「どうしたんだよ、凛」
「え、なに?」
 前を見遣ると、大樹が眉を顰めてこっちを見ていて、私は首を傾げてしまった。
「なにじゃないだろ。お前、ずっと上の空だったぞ?」
「そっか。ごめん」
 私が笑みを作ると、「たく。お前から誘ってきたのにな」と言いつつ、「カフェラテで良いよな」とドリンクバーのほうに大樹は向かった。いつもこんなことしないくせに、どうやら大樹なりに心配してくれているらしい。私は持ってきてくれたカフェラテを一口飲み、思考をすっきりさせる。
 今日は大樹とカラオケをする約束をしていてけど、急遽、映画が見ることに変更してもらって、今はファミレスで夕食を食べていた。そこで大樹は映画の話をしてくれていたんだけど、全く記憶にないし、そもそも映画もしっかり見られていなかった気がする。どうやら大樹の言う通り、私はずっと上の空だったらしい。誘ったくせに、大樹には悪いと思っている。
 でも、昨日の今日だから、どうしても悩んでしまっていた。
「で、今回はどうしたんだよ」
 大樹はカフェラテを二つ持ってきて、自分のカフェラテをストローで回しながら頬杖をついていた。私はじいっとカフェラテの水面を見つめてから、ため息を吐いて背もたれに倒れた。
 こんなこと、誰かに言って良いのだろうか。まだ本当のことなのか定かではないし、本当だとしても、話してはいけない気がした。でも私は、このまま考えてもなにも変わらない気もする。そんなことならいっそ、打ち明けてしまったほうが良いのかもしれない。そう思って、私は大樹を見遣り口を切った。
 大樹に全てを話した。琴音のことも、そして岳くんのことも。
 大樹は相槌を打ちながら、いつになく真剣に聞いてくれた。私はカラカラに乾いた喉を潤していると、大樹は頬杖をつくのをやめ、頬を掻いて口を開いた。
「でさ、凛はどうしたいんだよ。琴音ちゃんともう関わりたくないの?」
「それは、分かんないよ」
「でもまだ、直接聞いたわけじゃないんだろ?」
 たしかにその通りで、まだ琴音の口からはなにも聞いていない。でも琴音は、私を二回も騙したんだ。そんな人を簡単に信用できるほど、私は間抜けではない。そんなの、なにもずるがしこくなんてない。
「そうだけど、琴音の噂って、それだけだし」
「友達、なんだろ?」
 友達。だからといって信じていかなきゃいけない理由はないし、何度も裏切るような人を友達と呼べるのだろうか。ずるがしこく生きるには、取捨選択が素早くなくてはならない。だから琴音を切り捨てる、それだけのことなんだ。私がいつまでも口を噤んでいると、大樹は浅く息を吐き、こっちに目を据えた。
「じゃあ、岳ってやつはどう思ってんだよ」
 その視線はどこか獣のそれに近くて、私を鋭く射抜いてくる。その迫力に負けてか、私は目を逸らすことができなかった。
「どうって?」
 私は首を傾げて、笑っておどける。本当は分かっている、大樹が言わんとしていることは。それでも私がおどけたのは、自分から言ってしまうと、まるで意識しているみたいだからだ。そんな風に思われるのは、特に大樹に思われるのは、なんだか癪だった。
「好きなのか?」
 大樹はいっそう力強い、狼のような眼差しで見つめてくる。心を見透かすように、見つめてくる。だからといって私の心が揺らぐことはない。揺らぐわけには、いかないんだ。
「私が、好きになるわけないよ。そんなの、なにもずるがしこくない」
 どうにか視線を逸らし、私は信念を貫き通した。私はカフェラテを飲み干し、腕時計を見遣ると、もう十一時を過ぎていた。
「もう時間だし、帰ろうよ」
 そう言って私は立ち上がったけど、なぜか大樹は一向に座ったままだった。もうカフェラテは空になっているのに、だらりと背もたれに崩れた。
「どうしたの、大樹」
「俺、今日帰んないわ」
「え、なんで?」
 首を傾げていると、大樹は一瞬こっちを見て、また目を背けて頬杖をついた。
「なんか、そういう気分」
 大樹はいつもより細い声で言ってから、とつぜん私の指を掴んできた。その指はずっと外にいたみたいに冷たくて、そのせいか分からないけど、私は振りほどけなかった。
 けっきょく、私たちは終電を逃してしまって、おまけにファミレスも閉店時間だからひとまず外に出た。肌を微かに伝う風は冷たくて、もう冬になってしまうのかと、一瞬頭に夏が過ぎって、私はかぶりを振って無理やり思考を遮った。隣に目を遣ると、大樹はじいっとこっちに目を澄ましていた。どうしたのかと呆然としていると、大樹は前触れなく、そっと、幼い子どもに触れるかのように、私に優しく触れた。気づけば、私たちは手を繋いでいた。しかも、恋人繋ぎ。無心でメイクをするみたいに自然な流れで、抵抗する間もなかった。
 大樹が相手なのに、胸が少し熱かった。
「なあ、ホテル行かない?」
 とうとつに、そんなことを言ってきた。訳が分からなくて、首を傾げて聞き返していた。
「なんで?」
 体を翻し、大樹は空を見上げていた。きゅっと、ちょっとだけ強く手を握ってきた。
