見据えて言った。
「君を誰にも触らせたくないんだ。このまま二人で踊っていよう。ダンスが終わったら、君をフィリピンに連れて帰るよ。ダディに素敵な女性を見つけたって報告するんだ」
突拍子もないノエルの話に首を傾げた。胡桃がいるのは《プラマリア・センタ》内の、胡桃が作り出した世界だとアイザワは言っていた。つまり、言ってしまえば『設定』に過ぎないノエルが引き止める目的と理由は、彼の言葉の中にはないということだ。
思い当たる節は一つしかない。振り向いてアイザワを見ると、彼女は楽しそうに胡桃に近づき、男をはべらせながら笑った。
「あれ~? 胡桃ちゃん、このままじゃ勝負にならないよ~? どうするの~?」
女の敵は女、という諺を残した昔の人は真理を突いていたのだなと感心する。
「……まだパーティーが終わるまで時間はあるじゃない。余裕ぶっこいていると、痛い目みるんだから」
「胡桃ちゃんも黙って私に運命を委ねてくれればいいんだよ~! 私、楽しませてくれる人間って嫌いじゃないんだもん☆ 私が飽きるまで、永遠にここにいてよぉ~!」
「……ねえ、キャバ嬢にわかって、神様にはわからないことがあるみたいよ」
自分勝手な理屈を口にするアイザワに、胡桃は堂々と言い返した。
「同性の気持ちすら考えようとしない女が、男心を完璧に掴めるわけがないわ」
胡桃はノエルの手を再び握って微笑みかけた。ダンス再開の合図だ。
曲に合わせて、ノエルと恋をするように踊った。二人の息が合った瞬間、目と目が合うことはとても素敵なことだった。胡桃はたとえアイザワの操作だったとしても、一夜限りのパートナーだとしても、自分に好意を持ってくれた目の前の男を満足させたかったのだ。
彼にとってわたしが、思い出したときに胸が温かくなるような思い出になったなら。
そう願いながら、胡桃はノエルが満足するまで足を痛めながらも踊り続けた。
結果、ダンスタイムが終わるまでノエルは胡桃を解放しなかった。アイザワがダンスフロアに現れてからノエル以外の誘いを受けていない胡桃にとって、この勝負は大差で負けたことは確定だった。顔を上げてノエルに別れの挨拶を告げようとすると、彼は切なそうな顔をしていた。
「楽しかったわ、ノエル。ありがとう」
「……僕の我儘に付き合ってくれてありがとう。本当は、君を連れ去りたい気持ちでいっぱいだ。でも、諦めるよ。君はやりたいことがある顔をしているし、僕は君が幸せになってくれることが何より嬉しいから」
御伽噺の一員であるノエルはそれらしく、気障な台詞を吐いて握手を求めてきた。
このやり方が正しかったのかどうか、胡桃は答えを知らない。失敗して人の心を傷つけることもたくさんあるのだということもわかっている。それでも、ノエルという青年が満足してくれたことを胡桃は嬉しく思った。
握手をしてノエルと別れた後、アイザワは唇を尖らせながらやってきた。
「何あれ~! 心底惚れられちゃった感じ~? 誘われた人数は私の方が多かったけどぉ~、これじゃ勝ったって感じしなくて楽しくな~い! もう一回やる? 次は花束を貰った人数が多い方が勝ちってことで☆」
胡桃は溜息を吐いた。まったく、玩具として随分とアイザワに気に入られたものだ。
「やるわけないでしょ。それにしても、神様ってみんなあんたみたいな勝負好きが多いの? シロヤマもあんたと勝負してたんでしょ?」
「だって~、何百も歳を重ねてきてるんだよ~? 何か面白いことをしてないと退屈なんだもーん! ……ああ、そっか☆ その考えでいけば、私に再戦を希望させる時点ですごいことじゃん! 胡桃ちゃん、自慢していいよ☆ ……でもね~、勝利の女神、クロちゃんは私たちとは比較にならないくらい勝ち負けにうるさいよ~! そういう神様だから当たり前なんだけどね~!」
何が面白いのか、アイザワは声を出して笑っていた。胡桃には彼女の笑いのツボがさっぱりわからない。
「わたしは負けた。ここで幽閉される人生になるけれど、それでも早く高士を助けたい、みんなと合流したいって願い続けるわ。ここは楽しいけれど、それだけの世界だから」
勝負には負けてしまったが、まだ諦めたくはない。ここで生きながら脱出の機会を窺おうと覚悟を決めつつあった胡桃だったが、
「やっぱさあ、面白そうだから、ここにいないでみんなと合流しようよ☆ えーっと、とりあえずシロちゃんの所に連れていけばいいのかなあ?」
「……え? 待って? ……わたし、ここから出られるってこと?」
「うん☆ その方がきっと、私にとって楽しくなる気がするの!」
アイザワはあっさりとそう言った。希望すれば笑われ、諦めれば求められ、人間の心は彼女にとって愉悦の一つでしかないようで腹が立つ。それでも、彼女のそんな性格のおかげで胡桃の道が開けたことに変わりはない。
「……なんであんたがわたしの前に現れたのか……わかった気がする」
現実的な思考で生きてきた胡桃は、アイザワのように愉悦のためにしか動かない予測も計算もできない女は、苦手としているタイプだった。振り回されて殻を破るという、試練みたいなエピソードを終えた胡桃に、達成感と疲労感が一気に襲ってきた。
力が抜けて今にも座り込みそうになっていると、一度踊った男が胡桃の傍で膝をつき、一枚の便箋を手渡してきた。高級そうな厚紙が赤い薔薇のシールで封をされている。胡桃がアイザワに視線をやると、彼女は静かな笑みを浮かべて一歩引いた。
差出人と向き合うと、彼はジェスチャーだけで「今、封を開けてほしい」と胡桃に伝えてきた。マナーとしてどうなのだろうとも思ったが、差出人の希望なら叶えたい。ペーパーナイフを手渡してきた彼に礼を告げてから封を切った。
