「…………。…………」
「およ? どうしたよ?」
 正樹に3回肩を叩かれて、ようやく戻ってこられた。
「ちょっ! なんでお前ここにいるんだ!?」
「いやぁ~。キュートな子達に、ヘルプを要請されたから来たってわけよ。まあ僕も、修がいるとは思わなかったけどね。あの子、『おにーちゃんが……』って言ってたしさ」
 そっか。愛梨達が……。
「ん? でも、お前の家ってここと反対だろ。どうして近くに居たんだ?」
 正樹の家は、ここから結構離れている。なぜにここにいる?
「いや~。修にDVDを返すの忘れてて、家に行ったんだけど留守でさ~。もしかして寄り道とかしてるんじゃないかな~て思って、来た道とは別ルートで進んでたってワケさ」
 なるほど。だから、愛梨達と会うことができたのか。
「しかし、修も困ったさんですなぁ。何をやってたんだい?」
「ああ。それなんだけ」
「てめえ何者だ!?」
 俺の声を遮り、金髪が叫んだ。
 その様子はまさに怒髪天を衝くで、目は禍々しく剥かれている。
「あ、こんにちは。僕は木本正樹です。どうぞよろしく」
 悪友は、爽やかに自己紹介を行う。
 こ、コイツは……。空気が、読めないのか?
「なっ。オメーは、この野郎の仲間なのか?」
「修は僕の相棒なんで、答えはイエス。そういうことになるね」
 相棒って。恥ずかしいことを言ってくれるじゃないか。
「…………そうかよ。じゃあ二人まとめて、ぶっ殺したってかまわねぇな? おい、てめぇら!」
「「おうよ!」」
 残り三人が、バット、竹刀、鉄パイプを握る。
「手加減なんて、しねぇ。骨どころじゃ済まさねーからなぁ」
 全員が、本気。殺す気、満々でいる。
「はぁー、仕方ないな。修、僕も助太刀するよ」
「すまない。でも、無理は、する……な……ぁ?」
 俺は、愕然とした。
 隣で正樹は片足を上げ、両手を真上に伸ばす変な構えを取っているのだ。
「お、おい。それ何?」
「これは『鶴の構えその1』だぜぃ。これは格ゲーで、強くて可愛いオススメの女の子が使う技だっ!」
 そ、そか。
 ただ、強くて可愛いを強調するのは止めて欲しい。
「さあ修っ。共に戦おうぞ!」
「……いや。正樹、アンタはやっぱり逃げて」
 この人、ダメ。俺よりケンカは不向きだわ。
「へ? なんで?」
「だって、お前さ。ケンカしたことないよね?」
「もち」
 だよねぇ。
「だったら、お前にまで迷惑はかけられない。時間を稼ぐから逃げろ。あと顔隠せ。覚えられたらまずいから」
「ちっちっち、僕は大丈夫さ。主人公はどんな時でも逃げない。勇猛果敢に立ち向かい、勝利を手にするのさ!」
 え、えーと。正樹くん。キミは、何の主人公なのかな?
「僕は、どんな窮地でも恐れない。閃きが全てを解決してくれるのさっ!」
「じゃあ主人公、この場を戦闘なしで乗り切れる方法ってあるのっ? 時間がないから十秒以内で閃いてっ!」
 金髪達が殺す目でこっち来てるから。早くお願いっ!
「待っていろ! え~と…………」
「頼むっ。頼むぞ……っ」
「え~とだな~。え~と………………………………えへっ☆」
 可愛く舌出してんじゃないよっ。やっぱ無いんじゃないか!
