カフェオレに口をつけながら、ちらりと時計を見遣る。あと五分くらいか。スマホをいじり、適当にLINEを返しながら、右端に表示されている時間を確認してしまう。まだ一分しか過ぎてなくて私は小さく息を吐き、ポリポリと頬を掻いていた。どうも無意識に時計に目がいく。これは重傷だと感じ、私は机に突っ伏した。初対面であんなことをしてしまったのだから、しょうがない。
 今日の休憩時間は、安藤くんと出勤時間が重なる。あれから四日も時間経過したせいで、どんな顔をすれば良いのか分からなくなっていた。だからもういっそのこと諦めて、なにも考えず挑もうとする。でもそう思えば思うほど意識は安藤くんに支配され、頭を抱えてしまった。
 足音が接近してくる。気づけば五分経っていて、安藤くんが来たようだ。私は深呼吸をし、ゆっくりと顔を上げて待ち構えた。入り口から人の気配がして一瞥する。安藤くんは目が合うと、モノクロな表情でぺこりと軽く会釈をした。
「こんにちは」
「ちはー」
 私は会釈してから、安藤くんの恰好をまじまじと見てしまった。意外だった。白のステッチが入ったビックサイズの黒デニムジャケットと白のカットソーシャツ。くるぶしより上の黒のスラックスに白のソックス、黒いレザーシューズ。モノクロでそろえられた服装は、安藤くんの印象と相まっておしゃれだった。
「あの、なんですか?」
「ううん、なんでもない」
 とっさに手といっしょに首も左右に振りながら、私は口角を上げていた。安藤くんは眉を顰めて、なにも言わず更衣室に入ろうとする。椅子のぶつかる音が大きく鳴り、すぐに振り返った安藤くんは目を見張っていた。気づけば、私は立ち上がっていた。理由は分かっている。ここで会話をしなければ、これから先ずっと気まずいままだと感じ取っていたからだ。私は笑みを浮かべて口を切った。
「安藤くんって、おしゃれだね」
「普通ですよ」
「革靴履いて、わざわざリブソックス履いたりしてるのに?」
 引かずに問い質すと、安藤くんは大げさにため息を吐き、首を掻きながら顔を背けた。
「ダサいと思われたくないだけです」
 不愛想に言って安藤くんは更衣室の扉を閉めた。私は含み笑いをしてしまった。またもや意外だった。安藤くんのこと、無口で美術部で、捉えようのない独特の雰囲気があるものだから、周囲のことなんてどうでも良いのだと思っていた。けど違って、安藤くんも立派な思春期の青年だった。そのことが、なんだかおかしくてたまらなかったと同時に、もっと話して見たくなった。
 更衣室から出てくると、椅子に座って本を取り出した。私は肘をついて前のめりになる。
「安藤くんって、美術部だよね?」
「そうですけど」
「じつはさ、私も絵を描いてるんだよね」
 そう言って私はiPadと専用ペンを取り出し、岳くんに寄せて机に置く。安藤くんは「へえ」と声を漏らし、本を机に置いた。
「ボクもiPad、使ってますよ」
 安藤くんは黒レザーのバックパックから同じiPadと専用ペンを取り出した。画面を操作し、アドビのフォトショップを開いた。
「前は単体で使える液タブ使ってたんですけど、持ち運ぶ場合はiPadのほうが軽くて良いですよね。だから液タブは家に据え置きしてるんですよ」
「あの、ごめん。描いているといっても、まだ始めたばかりだし、趣味程度でしかやってないんよね」
 言っていることについていけなくて、語尾の声量を落としてしまう。一瞬ぼうっとこっちに目を澄ましてから、安藤くんは顔を逸らした。
「すいません、勝手に突っ走って」
「ううん、大丈夫だから。てことは、安藤くんはプロのイラストレーター目指してるの?」
「まあ、そうです」
 安藤くんは頭を掻きながら控えめに頷いた。その謙虚な姿勢が、本気で夢を追いかけていることを意味しているだろうから、なんだか少し羨ましくて、つい下を向いていた。
「すごいね。私にはとても無理だよ」
 どこか零れ落ちるように言っていた気がする。だからかは分かんないけど、安藤くんは顔を上げ、私に目を澄ました。白いキャンバスで波打つ黒い海はしっかりと、私の視線を捉えていた。
「いや、別にすごくないですよ。まだなれたわけでもないですから。それに、趣味で描くの良いと思いますよ。絵は楽しく描くのが、やっぱり一番です」
 言い終わっても安藤くんは目を離さなかったけど、私は耐え切れなくて逸らしてしまった。そして、私はおもわず噴き出してしまった。
「え、どうしたんですか?」
「ううん、なんでもないよ。ていうか、そろそろ時間じゃない?」
「あ、ほんとだ。じゃあ、失礼します」
「うん、がんばって」
 私が笑みで手を振ると、大河くんは小さく会釈をして控室を出た。それを見送ったあと、思い出し笑いしてしまった。
 女が落ち込んでいたら、男ならみんなそうする。なぜなら弱ったところに漬け込んで、そのまま関係が深くなって、あわよくば持ち帰えれば万々歳だから。そんなの見ていれば一目瞭然だ。たいがいの女子も狙って弱みを見せては誘惑するのだけど、私はそんなことしない。尻軽女だと思われるのと、結果的には性欲処理に利用されるだけだ。そんなの、なにもずるがしこくない。だから私は、男の浅はかな策略には乗ってやらない。
 安藤くんもきっと、私を励まそうとしたんだと思う。だけど、ヤリモクの男とは全く違う気がした。彼の産毛色の肌みたいに、ただ純粋なだけなのだろう。だから興味のないものには無頓着で、私が安藤くんを無と感じたのはそのせい。物事や現象などに対し、どこまでも反応が正直なんだ。すごく、人間味のある子なんだ。
 今日、安藤くんは気遣ってくれた。
 それは、私に興味を持ってくれたと、捉えて良いのだろうか。
 これが自惚れじゃなければ良いなと、素直に思った。