中に入っていたのは一枚のカードだった。そこに書かれていたのは、
『屑の世界は何色に見える?』
たった一言、この場の雰囲気にも似つかわしくない、日本語での問いかけだった。
「 」
迷いなく胡桃が答えると、男は突然ペーパーナイフを胡桃の心臓目掛けて突き立てた。ペーパーナイフに殺傷能力があるなんて聞いたこともなかったが、ここはファンタジーの世界だ。何がどうなってもおかしくはない。
これはアイザワの仕業? せっかくみんなと合流できると思ったのにな。
現実的だと思っていた自分に意外と夢見がちな部分があったことに驚きつつ、胡桃は消えていく意識の中で目を瞑った。
文健が立っている場所は、生き物はおろか植物すら見当たらない砂漠だった。広大な砂漠は地平線の彼方まで広がっているものの、うだるような暑さはなく、適度な気温と湿度が保たれている。
靴の中に入り込んだ砂を取り除きながら、思考を巡らせた。これからどうすればいいのだろう。胡桃と美保は辿り着いているだろうか。そもそも、高士は無事なのだろうか。いやそれを言ってしまえば、自分自身が安全な状況にいるのかも危ういじゃないか。
文健の心中を大きく占めているのは、漠然とした大きな不安だ。だが一人という状況は大いに不安材料ではあるものの、唯一の利点も存在している。文健は大きく息を吸った。
「マジどうすんだよ俺! 神様の国に来たとかどういうこと!? いつからこんなメルヘンな男になったんだよ! ビックリだよ! てか、無事に日本に帰れるのか!? 雰囲気に流されたんじゃないか!? なんで二十四にもなって、こんなことになるんだよお!」
一人になったということは、思う存分弱音を吐けるということだ。胡桃や美保の前では男としてのプライドが少なからず顔を見せ、正直、格好つけていた部分もあった。
日常生活では張り上げることのない大声で弱音を口に出し、少しだけ気分がすっきりしたところで勢いよく頬を叩いた。乾いた音の大きさと、ひりひりとした頬の痛みはしっかり比例していて、聴覚でも痛覚でも気合が入った気がした。
「ちくしょう高士! お前、主人公キャラに見せかけて実はヒロインだったとか、冗談じゃないぞ! お前にばかり美味しい役をやらせてたまるか!」
高士に対して抱いていた、屈折した羨望を力に変えるときがきた。文健は周りを見渡し大きく息を吸って、地平線に向かって再び叫んだ。
「俺は変わるぞ! 生まれ変わるんだあああああ!」
「何に生まれ変わるっていうの?」
「うわあああ!」
突然の声に驚き、決意の宣言より悲鳴の方が大きくなってしまった。いつの間に現れたのか、黒髪の美人が奇異の目で文健を見ながら隣に立っていた。
女は細身で背が高く、文健は彼女を見るために視線を上げる必要があった。おそるおそる女のことを観察してみると、目鼻立ちのしっかりした彼女は、美しさと恐怖で人を従属させる不思議な力があった。
ここは神の国だ。普段の生活では絶対に考えられないが、神様がいて当たり前なのだ。文健は緊張しながらも疑問を口にした。
「あなたは……神様なのでしょうか?」
「そう、私は勝利の女神よ。あんたたちはクロカワとかいう、くっだらないあだ名をつけているみたいだけどね」
「く、胡桃と美保に会ったんですか!?」
「それより質問に答えなさい。あんたは何に生まれ変わるっていうの?」
恐怖。彼女と話して最初に文健が抱いた感情は、恐怖だった。下手をしたら殺されてしまいそうな、失敗が許されない緊迫した空気が砂漠中に充満している気がする。
だがここでクロカワの圧力に屈して場を濁したり、媚びへつらったりしていては、今までと何も変わらない。
「俺……俺は、自分以外になりたいんです。臆病で、自己防衛のために言い訳ばかりしてきた俺や、世の中を馬鹿にして自分だけは才能があると自惚れてきた俺。それなのに、いざというときに女の子一人も守る度胸もなかった俺。……そんな嫌な俺を全部やめて……いや、たとえやめられなくても、弱さから目を背けない勇気は持っていたいんです。そこから新しい自分、理想の自分になるための努力はし続けていきたいと、そう思っているんです」
勇気を振り絞って初めて口にした文健の決意の言葉を聞いたクロカワは、嫌悪感丸出しの表情を見せた。
「自己否定をする男って最悪ね。生死を司るのは私の仕事じゃないけど、殺してあげてもいいわよ。どうする? 死んでおく?」
「い、嫌です! 死にたくないです!」
冷や汗を全身に浮かべて首をぶんぶんと横に振ると、クロカワはふっと一瞬だけ息を漏らした。
「死にたくない……か。ねえ、あんたは何か一つでも、私を認めさせるような技量は持っていないの? 二十四年も生きてきて何も誇れるものがないのなら、人生に意味はない。だったら今死んでも、何十年後かに死んでも同じことでしょう?」
「それは……人生に意味を求める傲慢が俺に認められるなら、の話ですよね? ……あ、あなたの言葉を聞いていると、俺は分不相応な評価を受けているように思いますが……」
「死神が連れてきた人間って、生意気な口を利くのが普通なのかしら? 誰があんたの言い分を聞きたいって言った?」
クロカワを納得させる理由を説明できなければ、彼女は問答無用で文健を殺すだろう。たった数回のやりとりだが、文健は徐々に掴んできた。クロカワは理不尽で高圧的、自分の言ったことが絶対に正しいと思っていて、こちらの言い分には決して耳を傾けない。
――そう、文健が毎日対応している、クレーマーと同じ性質であると。