「もういいから正樹は逃げろ。場を和ませてくれただけで充分で、あとは俺がなんとかするから」
「え~、でもでも。何かあるはずなんだけどなぁ」
「無理っ! 絶対に無理だから!!」
「あ、ちょっと。修の口から――」
「ビーム出すってか?」
 あいにく俺は普通の高校生だ。ビームなんて出ない。
「違う、違うって。だから――おおおう! ナイスアイディア!」
「ど、どうした?」
「ふっふっふっ、まあ見てな。僕がキミを守る!」
 は、はぁ、そうですか。
 それなら、うん。とりあえず任せてみよう。
「金髪君たちっ。ちょいと待たれぃ!」
「な、なんだ?」
 ビシッと手を出され、思わず金髪達の足が止まる。
「キミ達は、東坂高校だね?」
 東坂高校? あぁそうか、この制服はあそこのものか。
 でも、それと何が関係あるんだ?
「そうだが、なんだ? 教師にチクロウってのか? 俺らは教師なんて怖くないぜ?」
「ノーノー、そうじゃない。キミらは、霧神輝ってご存知かい?」
 霧神? 初めて聞く名だけど、それにどんな力が――
「《眠れる獅子》、のことか……?」
 あれ?金髪が怯えてる。
「正解正解。ソイツだよソイツ」
「てめぇ、ソイツとはなんだ! 東坂の裏番舐めんなよ!」
 裏番? 裏の番長ってこと? てか、まだ番長っていたんだ。
「まあまあ、いいじゃん。で、アイツは元気ぃ?」
「お前…………それ以上言ったら、どうなるか分かってんのか? 今から呼んできて、ぶっ殺してもらうぞ!」
「いやいや~、そんな必要はないよ。代わりに、僕が呼んであげるよ」
「「「へ!?」」」
 おお。金髪達が、見事にハモった。
「実はね、アイツには貸しがあるんだよ。だから僕が呼べば、そっこーで来るよ?」
「ばっ、バカいってんじゃねぇ! あの人ら――人が、お前ごときに貸しを作るはずがねー……っっ」
 途中で噛んだ。物凄い焦りようだ。
「も~、信じなよ。これが電話番号で、こっちがアドレスとかIDね」
「ぜ、全部偽もんだろ? 何ならかけてみろよ。できもしねぇくせによ」
「…………あ、もしもし? 僕だよ僕」
 コイツ、もうかけてた! 話し始めちゃったよ!
「ん~、いやね、輝の電話番号って信じてくれなくてさ。あ、そうそう。輝の学校にさ、金髪の人いるでしょ? 声がしゃがれてて、背はそんなに高くない人」
「ちょっ。まっ」
 金髪野郎は引き続き、酷く狼狽している。
「あ、そう? 多分それ。おけおけ、分かった。じゃ~ね、また連絡する」
 ここで通話終了。正樹はスマホをポケットにしまった。
「なんだ、キミって輝と同じクラスなんだね。二年六組だってね」
 ということは、俺達と同じ年か。金髪だから分からなかった。
「ま、まさか……。お前は本当に、《眠れる獅子》と連絡を?」
「だーかーらー。そう言ってるじゃん」
 主人公、と言っておきながら、悪キャラ並みの悪い笑みを浮かべた。
「……な、何が狙いだ? 俺達を殺る気か?」
「まさか。ただ、この場を引いて欲しいってだけだよ。どうかな?」
「そ、そんなことできるわけ――」
「電話しよっと♪」
「わ、わかった! わかったからヤメテくれ!」
 か、完全に正樹が場を支配してしまった。どんだけ恐れられてんだよ、その輝って人。
「そっか、ありがとう。じゃあ、もういいかな?」
「あ、ああ。……い、行くぞお前らっ」
「「おっ、おう!」」
 倒れている二人を担いで、三人は猛ダッシュ。脱兎の如く空き地を去ってしまった。
「お、おお……。これって……」
「ほい。無事に収まりましたっ」
 敵が、一人もいなくなったんだもんね。どうやら俺は、助かったらしい。
「………………」
「あれ? 修どったの?」
「いやさ。あまりに簡単に解決しちゃったから、拍子抜けしちゃったんだよ」
 変に、身体の力が抜ける。
 無論すごく有難い出来事で嬉しいんだけど、不思議な気持ちになってしまう。
「いやはや。やっぱり困った時は輝だね」
「まさかアンタが、そんな人と知り合いだったなんてな。いつからの付き合いなんだ?」
「幼稚園、からだね。僕達は幼馴染で――そうだっ。ついでに輝のことを教えておこうではないかっ!」
「そ、そう? じゃあ聞こうか」
 この人のおかげで助かったんだから、どんな人か知りたい。それに勝手に名前出しちゃったから、あとでお詫びもしないといけないしね。
「うんうん。っとその前に、口をゴシゴシーってしてみな~」
「ゴシゴシ? こうか?」
 正樹の真似をして、口元を左袖で擦ってみる。これが何を――
「うおっ!?」
 擦った後、袖には血が付いていた。結構な量で、べったり、という感じ。
「ずっと、口から血が出てたんだよ。言おうと思ったけど、タイミングが悪くてね」
 そっか。殴られた時に口の中が切れたんだろうね。唾液と混じるから量が多く感じたのか――ってまてこら!
