ドリンクバーでカフェオレとオレンジジュースを注ぎ、私は控室に戻る。すでに一つの席は埋まっていて、そこには安藤くんが座ってスケジュール表を確認していた。今日はバイトあがりの時間がいっしょで、加えて二人きりだった。
「はい、氷なしオレンジ」
「ありがとうございます」
 ぺこりと会釈して安藤くんは受け取った。私はいつも通り対面に座り、スマホをチェックした。『アガ』のツイートが更新されていて、ツイッターを開くと、そこには顔の前でピースしている女の子のラフ絵が載っていた。ラフだけどロングヘアーは踊り出しそうなくらい一本一本丁寧で、今回も可愛くておもわず笑みを浮かべてしまった。
「凛さん、どうしたんですか?」
 首を傾げていて、私は立ち上がってとなりに座り、『アガ』のラフ絵を見せた。すると安藤くんは目を丸くしたけど、またすぐ力のない目つきに戻った。
「私、最近この絵を描いてる『アガ』にハマってるの」
「そうなんですか」
 安藤くんは頭を掻いてそっぽを向き、スマホをいじり出した。あまり好みではなかったのだろうかと目を落としてしまう。視界の片隅で安藤くんは首を掻いているのが見えて、徐にこっちを向いた。
「そういえば、凛さんってどんな絵を描いてるんですか?」
「え、いや、そんな見せられるものじゃないよ」
 とうとつに言われて私はスマホを胸に当てて距離を取ってしまうと、どうしてか安藤くんはきめ細やかな指で、なにかを探すみたいに私の手の甲をなぞり、柔らかく手を包んできた。
「ボクは、見たいです。凛さんの絵を」
 少し高い声だけど、矢を射抜くような芯のある声。それが脳を通過すると、感覚の全ては手から伝わる熱に侵されてしまった。いつまでも私の目を離してくれなくて、顔が沸騰するかのように熱を帯びて、こくりと従順に頷いていて。いつの間にかスマホは安藤くんへと渡り、じっくりと見てからこっちへ向いた。馬鹿にされるのだろうかと、鼓動がはやる。
「凛さん、センスありますよ」
 目をじんわりと細め、唇は曲線を描いていく。初めて、笑顔を見た。いつも仏頂面で白黒だけど、今は頬に赤いトーンが施されていた。安藤くんはこっちに目を据え、首を横に倒した。それを皮切りに、私は目を逸らしてしまった。そっと安藤くんに目を向け、指を絡めながら口を開いた。
「そっか。ありがと。安藤くんはどんな絵を描いてるの?」
 安藤くんはスマホを操作して横から覗き込むと、画面には油絵で描かれた町並みが広がっていて、そこには見覚えがあった。
「これって、東芸の側にあるちっちゃい交差点だよね?」
「そうですけど、なんで分かったんですか?」
「一回だけ文化祭に行ったことあるから」
 去年に琴音といっしょに行ったのだけど、琴音が途中で体調が悪くなってしまって、けっきょく回れなかった。でも外から見た限り、活気があって楽しそうだったのは分かっていた。だから今年こそ絶対に回りたいと思っていたところだった。
「そうですか。今年はボクの絵も展示されるんで、良かったら見にきてください」
「うん、楽しみにしてる。他にはないの? もっと見たいな」
 横に目を遣ると、安藤くんは後頭部の髪に触れながらスマホ画面をスライドさせた。美術室の風景が描かれていて、木の椅子となにも描かれていない白いキャンバス、それを支えるきつね色のイーゼルが中心にあった。夕焼けになる前のあいまいな、バター色の光が窓から差し込み、その先には人の影が描かれていた。まるでそこに誰かいるみたいで、だから私はうっかりしてしまう。
 紙パレットを片手に筆をかざしている、琴音の姿がぴったりと当てはまっていた。
 そこで私はふと思って、顎に手を添えて首を傾げてしまう。絵のタッチや光の使いかたとか、なんだか、どことなくだけど。
「『アガ』に似てる」
「……え」