慣れた状況下にいると思うことで、文健の頭の中は鮮明になっていった。これならホームで戦うようなものだ。高士や胡桃にからかわれ、弄られていたときの方が、よっぽど対応に困ったというものだ。
腕っ節には自信がない。喧嘩なんか怖くてしたこともない。だけど。
今日だけで何度目になるだろうか。文健は決意の深呼吸をした後、精一杯、申し訳なさそうな声でその言葉を口にした。
「誠に申し訳ございませんでした。あなたの仰る通りです」
毎日毎日クレーム対応の仕事をしている文健には、悪態をついてくる客や何かと突っかかってくる客を宥める心得があった。まずはひたすら謝り相手の感情を一旦落ち着かせてから、プライドを傷つけないように持ち上げて、互いの主張を確認しながら妥協点を決めていくのだ。
クロカワは文健の行動に驚いたのか、あるいは呆れ返って何も言う気にならなかったのか、似合わぬ沈黙を持たせたまま文健の下げた頭のつむじを見ているようだった。文健はクロカワの発言を待ち続けた。待つことは辛くとも、有効であることは経験上知っていたからだ。
「……面倒くさ」
やがて我慢のできなくなったクロカワが声を漏らした。文健は来た、と思った。
「俺はあなたを納得させられるような技量もないし、人生で何かを残してきたわけでもありません。今の俺は現実世界で何の取り得もない、不満ばかり漏らしているただのサラリーマンです。……いや、現実どころか俺は、空想の世界でもパッとしない男です。妄想を書き散らした自作の小説ですら、面白味に欠けると言われました。……だからこそ俺は、これからの人生でたくさんの経験をして多くのことを学び、人生や小説の糧にしていきたいと思うのです。まだここで死ぬわけにはいきません」
ここが勝負どころなのだ。文健の戦い方は社会人として上司に叱られ、職場の女には陰口を叩かれ、ストレスの中で生きてきた男のものだ。これだけは決して高士には真似できない戦法だ。
「ふうん。じゃあさ、そこまで言うなら、あんたの小説の能力とやらを見せてよ。あんたの小説に見込みがありそうなら生きる価値があって、見込みがなさそうなら死んでもいいってことでしょ? そうね……私の愛する死神をテーマに一作書いてもらおうかしら」
生き長らえるための説得は上手くいったつもりだったが、予想もしなかった理論で返されてしまった。書いた小説がつまらなかったら死ぬという条件ならば、高士たちの感想を信じれば文健は十中八九死ぬことになる。
「か、紙とペンか、パソコンがないと……あと、時間はどれくらいいただけますか?」
ただ、初めから「無理です」と言って断る選択肢は取らなかった。ここで逃げていては意味がないのだ。クロカワは面倒くさそうな顔を見せた後、何やら呪文のような言葉を口にした。
次の瞬間、文健はうんざりする程見慣れた職場にいた。いつもと違うのは、派遣社員も同僚もクライアントもおらず、ひっきりなしに鳴る電話が一本も鳴らない、静かな環境下にあるということだ。
「ここなら、必要なモノがそこらじゅうにあるでしょ? 私は待つのが大嫌いだから、十分で書きなさい」
クロカワの注文を聞いた文健は目眩を起こして倒れそうになった。彼女が理不尽なお客様から派遣会社の中では最も恐れられている存在、無理難題を強いるクライアントへとレベルアップしていたからである。
文健は焦りながら急いでパソコンに電源を入れたが、起動の時間すら惜しくなりシャープペンシルを手に持った。プロットも組んでいないのに十分でA4用紙一枚に小説を書くなんて、文健の実力では不可能に等しい。文字を大きくしたりして、ある程度誤魔化すことも必要だろう。だが、それでいいのか? 普段応募している新人賞の応募要項に従った文字数で書かなくては、意味がない気がする。いや、文字数を細かく数えている暇すらない。早くネタを考えなくては――!
いろいろなことを考えているうちに、すでに何分か経過していて愕然とした。落ち着け、冷静になれ。死神がテーマならば、普通だったら人の生死を書くことが必要不可欠な気がするが、読者であるクロカワはこの死神に恋をしているという。ということは、クロカワは人の死を扱った物語ではなく、単純に恋愛小説を読みたがっているのだろう。そしてもちろん、勝利の女神である彼女は恋愛でも敗北は認めない女に違いない。
BLや百合や人外をテーマにした小説が世の中に溢れ返っている昨今だからこそ、新鮮さが重要になる。どうやって面白い話を作ればいいのだろうか。文健はシロヤマを思い浮かべた。突然現れ、文健たち四人を賭け事のために集めた、自分勝手で小柄な少女の容姿をした死神。しかし死神という名の持つ冷徹なイメージとは異なり、淡々としているものの情がないわけではなく、高士にもう一度会いたいと必死に訴えた文健たちを《プラマリア・センタ》へ渡航させるなど優しいところもあった。
ーーふと、文健は一つの物語を思いついた。あの無気力で自己中心的な死神がどんな恋愛をするのかと想像したら、不思議と到着地点は一つしかなかった。推敲している時間などない。必死にペンを走らせ、殴り書きで余白を埋めていった。一心不乱に集中して物語を書いていると、『レインボーレンジャー!』を書き上げたときのように、アドレナリンが脳味噌から放出されているのがわかった。
クロカワが「時間よ」と告げたのと同時に、文健はペンを置いた。
「さて、私を待たせた罪は重いわよ。評価に対してはシビアにいくから」
文健が差し出したA4用紙を奪い取るようにして、クロカワは紙に目を落とした。
『死神が生きる世界
死神はまだ、恋を知らない。
死神が知っているのは、人間が死んでいくときの絶望的な表情と、死んだ後の動かない表情だけだった。
