そもそも二神という男は、後輩である自分が心配になるほどの優男で、「それでいいの?」とマネージャーから尋ねられる姿を、もう五万と見てきた。その度に彼は、「いいです」と言い、僕が、「本気で言っていますか?」と口を挟むまでがワンセットである。
その彼が自分の意見を出すほど、つまり、僕は酷い有様だったのだろう。
僕が所属する音楽事務所は、メジャーとインディーズの両方を抱えている。インディーズからCDを出し、当たれば、メジャーに移行する。けれども、それは、インディーズに所属するうちの、ほんの僅か一握りの幸運。事務所が力を注ぐタレントの多くは、始めからメジャーに組み込まれていた。今日、無垢にデビュー報告をしてきた少年にしたってそうだ。体に不釣り合いの大きさの夢を持って事務所に入所した日から、僕は未だ、インディーズ枠の一般人だった。
同級生は既に結婚して、子どもさえ持って、真っ当な大人になっている。一方で、僕は、一人のた打ち回るゴミだ。確かに気味が悪い。二神の命令は尤もだ。
平日の終電間際となれば、電車は閑散として、廃れた遊園地にも似ていた。かろうじて東京を名乗る路線の終着駅が都外であることだとか、草臥れたサラリーマンの靴が安っぽいことだとか、情景を作るパーツひとつひとつが己に収斂するようで、僕は窓の外を眺めるフリを続けていた。
昨日と同じ音を立てて、電車が何度目かの駅に着く。一人の男が乗り込むのみ。人の出入りは少ない。他人事のように眺めていたが、自分の降りる駅だということに気付いたのは、ドアが閉まる瞬間だった。
いいか、もう。
どうせ、何者でもないのだ。僕がどれだけ歌おうと、踊ろうと価値はない。どこに行こうが、意味もない。
浮かせていた腰を再び座席へ落とすと、体がゆるんだ。頭まで、うつらうつらと沈んでいく。
「百井じゃん」
知らない声に名前を呼ばれたのは、そのときだった。意識が浮上する。顔を上げると、目の前にロングコートの男が立っていた。今さっき、乗り込んできた男だった。
「そうだけど」
誰だ?
男はかなりの長身で、電車が揺れる度に吊革を頭に衝突させていた。それを気にする風もなく、僕を見つめて笑みを湛えている。年齢は同じくらいだろうか、もう少し若いだろうか。仕事関係者であれば、即座に思い出したいが、この路線で遭遇するということはそうではない可能性も高い。
僕が思い出せないことを察したのか、彼が口角を上げた。
「天田ダンススクールだよ」
その言葉で、ようやく記憶の中の彼がヒットする。
「一馬」
「当たり」
一馬は、僕の隣に腰を下ろした。長い脚が、無人の車両で悠々と伸びる。向かいを見れば、車窓に映る座高も、体の作りも、彼の方が大きかった。昔は、僕の方が大きかったはずなのに。
天田ダンススクールは、僕が子どもの頃に通っていたダンススクールだった。一馬は、同じく、そこに通っていた生徒で、もっと言えば、天田先生の親戚らしかった。
「久しぶり」
思い出せなかった罪悪感で、無駄な挨拶をしてしまう。瞬間、後悔が襲う。久しぶりの再会した人物に対して、この後の台詞は質問と決まっているのだ。 平日の真ん中、私服でいることも、やけに薄い荷物の量も、自分の負い目に思えて、僕はそれ以上口を回せない。一方の一馬は、返事もしなかった。安堵と不安のせめぎ合いに、内臓が落ち着かない。
「今日は仕事の帰り?」
かくして降りかかった問いに、僕は言葉を詰まらせた。
「いや」
「じゃあ、レッスン?」
僕を構う様子もなく、彼は飄々と続ける。
「レッスンって、ダンスを続けているかも知らないくせに」
「続けていないわけ?」
「別に踊らなくても、人間、死なないし」
「この前テレビで見た画家は描かなきゃ死ぬって言っていたよ」
「それは天才とかいうやつかもね。普通の人間は死なない」
そんな理由で死んでみたい。心の端でちらりと憧れが光って、目を逸らした。
「でも、お前は一般人じゃないだろう」
