たった二年くらいなのに、とても懐かしい。
 学園祭当日、私は食べかけの焼き鳥を片手に、すっかり感傷に浸っていた。芸術系の学校だからと少し舐めていたところがあったけど、予想を覆すくらい賑わっていた。
 絵などの創作物ばかり展示されているのかと思っていたが、普通に青春まっしぐらの出し物も多くあった。大学生になってから初めて高校の学園祭に来たものだから、なにもかもの風景が懐かしくて、つい遊んでしまった。芸術系の高校だからか、内装がどこも素晴らしく凝っていて、お化け屋敷の衣装はもうプロ並みだった。こだわりの強い人が多いからか飲食店はどこもおいしくて、気づけば千円以上使っていて、完全に満喫してしまった。
 でも他にも理由があって、どうも気持ちが落ち着かなかった。
 いつ岳くんと出会ってしまうか、分からなかったから。
 私はパンフレットを見ないことにしていた。そんなのを見てしまえば、岳くんの絵がどこに展示してあるか一目瞭然で、ほぼ確実に避けてしまうに決まっている。だから私はぶらぶらと歩き続け、岳くんのイラストを探していた。でも気づけばもう昼を過ぎていて、回り切ってしまいそう。これはもう岳くんとは会うなという、神のお告げなのかとも思えてきたけど、私の中に諦めるという選択肢はなかった。
 大樹と琴音のおかげで、揺らがずにいられた。
 東芸の校舎は四階建てで、階段を全て登り切ると、なんだか騒がしかった。横を見遣ると奥の方で人だかりができていた。そういえば一番角の教室にはまだ行っていかったから、そこでなにをやっているのか私は知らなかった。もしかしたらという、期待と不安が入り混じったような感情が、徐々に、心拍数を上昇させていく。心臓の音がうるさいせいか不思議と、かたんことんと、ヒールの音がカウントダウンのように鮮明に耳へ入ってくる。教室に入って、たくさんのギャラリーの隙間から覗き見る。
 一枚の大きなイラストがあった。
 そこには必死に絵を描く、私がいた。
 目頭が熱くて、じんわりと視界が歪んでいく。
 私はおもわず、教室を走って出た。
 でも目の前を誰か通り過ぎて、避ける暇もなくぶつかってしまう。
 謝ろうと、とっさに顔を上げた。
 だけど、口は半開きのまま、声はまったく出てくれなかった。
「凛さん、どうして」
 周りの音をなにもかも跳ねのけて、どこまでも澄んだ声が私の耳に届いた。どんな顔をして会えば良いかなんて、とうてい分かりっこなかった。だけど会った瞬間、教えてくれた。
 私は自然と、笑みを浮かべていた。
 岳くんと会えた喜びが、なによりも早く心に届いていたから。
「岳くん、久しぶり」
「はい、お久しぶりです」
「ちょっと、話せない?」
「……はい、大丈夫です」
 岳くんは少し困ったように固まっていたけど、すぐに笑顔で頷いてくれた。
「あんまり、人気のないところが良いんだけど、どっか良いところ知ってる?」
「それなら、あそこぐらいしかないですね。行きましょう」
 そう言って岳くんは先を歩き、私は後ろをついていった。私たちの間に会話はなく、淡々と人ごみの中を進んで、そんなに岳くんの歩くペースは速くなかったけど、少しずつ距離が開いていく。ある程度ヒールは履きなれているつもりだったけど、あまりにも人が多いせいか、うまくついていけなくなっていた。どんどん見えなくなってきて、岳くんの名前を呼ぶけど、当然周囲がうるさくて聞こえるはずがなかった。完全に、岳くんを見失ってしまい、分かれ道をどっちに進んで良いのか、分かんなくなってしまった。
 私は壁にもたれかかり、ついため息を吐いてしまった。どうして気合を入れて、ハイヒールなんて履いてきてしまったんだろう。学園祭なんだから、歩き回ることなんて当たり前なのに。でも今日は、どうしてもおしゃれをしたかった。岳くんに、少しでも良いところを見せたかった。でもこんなんじゃ、ただ空回りしているだけだった。やっぱり、岳くんに思いを伝えるべきではないのだろうかと、そんな風に、どうしても考えてしまう。私は大人しく帰ろうと、階段のほうに進もうとしたけど。
「凛さん」
 私を呼ぶ、岳くんの声が聞こえた。その方向に振り向くと、そこにはきょろきょろと必死に私を探している岳くんの姿があった。私は岳くんの下へ走った。
「ごめん、岳くん」
「いや、こちらこそすいません。緊張してて、気づかなくて。もう少しで着きます」
「うん」
「さ、行きましょうか」