ある日、白黒の毎日を送る死神の前に一人の神様が現れて「私の恋人になりなさい」と言った。美しいけれど強引なその神様に、死神は好意を持たなかった。だが、自分を好いてくれる誰かの存在が、死神の心に影響を与えたことは違いなかった。
死神は少しだけ背筋を伸ばし、目を見開いて、今日も世界中を飛び回る。
これから出会う、死を待つ人々の元へ。少しでも繋がりを大切にするために』
小説を読み終わったクロカワは、紙をくしゃくしゃに丸めて床に放った。彼女が不機嫌そうな顔をしている原因はわかっていた。実力不足は当然のことだが、生き延びるためとはいえクロカワに媚びた小説を書かなかったことだ。
『レインボーレンジャー!』を書こうと決めたときのような、書きたいものを書く純粋で穢れのない興奮と集中、やる気。あの感覚を上書きして忘れてしまうことを恐れたのだ。
「まず、タイトルにまるでセンスが感じられないわね。内容は当然三文小説以下、誰にでも思いつく内容だし、何よりこの私が、死神が変化するきっかけに過ぎない女にされたのが許せない。あの子は私のものなのだから、私だけを見ていればいい。私は勝利の女神なのだから、私が正しいと言ったら絶対なのよ」
シロヤマを物扱いするクロカワに、文健は衝動的に反論していた。
「……今、俺のクライアントであるあなたを満足させられなかったのは、俺の力不足です。申し訳ございません。……しかしお言葉ですが、あなたの考え方では……シロヤマさんの心を射止めることは、できないと思います」
それはまさに神の如き速さだった。言い終わった瞬間、クロカワの右手の爪が文健の眼球、後一センチで突き刺さるところまで急接近していた。
「殺すわよ」
彼女の冷酷な瞳からは殺意が見て取れた。
「……俺たちと話していたシロヤマさんは……つまらなそうな顔をしながらも、人間に可能性を持って接してくれていました。だからこそ、アイザワさんと賭けをしたのでしょう。シロヤマさんは誰かに縛られる生き方よりも、自由で面白い誰かと接する機会を求める方だと思うのです。だから……今のままでは、あなたの恋人にはならないでしょう」
「その見る目のない目玉をくり貫いて、死神にプレゼントしようかしら。……でも、そうね。土下座して私の靴を舐めるのなら、髪の毛を全部引っこ抜いてやる程度で許してあげてもいいわ。禿げ上がったあんたを見れば、死神も笑ってくれるでしょうし」
怖い、嫌だ、死にたくないと胸中で叫びながらも、震える膝を必死に堪えて、文健はクロカワから目を逸らさなかった。
これ程までに恐怖に怯えていても、口を閉ざすつもりはなかったからだ。土下座して楽になってしまいたいと、相変わらず逃げ腰になってしまっている今でも、変わりたいと思った決意をここで簡単に翻していては、高士はおろか自身の未来も救えないだろうと思ったのだ。
「……シ、シロヤマさんの心を射止めるのは……そう、高士の方が可能性は高いと思います。あいつは馬鹿なヤンキーで、借金もある屑みたいな男ですが……情に厚くて、腕っ節が強くて、格好いいんです! 俺は憧れましたよ! シロヤマさんも、高士と接しているときは興味深そうな顔をしていましたし!」
目玉を抜かれる覚悟を決めて一気に捲くし立て、ぎゅっと目を瞑った。少し経って、まだ無事でいることが不思議でゆっくりと目を開くと、クロカワは文健から視線を逸らして顎に手を当てていた。
「……つまり、あんたは私がその高士とやらに負けると、そう言いたいのね?」
「……お、俺はそう思います」
クロカワの威圧感と殺気で漏らしそうになっていた文健だったが、目を背けずにそう言い切ると、彼女は文健に突き出していた腕を引っ込めて笑った。
「その男がどんな奴か興味が出てきたわ。見つけて、私の力で負かす」
恥ずかしくて誰にも言えなかった、文健の中にある高士への憧れをクロカワにぶつけたことによって、話はどうやら予想外の展開に転がりつつあるらしい。クロカワは不敵な笑みを浮かべ、消え去っていった。
「た、助かった……!」
緊張の糸が切れた文健はその場に座り込んでしまった。いまいち決まらない文健だったが、今までとは違う自分になれたことが嬉しくてつい涙ぐんでしまった。ここにあの三人がいなくて良かったと、泣き笑いしながら心底思ったのだった。
ようやく立ち上がることができた頃、誰もいなくなった職場にコール音が鳴り響いた。
音の発信源を見ると電話機が一つ光っていた。警戒する気持ちもあったが、クロカワとの戦いを終えたばかりの文健は放心していて深く考えることができず、いつもの習慣でヘッドセットを頭に被って、通話ボタンを押していた。
「お電話ありがとうございます。△△お客様相談窓口、担当芳野でございます」
『屑の世界は何色に見える?』
受話器越しに聞こえたのは、人とは思えない無機質な男の声だった。普段なら悪戯電話に対しては決まり文句で返す文健だが、このときは自然に答えを口にしていた。
「 」
文健の答えを聞いた男は無言だったが、やがて文健の耳に「ツー、ツー」という機械音が届いた。どんな答えを期待されていたのかは知らないが、一方的に切られたようだ。
ヘッドセットを外し机の上に置いた瞬間、文健の体はぐらりと傾いた。三半規管を直に触られてひっくり返されたような不快感だった。あまりの気持ち悪さに目を瞑ると、回路をぷっつりと切られてしまったかのように意識を失った。
ルーシーの止血をした高士の手のひらは真っ赤に染まっていた。返り血なら幾度となく浴びてきた高士だが、誰かを治療したことで自分が血塗れになるなんて、久しぶりの体験だった。