「知ってるなら、擦れって言うなよ!」
 服についたじゃないか。血が取れなくなったらどうすんだ。
「ちょっと、アニメの再現をしたくて。血を拭うのって格好いいじゃん?」
 まったく……。こいつは……。
「はぁ、まあいいや。じゃあ話を聞こうか」
「オッケー。まず、輝と出会ったのは幼稚園の入園式。その時に――」
「チョイ待ち! そこから?」
 あまりに前すぎる。現在に到着するまで何時間かかるか分からないぞ。
「えー、じゃあ短くして……。実は、輝には秘密があるっ」
 いきなり飛んだなおい。秘密って……。
「信頼できる修にだけ、教えてあげよう。実は輝はね、ケンカが強くない!」
「は!?」
 確かに、秘密だけど! どゆことっ?
「さっきの金髪君が言った、《眠れる獅子》って覚えてるでしょ? あれって、どういう意味だと思う?」
「意味ねぇ……」
 前に……どっかで聞いたことがあるような……。え~と…………ああ、世界史だったっけ。確か……『清』とかいう国のことを、先生がそう言ってた記憶がある。
 で、その意味は……
「本気を出せば凄く強い。でも十分に力を発揮していない。そんな感じだったと思う」
「ビンゴ! ズバリ、ヤツは言葉通りなのさ!」
「はぁ。と、仰りますと?」
「輝は身長が190以上あって、体格がいい。そんでもって、顔がめっちゃ怖い。で、それが相まって、歩くだけで恐れられるのよ。でもケンカなんてしたことない――というより暴力沙汰は怖いから、何もしない。だから《眠れる獅子》って呼ばれるようになったのさ」
 なるほど……。見掛けで圧倒してるってことね。
「って待て。だったら、ヤバイんじゃないのか? そんな人に押し付けちゃってさ」
「たまには、いいんだよ。貸しがあるからさ」
 そういや、さっきも言ってたな。
「なあ。貸しって?」
「初回版の、DVD」
「んん?」
 DVD? アニメの?