視界に、彼の手が無断で侵入する。握られた四角の中を確認し、僕は息を止めて、叩くようにそれを隠した。彼のスマートフォンの中、小さな僕が呑気に踊っていた。
「知名度に喜ぶところじゃないの? 恥ずべきクオリティじゃないだろう」
そうじゃない。心の内で、噛み付くが、「急に見せられたらビビるよ」と笑って手を離した。レッスン場に置き去りにしたはずの苛立ちが、再び、胸の内で熱を持ち始めていた。
「八つ当たりはやめろよ」
彼の声が先回りする。その脱力加減に、また、わなわなと震えた。
「かっこいいじゃん。何が駄目だと思うんだよ?」
「知るかよ」
「売れたいのか?」
愚問だった。
「歌もダンスも好きなんだろ。それはわかるよ。でも、事務所に所属していて、レッスンできる環境もある。好きなものに浸っていられて、しかも、それを共有してくれるファンだって、ある程度いる。借金があるわけでも、子どもを育てなきゃいけないわけでもない。別に、現状を変える必要はない」
「なんだよ、馬鹿にしているのか?」
「そんなつもりはない」
「言い訳しなきゃ説明できない現状の、何に満足しろって言うんだ」
御託が並ぶ余地なんて、いらなかった。
認められたい。
見られたい。
魅せつけたい。
わからないだろう、こんな不甲斐なさは。こんな情けなさは。僕は人に認められなければ生きられないほどに弱く、信じたものを投げ出せない程度には不器用だった。作品を見て、良いか悪いか言えばいいだけの人間に、何がわかるものか。
彼の手の中、僕のミュージックビデオが回り続ける。二年前、二十五歳の僕が、楽しそうに四肢を遊ばせる。恥ずかしくて、恥ずかしくて、目頭の辺りが痛んだ。
「接触する可能性について考えろ」
彼は、僕の感情など見ようともせず、話を続けた。
「何?」僕は脈絡の見えない問いに眉を顰める。「握手会のこと?」
「違う。情報としての接触だ」
「僕の情報? 公式ホームページとか?」
「公式のプロフィールなんて、既にお前に指標を当てている場合にヒットするものだろ。そうじゃなくて、顔だけでも名前だけでも、初めて、百井を認識する瞬間だ」
「ライブとか。舞台とか」
「現場に行く輩はごく少数だ」
「お客さんを輩って言うなよ」
「いまどきインターネットからどんなコンテンツも見放題なんだよ。現地に行くのは物好きだけだ。舞台やライブやら、空間を共有することを必要とするメディアは、結局、閉鎖的だ。そうじゃなくて」
「開放的メディアに露出しろ?」
「その通り。空間や時間の制約を受けないところ。一番手っ取り早いのがSNSだ」
「やっていない」
「だから、始めろって言ってんだよ」
「いや、なんで」
「多少時期をずらして、二つ始めよう。忘れられないうちに、二回話題になる」
話を聞く素振りなど無く、彼は自身のスマートフォンをいじり始める。覗えば、SNSを開いては、それぞれに僕の名前を打ち込み、検索をかけていた。
「もしかして、本気で言っているのか」
「そうだよ」
冗談じゃない。どうして、再会したばかりの人間に指図を受けなくてはならないのか。
「なんで、そんなに口出しをするんだ?」
「俺がお前をプロデュースするからだ」
くらりとした。
昔、ストーカー化したファンの女性を思い出していた。彼女の妄想が空想であるように、一馬のビジョンは紛れもなく虚像だった。
仮にも、事務所に所属している身で、素人の口出しに応じるはずがないじゃないか。疲弊した一日を終える前に、こんな不条理に遭遇するなんて、あんまりだ。天を恨んだが、眠気を纏った不満は、空へ到達するより前に蒸発する。
「現状から抜け出したくないのかよ」
似た話を繰り返す喚き声は、隣人を覚えない馬鹿な犬の鳴き声みたいだ。
もはや、やり取りすることも怠かった。僕はとうとう、「わかった。わかったよ」と言った。台詞を発するエネルギーに納得など欠片も含まれておらず、構成する感情は、ほぼ全て諦めである。