子どもの頃からやんちゃで目立つことが好きだった高士は、何かとからまれる機会が多かった。体の大きい年上の悪ガキたちに何度となく怪我を負わされ家に帰ってくる息子を心配した高士の両親は、自衛を目的に高士をボクシングジムに通わせることに決めた。
物事を継続して行うことが苦手だった高士は、ジムに入会させられた当初は「行きたくない」「辞めたい」と両親に何度も懇願して嫌がった。しかし高士は、練習で殴られ、倒される度に辞めたいと口にする回数が減っていった。元々闘争心が強かった少年は相手に負けたくない一心で、少しずつ真面目に練習に取り組むようになっていったからだ。
鍛える努力を覚えた高士は、すぐに天才と呼ばれるようになった。持って生まれた体のバネを生かした瞬発力、目の良さ、相手を恐れない度胸。才能がある人間が日々練習を怠らなかった結果、ボクシング界で名を馳せる存在になっていた。両親もボクシングジムのコーチも、周囲の人間は皆、高士の将来に期待していた。
だが中学校一年生の夏休み直前、高士の人生は百八十度変わることになる。
コーチから絶対にボクシングを喧嘩に利用するなと言われていたのにもかかわらず、生意気だという理由で上級生に呼び出しをくらったとき、煽られて頭に血が昇った高士は我を忘れて約束を破ってしまったのだ。からんで来た上級生はたった四人。最早全国レベルのボクサーとなっていた高士が数任せの腕力に縋る相手に負けるはずもなく、相手に大怪我を負わせてしまったのだ。
この事件がきっかけで地元の不良たちに目をつけられた高士は、悪い付き合いが増えていくことになった。単純で周りに流されやすい高士はすぐに彼らに馴染み、悪名高い不良の一人になっていった。
からまれることは少なくなったが、意味もなく人を殴ることも多くなった。ボクシングジムにはコーチの言いつけを破ってしまった決まりの悪さもあって足が遠のいていたが、中学二年生に進級した春、いつの間にか辞めさせられていたことを母親が涙ながらに語った。久々にまともに顔を見た母親との話の中で高士は、コーチはおろか両親からも見離されていたことを悟った。
誰からも期待されない人生は、毎日好きなことだけをしていればいいから楽だった。高士は嗜好という範囲を超えて、未成年のうちから煙草に酒、そしてギャンブルに手を出し堕落の一途を辿った。なんとか高校は卒業できたものの、まともな職に就けるはずもなく、日払いのバイトをしながらギャンブルに金を費やした。負ける方が多いため、借金が増えていくのは当たり前だった。
高士はルーシーのまだ温かさの残る胸をそっと触った。そんな生き方をしてきた高士だからこそ、自分を仮死状態に追い込んでまで《プラマリア・センタ》に来て、死に際の烏を助けようとする理由がわかっていた。
これまでの人生で無意味に人を傷つけた分を、目の前で血を流しているのに助けられなかった仲間の分を、少しでも一緒に過ごしたルーシーを自らの手で救うことで、楽になりたいと思っているのだと。
「自分勝手な理由で悪いな。……つか、俺も血で真っ赤になっちまったけど、お前も相当なもんだな」
止血のためにルーシーに巻いた服は血を吸い込み、真っ赤になっていた。止血帯を増やそうと再びシャツを引き裂いてルーシーの体に巻きつける。高士がルーシーを見つけてから今まで、ルーシーは痛みを感じているのだろうが鳴くこともせず、ただ高士にされるがままだった。大した怪我でもないくせに痛い痛いと喚く連中に比べれば、よっぽど好感が持てる。
「やるなあルーシー。お前が人間だったら、相当強い奴だったかもな。俺は烏でも、強い烏になる自信はあるけどな」
笑いながらそう言うと、ルーシーは何か言いたかったのか、真っ黒な目玉で高士を見捉えていた。ルーシーの目玉に映る自分と目が合う。金色の髪の毛は社会への反発心からでも目立ちたいからでもなく、ただなんとなくの理由だ。この後東京に帰れるならば、気分転換に坊主にするかもしれない。
東京という人が溢れている街で、昨日出会った三人を思い出した。彼らは高士の周りにはいないタイプの性格をしていたが、飽き性な高士が一緒にいて一瞬も退屈しなかった。
ただ、文健のように地に足のついた生活も、胡桃のように望んだものが手に入りやすい恵まれた環境下にいる美貌も、美保のように未来への選択肢が多い年齢も、高士は興味もないし羨ましいとも思ってはいない。
高士は誰かに影響を受けることで、人生について考え、悩むことはない。それらを考えられる思考回路を持っているならば、境高士は境高士ではなくなるからだ。
高士が人生において悩む瞬間は、一つしかない。
目の前の出来事に勝つか、負けるか。ただそれだけなのだ。
「……まあでも、面白い奴らだったよな。ルーシーもそう思うだろ?」
ルーシーの瞳が一瞬、真っ白に変色したように見えた。高士は目を擦ってもう一度ルーシーの瞳を覗き込んでみたが、特に変わりはないようだ。なんだ気のせいかと、ポケットの中の残り僅かな煙草を取り出したときだった。
「――待たせたな、高士!」
耳朶に届いた声に反射的に振り向くと、そこには着地に失敗したのか、見るからにアンバランスな格好で転がる文健、胡桃、美保の姿があった。
「ど、どいてください!」
「痛いってば! てか、なんで文健が女子二人の上にいるわけ?」
「し、仕方ないだろ! お、俺だって好んでこの体勢になったわけじゃないんだ!」
胡桃と美保に怒られた文健が、必死に言い訳していた。
「…………お前ら、何やってんだ?」