「輝もかなりのオタクでさ。昔の作品の初回版が欲しいって言い出した時に、オークションやらを探しまわってあげてようやくゲットしたんだよ」
 そっかそっか。輝さんもオタクだったのか。
「だから問題ないし、あの称号は伊達じゃない。印籠並みで、ノープロブレムだよ」
「正樹がそこまで言うのなら……。納得しておこうか」
 それに金髪野郎は、かなり怯えていた。あの様子なら、心配はないか。
「そうそう、そうしておいて。ということでこの話題は終わりにしてっと。僕としてはとにもかくにも、修が無事でよかったよ」
「…………さっきはありがとな。ホントに助かったよ」
「なんなのなんの。大したことないさね」
「いいや、お前は大したことをしてくれたよ。俺は、何にもできなかったからさ」
 偉そうなこと言っておきながら、大きなことは何一つできてない。
 まったく、情けないな……。
「もう、何落ち込んでるんだよ。武器持ってたらしょうがないって。僕が中学生の時にうっかり怒りを買っちゃった大学生だって、武器は持ってなかったしね」
 おいおい。今、サラッと凄いこと言ったぞ。
「しかし、だね。俺は約束をした――」
「修」
 ちょんちょん、と肩を突っつかれ、正樹が指差す方を見る。
 すると遠くから、愛梨と綾音が走ってきてた。二人とも、帰れって言ったのに様子を見に来てくれたんだ。
「あの子達は、すっごく心配してたんだぜ~? だから修君、YOUはさいっこーの笑顔で迎えてあげなYO」
「……ああ、そうだな。そうするよ」
 少しすると二人が空き地に入って、俺のもとへ。でも愛梨はスピードを緩めずに、俺に飛び込んで、
「おにーちゃん!!」
 そのまま抱きついてきてくれた。
「おにーちゃん。大丈夫? お怪我は?」
「心配してくれてありがとう。俺は大丈夫だよ」
 頭を撫でてから、ゆっくりと引き離す。
「鈴橋さん……。服に、血が……」
 ありゃ。隠そうとしてたけど、綾音に見つかっちゃったか。
「血? おにーちゃん、痛いの?」
「口が切れただけだから、心配しなくても大丈夫だよ。それに、正樹――俺の友達が助けてくれたからさ」
 正確には、友達の友達が、だけどね。
「あ、この方とお知り合いでしたか。同じ制服だとは思っていましたけど」
「偶然ってあるんだね。彼は木本正樹で、すごくいいヤツだよ」
 ここで、正樹に挨拶をするように促す。
「紹介されました正樹です。よろしくね」
 コイツ、早速手なんて振ってる。さすが正樹で、溶け込むのが早い。
「あの、木本さん。ありがとうございました」
 綾音が、深々と頭を下げる。
「いえいえ、これはこれはご丁寧に」
 正樹も真似をして、深々と頭を下げる。
 こういうのは、とても和む風景だよね。
「おにーさん。どーもありがとう」
 正樹が頭を下げている間に愛梨が近づき、正樹の右手を両手で握った。
「い、いいいいいいのよ。キニシナイ」
 ん? なんか変だぞ。
「おにーさん?」
「ハイ。オニーサンデスヨ」
 誰だ、コイツは?
「???」
「……ちなみに、キミの名前は何てお名前?」
 名前を二回言ってる。やっぱり正樹が変だ。
「愛梨。橘愛梨だよ。おにーさん」
「おおうっ。えっと、あい、り、ちゃん。おててをお放ししていただけるかな?」
「? うん」
 愛梨が両手を離した瞬間、正樹ダッシュ。俺の手を掴み、一気に空き地の真ん中に移動した。
「ちょっ。何してんだ?」
 いきなり走るからビックリしたじゃないか。
「いやね……。ヤバイ」
「ヤバイ?」
「愛梨ちゃん、俺のストライクど真ん中」
 ストライク? 気に入ったってことか。確かに愛梨と綾音、可愛いからな。
「でも正樹って、妹系には興味がないって言ってたじゃん。なぎさちゃんがいるし」
 妹がいるとそういうのはグッとこない。特になぎさと同じ小学生は駄目、と熱く語ってた。
「なぎさは、今年から中学生だもん。だから小学生はアリ」
 なんだよそれ。
「ってか、今『おにーさん』って言われた! まさか現実で言われる日が来るなんて夢にも思わなかった! これはキタ――――!!」