「普通に、寝たいから」
 私は心の中でなんでだよと突っ込みを入れたかった。一般常識的に考えて、男女がホテルに行って普通に寝るなんてありえない。確実に、どちらかが襲うに違い。なのに、私は。
「うん、良いよ」
 笑みを取り繕って頷いていた。
 大樹がネットで調べたホテルに行くと、モダン調に茶色く薄暗い部屋だった。少し高そうだけど、大樹いわく金の心配はいらないらしい。モデルの懐は伊達じゃないということだろう。一つのソファーと対面にテレビが置かれていて、その反対側には二つのベッドがあった。シャワーを浴びた私たちは部屋にあった浴衣を着て、大樹はソファーに座ってバラエティ番組をテレビで見て、私はベッドでスマホをいじっていた。特に会話するでもなく、ただそれぞれの時間を過ごしていた。インスタグラムを見たり、ユーチューブを見たり、ツイッターを見たり。
 そこでふと思ったんだけど、『アガ』が最近ツイートしていない気がした。見返してみても夏以来、小説の表紙イラスト以外投稿していない。きっと忙しいんだろう、そう思うのだけど、もしかしたら私に無視されていることを引きずっているのではないだろうかと、ついつい考えてしまう。そんなの思い違いで、私ごときが誰かに影響を与える力はないのは分かっている。私なんて、そこらへんにいる女子となんら変わらない。なんにも、岳くんの特別じゃない。それでも、私が岳くんの才能をつぶしてしまったのではないかと、思ってしまうのはなぜなんだろう。こんなことを思うのは今さら無駄で、全くずるがしこくないっていうのに。
 テレビの音が途切れる。大樹はもう寝るのかと、気にせずにスマホをいじる。
 でも、私のベッドが軋んだ。大樹は自分のベッドではなく、私のベッドに来た。
 本当はどこか、大樹なら大丈夫だろう、なんにもしてこないだろうと安心しきっていた。大樹は、幼馴染だから。そこに、男女はないんだと。でもそんなのは思い込みでしかなくて、大樹も根はたかが男なんだ。そこらへんにいる奴らと、なんら変わらない性欲の塊。
 好きな相手としかしたくないなんて、嘘でしかなかった。
 それでも、私は逃げようとはしなかった。それは大樹の行動はとてもずるがしこく、私にとっても、非常にずるがしこいことだから。だからこのまま流されてしまおう、そう思った。
 少しずつ、大樹は近づいてくる。私は気にしていない風にスマホを眺めていると、大樹は私の肩に触れ、力強く引っ張ってきた。体が反転して仰向けになると、そこには狼のような、静かだけど凶暴な瞳の大樹がいた。まだ触れていないけど、どうしてか熱が伝わってくる気がする。じりじりと、スロー再生しているみたいに大樹の手が迫ってくる。
 大樹と付き合うのか、と想像してみる。大樹はガキっぽいけど、いつも相談に乗ってくれる良いやつ。なんだかんだ言って服の趣味合うし、話しも盛り上がりがるし、きっと付き合ったら楽しんだろうな。面白いし、優しいし、イケメンモデル。私にとっては良いこと尽くめで、とってもずるがしこい。だから、このまま大樹を受け入れる、そうしようとしたのだけど。
 そんなとき頭に浮かんだのは、私を呼ぶ、岳くんの澄み切った声だった。
 私はいつの間にか、大樹を押しのけていた。
 大樹はこっちを見て目を丸くしていたけど、一番驚いているのは私自身だった。呆然と固まっていると、大樹は怒るでもなく、優しく目じりを下げ、私の頭を撫でてきた。
「まあ、そういうことだよな」
 だけどその表情は、どこか儚げで、切なかったように見えた。大樹は自分のベッドに行き、反対側を向いて布団をかぶってしまった。それから大樹は眠ってしまったらしく、寝息を立てていた。でも私は眠れなかった。さっきのことをずっと考えてしまった。
 大樹に目を向け、どうして拒否してしまったのだろうと、私は頭を悩ませていた。大樹を受け入れようとしたのに、勝手に体が動いていた。その理由は、もうすでに分かっている。大樹を受け入れようと無理やり肯定していたのは、私に残るものを消そうとしていたから。
 でも、どうしても消えてくれなかった。
 関係ない、そのはずなのに。
 岳くんの声が、なにもかも思考を遮るように、真っ先に頭に入り込んできた。
 なんで大樹はああ言ったんだろう。そういうことってなんだろう。大樹は知っているのだろうか。私が避けてしまった理由を、岳くんの声が頭を過ぎった理由を。
 私も、なんとなく勘づいていた。でもそれを認めたくないのは、私の中身が全てぐちゃぐちゃに崩れてしまいそうな、そんな予感がしているから。だけどもう、認めないといけない。そうしなきゃ、私は先に進めない、絶対に。だから私は、覚悟を決めることにした。
 私は、岳くんのことが好きだった。
 友情とかじゃなくて、恋に落ちていた。
 だから琴音と岳くんを会わせたくなくて、大樹のことも拒否してしまった。私が思う、私に触れてほしいのは、岳くんしかいない。もう、私の脳は岳くんに、岳くんのビードロのような声に侵されていた。
 もう、会いたくてたまらないんだ。