 安藤くんは急に声を漏らし、見遣ると目を少しばかり見張っていた。そこで私は思っていたことを知らぬ間に口にしていたのだと気づき、とっさに口元を塞いだけどもう遅かった。そっととなりを一瞥すると、安藤くんは眉間に少し皺を寄せ、どこか難しい顔をしていた。安藤くんは前触れなく大きく息を吐き、毛並みに逆らって髪に触れると、下を見ながら口を切った。
「『アガ』、なんです」
「……え、どういうこと?」
「似てるんじゃなくて、ボクが『アガ』なんです」
 モノトーンの顔は間髪入れずにこっちを向き、ぎらりと星の浮かぶ瞳に見つめられる。私はなんどか瞬きしつつ、ぽかんと口を半開きにしてしまう。「ほんとに?」と聞けば、安藤くんはコクコクと二回首を縦に振ってきた。そこで安藤くんの半信半疑だった発言は、瞬く間に私の中で確信に変わり、でもどうしていいか分からなくて。
 だからとりあえず、「ファンです」と握手をした。
「なんですか、それ」
 声を殺しながら笑っていた。拳で口を隠していたけど、零れる薄く伸びた唇はまだ幼くて、そのひずみで生まれたクレーターは、真っ白な大地の上でひときわ目立った。拳に力を入れ、おもわず触りたくなる激しい衝動を押さえ、咳払いをして軽く睨んだ。
「なんでもっと早く教えてくれなかったの?」
「それは、まあ、その、なんか……恥ずかしいじゃないですか。ファンって言ってくれる人に、わざわざ明かすのって」
 目を背けながら前髪を触っていて、私はつい笑みを浮かべてしまった。いつも無表情なのに、色々な安藤くんが見られた。ジグゾーパズルが解けて、徐々に絵が見えてくるような、そんな気分だった。けれどそれと同時に、ピリッと胸の表面を辛(から)みが走って、すぐに手で押さえる。なにか分からないけど、私の唇は知らないうちに動いていた。
「安藤くんのこと、岳くんって呼んでいい?」
 私は彼の顔に目を据えた。すると岳くんは首を傾げてそっぽを向いたけど、ちらりと横目で見てきて、徐に頷いた。
「まあ、良いですけど」
 岳くんは後頭部を擦りながら聞こえるか否かの声で言い、いっそう顔を逸らしていく。あまり名前のほうで呼ばれたことがないのだろうか。なんだか思春期の弟みたいで微笑ましくて、つい含み笑いしてしまった。
「そういえば、まだ岳くんとLINE交換してないよね? いま交換しない?」
 私はQRコードを画面に表示し、岳くんはスマホをかざして読み込んだ。すぐさま通知が来てLINEを開くと、そこには『安藤岳です。よろしくお願いします』と丁寧な文章が書かれていて、私は『よろしく!』とサムズアップした熊のスタンプを送った。すると同じようなスタンプが返ってきて、私は律義だなと自然と笑みにさせられた。
 岳くんはいつも通り会釈をして帰っていった。私は元いた席に戻り、カフェオレを一口飲んで『アガ』のツイッターを開く。そこには顔が見えないのに魅力的な女性がたくさん載っていた。
 これ全部、描いたのは岳くんなのだ。
『アガ』がこんな身近にいた。
 そして、その正体を私は知っている。
 まるで、運命の出会いのようだった。
 とはいえ、もちろん恋をするなんてありえないし、そんなことをしている暇は全くない。ファンだけど、相手は高校生で、なにより安定性のない夢を追いかけているなんて無理だ。
 私のずるがしこいというモットーに反する。
 けれど素直に、友達にはなりたいと思った。
 私も帰ろうと席を立つと、スマホが鳴った。見ると岳くんからLINEが来ていて、開くとそこには『今日のこと、二人だけの秘密にしておいてください。凛さん以外、だれも知らないので』と書かれていた。
 私はしばらく、じっと画面に目を据えてしまった。よく分からないけど、ブランコをこぐように、どんどん鼓動の揺れ幅が広がっていく。胸へスマホとともに両手を添え、口から空気を吸って鼻から息を出した。
 違う、これは不意打ちだからだと、深く胸に刻ませた。
 けれども、なかなか鼓動は鳴りやんでくれなかった。