「待て待て待て。なぎさちゃんは『おにい』って呼んでるだろ?」
「馬鹿者! 実の妹に言われて何が嬉しいんだよぉ!!」
 ダメだ、コイツ。壊れてやがる。
 さっきのが、余程嬉しかったんだな。
「まあまあ。どーどー。落ち着けって」
「……修よ。僕は、帰る」
「え? どうして? 愛梨がいるのに?」
「これ以上この場にいると、完全に頭が狂ってしまう」
 なるほど。だとしたら、それは正しい判断だ。
「ということで、さらばっ!」
 多分、もう限界なんだろう。止めてあった自転車に飛び乗ると、愛梨を見ることなく全力で走り去った。
「おにーさん。どうしちゃったの?」
「何か、苦しんでいるような顔でした」
 綾音、正解だ。
「慌しくてごめんね」
 とりあえず、誤魔化しておこう。
 あまりにバカすぎる理由だから。
「ううん。でも、もう少しお話したかったなぁ」
 これを聞いたら、正樹は欣喜雀躍だろうな。
 ははははは。ははははは……。
「私もそう思っていたのですが、自分の意思で帰られたのなら仕方がありませんね。鈴橋さん、鞄です」
「うん。ありがと」
 預けていた鞄を、なんとも言えない気分で受け取る。
 ……悪友の誤魔化しは、この辺でいいだろう。小学生にとっては遅くなっちゃってるから、そろそろ帰るとしよう。
「愛梨、綾音。日が暮れちゃうから、帰ろうか。今日は送っていくよ」
「はい。よろしくお願いします」
「うん。ありがとー」
 というわけで俺は二人を連れて、空き地を出た。
 彼女達の家は分からないので、ここからは綾音が先頭。この子の先導で、道を進む。
「………………」
「………………」
「………………」
 無言。静かな時が、続く。
 普段なら愛梨が話しかけてくるはずなんだけど、なぜかこっちをチラチラ見るだけで、話しかけてはこない。
 なので、これはしょうがない。更に数分歩いた後、俺から話しかけてみることにした。
「ねえ、愛梨。どうしたの?」
「ほえっ!? な、なんでもないのっ」
 この子は、明らかに動揺している。
 なんでもないは、嘘だ。
「愛梨。何でも言ってごらん」
 もしかしたら、二人が黙っているのは、さっきのことがあるからかもしれない。小学生には怖かっただろう。引きずらないといいんだけどな。
「………………うん。あのね」
 愛梨には珍しく、奥歯にものが挟まったような感じ。
 本当に小さく返事をしたあと、彼女はふと立ち止まった。
「ん? どうしたの?」
「えっとね……。おにーちゃん、すごく辛そうなお顔をしてる」
「えっ!?」
 それは、まったく予想していなかったことだった。
「そ、そんなことないよ。ねえ綾音」
「………………」
 綾音から、返事がない。
「おにーちゃん、さっき……あの……あの、イジ、メられたってこと、言ってから、少し違うの。笑ってくれるけど、やっぱり、違うの」
「え~、まさかぁ。気のせいだよ」
「ううん。愛梨にはわかるの」
 俯き、ズボンを掴まれた。
「愛梨にはね、わかるの」
「……………………」
 俺は、返事ができずにいた。
 自分でもそんな顔だってことに気付かなかった。もちろん、意識もしてなかった。だけど――確かに、あの時から、ずっと胸がモヤモヤしている。
 理由はすぐに分かる。あれしかないからだ。
 正樹と話している時は、できるだけ気にしないようにしていた。時間が経てばなくなるだろうと思ったから。けど、それは、消えなかった。徐々に、大きくなっていく気さえする。自分の中で抑えていた部分が、あれをきっかけにまた出てきてしまった。
 それを、愛梨は――愛梨達は、見抜いてたんだ。
「あのね――」
 そんな俺を、愛梨はしっかりと見つめる。
「――おにーちゃんがお話してくれるなら、嫌じゃなかったら、愛梨、おにーちゃんの辛いお話を聞きたいの。あのね、愛梨はね、京助君のことをおにーちゃんにお話したら、身体がかるくなったの。だからね、おにーちゃんも、おんなじことしたら、かるくなる、と思うの。だからね、少しだけでもいいの。愛梨もね、えっと……えっと……」
