徹夜明けの目に朝日が眩しかった。文健はインスタントコーヒーを啜りながら、足元で転がって眠る高士の訳のわからない寝言を聞き流しつつ、運命の日とも呼べる朝を迎えた。

 予定時間を過ぎ深夜一時に書き終えた脚本は、今まで文健が書いてきた小説とはまるで種類の違うものになった。下手に難しい言葉や描写を入れようとせず、ノリとテンポを重視して笑えるかどうかは差し置き、ギャグを多めに書いた。いつも書いている小説よりも短い枚数の中で起承転結をしっかり入れることを意識したとき、今までの自分の小説は『転』が唐突過ぎたのかもしれないと思った。ストーリーを動かしたいためだけに、無理な展開を入れる。これでは読者は混乱するだろうし、何を伝えて欲しいのかわからないだろう。

 そこまで考えて、以前より自作品を客観的に分析できていることに気がついた。それは文健にとって口元が緩む新しい感覚だった。

「なにニヤニヤしてんのよ、気持ち悪い。早くあんたも着替えて。八時から衣装着てリハーサルをやってみようって言ったのは、あんたでしょ? まあ、リハーサルって厳密に言うと役者の立ち位置や照明を調整するものらしいから、場所が違うのにリハーサルって呼んでいいのかはわかんないけど」

 眉間に皺を寄せた胡桃から衣装を手渡された。彼女はすでに、昨夜三人がドンキホーテで買ってきたという安っぽいヒーローコスチュームに着替え終わっている。いざ目にした文健はこの衣装を着ることに抵抗があったが、一番に反発しそうだった胡桃は割り切っているのか、ピンクの衣装にしっかりと身を包んでいる。体に密着する衣装は胡桃の細いくびれやボリュームのある胸部を強調していて、恐ろしく色っぽい彼女にどうしても目が吸い寄せられた。

「ああ、うん。今着替える」

「高士はまだ寝てるの? 起こしとくわよ。……それと、女って男のエロい視線ってすぐわかるものだから、気をつけなさいよ?」

 文健は必死に顔を隠しながら別室に移動した。

 書き上げた脚本『イロモノ戦隊レインボーレンジャー!』の内容は、シンプルなものだった。悪の組織の一員(高士)が普通の女子高生(美保)を襲おうとしたときに、レインボーレンジャーと名乗る二人(文健、胡桃)が現れて高士を追い払う。二人に礼を述べ素性を問う美保に、二人は自分たちが世の中の風紀を乱す連中、悪の組織を成敗する正義の味方だと説明する。その後ヒーローコスチュームに着替えを完了させた高士と美保も揃ったところで、悪の組織が集う秘密結社に乗り込み、ボスを討伐する。最後は四人が街をパトロールしながら観客を指差し、

「世の中に人の悪意がある限り、悪の組織は必ず復活する。もしかするとあなたたちの周りにも悪い人が潜んでいるかもしれない。そのときは必ず私たちが駆けつけよう!」

 そう言って締め括る予定である。飲まず食わずでネットサーフィンをすることもなく、今までにない集中力と勢いで書き上げた入魂の一作だ。みんなにどう評価されるか文健は緊張していたのだが、

「いいんじゃね?」

 高士たちは一言で片付けた。ここまであっさりOKが出ると、臆病で疑り深い文健は不安になってしまった。何か意見がないか三人に訊いてみたが、意見を訊く暇があったら劇の練習をした方がいいと胡桃に促されたこともあり、文健の書いた脚本は一切の手直しなしで進められることになった。

 そこからは一晩ぶっ通しで練習をして、ようやく休めたのは朝の五時だった。と言っても休んだのは三人だけで、文健は体はヘトヘトだったものの気分が高揚して目が冴えていたため、一睡もしなかった。

「それにしても……俺、似合わないな」

 鏡に映る自分の貧相な体に溜息が出た。テレビで見ていたレンジャーたちはしっかりと体を鍛えていたのだなと思った。衣装を身に纏った文健はあまりにも不格好で、観客の前に高士に笑われることは確実だった。