 岳くんはそっぽを向きながら、私の手を握って歩き出した。その真っ白な頬は、後ろからでも明白なくらい、赤く染まっていて、こっそり笑ってしまった。岳くんの声は、なんにだって気づかせてくれる。なんでだろうって、不思議に思っていたけど、今はもう分かる気がした。たぶん私は、出会った頃から、惹かれていた。
 岳くんのビードロのような声に、とっくに惹かれていたんだ。
 二階に降りて、一番端の方に進むと、そこにはなにも出し物はなくて、誰一人いなかった。上を見ると、そこには美術室と描かれていた。
「ここ、ものが多すぎて学園祭では使えないんですよ。だから、ここには誰もいないはずです」
 岳くんは鍵を取り出し、開錠して中に入っていく。
「なんで鍵持ってるの?」
「いや、暇だったので、ここで絵を描いていましたから」
「回んなくてよかったの?」
「はい。友達いないので」
 そういえばそんなことを言っていた気がしたけど、私にとっては違和感しかなかった。岳くんの魅力に気づけないなんて、確実にクラスメイトは見る目がない。きっと私だったら、仲良くなれていたに違いない。
 そして、必ず好きになっていたに違いない。
 美術室に入ると、なんとも言えないツンと射すような独特の匂いが鼻を抜ける。好き嫌いを選びそうだけど、私は結構好きな方で、深呼吸をしてみると、前から小さな笑い声が聞こえた。
「僕も、この匂い好きですよ。なんだか、落ち着きますよね」
「うん。岳くんの絵、置いてないの?」
「ありますけど、どれも大したものじゃないですよ?」
「うん、見てみたい」
 そう言うと岳くんは後頭部を掻いてら、奥の方にもう一つある、部屋に入っていく。たくさんの絵を持ってきてくれて、ついでに四角い木の椅子を並べてくれた。
「ちょっと、はずいですね」
「そう? どれもうまいと思うけど」
「いや、全然ですよ。まあ、それは今もですけどね」
 岳くんは首辺りを描いていて、少し目線を下げていた。その子どもっぽさが可愛くて、私はつい微笑んでしまう。このまま絵も、岳くんのこともじっくり見ていたいけど、タイムリミットがあるからそういうわけにもいかない。私は側にある机の上に絵を置いて、岳くんのほうを見遣ったけど。
「告白の、ことですよね」
 窓際に座って、金木犀色の夕日を背負いながら、岳くんは私の言いたかったことを先に言ってしまった。私はなんとなく立ち上がって、ぷらぷらと歩く。逆光で岳くんの表情は隠れていて、私は見たくて覗き見る。そこには予想通り、真っ直ぐな眼差しがあった。だから私は立ち止まり、俯いて岳くんのほうを向いた。すると察したのか、岳くんも椅子から立ち、影は私の方に少し近づいてきた。
 さっきまで、どうにかなってしまいそうなくらい心臓はうるさかったけど、今はやけに静かだった。理由は分からないけど、そんなものなんだろうなと、無理やり納得させた。
 そっと顔を上げると、夕焼けのせいかは分からないけど、そこには少しだけ頬の赤い、岳くんがいた。
 きっと、期待している。
 だけど、言わなくちゃいけない。
「返事、聞かせてくれるん、ですか?」
 岳くんは首に触れながら、少し震えた声で言った。その熱が、見えないなにかに伝ってくる。私は言おうとしていたことを反芻し、視線が逸れそうになるのをぐっと抑える。私は深く息を吐き、岳くんに目を据える。
 そっと、震えを堪えて唇を開いた。
「岳くんのこと、好きだよ」
「はい、僕も凛さんのことが好きです」
 ぱっと、岳くんの表情が柔らかくなって、口角が上がっていく。それを見ていると、やっぱり胸が苦しくなって、おもわず目を背けてしまった。
 それでも私は、どうにか言葉を発せた。
「でも、ごめんね」
 私は両手をぎゅっと握り、力強く前を向いた。
「岳くんとは、付き合えない」
 堪えようとしたけど、やっぱり無理で、私は言葉といっしょに涙も零してしまう。動揺するかと思ったけど、岳くんは一瞬目を丸くしただけで、すぐにいつもの表情に戻った。
「どうしてですか?」 
 意味分からないこと言っているはずなのに、岳くんはとても澄んだ声で、優しく問いかけてくれた。私は目元を拭って、軽く深呼吸をしてから口を切った。
「岳くんの頑張ってるとこ、かっこよくて、すごく好きだし、優しいところも大好き」
 話しているうちに、とめどなく涙があふれ出てきた。拭っても拭っても、気持ちは止められなかった。その間、岳くんはなにも言わないで、ずっと待ってくれて、嗚咽が収まってきてから、私は言葉を紡いだ。
「だけど、私は夢を追いかけている人とは、やっぱり付き合えないよ。現実を見ている人としか、私は付き合う気にはなれない」
