木製の店内はふんわり香ばしい苦みで満たされ、その香りの元となっているアイスカフェオレを飲むと、真夏の日照りのせいで火照った体を内側から冷やしてくれた。今日は講義終わりに琴音と喫茶マティスに来ていた。でもその前に学内にあるイチョウ並木に寄り、そこで写真を撮っていて、今回はそれを使って風景のイラストを描くことにしていた。春までは直接見て描いていたけど、さすがに真夏日にじっと座っているのは厳しいということもあり、今日はマティスで行うことにした。
 琴音はコーラフロートを頼んでいて、まずアイスから食べようとしていた。でもそうするとアイスとコーラの泡が触れて、アイスが押し出されて溢れてしまいそうになった。琴音はスプーンでどうにか押さえて食べているけど、今にもアイスが落っこちてしまいそう。それをいつまでも愛でているのも良かったけど、いくらなんでもかわいそうだと、私は琴音のスプーンを持つ手を止めた。
「先にコーラから飲んだほうが良いよ。そしたら溢れないから」
 琴音は言った通りにすると、目をキラキラと輝かせてこっちを見た。子どもみたいに感動するものだから、私もついつられて笑みを浮かべてしまう。私はスマホをいじりながら気長に待ち、琴音がアイスを食べ終わったところで、私たちは絵を描き始めた。
 写真は琴音が一眼レフカメラで撮ったもので、仕組みはよく分からないけどすごくきれいにイチョウ並木の風景が撮られていた。琴音は写真を撮る趣味もあるようで、一眼レフカメラの扱いはプロ並みではないにしろ慣れているという。いつもぼんやりしている琴音だけど、意外と様々な特技を持っていて、なおかつ勉強もできるのだから尊敬するばかりだ。それで顔もかわいいなんて、本当に理不尽な世の中だと、とうてい意味もないことを考えていたら、琴音はもうペンを走らせていて、私も描き始めた。
 ブラシツールを使って、下書きを進めていく。あらかじめ紙に下書きを描いておいて、スキャナーで取り込むという方法もあるらしいけど、そもそもスキャナーなんてものは持っていないし、手間がかかりそうだからやりたくない。琴音はスキャナーを持っているらしいけど、今はあまり使っていないらしい。たぶん趣味程度のイラストには必要なということだろう。何時間か経って下書きの半分くらいが終わったところで、アイスカフェオレを飲んで一息つく。こっそり琴音の絵を覗き込むと、とっくに下書きは終わって色を塗っていて、いくつものレイヤーが表示されていた。真剣な表情の琴音を横目にイラストに目を凝らしていると、琴音はこっちに気づいた途端、両手でiPadを覆ってしまった。
「完成してからね」
 唇を尖らせて言うもんだから、ついつい頭を撫でてしまった。琴音は紐解くように頬を緩ませ、「わたしもちょっと休憩しようかな」と言ってアイスのないコーラフロートを飲んだ。ふうっと琴音は吐息交じりに言い、こっちに目を向けた。
「そういえば、バイト先の子となにか進展なかったの?」
 琴音は笑みを浮かべているけど、いつもとは違って作り笑いのような違和感があった。私は気付かれない程度にため息を吐いてしまった。
「なにもないよ。それに、あと一か月でやめちゃうしね」
「え、そうなの? そっかー、じゃあなおさら今のうちに攻めなきゃ」
 琴音は鼻息荒くして、興奮気味に前のめりになる。それもどこか演技臭くて、おもわず目を落としてしまった。
 最近の琴音はいつもこうだ。やぶからぼうに岳くんの話を持ってきては、なにかと私とくっつかせようと進めてくる。いったい何がしたいのかさっぱり分からないけど、なんだか良い気はしなかった。琴音はそんなおせっかいなタイプではない。なのにどうしてこんなに聞いてくるのだろうと、カフェラテのストローを咥え、頭を悩ませてしまう。