次の駅に着いた。僕は今度こそ、席を立ちあがり、電車を降りる。終点まで行ってしまいたい感傷も、行き返す行為に対する憂鬱さも、彼の隣に座り続けることへの嫌悪には勝てない。
その彼が自分の意見を出すほど、つまり、僕は酷い有様だったのだろう。
僕が所属する音楽事務所は、メジャーとインディーズの両方を抱えている。インディーズからCDを出し、当たれば、メジャーに移行する。けれども、それは、インディーズに所属するうちの、ほんの僅か一握りの幸運。事務所が力を注ぐタレントの多くは、始めからメジャーに組み込まれていた。今日、無垢にデビュー報告をしてきた少年にしたってそうだ。体に不釣り合いの大きさの夢を持って事務所に入所した日から、僕は未だ、インディーズ枠の一般人だった。
同級生は既に結婚して、子どもさえ持って、真っ当な大人になっている。一方で、僕は、一人のた打ち回るゴミだ。確かに気味が悪い。二神の命令は尤もだ。
平日の終電間際となれば、電車は閑散として、廃れた遊園地にも似ていた。かろうじて東京を名乗る路線の終着駅が都外であることだとか、草臥れたサラリーマンの靴が安っぽいことだとか、情景を作るパーツひとつひとつが己に収斂するようで、僕は窓の外を眺めるフリを続けていた。
昨日と同じ音を立てて、電車が何度目かの駅に着く。一人の男が乗り込むのみ。人の出入りは少ない。他人事のように眺めていたが、自分の降りる駅だということに気付いたのは、ドアが閉まる瞬間だった。
いいか、もう。
どうせ、何者でもないのだ。僕がどれだけ歌おうと、踊ろうと価値はない。どこに行こうが、意味もない。
浮かせていた腰を再び座席へ落とすと、体がゆるんだ。頭まで、うつらうつらと沈んでいく。
「百井じゃん」
知らない声に名前を呼ばれたのは、そのときだった。意識が浮上する。顔を上げると、目の前にロングコートの男が立っていた。今さっき、乗り込んできた男だった。
「そうだけど」
誰だ?
男はかなりの長身で、電車が揺れる度に吊革を頭に衝突させていた。それを気にする風もなく、僕を見つめて笑みを湛えている。年齢は同じくらいだろうか、もう少し若いだろうか。仕事関係者であれば、即座に思い出したいが、この路線で遭遇するということはそうではない可能性も高い。
僕が思い出せないことを察したのか、彼が口角を上げた。
「天田ダンススクールだよ」
その言葉で、ようやく記憶の中の彼がヒットする。
「一馬」
「当たり」
一馬は、僕の隣に腰を下ろした。長い脚が、無人の車両で悠々と伸びる。向かいを見れば、車窓に映る座高も、体の作りも、彼の方が大きかった。昔は、僕の方が大きかったはずなのに。
天田ダンススクールは、僕が子どもの頃に通っていたダンススクールだった。一馬は、同じく、そこに通っていた生徒で、もっと言えば、天田先生の親戚らしかった。
「久しぶり」
思い出せなかった罪悪感で、無駄な挨拶をしてしまう。瞬間、後悔が襲う。久しぶりの再会した人物に対して、この後の台詞は質問と決まっているのだ。 平日の真ん中、私服でいることも、やけに薄い荷物の量も、自分の負い目に思えて、僕はそれ以上口を回せない。一方の一馬は、返事もしなかった。安堵と不安のせめぎ合いに、内臓が落ち着かない。
「今日は仕事の帰り?」
かくして降りかかった問いに、僕は言葉を詰まらせた。
「いや」
「じゃあ、レッスン?」
僕を構う様子もなく、彼は飄々と続ける。
「レッスンって、ダンスを続けているかも知らないくせに」
「続けていないわけ?」
「別に踊らなくても、人間、死なないし」
「この前テレビで見た画家は描かなきゃ死ぬって言っていたよ」
「それは天才とかいうやつかもね。普通の人間は死なない」
そんな理由で死んでみたい。心の端でちらりと憧れが光って、目を逸らした。
「でも、お前は一般人じゃないだろう」
視界に、彼の手が無断で侵入する。握られた四角の中を確認し、僕は息を止めて、叩くようにそれを隠した。彼のスマートフォンの中、小さな僕が呑気に踊っていた。