 私は岳くんの顔を見られなくて、ずっと下を向いてしまった。岳くんは「そうですか」と少し低い声で言って、側にある絵を手に取ったのが陰で分かった。それをしばらく見つめてから、岳くんはまた絵を置いた。
「イラストは、僕の全てだから……」
 言葉を詰まらせていて、私は頷いた。
「うん、分かってる。だから、ファンとして応援してくから」
 絶対に岳くんはそう言うと思った。そんな簡単に自分の全てを捨てられるような人なら、私は好きになんてならなかったと思う。そっと、視線を上に持っていく。どんな表情をしているのか、色々考えていたけど、岳くんは相変わらずだった。喜怒哀楽を見せるでもなく、モノクロな表情を浮かべていた。出会った頃のように、興味のないものに見せる表情。私は胸から湧き上がってくるものを必死に抑えた。
 これで良いんだと、胸の内で思い続けた。
「じゃあ、今日でお別れですね。会うと、きっと諦めきれなくなるので」
「うん」
 淡々としている岳くんに、ただ頷くだけ。このまま終わって、岳くんとはもう関わらなくなる。そのことを琴音に報告して、私たちのいざこざは全て収まる。いっそのこと岳くんの連絡先を琴音に教えてあげよう。それでそのまま、岳くんと琴音が付き合えば、親友である琴音の恋が実るのだから、私にとってもすごく嬉しいこと。だったらまず、岳くんにまた連絡先を聞かなければ。間違えて消してしまったとか、そんな取ってつけた理由で良い。嘘が見抜かれるとか、そんなことはどうでも良くて、連絡先を聞く流れを作ることが大切だから。大きく息を吸ってから、少しあからさまな咳払いをして、岳くんの視線が来るのを合図に言おうとした。
 だけど、岳くんは突然、私の前に手のひらを差し出してきた。
 私は意図を汲み取れなくて首を傾げてしまうと、岳くんは手を閉じって、ぎゅっと震えてしまうほど力強く握りしめていた。なおさら訳が分からなくて、ただ立ち尽くしていた。
 私は、目を見張ってしまった。
 岳くんはモノクロの表情のまま、一筋の光が頬を流れていた。
 そこで私は気づいた。逆になんで今まで気づかなかったのだろう。岳くんは好きなものには一途で、他なんてどうでも良くなってしまうほど。そんな彼が、そう簡単に割り切れるはずがない。岳くんがモノクロな表情だったのは、私と同じように懸命に気持ちを塞ごうとしていただけなんだ。
 岳くんは反対の手で目元を拭って、ゆっくりとまた手を広げ、やんわりと目じりを下げ、静かに笑みを浮かべた。
 そっと、口を開いた。
 だけど、それと同タイミングで放送が鳴った。
 体育館で劇が行わられるという報告だった。完全に岳くんの声は放送と被さってしまった。学園祭の喧騒と相まって、普通なら聞こえない。
 そのはずなのに。
 しっかりと私の耳に導かれていた。
 ビードロのように透き通った、愛おしい声は。
「うん、私もそうしたい」
「分かりました。じゃあ、行きましょう」
 私は岳くんの手を握った。
 岳くんの手から、私より少し高い体温が流れてくる。見かけに反してごつごつしていて、私と同じくらい白く、子どものようにさらさらとした肌で、とても中性的な彼。なにより、アルトのような、変声期を迎えていないような、それでいて真っ直ぐな声は、私の耳にすぐに馴染んでいた。
 だけど、彼の声は今日限りで聞くことはできなくなる。
 そうしないと、私たちはいつまでも好きでいてしまうから。
 私は一年くらい前まで、恋はくだらないと馬鹿にしていた。それはうまく生きていく上で、なにもずるがしこくないから。だから決して、私は恋なんてしないと思っていた。
 私は勘違いしていた。
 自分の意志なんて、なにも関係ない。
 恋は、いつの間にか落ちているものなんだ。
 そして、その恋を成就できるか、そこで初めて自分というものを出すことができる。
 私はこれからも、『ずるがしこく』生きていきたい。
 そこは、なにがあろうと変わらないことなんだと思う。
 それでも、私はまた恋をするかもしれないんだ、これから先、いつか。
 今度は、恋が叶うと良いなと、そう思った。
 私は岳くんを見て笑った。
 岳くんを好きになって、本当に良かった。
 私は岳くんの後ろに、そっと隠れた。
 前にある腕を、ぎゅっと握った。
 彼の声を聞く度に。
 涙が、どうしても止まらなかったから。
 岳くんの声は、いつまでもずっと、私の中で残り続ける。
『アガ』のイラストを見るたびに、きっと何度だって思い出すに違いない。

 ビードロのような声に、私の心は透けていった。

 初めて、恋を知った。

――私の恋は、まだ、始まったばかりなんだ。