高士は決して安くない代償を払って《プラマリア・センタ》まで来たのだ。そう易々と来られる場所ではないはずなのに、どうして三人がここにいる? 高士には理由が皆目見当もつかなかった。
「決まっているじゃないですか! 高士さんを助けにきたんですよ!」
首を傾げる高士の方がおかしいと言わんばかりに、美保が相変わらず訛りながらも胸を張って断言した。
「……ワケのわかんねえことを。どこの正義の味方だよ」
なんと言っていいのかわからず、煙草に火を点けて目を逸らすことで逃げを打った高士を、胡桃は鼻で笑った。
「あんたこそ何言ってんのよ。正義の味方って、当たり前でしょ? わたしたちはそのための練習をしてきたんだから。今やらないで、いつやるっていうのよ」
運命の女神を驚かすことを目的とした《デベロップメント・サプライジング》でやろうとしたのは、出会って一日の他人同士がオリジナルの劇を演じ、成功させることだった。一晩かけてみんなで必死に練習した劇を途中で投げ出したことへの気まずさから高士が口を閉じると、胡桃は高士の目を見つめて問いかけた。
「ところで、あんたにも訊きたいことがあるのよ。……ねえ高士、あんたはさ、屑の世界って何色に見えると思う?」
「……あ? 意味わかんねえよ」
胡桃の質問は脈絡も正解もないような代物で答えようがないと思ったが、文健や美保まで高士の答えを期待するように、静かな視線を寄越してくる。
「……んだよ、わかったよ考えるよ……よくわかんねえけど、黄色じゃねえの? 屑とか言われる奴って、なんにも考えてなさそうだし」
適当に回答した高士だったが、答えを聞いた三人は力が抜けたようにふっと笑った。
「なんだよお前ら。感じわりいな」
「そりゃ笑うに決まってるだろ。俺たちには馬鹿ってだけじゃなく、屑っていう共通点まであったんだからな」
「はあ? じゃあ文健は、何色だと思うんだよ?」
「……俺は、青って答えたよ。屑って、人間としてどうしようもない底辺を指す場合に使用する単語だと思ってきたけど……見方を変えれば、これから上がるしかないって意味を持つ言葉にも思えないか?」
笑っている三人のテンションについていけない高士が眉を顰めていると、ルーシーに異変が起こった。弱い呼吸を繰り返すだけで羽一つ動かすことのできなかったルーシーが、最後の力を振り絞るかのようにして、大きく羽ばたき空高く舞い上がったのだ。
呆気に取られた高士が見守る中、ルーシーが一際大きく「カアー!」と烏そのものの鳴き声を上げると、空に天使の梯子がかかった。そして、雲を切り裂いた光の中にシロヤマの姿を確認したルーシーは、再び地面に落下してそのまま動かなくなった。
「おい、ルーシー! 大丈夫かよ!?」
「大丈夫だ、こいつはまだ死ぬ時期ではないからな。それに……そういう運命だそうだ」
落下地点に駆け寄る高士より先にルーシーに触れたシロヤマは、白魚のような指を赤く染めていた。主人であるシロヤマに抱かれているルーシーがどことなく嬉しそうに見えた高士は、ルーシーをシロヤマに託すことに決めた。
やらなければならないことが、目の前に降ってきたからだ。
「そうだよ~! この子はここでは死なない運命なの~☆ それにしても、ご主人様を召喚するために力を振り絞って気を失うだなんて、ルーシーちゃんにしてはちょっと考えなしで意外だよね~! ビックリしちゃったよ~!」
シロヤマの後ろからひょっこり、高士とは違って天然の美しい高貴な金髪を靡かせた、色の白い女が顔を出した。彼女の癪に障る口調とルーシーを嘲笑うような態度に、高士の神経が逆撫でされた。
「なんだお前、腹の立つ話し方しやがって。お前がルーシーに手を出した勝利の女神って奴なのか?」
「違うよお~。私はぁ、運命の女神っていうのぉ☆ 私のことはアイザワって呼んで~! よろしくね~☆ ねえねえ、君がタカシちゃん~? 勝利の女神クロちゃんはね~、そろそろ顔を出す運命だから、もう少しだけ待ってね~!」
「俺の名前はコウシだ。てめえ……俺が名前をそう間違われるのが嫌いだって、わかってて言ってんだろ?」
アイザワは高士の感情を乱して楽しんでいるように見えた。見事に彼女の作戦――というより趣味に引っかかった高士は、ルーシーに手を出した犯人がそろそろ顔を出すという最重要事項を聞き逃す程に、頭に血が昇っていた。
「運命だろうが神だろうが女だろうが、どうでもいいんだよ。俺は売られた喧嘩は買う男だぞ」
「わー!? 落ち着いてください高士さん! アイザワさんはこういう方なんです! 冷静でいないと、あたしみたいにシロヤマさんに迷惑をかけてしまいます!」
「そうそう。この女はとっても性格悪いんだから、まともに相手しちゃダメ。それに、ルーシーに手を出したのは勝利の女神クロカワ。違う女だってちゃんと聞いてた?」
美保が高士を抑えようと声をかけ、胡桃はわざとらしく挑発的にアイザワを見た。この二人とアイザワの間に何があったのかはわからないが、とりあえず目の前の女がルーシーを傷つけたわけではないらしい。一旦落ち着こうと、高士は息を吐いた。
「ひどーい! 私だってぇ、胡桃ちゃんに言いたいことはあるんだけどお~、でも、主役が来たから一旦退くね~☆」
直後、竜巻に似た強風が吹いた。強風の中心にいる人影を捉えた高士は、もったいぶった演出をするような、嫌いな輩が出てくるであろう前触れに舌打ちをした。
「で、高士って男はどれ? 私が直々に声をかけているのよ。返事をしなさい」
現れた女の高圧的な物言いは、高士を最高潮に不快にさせた。
「俺だ。お前がルーシーに手を出したのか? 言い訳を聞く前に一発殴ってやるから、早くこっちに来いよ」
