ボサノバのBGMが流れる、モダンで落ち着いた雰囲気に身を委ね、学内にあるカフェで私はホットのカフェモカを堪能していた。だけど側にいるのはやかましくて、この環境に似つかわしくない、キョロ充の集まりである本田たち。会話にはたまに入り込んで適当に相槌を打ってあげつつ、私は浅く息を吐いて窓の外に目を遣った。
 イチョウ並木は紅葉のシーズンを迎え、鮮やかな黄色に染まりつつあった。辺りを見渡せば黄色ばかりで、目がちかちかしてしまうくらい明るい。けど裏腹に、私の胸の内は灰色で、どうすれば良いのか全く分からなくて、カフェインを取りすぎたみたいにモヤモヤして落ち着かなかった。とはいえ、べつに本田たちの会話があまりにもくだらないから、ため息を吐いたわけではない。そんなこと、芸能人の不倫報道と同じくらいにどうでも良くて、考えているのはもっと重要なこと。
 岳くんに告白されて以降、夏休みが明けた今でも、たったの一度も会っていないし、加えて連絡すらも一切取っていない。返事はいつでも良いと言われているから、つまりこっちからいつかは連絡しなければとは思うんだけど、そんなことできるはずもなかった。なにより、どう切り出せば良いのだろう。連絡するということはすなわち、告白の返事をするということになるし、あっちもそれを期待している。だからただ断れば良いだけのことなんだけど、そうなれば、そこでもう私と岳くんの関係も終わってしまう。それが告白して振った後の自然の成り行きで、絶対に逃れることはできない。そうなってしまえば、琴音の恋を実らせるという目的も、同時に終わりを告げることになる。それだけは避けなければならない。でも、いったいどうすれば良いのだろう、なにも思いつかない。だから今もこうしてなにも行動できずにいる。
 そんなことを、かれこれ約二か月もの間、ずっと悩み続けていた。ただ足踏みをしているなんて時間の無駄だと分かっているけど、現状どうしようもなかった。今日はもう考えるのはやめよう、と思ったら、手元にあるスマホが震えた。通知は大樹からのLINEで、退屈だから開いてみる。そこには『こんしゅうにちようひま?』と明らかに三秒くらいで打って送信したような文章があった。即座に私も『ひま』と送ったとき、私は名案を思いついた。せっかくだから大樹に相談しよう。きっと顔と外面だけは良い大樹なら、こういった状況にも出くわしたことがあるかもしれない。その可能性にかけてみようと、私は『カラオケいかない?』と送った。万が一出くわして話を聞かれたら面倒だから、密室で相談したほうが良いに決まっているからだ。すぐにOKのスタンプが送られてきて、私も同じようなスタンプを返した。
「凛ちゃん」
 本田のとなりに座る伊藤から急に名前を呼ばれ、それでも平然を装いつつ首を傾げた。するとなぜか本田はこっちを一瞥してから、周囲に目を曝して話しだした。
「そういえば、立花ってこの前、また違う男連れてたよね」
 また始まった、琴音の悪口。むかつくけど、毎度のこと適当に相槌を打てば良いだけだ。
「どこで?」
 とりまきが聞く。
「渋谷行ったときに、クソダサいのといっしょにいたんだよね。チェーンとか、ほんとオタクって感じだった」
 本田はとうとつにくだらないことを大声で言い、周囲も瞬く間に便乗していき、話題は放射線状にどんどん広がっていく。「チェーンはないわ」とか、「中二病かよ」とか言っているけど、べつにチェーン自体はダサくないし、個性を出すのにうってつけのアイテムだ。黒スキニーとかスラックスを使って、黒を基調としたコーデにすれば、韓国風で十分にかっこよくなる。なんとなくでアディダスのラインパンツを履いて、いっつも同じような服装のにわかが人の服装に口を出すな、と思ったけど、今はもっと腹立たしいことがあって、私は隠れてため息を吐いた。
 どうせこの話に根拠はないし、おそらくたまたま、琴音に似たような見た目の女性を見つけただけだろう。しかし彼女たちにとってそれが真実だろうが虚実だろうが、今飲んでいるタピオカのカロリーが馬鹿みたいに高いことぐらいどうでも良いのだろう。楽しむために、その素材を深く追求するやつなんていやしない。自分より優れている人間に嫉妬し、単純に鬱憤を晴らしたいだけだろうから。そんな時間、ただただ生産性がなくて無駄で、もっと他にやるべきことがあるだろうに。