「知名度に喜ぶところじゃないの? 恥ずべきクオリティじゃないだろう」
そうじゃない。心の内で、噛み付くが、「急に見せられたらビビるよ」と笑って手を離した。レッスン場に置き去りにしたはずの苛立ちが、再び、胸の内で熱を持ち始めていた。
「八つ当たりはやめろよ」
彼の声が先回りする。その脱力加減に、また、わなわなと震えた。
「かっこいいじゃん。何が駄目だと思うんだよ?」
「知るかよ」
「売れたいのか?」
愚問だった。
「歌もダンスも好きなんだろ。それはわかるよ。でも、事務所に所属していて、レッスンできる環境もある。好きなものに浸っていられて、しかも、それを共有してくれるファンだって、ある程度いる。借金があるわけでも、子どもを育てなきゃいけないわけでもない。別に、現状を変える必要はない」
「なんだよ、馬鹿にしているのか?」
「そんなつもりはない」
「言い訳しなきゃ説明できない現状の、何に満足しろって言うんだ」
御託が並ぶ余地なんて、いらなかった。
認められたい。
見られたい。
魅せつけたい。
わからないだろう、こんな不甲斐なさは。こんな情けなさは。僕は人に認められなければ生きられないほどに弱く、信じたものを投げ出せない程度には不器用だった。作品を見て、良いか悪いか言えばいいだけの人間に、何がわかるものか。
彼の手の中、僕のミュージックビデオが回り続ける。二年前、二十五歳の僕が、楽しそうに四肢を遊ばせる。恥ずかしくて、恥ずかしくて、目頭の辺りが痛んだ。
「接触する可能性について考えろ」
彼は、僕の感情など見ようともせず、話を続けた。
「何?」僕は脈絡の見えない問いに眉を顰める。「握手会のこと?」
「違う。情報としての接触だ」
「僕の情報? 公式ホームページとか?」
「公式のプロフィールなんて、既にお前に指標を当てている場合にヒットするものだろ。そうじゃなくて、顔だけでも名前だけでも、初めて、百井を認識する瞬間だ」
「ライブとか。舞台とか」
「現場に行く輩はごく少数だ」
「お客さんを輩って言うなよ」
「いまどきインターネットからどんなコンテンツも見放題なんだよ。現地に行くのは物好きだけだ。舞台やライブやら、空間を共有することを必要とするメディアは、結局、閉鎖的だ。そうじゃなくて」
「開放的メディアに露出しろ?」
「その通り。空間や時間の制約を受けないところ。一番手っ取り早いのがSNSだ」
「やっていない」
「だから、始めろって言ってんだよ」
「いや、なんで」
「多少時期をずらして、二つ始めよう。忘れられないうちに、二回話題になる」
話を聞く素振りなど無く、彼は自身のスマートフォンをいじり始める。覗えば、SNSを開いては、それぞれに僕の名前を打ち込み、検索をかけていた。
「もしかして、本気で言っているのか」
「そうだよ」
冗談じゃない。どうして、再会したばかりの人間に指図を受けなくてはならないのか。
「なんで、そんなに口出しをするんだ?」
「俺がお前をプロデュースするからだ」
くらりとした。
昔、ストーカー化したファンの女性を思い出していた。彼女の妄想が空想であるように、一馬のビジョンは紛れもなく虚像だった。
仮にも、事務所に所属している身で、素人の口出しに応じるはずがないじゃないか。疲弊した一日を終える前に、こんな不条理に遭遇するなんて、あんまりだ。天を恨んだが、眠気を纏った不満は、空へ到達するより前に蒸発する。
「現状から抜け出したくないのかよ」
似た話を繰り返す喚き声は、隣人を覚えない馬鹿な犬の鳴き声みたいだ。
もはや、やり取りすることも怠かった。僕はとうとう、「わかった。わかったよ」と言った。台詞を発するエネルギーに納得など欠片も含まれておらず、構成する感情は、ほぼ全て諦めである。
次の駅に着いた。僕は今度こそ、席を立ちあがり、電車を降りる。終点まで行ってしまいたい感傷も、行き返す行為に対する憂鬱さも、彼の隣に座り続けることへの嫌悪には勝てない。