本郷二丁目駅から徒歩十分くらいの距離にある、大岩池後楽園に来ていた。そこで琴音と、互いの似顔絵を描く約束をしていて、私は五分前には到着していて、まだ琴音の姿はなかった。おそらく琴音のことだから、時間通りに来るだろうと思っていた。案の定、彼女はぴったしに来た。
「ごめんおまたせー」
「大丈夫、時間ぴっただし」
 私がスマホ画面を見せながら言えば、琴音はにこりと笑みを零し、私の腕に抱き着いてきた。そのまま腕を組んだまま、私たちはベンチを探すために庭園へ入る。ことん、ことん、と風情のある真っ赤な小橋を渡れば、一面に紅葉が広がっていた。過去にタイムスリップしたかのように幻想的で、日々の疲れを癒してくれるようだった。林のような道を抜けて道が途切れると、そこには雄大な池が待っていた。今日が晴天だからか、赤や黄など、紅葉の色が鏡のようにくっきりと映り、「わあ」と隣で琴音が感嘆の声を上げ、瞳を眩しいくらいに輝かせていた。これだけでも十分に来た価値はあるけど、今日の目的は豊かな自然の中でのんびりと絵を描くことで、近場にあるベンチに座り、この空間には少し不相応だけどiPadを取り出した。電源をつけようとしたけど、私はつい目を細めてしまった。
「なんか日差し強くて見にくいね」
 雲一つない青空に手をかざし、鬱陶しそうにぼやくと、琴音はキョロキョロと辺りを見回しだし、私の背後に指を差した。
「あそこで描こうよ」
 琴音の指先に沿いながら振り向くと、つい眉を顰めてしまった。そこには木の屋根のついた、ちょっとした休憩所のような場所があった。なんとなくそこは、岳くんと行った公園のベンチに似ていた。今ごろあそこの木々もきれいに赤くなっているだろうか。もう行くこともないのに、そんなことを考えてしまい、小さくため息を吐いていた。岳くんを思い出すから嫌だと、そんなこと言えるはずもないから、ここは違う場所だと無理くり頭の中で反芻し、私は首を縦に振った。
 気を取り直して、私たちは向かい合って、互いの姿を描いた。なんとなく風景と配置をレイヤーで分けてから、画面と琴音を交互に見ながら進めていく。
 さらりと、紅葉の匂いをさらった風が吹き抜ける。すると惹かれるように枯れた落ち葉が琴音の髪に張りつく。そっと取ってあげると、彼女は若干頬を染めながら恥ずかしそうに、シャボン玉のようにふんわりと微笑んだ。髪はサラサラで柔らかくて、命が宿っているようにキラキラと輝いていて、にこにこと笑っている琴音はやはり可愛らしく、一つ一つの動作が絵になる。
 そしてやはり、『アガ』のイラストには琴音の姿がぴたりと重なる。仕草とか表情が、どうも琴音とそっくりで、違うとは分かっていても、もしかしたら琴音なんじゃないかと、あり得ないことを考えてしまう。そうだとしたら、二人は運命のように引き合わされて、告白して付き合うんだろうなと、幸せそうなようすを思い浮かべてみた。だけどそれは私の手で潰(つい)えた。私のせいで、琴音は岳くんに会えなくなってしまった。もし、本当に岳くんのイラストのモデルが琴音だったとしたら、私はとんでもないことをしてしまったことになる。でも岳くんの言う『先輩』は私たちより一つ年上だから、私と同学年である琴音のはずがない。だからもう、なにも気にする必要がない、そう言い聞かせた。
「凛ちゃん?」
 琴音は眉を落としてこっちを覗いていた。どうやらぼうっとしていたから心配してくれたらしく、私は「なんでもないよ」と笑みを作ってやると、琴音は「そっか」と言って再びペンを走らせる。私が作り笑いをしているとはつゆ知らず、琴音は微笑みかけてくれる。そんな南の島の海みたいにきれいな心を持っている琴音には、きっと素敵な男性が現れるだろう。そのときは応援してあげようと誓った。
 私たちが絵を描いている近くのベンチに、ベビーカーを押す夫婦が座った。生まれたばかりであろう赤ちゃんがすやすやと心地よさそうに眠っていて、その様子を夫婦は微笑ましく見つめていた。
「かわいいよね、赤ちゃん」
 私がなるべく小さな声で言うと、琴音は目じりを下げてこっちを見た。
「私たちもそろそろ、結婚のことか考えなきゃだよね」
 ぽつりと、琴音は真剣な顔でそんなことを呟いた。普段あまり見ない表情だから、私はつい噴き出してしまった。
「琴音も、そんなこと考えるんだね」
 にやりと唇の片端を上げれば、琴音は唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。