 スマホがバイブして、見てみるとLINEが着ていた。その相手は高校の友達から誘われ、参加した合コンにいた男からで、今度会わないかという内容だった。でも私はそれとなく断った。たしかこの男は早瀬田大学とか言っていた人で、すさまじくナルシストだった。ひたすらに大学の自慢しかしてこなくて、それ以外には何もないのかよとつい言及してしまいたくなったけど、周りに変な印象を持たれないよう愛想笑いで切り抜けた記憶がある。基本的に肯定するとはいえ、自分に悪影響な人間にまで、ずるがしこく接するつもりはもうとうない。だから私はスタンプだけを使って、なんとか会話を切り抜けたあと、これ以上連絡が来ないようブロックすることにした。
 ため息をついてスマホをしまうと、ふと思った。彼氏がいたりしても、琴音には一度も話したことがないような気がする。なんとなくだけど、琴音は好きではないように感じて、そういう話題はいっさい出さなかった。けれど逆に、琴音はそれが寂しかったのか知れない。比較的に甘えん坊で純粋な琴音だから、その可能性はじゅうぶん高い。琴音に微笑みを向け、私は琴音の瞳に目を据えた。
「ごめん、岳くんと付き合うつもりはないよ。ぜったいに」
 最初は冗談かと思ったのか笑みを浮かべていたけど、私が真っ直ぐに見続けていると、少しばかり視線を下げ、そっぽを向いた。とたんに、陽だまりのように柔らかな表情が消え、無、という言葉がぴったりの顔つきに成り代わった。
「でも、彼氏ほしいんでしょ?」
 暖かさが根こそぎ消えた声色は、私の鼓膜を鋭く突いた。普段とどこもかしこも違う琴音の姿を目の当たりにし、私はおもわず呆然と目が離せずにいた。すると琴音はふふっと嘲笑にも似た笑みを浮かべ、私の視線を舐めるようにすくい取った
「だって合コン行ってるって、よく聞くから」
 そのとき、ハッとなって目を見開いてしまった。琴音は知っていたんだ。周囲の噂からとかで、私が合コンで男を探していたり、彼氏がいたりしたことを。なにも話さないから、まるで私が隠し事をしているみたいに思えて、琴音は胸の内でイライラしていたのかもしれない。それが腫瘍のようにどんどん広がっていき、今日、爆発してしまったのだろうか。だったら琴音がこんなふうになってしまったのも私のせいで、私はおどけた笑みを作って頬を掻いた。
「ごめんね、隠すつもりはなかったんだけど。琴音、合コンの話とかあんまり好きじゃないと思ったの」
 首を傾げて琴音の瞳を見つめる。だけど、琥珀色の瞳はいっそうに色あせていき、全ての苛立ちを込めたようなため息を吐かれた。
「わたしね、凛ちゃんが思うような人じゃないよ」
 琴音は人を小馬鹿にするような、うすっぺらく白い笑みを零した。私はついついキョトンと口を半開きにしてしまった。さっきの言葉が頭の中で反芻して、ようやく理解できたけど、琴音が発したことなんだと納得するには、まだまだ時間が足りなくて。目の前にいるのは、あたかも別人のように思えてならなかった。
「わたしはね、ぜんぜん純粋じゃないよ。凛ちゃんは勘違いしてる。あんなの、ぜんぶ演技だから。だから……」
 琴音はどんどん俯きながら、話すにつれて言葉の勢いが弱まっていき、とちゅうで口を閉ざし、ぎゅっと両手を握っていた。そして、私は目を見張ってしまった。
 するりと、一筋の光が頬を伝った。ぽつりと、絵の具を垂らすように染みて、木のテーブルに丸い模様を描いた。たった一つの涙には、いくつもの気持ちが詰まっているように見えて、私はおもわず小さく繊細な女の子の手を優しく包んでいた。強張った琴音の手はゆっくりと解かれていき、そっと私の人差し指を握ると、震える声で琴音は言った。
「私の好きな人はね、岳なの」