線路越しに真っ赤な夕日がじりじりと沈んでいた。昼間に熱された、じっとりと空気の蒸れた匂いが顔にぶつかり、つい目を細めずにはいられなかった。真上からは電車の走る音がして、そろそろ帰宅ラッシュの時間だなと、関係ないのに嫌なことを考えてしまった。ラッシュ時の車内は熱いし臭いし、夏ならばもっとも最悪だ。だから私は少しでも早く大学に行くことにしていた。早起きなんて、ラッシュの電車に乗るのと比べれば、どうってことない。
 湿気をかき分けながら線路沿いを進み、環七通りに出ると線路を離れ右に曲がる。コンビニやTSUTAYAなど、幾つかの店を超え、そろそろ店が見えなくなってきたころに、私の働いているファミレスあった。スギ薬局の上にあるから階段に登らならければいけなくて、ここまで歩いてきた足にとどめの負荷をかけてくる。ならば自転車で来いよという話になるけど、じっさい普段は自転車通勤だ。今日歩きだったのは、運動不足を少しでも解消するのが目的で、ただでさえ最近はイラストを描くというインドアな趣味を始めたのだからしょうがない。女たるもの、少しでも痩せたいと思うのは自然の摂理だから。
 センサーのベルが鳴らないよう、端に寄りながらドアを潜り、なるべくこっそり素早く控室へと足を運ぶ。ちらりと腕時計を見遣るとまだ時間は四十分くらい余っていて、私はトートバックを置いてドリンクバーに向かおうとすると、ちょうど岳くんと出くわした。
「こんにちは」
「ちはー。岳くんなんか飲む?」
「はい。じゃあ」
「氷なしのオレンジ、だよね?」
「はい。お願いします」
 岳くんは軽く会釈し、私は了解という意味を込めて笑みを返した。岳くんは毎回オレンジジュースと言う。それは単純に炭酸が飲めないからで、ついでに辛い物も食べられないらしい。見かけによらず子どもっぽくて、なんだかおかしかった。ドリンクバーでコップに注いでいると、樋口さんが通りかかり挨拶をし合った。
「なんか最近の凛ちゃん、来るの早くなったんじゃない?」
「そうですか? 気のせいですよ」
 表情には出さまいと笑みを作ってドリンクバーを離れて息を吐き、微かに速まった心臓の鼓動を抑えようとした。
 樋口さんは意識して言ってはいないのだろうけど、私は勝手に岳くんがいるからだと勘違いしてしまって、それはすぐに誤りだと気づいた。でも私の勘違いはあくまで友人として仲良くなりたいからで、決して恋愛感情などは一ミリも混ざっていない。
 控室に戻ると、岳くんは顔を上げ、受け取ろうとしたのか立ち上がって近づいてきて、私はオレンジジュース氷なしを渡そうとした。けど岳くんは突っ立ったまま受け取ろうとしなくて、どうしてか私に目を凝らしていた。首を傾げると、岳くんはさらに接近してきて、私はとっさに目を瞑ってしまう。肩に触れた気がしたけど、どうしたんだろうとゆっくり瞼を開ける。岳くんはなにかを摘まんでいて、手のひらに乗せて私に見せてきた。
「ほこり、肩についてました」
 そう言って岳くんはゴミ箱に捨て、私の分のコップも持って椅子に座った。だったら先に言ってほしかったけど、それでは緊張していたことがバレてしまうから口にはせず、一度だけ睨んで忘れることにした。私も前の席に着くと、岳くんはまたぺこりと頭を下げた。
「いつもありがとうございます」
「どうしたの? そんな改まって」
「いや、なんとなく言いたくなっただけです」
 岳くんは頭を掻きながら目を落とした。どうしたんだろうとも思ったけど、ただ岳くんが律義なだけかとも思って、私は「そっか」とだけ言って椅子に座った。ミルクとコーヒーを氷といっしょにストローで混ぜていると、岳くんが大きく口を開けて欠伸をした。目じりは微かに濡れていて、私は小首を傾げた。
「なんか眠そうだね」
「はい。今日までの美術部の課題があって、ほぼオールだったんです」
 岳くんはまた欠伸をして、机にだらりと体を乗っけた。なんだかアザラシみたいで笑いそうになったけど、唇を丸めてなんとか堪え、「へえ」と声を出して誤魔化した。
「そっからバイトなんて大変だね」
「まあそうですね。でも、イラストを描くにはアドビの費用を払わなくちゃいけなくて」
「自分で払ってるの?」
「はい。べつに貧乏というわけではないんですけど、アドビくらいは払わなければと思ったんです」
「へえ、えらいね」
 素直に感心の声が漏れてしまった。さっきの岳くんの言葉には、学費を払っている親に感謝しているという意味も汲み取れた。お金を払ってくれるのを感謝しつつも、どこかで当たり前と思っていた私には、年下だけど、岳くんがすごく大人に見えてならなかった。でもどうせ謙遜するのだろうと予想していると案の定、岳くんはかぶりを振った。
「ぜんぜんえらくないですよ。なれるかも分からないイラストレーターなんて目指してるんですから」
「親は賛成してないの?」
「いや、言ったことないので分かんないです。まあ、ボクの夢には気づいてるんでしょうけどね」
 岳くんは後頭部に触れ、ふんわりと柔らかく表情筋が緩み、親への尊敬や感謝が垣間見え、私もつい笑みを浮かべてしまった。
「でも応援してくれてるんでしょ? 良いお母さんとお父さんだね」
「まあ、そうですね」