「ひどいなー。だって今年でもう、二十一だよ?」
 そのとき、私は体を強張らせてしまった。今、なんて言ったんだろう。たしかに、琴音は『二十一』と言った。でも私は今年で二十歳。だからそんなことあるわけなく、おもわず聞き返してしまった。
「え、二十一って、今年で私たち二十歳だよね?」
「あれ、言ってなかったっけ? 一年浪人してるから、わたし、凛ちゃんより年上だよ?」
 琴音は首を傾げ、口角を上げながら言う。しかし、私はおもわず目を丸くしてしまい、薄く空いた口が塞がらなかった。琴音にとっては些細なことでも、私にはとても大きなことで、私の胸の内でどこか突っかかっていた最後のピースが、やっと埋まった瞬間だった。加えてそれだけではなく、とんでもないことをしてしまったんだと、初めて知った瞬間でもあって、とっさに私は口元を押さえていた。
 琴音が同い年ではなく、一個上。ということは、岳くんが言う『先輩』と同い年になる。私は軽く咳払いしてから、琴音を見遣って口を開いた。
「琴音って、髪の毛、長いときあった?」
「うん、あるよ」
「それって、いつ?」
「高校のときかな? ずっと胸くらいまではあったよ」
 そう言って、琴音はスマホで高校時代の写真を見せてきた。そこには今と同じく髪はサラサラで、だけど髪が長い琴音がいた。
 まるで、『アガ』のイラストに描かれた女性のようだった。
 ぶぶっと、間が悪く私と琴音、二人のスマホが同時に鳴る。私の頭の中はそれどころではなくて無視しようとした。けど、琴音が「え」と乾いた声を漏らし、なんだろうと思ったとき、私は気づいた。そういえばさっきのスマホの音はツイッターの通知音だった。通知音を鳴らすには意図的に設定しなければならなく、私は『アガ』しか設定していない。つまり、今の音は確実に『アガ』がツイッターに投稿したから鳴った音で、それを見て琴音が驚いたということになる。いったいなにを見て。私はスマホを取り出し、電源をつけると一番上に『小説のイラストを描かせていただきました。ぜひご覧になってください』と書かれていた。何だろうと気になって開いてみると、そこには一枚のイラストが載っていた。それを眺めては、私はいつも笑みを浮かべてしまいながら楽しんでいた。だけど、今回は違った。琴音と同じように、口を半開きにしてしまった。
 イラストの背景には、私と岳くんが最後に会った、四丁目公園。とはいえ近所だから、岳くんがそこで描くこともあるだろう。でも、そんなことはどうでも良かった。ゆらりゆらりと踊る木々に、眩しく反射して小さくも存在感のある川、そこにそびえ立つ木目調の屋根つきベンチ、そこに腰掛ける髪の長い女性。そこは今までと変わらないけど、一つ違う点があった。それは、黒髪だということだ。緑よりなカーキ色のビックシャツを襟抜き風に羽織り、ベージュのワンピース、スポーツサンダル。そして、岳くんに借りたベージュ色のキャップ。
 まるで、あの時の写真のようだった。
 見間違うことなく、私だった。
 そして、いつも隠されている表情だけど、なぜか今回は描かれていた。
 たぶん編集側の意向だろうか。分からないけどそんなことを考えている暇は、現在のわたしにはコンマ一秒もなかった。そっと、琴音のほうに視線だけを持っていく。普段の柔らかい目じりの笑顔とは程遠い、キッと鋭く目に角を立て、琴音はこっちを睨んでいた。ということはまず間違いなく、琴音はこのイラストのモデルが、私だということに気づいている。だからどう切り出したら良いのか見当もつかなくて、私は口を噤んでしまっていると、琴音は感情を押し留めるように息を吐き出し、目を落として口を切った。
「これ、凛ちゃんだよね」
「うん」
「まだ、岳と会ってたんだね」
 琴音は聞こえるか否かの瀬戸際の声で呟いた。それでもしっかりと、『岳』という言葉は聞こえてきて、私には理解できなかった。私は岳くんがあの『アガ』であることを、琴音はおろか誰にも話していない。だから『アガ』だということを知っているはずがない。けど琴音はたしかに『岳』と言っていて、私は二回瞬きしてしまってから、琴音に少し詰め寄っていた。
「待って、どうして『アガ』が岳くんだって、知ってるの? 教えてないはずだけど」
 私が少し声を大きくしてしまいつつ聞くと、琴音は目を落とし、足をぶらぶらさせて口を閉ざしていた。でもピタリと足を止めると顔を上げ、雲一つない空を仰ぐけど、その表情は青空には似つかわしくない、煮え切らない笑みを浮かべていた。