 気の重いまま居間に行くと、寝起きで酷い頭をした高士が寝転がりながら胡桃に文句を言っていた。

「胡桃ぃー、やっぱりミニスカポリスとナース服も買っておくべきだったって! 客寄せにもなるんだしよー」

「何が客寄せよ。言っておくけど、高士は下心が丸見えなのよ。大体、わたしはともかく、未成年の美保にまであんな派手な衣装勧めちゃダメでしょうが。あんたが美保に手を出したら、容赦なく警察に突き出すからね」

「胡桃だったらいいって言ったな? じゃあ一発ヤ……」

 その先の言葉は、都合よく胡桃の足元に転がっていた高士が体を踏みつけられたことで、発せられることはなかった。

「あ、高士さんおはようございます! 文健さん、お風呂貸してくれてありがとうございました!」

 グリーンの衣装に身を包んだ美保がやって来て、丁寧に頭を下げた。胡桃とはまた違う小柄で細い未熟な体つきにもまた、ぐっとくるものがある。視線を感じて横を見ると胡桃と目が合った。さっきの忠告を思い出した文健は、即座に美保から目を逸らした。

「よし。じゃあリハーサルの前に、今日の日の成功を祈って円陣でも組もうぜ」

「こ、ここでですか? あんまり大声出したら近所迷惑になりませんか?」

「大丈夫だろ! な、文健? あ、ついでに今回の作戦名も考えてくれよ!」

「さ、作戦名? 必要ないだろそんなの……というか高士、お前着替え終わってないじゃないか! リーダーがしっかりしていなくてどうする!」

「……よく考えてみれば、あたしと高士さんって最初一般人として登場するから、あたしが着替える必要はなかったんじゃないかと思います……」

 美保の正論に文健は口を閉ざした。

「……わたしは作戦名考えるのに賛成かな。『運命の女神の予想を超えるような何かをする作戦』なんて言いづらいし、一言で表せる言葉があった方が絶対いいって。……ね、美保が考えてみたらどう? 一番若いし、良いセンスが光るんじゃない?」

 胡桃の一言で、三人の視線が一斉に美保に集中した。

「こういうの、あんまり得意ではないのですが……そうですね……《デベロップメント・サプライジング》なんて、どうでしょうか?」

 美保の提案に場が沈黙した。失念していたが、美保は思春期真っ最中――つまり、厄介なセンスを持ち合わせている可能性も考慮しておくべきだったのだ。

「……その心は?」

 文健がおそるおそる尋ねた。

「えっと、『発展途上な驚かせ計画』ってことから、名づけました!」

 そのまんまじゃないか! と内心突っ込みを入れていると、

「おー! 美保ちゃんすげえな! 英語わかるんだな! よし、決まりだ! それでいこう!」

 高士が目を輝かせながら美保を絶賛していた。からかっているように見えないということは、もう覆ることはない。我儘で自己中心的なリーダーが決めてしまったのだから。

「んじゃ今日は、シロヤマも運命の女神も驚かせてやろうぜ! 俺たちの《デベロップメント・サプライジング》の成功を祈って! えいえいおー!」

「「「おー!」」」

 隣人に騒音注意をされることに怯えつつ、円陣を組む前よりやる気が出てきた自分の単純さが可笑しかった。文健は安物のヒーローコスチュームに身を包みつつ、背筋を伸ばした。


 胡桃曰く、公共の場で演劇するためには正規の手続きを踏む必要があるうえ、とても借りられる条件ではないということだった。ゆえに、路上講演をするしかないことに納得はしている。しかし、

「……やっぱり、場所変えないか? ここは人が多すぎるし、ガラの悪い奴も多そうだ。からまれたりしたら嫌だし……」

 ここに来て文健は二の足を踏んでいた。高士たちが講演場所に決めたのは、新宿駅南口の改札前だった。夜話し合ったときはハイテンションが手伝い、ここで劇をすることに抵抗もなかったのだが、実際に訪れ人の多さを目の当たりにしたことで、急に現実に戻された気分だった。目が回るような人通りの中で自主制作のヒーローショーを行うことは、文健にとって恥ずかしすぎる拷問のように思えたのだ。