 ていうかそもそも、琴音には好きな人がいるんだから、そんなことありえない。きっと琴音はかわいいから、道案内でも頼まれていたり、変な人にナンパされていたりしたんだろう。たぶん琴音は頼まれたら断りにくいタイプだから、困っていただけに違いない。まあ、琴音のことをなにも知らないこいつらには、とうてい分からないだろうけど。
 本田たちは未だに琴音のありもしない悪口をしていた。しかも大きな声で、周りに聞こえるように。おそらく完璧な琴音の印象を壊してやりたいんだろうけど、そんなの逆効果でしかないことに、こいつらはからきし気づいていない。男性はなんだかんだいって、女の愚痴が嫌いな人が多い。それがだれかに対する悪口に繋がるならなおさら。女性は愚痴に答えなんか求めていなくて、ただ同調してほしいだけ。
 でも女性と違って、男性は愚痴とかに答えを求める。つまり、なんて言ったら良いか分からない女性の愚痴は生産性がどこにもなくて、それを聞いてしまうと、めんどくさいから関わりたないな、と思われる傾向にあるのだと思う。だから女性は、公共の場ではひたすらに明るい話をするのが、好印象を持ってもらうためには一番いいのだ。どれだけ小さなことでも良くて、たとえば、この犬かわいい、とかそんなしょうもないことで良いと思う。それだけでも、明るくていい感じに見える。
 だから私はこれ以上、自分の印象を下げないためにも、バイトとか適当な理由をつけてこの場を離れようとしたけど。こんな言葉が聞こえて、つい聞き耳を立ててしまった。
「立花とか、パパ活似合いそう」
 本田はそう言って、周囲は笑ってからますます金魚の糞みたいに便乗していく。だけどこんなの無視してしまえば良いだけのこと。私は一言告げて帰ろうと、立ち上がった。
「てか、もうやってるんじゃない? あいつ性欲強そうだし。清楚ビッチみたいな」
 だれか分からないけど、たしかに聞こえて、私は立ち上がったまま固まってしまった。なにを根拠にそんなこと言っているんだ、こいつらは。ていうかお前らのほうが性欲強そうだし。だけどそんなこと言えば、感電するようにあっという間に、性格が悪いという噂が広がってしまう。ずるがしこく生きる、という私の掲げるモットーから反してしまう。だから何があろうと、単独で、こいつらに反抗的な意見を述べてはいけない、絶対に。それは揺るぎないもので、いくら親友が罵倒されようと、私は守っていけるのだと、そう思っていた。
「なんなら登録しちゃう? 立花の顔写真使って」
 本田が不気味な笑みで言った。だから必然的に、このグループ全体の空気が、考える暇もなく肯定の方向に向かっていく。みんな、補色同士の色、たとえば紫と黄を細かく重ねたみたいな、汚くて毒々しい笑みを晒していた。だから私も、愛想笑いだけ浮かべとけば良かったんだ。そうすればなにごとも起こらず、その後も、私がひたすらに我慢すれば良いだけ。反抗的になったところで、どうせなにも変わらないのだから。実にずるがしこいこと。だけど私は、頭で考えていたことは、全く別の行動を取っていた。
 本田の椅子を、少し位置がずれるくらいに強く、蹴り飛ばしていた。
「そんなくだらないこと、やめたら? 中学生じゃあるまいし。それにまず、自分のことどうにかしたほうが良いよ。そのカーディガンペラペラすぎだし、色もちぐはぐしてる。ほんと、ありえないくらいダサいから」
 淡々と言ってやると、本田含めたその他も呆然と目を丸くしているのをしり目に、私は濃いブルーのガーデントートバックパックを拾い、私は速足で歩いた。それなりに距離ができると、背中から女子たちの声が聞こえた。きっと私の悪口でも言って笑っているんだろう。今すぐにでもこんなところから離れたかった私はとりあえず駅に向かい、電車に乗って地元へ帰る。十四時くらいだから車内はがらんと空いていて、さっきまで東大にいて人で溢れていたから違和感がある。けど同時に、体から力が抜けていくのを感じていて、私はウトウトと目が落ちてきて、しまいには眠ってしまった。
