「いえーい」
 手をかざしてきて、私はハイタッチに応じると、琴音は満面の笑みを浮かべてソファーに勢いよく座った。私も腰を下ろしてアイスカフェオレで枯れそうな喉を潤し、一息ついてだらりと足を延ばした。
 暗がりを怪しげな赤いライトが照らし、大きな液晶画面には様々なアーティストやカラオケ店の宣伝が流れていた。私のいる部屋はパーティールームで、平日で空いていたりするときはたまに案内してくれて、こういうのは大学生の特権だ。広く快適で音質も良いし、ソファーもなんだか良質な気がする。なにより、琴音がそれで楽しんでくれているのなら、それで良かった。
 今日は学校終わりに琴音とカラオケに来ていた。二時間くらいずっと歌いっぱなしで、さっきは『恋音と雨空』をデュエットで歌い、そこを区切りに休憩することにしていた。
 琴音がタッチパネルを操作しているのが視野に入って、肩を寄せて横から覗き見ると、牛乳とチョコレートパフェを頬を緩ませて頼んでいて、なんだこのかわいい生物はとほっぺをつねりながら、私はアイスティーを押した。すぐに飲み物だけを店員が持ってきて、琴音は牛乳を両手で抱えて飲むと、お約束とばかりに口ひげを作っていた。あらかじめ持ってきておいた、新品の手拭きで口を拭ってあげた。すると琴音から子犬のようなあどけない笑顔がはじけ、私もつられて笑みを浮かべてしまう。
 私もアイスティーを飲むと、テーブルにあるスマホがバイブした。ほとんど無意識にスマホを手に取ると、『アガ』のツイッターが更新されていて、アプリを開くと一枚のイラストが投稿されていた。
「琴音、『アガ』が更新してるよ」
「ほんとだー」
 琴音は私の肩に頭を置きながら見ていて、ふんわり漂う幻想的な甘い香りを感じながらも、私はイラストに意識を向けた。長靴を履いた女子高生は水たまりに飛び込んで、弾けた雨水のせいで周囲は扇形に水しぶきがたち、カメラのレンズが濡れたみたいになって顔が覆われて見えない。
『アガ』こと岳くんが描くのはいつも無邪気で明るい女の子で、だからかもしれないけど、毎回毎回、琴音の笑顔を当てはめてしまう。それはたぶん、私の理想の女の子が琴音だからで、それが友達であることをとても嬉しく思う。だけど付け加えて、いつか、ずるがしこく生きるという、私のモットーの邪魔になるのではないか。そんな考えても無意味な危惧が、私の脳の片隅で居座っているのも、また事実で。それがたまに現れてくれると、本当にいつか、今まで積み重ねてきたものがジェンガみたいに崩れてしまうような気がして、最低な気分になる。
 私は一度深呼吸をして、再び意識を『アガ』のイラストに戻した。せっかく楽しく一緒に遊んでいるわけで、気分を切り替えて口を開こうとしたけど、琴音が先に会話を切り出してしまった。
「そういえば、バイトの岳くんとは良い感じなの?」
 岳くん、ととつぜん言われて体を強張らせてしまう。とうぜん恋をしているからというわけではなくて、さっきまで岳くんのことを考えていたからだ。けど琴音は前者と捉えたようで、とたんににやっと笑みに変わっていた。
「え、なんかあったの?」
「まあ、意外なことはあったかな」
「なになに?」
 琴音は私の太腿に手を乗せ、前のめりになってきらきら目を輝かせていた。完全に勘違いしているであろう琴音をしり目に、私は軽く息を吐いて口を切った。
「岳くんってね、意外と不器用なんだよね」
「うん」
 食い気味に聞いてくるので、私は上を向いて顎に指を添えてみた。琴音の眩しい眼差しにはさらに期待が上乗せされていたけど、気にせずあったままのことを話した。
「たとえばね、サラダを作るときよくドレッシング間違えちゃうし、この前なんか雑穀米を焚こうとしたら普通の白米を焚いちゃってたんだよ。めっちゃドジだよね」
「うん、それだけなの?」
「うん、それだけだけど?」
 首を縦に振れば琴音はあからさまなため息を吐いて、私のほうにぽてんと倒れて膝枕をしてきた。
「そっかー。なんかこう、つまずいちゃったら抱きかかえられたみたいな、少女漫画っぽいシチュエーション的なのないの?」
 琴音はテーブルのほうを向き、腕を組みながら声を唸らせていた。そのことにほっと一安心して、琴音の頭を撫でた。そうすればきっと、しばらくこっちを向こうとしないだろう。顔が熱くて、いまにでも氷水を被りたい気分だった。
 なぜなら琴音のせいで、出会ったときのことを思い出してしまったから。琴音がいまの私を見れば追及してくるのは確実で、それだけは避けたかった。あんな、穴があったら入りたくなるような話、死んでも言えるはずがない。私は氷でキンキンに冷えたアイスティーを飲み干し、頭を冷やすと、一つおかしいことに気づいて、私は琴音に目を遣った。
「岳くん、なんでもできそうってイメージだったんだよね。クールだし、しっかりしてそうだから」
「そうなんだ。じゃあ凛ちゃんはしっかりしてるから、二人で並んだらお似合いなんだろうね。聞く感じだと、岳くん気がありそうだしねー」
 琴音はさっきと同じようにきらびやかな瞳で見つめてくるけど、なんとなくだけど、それはひどく表面的に見えた。だから私の内にある疑念は、一気に確信へとなり変わった。
「なんかさ、琴音、今日変じゃない?」
 首を傾げて目を凝らしていると、唐突だったからか琴音は一瞬顔を強張らせ、同じように首を倒した。最初は冗談だと思っていたのかもしれないけど、私がいっさい目を離さずにいれば、琴音は少し笑みを零して目を落とした。
「なんかね、凛ちゃんの恋バナって聞いたことないから、つい舞い上がっちゃったの。ごめんね?」
 目じりが下がった上目づかいで覗いてきた。私はポリポリと頬を掻いてしまいながらも、琴音の頭を撫でてあげた。
 琴音は嘘を吐いたと思う。
 ずるがしこく生きるため、私は日ごろから人の顔をよく窺ってきた。だからたぶん、人の微妙な変化に敏感で、嘘なんかにも気づくときがある。どこがどうとか明確な理由はなくて、感覚的に。とはいっても私が特別なわけではなく、日本人は比較的そうなのだろう。けど私も含め、みんな決まって知らないふりをする。それはとても反射的で、争いたくないという本能が働くからだと思う。それがない人間は頭おかしいだの空気読めないだのと、多様の悪態を吐かれては、あっという間に避けられる。
 だけど、琴音はそういう人間ではない。基本的に言いたいことはすぐさま言って、やりたいことは我慢せずにやる。そんな琴音が嘘を吐いてまで隠したいことならば、きっとなにか訳があるのだろう。だから私は無理に言及しようとはしない。私も友達として、琴音を信じたかった。琴音が嘘を吐いたのは、そのほうが良いと思ってのことだろうから。
 そろそろお開きにして、私は会計の紙を取ろうとすると、スマホがポケットで振動した。ほとんど無意識にスマホを確認してしまうと、バイブが鳴ったのは『アガ』がツイートしたからだった。開いて見ると、おもわず私はまじまじと凝視し、首を傾げてしまった。
 そこには、『近日、大事なお知らせがあります』と書かれていた。