「さ、流石にあたしもちょっと恥ずかしいです……。もう少し人のいない場所とか……どうでしょうか?」

 美保も文健と同様、物怖じしたようだ。

「わたしはどこでもいいわよ。高士はどう思う?」

 リーダーということを差し引いても、胡桃は高士の意見を伺うことが多い。文健の勘は当たらないことが多いのだが、胡桃は高士に惹かれているのではないかと憶測していた。高士は路上喫煙禁止と掲げられた看板を恨めしそうに見ながら、ポケットに煙草を戻した。

「いや、ここでやる。移動するのも考え直すのも面倒くせえし」

 文健は知り合いが新宿に来ていないことを祈りつつ、この劇が終わったらしばらく新宿には足を運ぶまいと心に誓った。

「じゃあ、少しでも宣伝してきた方がいいわよね。わたし、ちょっと行ってくる」

 胡桃は手持ち無沙汰に駄弁っている男二人に声をかけに行った。三十秒もしないうちに三人は談笑し、盛り上がっているように見えた。男二人と別れてからも、胡桃は行き交う人々を観察しながら、止まってくれる人を捕まえて上手く告知しているようだ。人見知りをする文健が微妙な居心地の悪さを覚えながらじっとしていると、胡桃が戻って来た。

「適当に告知して来たわよ。口約束だけだけど、多分来てくれると思う」

「……知らない男とよく普通に話せるね」

「まあね。高士の言葉を借りれば、レインボーピンクってビッチだし? これくらいはね」

 胡桃の艶かしい表情に思わず赤面してしまったことを、彼女はきっと気づいているだろう。文健は顔を隠すように携帯電話を取り出し、深呼吸をしてからSNSに書き込んだ。

『新宿南口前で十二時からなんか劇をやるみたい。結構面白そうかも』

 これが今の文健に出来る精一杯の勇気だったが、勇気を振り絞ることは気持ちがいいことだった。

 全員着替え終わり、小道具の準備も完了した。出陣準備は整ったのだ。

 天気は曇り。午後十二時、寄せ集めのメンバーによるヒーローショーが開演された。



「私の名前はコノハ! どこにでもいる普通の女子高生!」

 レインボーグリーン兼被害者役の美保が、顔を真っ赤にしながら台詞を口にして物語は始まった。

「ある日、学校から帰ろうとした私は、全身真っ黒なスーツにサングラスの見るからに怪しい男に、からまれてしまったのだった!」

 圧倒的に予算が足りないために悪役の高士が着ているのはただの文健の仕事用のスーツになってしまったが、高士には裾が短く、手首と足首が見えてしまうのが切ない発見だった。

「こんなところに、おあ……おは向かいのお嬢さんがいるじゃねえか! ちょっと、俺について来てもらおうか!」

 なんだ「おは向かい」って。練習したのにまるで進歩がなかった高士の棒読みっぷりと、「おあつらえ向き」の台詞を忘れていることに力が抜けた。だが笑って誤魔化そうとしていないあたり、高士なりに真面目にやっているのだろう。

「きゃー! 助けてー!」

「そこまでよ! 平和を乱す悪人め!」

 美保が悲鳴を上げた瞬間、ピンクのヒーローコスチュームを身に纏った胡桃がポーズをつけて参上した。色気のある胡桃の肢体は、興味なさ気に通り過ぎる男たちの視線を多く引きつけたようだ。いや、冷静に観察している場合ではない。次は文健の出番だ。羽織っていたコートを脱ぐと、ヒーローコスチュームの防寒性のなさに悲鳴を上げそうになった。北風が素肌に染み込んでいく感覚をぐっと堪えつつ、文健は舞台に飛び出した。

「俺たちが存在する限り、悪事は働けないと思え!」

 練習通り、胡桃と共にポーズを決めることに成功した。このポーズ、自分で考えてみたものの非常に恥ずかしい。文健が繰り出した何の威力もなさそうな右ストレートに高士は大袈裟に吹っ飛び、

「ちくしょう! 覚えてろよ!」

 と、ありがちな捨て台詞を吐いてそそくさと舞台袖、というより、歩行者から見えないように立てられた段ボールのパーテーションに引っ込んだ。演技とはいえ、自分の拳が高士みたいな喧嘩の強い奴を吹っ飛ばしたことは気分がいい。