 目が覚めれば終点の最寄り駅についていて、いつもならそのまま帰るのだけど、今日はなんとなく帰りたくなくて、駅近くのカフェに寄った。無性に糖分を摂取したくて、タピオカミルクティーを頼み、一番奥のカウンター席に座った。タピオカを食べていると、思い込みかもしれないが糖分で頭が回るような気がして、ついさっきのことを考えてしまった。
 なんで本田たちは、あんな無意味で有害なことができるんだろう。いや、どうせ口だけで行動には移さないに決まっているんだけど、そんなひどいことしようとすら思わない、普通は。自分一人じゃ敵わないからって大勢で他人を蹴落とそうとするなんて、そこにいったい何の意味があって、なにが面白いのだろう。あいつら、みんなおかしい。
 でも、一番におかしかったのは、私だった。
 どうしてあんなことをしてしまったんだろう。これまでどれだけ琴音が悪口を言われようとも、しょうがないと、目を瞑ってきたのに。なのに今日になって胸の内を吐き出してしまったのはなぜだろう。こんなのなにもずるがしこくない。あれでも本田のグループはそれなりに学科内で強いから、とうぜん無視はできないし、なんなら対立してしまう可能性もあるのだから、これからの立場が危うくなるかもしれない。だからこそずっと、どんなに気に食わない言動があろうと、愛想笑いを浮かべながら聞き流してきたのだ。
 今日の私はおかしい。というより、夏休みのあの日から、私の中では悶々としたなにかが立ち込めていて、その原因は分かっていた。
 全部、岳くんのせいだ。急に告白なんかしてくるから、なにもかも予定が狂ってしまった。その告白は琴音にさせるはずだったのに。なにもかもやり直しになってしまった。
 もうこれ以上、どうしようもない気もしてきて、このままずっと考えていくのも、なんだか無駄なように思えてならない。私のことを好きだという岳くんの気持ちを変えるなんて、よっぽどのことがなければ無理だ。面食いならまだしも、琴音に一目惚れしなかった岳くんに限ってそれはないだろう。もしかしたら、このまま諦めてしまうのも、琴音のためなのかもしれない。それで私も、岳くんのLINEをブロックしてしまえば、なにもかも終わる話。
 私はタピオカを全部飲み終えてから、スマホでLINEを開く。随分と関わっていなかったからトークの下のほうにある中から見つけ出し、岳くんのアカウントを長押しして、トークとブロックと非表示を出した。そこにあるブロックと書かれたところを押してしまえば良いだけ。押すために人差し指を近づけていく。けど、私は指を止めてしまった。それを何回か繰り返し、けっきょくタピオカを飲み終えてからブロックすることにした。
 氷が解けて味が薄くなってきたころに、ずこっとストローがからぶる音がして、見るともう空になっていた。私は軽く息を吐き、再びスマホを握る。画面はさっきのままで、すぐにでもブロックできるようになっている。じいっと目を凝らして、でも私はついトークを押してしまった。そこには今までのトーク履歴があって、少しずつ遡っていく。もしかしたらいつ私を好きになったのか分かるかもしれない。そう思って最後までスクロールしてみるけど、案の定というべきか、そんな気配は一切なく、ずっと同じようなテンションだった。いったい私のどこを好きになったのだろう。あのとき聞けば良かったのんだろうけど、もう遅い。
 なら今聞いてしまおうかと、試しに『私のどこが好きなの?』と打ってみる。けどそんな度胸もないから、私はすぐに消した。これでは私も岳くんが気になっているみたいだからだ。私がだれかを好きになるなんてあり得ない。だからたった一人の男子のLINEが消えるくらい、どうってことない。そのはずなのに、ブロックしようとする指は押す寸前で震えていた。でもその震えのおかげで、勝手に反応して岳くんをブロックすることができた。
 私の友達に、岳くんはいなくなった。
 これで良かった、そのはずなのに。
 なんでか分からないけど、目頭が少し熱い気がした。