 岳くんはさらに口角を上げ、優しそうに目を細めて曲線を描いていた。普段からこんなふうに笑えば良いのに、と思うけど、でも、それだと岳くんらしくもない気がした。それにたまにしか見られないからこそ、笑顔になってくれると私も嬉しくなるのかもしれない。私はカフェオレを一口飲み、スマホのロックを解除してツイッターを開き、漫画やらイラストを見ていた。するとふと思いだして、私は岳くんへと目を遣った。
「そういえば、『近日、大事なお知らせがあります』っていうツイートしてたけど、なにかあったの?」
 私は少し首を傾げながら聞くと、岳くんはこっちを見たけど、すぐまた視線を逸らした。首辺りを擦りながら足を組み、じいっと斜め下を向いていた。いったいなにを考えているのか分からなくて、もしかしたらそんな深刻な問題なのだろうかと聞き出してしまいたくなるけど、私は岳くんを見つめながら待った。小さく息を吐くと、とうとつに岳くんはこっちを向き、テーブル上で手を組んで口を切った。
「じつは、小説の表紙を描くことになったんです」
 ハッキリとした声音で言ってから、岳くんは再び目を逸らしてしまった。小説の表紙を描くことになったということは、イラストを描いてお金がもらえるということ。プロのイラストレーターになったということだろうか。それはつまり、岳くんの夢が叶いつつあるということだ。あまりにも急のことで、すぐには理解できなかった。でもこれは、とてもめでたいことだった。
「おめでと!」
「ありがとうございます」
「なんかリアクション小さくない?」
 表情一つ変えず真顔で会釈していて、私はついおかしくて噴き出してしまった。岳くんは首を描いてから斜め上を向き、手の甲で目を覆った。
「正直、今でもしっくりきてないんですよ。小説の絵を描けるなんて」
 岳くんは目から手を離し、私に目を据えていった。自信がないような口ぶりだったけど、声には上ずった様子はなく、矢を引いた弓のようにぎりぎりと瞳は揺れ輝いていた。野心に満ち溢れていて、いつの間にか私の視線は釘づけになっていて、太鼓を打ったように心臓は跳ねていた。
「がんばってね、岳くん」
 笑みを浮かべて声をかけると、岳くんも笑顔になった。でもゆっくりと、夜の帳が降りるように口角は落ちていき、目を横に背けた。
「どうしたの?」
 岳くんのほうを見て聞くと、後頭部の髪を流れに逆らってなぞり、こっちを見て口を開いたけど、なにも言わずに硬く唇を閉ざす。それから深呼吸をし、岳くんは私の瞳に目を澄ました。
「やめるんです、バイト。来月には」
 ゆっくりと薄い唇から、声変わりしたばかりのような、あいまいでとぎれとぎれな声が零れた。私は数回ばかり瞬きして、言葉の意味を汲み取ったときにはつい目を丸くしてしまった。
「え、なんで?」
「いや、それは、お金は仕事で稼げるんで」
 たしかにそうかと、私はコクコクと首を前に倒していた。さっきは驚きすぎて気づかなかったけど、アドビの費用を稼ぐためにバイトしているのだから、そもそも絵で金を稼げるようになった時点でバイトをする必要性はない。高校生なのだから生活費を気にする必要もないわけで、これからは絵だけを描いていけば良いのだ。
 だけどそうなると、もう、岳くんとの接点はなくなってしまう。もう会えるのは一か月の間くらいか。そう思うと、すきま風みたいにひんやりとした風が胸を吹き抜けた。せっかく仲良くなってきたこのごろだけど、どうしようもないことで、それに私がどうこうする理由はどこにもない。だから、私は、唇の端を持ち上げて、にこりと笑みを繕った。
「うん、応援しているよ、ファンとして」
 目を見つめながら言うと、一瞬だけ瞳にハイライトが生まれた気がして、しまったと思った。内に秘める感情が漏れていたのではないか心配になった。だけど、どうやら違ったようだ。
「はい」
 岳くんは腹から出たようなはっきりとした声で言って、素直に笑ったあと、ゆるりと目を落とした。瞬く間に、無理やり糸で釣り上げるみたいに不格好な笑顔になった。岳くんは「もう時間ですね」と言って、控室を後にした。時計を見遣るともう出勤五分前で、私は手を洗いに行った。
 手のひらと手首、手の甲を洗ってから指の隙間をこする。そんなことを無意識にしながら、頭のなかでは岳くんのことを考えてしまった。
 パレットにいくつもの色が混ざったみたいに複雑だったけど、岳くんの感情がそのまま顔に出ているんだと思った。するとどうしてだろう、琴音の顔が脳裏を過ぎる。そして私は気がついた。基本無表情で、会話は素っ気なくて、あまり自分から話しかけてくれないけど、岳くんは琴音に似ていた。真っ直ぐすぎるせいか不器用で、ずるがしこく生きられなくて、それを欠点と感じていないところ。それは私には全くない価値観で、だからこそ、私は友達になりたいと思ったんだ。
 きれいに泡を洗い流してから、私は頬を二回たたき、バイトへと気持ちを切り替えようとした。だれかに執着するなんて、たとえ友達であっても私らしくない。一生続く友情なんてありえないわけで、接点がなくなってしまえば、タバコの白い煙が空気に溶け込むように自然消滅していく。固執したところで、相手も新天地で友達ができていて、いつの間にか疎遠になっていく。だから友情はひとときの娯楽であり、それならまた新しい友達を作れば良いだけのこと。
 それなら残った一か月、岳くんと仲良くして、きっぱり忘れてしまおう。そう胸に言い聞かせて、私は仕事で使うハンディーを開いた。