「あなたたちは一体、何者なんですか?」

「私たちはあなたを襲ったような、世の中の風紀を乱す悪の組織を成敗する正義の味方! その名も、イロモノ戦隊レインボーレンジャー! 私は華麗な美貌で敵を惑わせる、レインボーピンク! チームの花よ」

「同じく! クールな参謀、レインボーブルー! 俺たちが来たからにはもう安心だ。安心して帰宅するといい」

 胡桃と文健がそれぞれ台詞を決めると、

「おいおい冷てえなあー。女の子を家まで送ってやらねえのかよー?」

 冷やかし顔で見ていた若者に茶々を入れられ、何人かが馬鹿にしたように笑った。ヒーローマスクの下で冷や汗を流しながら、いつものように言い訳を脳内に並べ始めた文健だったが、冷やかされてもみんなが演劇を続けているのを見て逃げ道を作ることを止めた。小さく息を吐き、この劇をやり遂げることだけに集中した。

 前向きに考えてみれば、観客から突っ込みがあったということは見ている人がいたということだ。恥ずかしくて周りを見ることができていなかったが、よくよく見渡してみると一瞥をくれるだけの人が大多数ではあるが、数人は足を止めていた。

「誰にも負ける気がしねえ! レインボーイエロー!」

「キュートな魅力で敵も癒す! レインボーグリーン!」

 高士と美保もヒーローコスチュームへの着替えを終わらせ、レインボーレンジャーとして役を演じていた。美保も吹っ切れたのか照れを微塵も感じさせない演技だったし、高士は下手くそなりに楽しんでやっているようだった。

 淡々と芝居は進んでいき、観客が増えてきたのも気のせいではないと思い始めた頃、文健は何か大きなことをしている気分になっていた。このままいけば生まれ変われるような不思議な感覚だった。この劇が終われば結果はどうであれ、成長できる気がしていた。

 だが、文健は演劇のことをよくわかっていなかった。役者が一人でも芝居から気を逸らしてしまった瞬間に、事態が一変するなんて想像できなかったのだ。

 劇も終盤、レインボーレンジャーが悪の組織が集う秘密結社に向かっている最中のことだった。イエロー役の高士が突然、足を止めた。脚本にない動きに戸惑った文健が高士の視線の先を追うと、駅の壁沿いに一羽の烏が横たわっていた。烏は全身から血を流していて、かろうじて動いているのが見えなければ、死んでいると思っただろう。

 まだ劇は終わっていないというのに何を思ったか、高士は烏の元へ近づこうとした。驚いた文健が思わず高士の肩を掴むと、ヒーローマスク越しからでもわかる殺気で高士は文健を睨みつけた。文健は一瞬たじろいだものの、間違ったことをしていない自信はあった。肩を掴んだままかぶりを振り、「気になるのはわかるが、今は劇に集中しろ」と諭した。高士にも伝わったと信じて疑わなかった。

 文健が頬への強烈な痛みを覚えたのは、地面に尻をつけ、高士に右ストレートで殴り飛ばされたことを認識してからだった。一瞬その場が静まり返り、後にざわめきの声が大きくなった。ヘラヘラと笑う若者や、突然の暴力に顔を顰める淑女。様々なリアクションを浮かべる人々が見ている中、文健は殴られた左頬を押さえつつ混乱と戦っていた。

 高士は口も頭も悪い男だが、コンビニでからまれた胡桃を助けたときのように、理由なく暴力を振るう男ではないと思っていた。正義の味方みたいな、文健にはない強さに憧れて脚本を書いたというのに、どうして――

「なんで、高士……!」

「悪い、説明している暇がねえ」

 高士は黄色いヒーローコスチュームを着たままその場を去り、地面に横たわる血まみれの烏を拾い上げたかと思えば、すぐに人ごみの中に姿を消してしまった。

「高士!」

「こ、高士さん!」

 胡桃と美保が彼の名前を呼ぶ声を、文健は他人事のように聞いていた。