「誰に向かって口を利いているの? 私は勝利の女神よ。私の前ではみんな負け犬なのだから、礼儀を弁えなさい」
「相手が誰だろうが関係ねえよ。ルーシーを傷つけたのがお前なら、迷わず同じ目に合わせてルーシーに詫びを入れさせる」
やられたらやり返す。高士はこの生き方しか知らない。こめかみに青筋を立たせた高士がクロカワに一歩近づくと、美保が高士の腕を引っ張った。
「待ってください! あたしたちがなんのためにここまで来たと思ってるんですか!」
「俺を助けに来たとかなんとか言ってたな。だったら、俺があの女にルーシーの痛みをわからせてやるまで、そこで待ってろ」
「助けるっていうのは、ただ東京に連れ帰るだけが目的じゃない! お前の人生は暴力で埋め尽くされていたんだろ!? ここらで断ち切らないと、いつかまた死に近づくんだ! 俺たちはなあ、お前にも変わってほしいんだよ!」
文健が高士を遮るように前へ出た。
「高士って、本当に馬鹿よね。わたしたちの気持ちになんて、全然気づかないもの」
胡桃も呆れたように続けて、三人は高士を囲うように立った。結果的に、高士たち四人と神たちが対峙する格好になった。高士には他人の発言の意図を考えるなんて、とてもできない芸当だ。学生時代、高士の国語の成績はいつだって平均以下だった。
「とにかく、女とモヤシは引っ込んでろ。お前たちにできることなんかねえんだよ」
「違う。俺『たち』ができることなんて、どのみち一つしかないんだ」
三人の視線が高士に集まった。戦力になるとも思えない貧相な連中が神を相手に太刀打ちできるとは考えられなかったが、胡桃が腰をくねらせ無駄に扇情的なポーズをとっているのを見て違和感を覚えた。よく見ると、文健は両手を高く上にあげ、美保は一昔前のアイドルみたいに手でピストルの形を作り、成功しないウインクを試みている。
彼らのポージングに戸惑っていると、美保が片目を震わせながら言った。
「あたしたちは、変わりましたよ! 高士さんは、どうするんですか!?」
ようやく、高士は三人の意図を理解した。
――ほんと、バッカじゃねえの。
出会ってたったの二日だ。彼らの性格なんて全然知らないはずなのに、文健も胡桃も美保もどこか変わったように見えたのが不思議だった。昨日だったら、文健や美保は恥ずかしがってこんなことはやらなかっただろうし、そもそも、胡桃はリスクを負ってまで《プラマリア・センタ》には来ないだろう。
文健にも胡桃にも美保にも何かきっかけがあって、各々が何かを思って変化したのだろう。それを高士にも伝えたいがためだけにこんな馬鹿なことをしたのだと思うと、堪え切れない笑いが込み上げてきた。
「……暴力で報復するなら、俺は今までと変わらねえもんな。お前らが言いてえのって、そういうことだろ?」
高士が不敵に笑ったのを合図に、レインボーレンジャーたちは笑顔で頷いた。四人の心が一つにまとまった一体感を感じながら、戦隊ヒーローお決まりの台詞が彼らの口から発せられた。
「夢もなく適当にやって来たゆとりでも、男心の掌握ならお手のもの! 淫乱ピンク! 相葉胡桃!」
「悲観的で文句だらけ! 口だけの男だけど、将来はビックになるぞ! 自惚れブルー! 芳野文健!」
「田舎は馬鹿にされても、未来は馬鹿にさせない! カッペグリーン! 椎名美保! そして……!」
高士は両肘を胸の前でクロスさせ、今にもビームを出しそうなヒーローっぽいポーズで決めてみせた。
「ギャンブル好きな暴力野郎、でも仲間に手出しはさせねえ! ろくでなしイエロー! 境高士! アンド!」
高士はシロヤマの腕の中にいるルーシーを指差し、裏声を作った。
「敵かと思ったら実は味方! 隠れヒーロー、インテリブラック! ルーシー! 五人揃って、イロモノ戦隊レインボーレンジャーだ! 仲間のブラックを傷つけた奴は、俺たちが許さない!」
事前に打ち合わせをした訳ではないのに、みんな脚本とは自己紹介が変わっていた。その内容は戦隊物では有り得ないのかもしれないが、悪くないなと思った。
しばし沈黙が流れ、耳が痛くなるほどの本当の静寂に包まれた。
「……な、なんだそれは……? ぷっ……あはははは!」
もしシロヤマが噴き出すのがあと数秒遅ければ、文健あたりはこの空気に耐えられなかったのではないかと思う。声を上げて笑っているシロヤマを見て、アイザワもクロカワも目を見開いて驚いていた。
「……シロちゃんがそんな風に声を出して笑うところって、初めて見たかも~!」
気に入らない喋り方で、アイザワがどこか嬉しそうに言った。高士がアイザワを気に入らない理由は喋り方だけではなく、人間関係を面白がって観察する性格の悪さもあった。現に今、彼女はクロカワに挑発的な視線を送っている。視線の先にいるクロカワはアイザワには見向きもせず、全員氷漬けにできそうな程に冷たい目で、四人と一羽を観察していた。
「……成程。予想していたよりもはるかに、気に入らない連中ね。特に高士、あんたは容姿に品がないうえに言葉遣いも汚いし頭も悪そうで、まるで生きている価値がないわ」
「お前に言われたかねえな。俺、気の強そうな美人ってそそる方なんだけど、あんたじゃ勃たないし。さっさとルーシーの仇を取ることにするわ」
「あんたみたいな野蛮な男にどう思われてもいいわ。言ったでしょう? 私は勝利の女神よ。名前の通り勝利を司る神の私に、あんたたちが勝つということは有り得ない話。私に負けるということがここでの死を意味することくらい、馬鹿でもわかるわね?」
「そうでもねえよ? お前にも勝てないことはあるさ」