「『アガ』が岳だってこと知ってるの、凛ちゃんだけじゃないんだよ」
 私は言っていることが理解できなかった。だからきっとすごいキョトンとした、力のない表情をしていたんだろう。足元に落ちているパラリパラリと崩れる枯れ葉のように、琴音はひどく乾いた笑みを浮かべた。
「そもそも、わたしだけの、秘密だったはずなのに」
 可愛らしくない、冬の夜空のように重みのある声音。そこで私は気づいた。そして、とんでもないことをしてしまったという、取り返しのつかない後悔が、水に絵の具を垂らすみたいに、一気に頭の中に落っこちて、じんわりと放射線状に沈んでいく。
「『アガ』っていう名前を付けたのは、わたしだからね」
 琴音はこっちを向くけど、琥珀色の瞳は私とは視点が合っていなくて、どこか遠くを見ているような、ぼんやりとした曇った色合いだった。私はなんと言ったら良いか分からなくて押し黙っていると、琴音はすっと、風船が浮くみたいに軽やかに立ち上がった。
 気づけば空は灰色で埋め尽くされていて、そんな空を琴音はじいっと眺めていた。そこにはなにもないはずなのに、しばらくの間ずっと、ずっと。あの曇り空のように、表情は、深い灰色で塗りたくられたお面のように無だった。それを見ていると一気に、私の中で黒いものが溢れ出そうになったけど、どうにか押さえこんで口を開いた。
「どうして、言ってくれなかったの?」
「もう、遅いの」
 人形のようにだらりと座って、苦く笑い、頬を掻いた。その一つ一つの言動が癪に触って、逆に私は立ち上がっていた。
「なんで。まだ分からないよ。今からでも岳くんに」
「やめて」
 声を荒らげるけど、琴音は静かで、それでいて切れ味のある声で遮った。ちらりとこっちを一瞥して、口を切った。
「凛ちゃん。わたしはもう、岳に会いたくないの。会っちゃ、いけないの」
 琴音は項垂れて、語尾は掠れていた。どうしたんだろうと覗き込むと、琴音は静かに泣いていた。
「……琴音」
 名前を呼ぶことしかできなかった。言葉が、なにも浮かんでこなくて、下手な慰めさえ、一言も出てこなかった。
 琴音は流れていた涙を力強く拭い、とうとつに立ち上がった。
「噂はね、本当なんだよ」
 琴音はバックをかっさらい、走り出した。私は後を追いかけようとするけど、ぽつぽつと、頭上から音がした。瞬く間に視界は遮られ、音も地面を打ち付ける雨で埋め尽くされていた。それはまるで、これ以上近づくなと、心の壁で遮られているみたいだった。
 折り畳み傘を取り出して帰ろうとしたけど、なんだか歩くのもかったるくて、私はベンチに腰掛け、なんとなく天井を仰いだ。
 琴音はどうして「もう、遅いの」なんて言ったんだろう。
 やはり、私と岳くんが付き合っていると勘違いしているのだろうか。でもそれで、琴音は泣くだろうか。琴音は諦めようとして、私と岳くんを付き合わせようとしていた。私と岳くんが良い感じなら、彼女にとって万々歳なこと。でも泣いたということは、きっと琴音はまだ岳くんのことが諦め切れていないんだろう。そこまでは分かる。
 だったらなんで、琴音は頑なに会えないと言うんだろう。私と岳くんが付き合っていると勘違いしているからだろうか。でもそうなると、付き合えない理由にはなっても、合えない理由には決してならない。
 琴音は去り際に、「噂わね、本当なんだよ」と言っていた。
 噂っていったい何だろうと、一瞬考えてみたけど、そんなの一つしかなかった。
 琴音は、男癖が悪いという噂。
 けどあんなの、琴音のことを妬んでいるやつらの戯言に違いない。そう思っていたのだけど、私はふと思い出してしまった。そういえば大樹がたしか、高校三年生のときに琴音に似た人と遊んだと言っていた。それも、髪の長い年上の女性と。間違いなく、琴音だった。あんな遊び人と遊んでいたんだ、あいつらの悪ふざけで言っていたことも、もう戯言には思えなかった。
 琴音は私を騙していたわけではない。ただ単純に、私が知らなかっただけのこと。私の前にいるとき、琴音は素でいてくれているのだと、慢心していただけのこと。今まで見てきた琴音以外にも、私の知らない琴音が潜んでいる。
 どうして、気づいてあげられなかったんだろう、私は。
 本当の琴音は、いったい誰なんだろう。
 もう、どうしようもなかった。
 けっきょく、傘なんて差さなかった。
 雨に、紛れ込ませるために。