高士の人生、プライドが高くて頭の固い女に縁がなかったわけじゃない。何も考えずに生きてきた高士だからこそ、出会った女も、別れた女も多かった。
多くの経験を元に、高士はまだ笑いの余韻が残っているシロヤマに近寄っていった。
そして周囲の見守る中――そのままシロヤマの体を引き寄せ、彼女の唇を奪った。
あまりの速さと自然さに、見ていた者たちが止める暇なんて全くなかった。唇を離した高士の頬をシロヤマが張り、乾いた音がその場に響いたとき、やっと文健が声をあげた。
「こっ、ここ、高士、お前! 何やってんだよお!?」
「おー。人間じゃなくても、唇はあったかくて柔らけえんだな」
呑気に感想を口にする高士に、クロカワが激昂した表情で詰め寄った。
「貴様……! よくも、よくもよくも私の女に手を出してくれたわね! 貴様は絶対にここで殺す! 死神も異論はないわよね!?」
「だから私はお前のモノではないと、何度も言っているだろう」
シロヤマは唇を袖で拭きながら、不愉快そうに言った。
「んだよ、キス一つで大袈裟だな。神様って以外と純情なのか? ところでシロヤマ。俺のキス、クロカワと比べるとどうだ?」
「どうもこうもない。どちらも同じくらい不愉快だ」
シロヤマがその言葉を発したとき、高士以外の誰もが「あ」と口にした。
「はっはー。これで証明できただろ? 人間だろうと神だろうと、勝ち負けが決めらんねえこともあるんだっての。特に、気持ちが関わってくるときはな」
呆然とする一同の中で、最初に笑ったのは胡桃だった。
「……ちょっと高士。あんた今、文健並みに恥ずかしいこと言ったわよ」
「うわ、マジか。文健レベルなんて屈辱で死ねるわ」
「なんで俺を引き合いに出すんだよ!」
憤る文健に美保も笑った。ヒーローショーは王道を貫いたとは言えない仕上がりだったものの、暴力に頼らず神たちの鼻を明かせたことに高士は満足していた。
だが満足したからと言って、ここで終わりというわけにはいかない。
「家に帰るまでが遠足」とは、高士でも知っている有名な言葉だ。
「……ねえ~、どうするのぉクロちゃん? この子たち、このまま人間界に帰すつもり~?」
「……お前は本当に性格の悪い女ね。もちろん、このまま帰すわけがないわ」
この場に再び緊張の糸が張り巡らされた。怯える美保を庇うように高士が一歩前に出ると、クロカワは短く溜息を吐いた。
「……って、そう思っていても、勝利の女神である私が勝負事に関して不正や言い訳ができるはずがないわ。……私はこの勝負に勝ってもいないし、負けてもいない。だからこいつらを手にかけることはできない。その代わり、あんたたちも私に何かを要求することができない。そういうことでしょ?」
なんだかんだいっても、その名前を司る神様らしい。これまで散々好き勝手に動いて、ルーシーを傷つけ、四人やシロヤマを振り回してきたクロカワは、ここで初めて公平な判断を下した。
「いいとこあるじゃねえか、クロカワ!」
高士が笑顔で話しかけると、クロカワは心底嫌そうな顔をした。
「調子に乗るのは早いわよ。あんたたち、これから生きていくうえで苦労するんだから」
「え? それって、どういうことですか?」
心配性の文健がすぐに訊き返したが、これ以上余計なことは教えないと言わんばかりに、クロカワはそっぽを向いてしまった。
「つまり、お前たちは運命の女神の管理対象外となり、勝利の女神の恩恵を受けることもできなくなった。だからお前たち四人の人生はこれからどうなるのか、まったくもってわからないものになったということだ」
シロヤマの言葉を受けて顔を見合わせた四人は、ほぼ同時に噴き出した。
「……この先神様のご加護が受けられないなんて、今までだったら不安で震えていたと思います。でも、今はなぜか、楽しみで仕方がないんです」
「不思議よね、わたしも。自分の前に決まったレールがないことがこんなにも胸が膨らむことだなんて、想像もしなかった」
美保と胡桃が少しだけ目を潤ませながら笑った。
「朱に交われば、赤くなるってことか」
「どういう意味だ? レインボーレンジャーにレッドはいねえぞ?」
一人納得した顔で言った文健に高士が突っ込むと、
「みんながレッドだったってことだ。俺たちは出会えてよかったんだよ。高士だってそう思うだろ?」
文健は今更年上ぶってそう答えた。いつも通り文健をからかってやろうとも思ったが、出会えてよかったという言葉には同意した高士は、静かに頷くだけに留めておいた。
「はいは~い! 青春群像劇は一旦ここまでだよ~☆ うん、私も楽しませてもらったし、みんなを人間界に帰すことに文句はないよぉ~☆ ねえねえ、シロちゃんは何か言いたいこととかあるの~? もうここで四人とはお別れなんでしょ~? ちょっと寂しかったりするんじゃな~い?」
シロヤマは小さく肩をすくめた後、誰とも目を合わせずに言った。
「私は死神だぞ。寂しいわけがあるか。……だが、お前らがこいつらを殺さなかったことには、感謝している。最後は公平にこいつらと向き合ったクロカワの性分や、アイザワの何事も楽しもうとする姿勢は、嫌いではない。……人間の死期を司るのは私の仕事だからな。一応、礼を述べておく」
シロヤマがたどたどしくも言葉を紡ぎ終えた瞬間、高士は彼女が神たちから愛される理由がわかった気がした。
黒服に身を包んだシロヤマはいつも無愛想で、仕草や話し方からはまるで可愛らしさが感じられない。だがその分、照れているときの破壊力が大きいのだと。現に、アイザワもクロカワもシロヤマに抱きつき、寵愛の言葉を競うように囁いては、鬱陶しがられていた。
これはキスしておいて正解だったかもしれないと、高士は得した気分になった。