 途切れ途切れだったけど、愛梨の気持ちがよく伝わってきた。
 それに――愛梨の瞳には、憐みや同情という感情が一切なく、ただただ純粋だった。
 もしかして……俺が愛梨を幼いと思っていたのは、純粋だからではないのか。もしかしてこれが、人間の優しさなんじゃないだろうか。そんなことまで考えさせられるような、真っ直ぐな瞳だった。
 だから――

「俺の、過去を聞いてくれるかな?」

 勝手に口が動いていた。
「うん。うんっ、お聞きするー」
 そうしたら愛梨の大きな瞳が、少しだけ細くなった。
 …………。ありがと、ね。
「あの。私は……」
「綾音にも、嫌じゃなかった聞いて欲しい」
 慮ってくれて、離れようとしていた綾音を引き止める。
 そうしてから俺は、ゆっくり一歩踏み出しながら、続けることにした。
「小学校五年の時だった。丁度、今と同じ時期。突然にその…………イジメが始まった。男子全員から。理由は分からない」
 声が震えかけたが、愛梨が右手を握ってくれた。
「最初は無視から始まった。それが一ヶ月続いた後、今度は俺を触ると菌がうつると言われた。別に俺が病気なわけじゃない。けど、そう言われた。机も、離された。
 それでも、我慢して、我慢して……そしたら、今度は靴を隠されたり、ノートを破られたりした。バッグを川に投げられそうになったこともある」
「今日の……。愛梨と同じ……」
 ポツリ、と呟いた。
「でも、耐えて耐えて耐えて、六年生になった。六年生になったら、そんなことなくなるんじゃないかって思ってた。でも、違った。それどころかもっと酷くなった。一部の女子まで加わり始めた。
 給食当番の時、汚いからって、俺が触った皿には誰も手をつけなくなった。おまけに珍しく俺の机に給食が置かれてると思ったら、ご飯に埃が入ってた。後で聞いたら、床に落ちたのを渡したんだって。
 俺は、精神的にボロボロになってた。でも、さらに酷い事件が起きた。俺がトイレから帰ってきたら、クラスメイトの筆箱がなくなったって騒いでいた。その時間は勉強を中止して、探すことになった。俺は必死で探した。自分がよく隠されてたからね。で、一時間後に筆箱は見つかったんだけど、見つかった場所が信じられない場所だった。それは、俺の鞄の中だったんだよ!!」
 つい声が大きくなってしまい、二人の身体がビクッとした。
「……ごめん。もちろん、俺は盗ってない。トイレに行った間に起こったことだから。でも、誰も信じてくれなかった……。先生ですら、話を聞いてくれなかった。結局、俺は全員の前で謝らされた。学年集会の時も謝らされた。……悔しかった。俺は、盗ってないのに。けど、仕方なかった」
 もう、この人達に何を言っても無駄、抵抗するだけ時間の無駄だ。

 ……この時だった。俺が全てを諦めたのは。

「そしてイジメは、俺が卒業するまで止まることはなかった。……これが、俺の過去のお話だよ」
 結局、全部話してしまった。
 途中――盗みのことは、小学生にはキツ過ぎる部分もあったから、そこはしないつもりだったんだけど。
 どうしてそこを言ったか分からない。もしかしたら、愚痴を言いたかった、誰かに『俺は無実だ』ってことを認めて欲しかったのかも、しれない。
「おにーちゃん」
 そんなことを考えていると、愛梨が俺の胸に顔を埋めてくれた。綾音は何も言わず、俺の手をそっと握ってくれた。
「愛梨……。綾音……」
「おにーちゃん。おにーちゃん。おにーちゃん……」
 シャツに、水分が染み込んでくる。
「……愛梨、綾音、俺の話を聞いてくれてありがとな。……確かに、愛梨が言ったとおりだ。楽になった気がする」
 少なくとも、モヤモヤが収まった。
 そういえば、こんな話をしたのは初めてだ。
 父さんと母さんにも、話したことはない。当時は共働きだったから、心配かけたくないってのがあったから。それに……話したところで、変わることはないと知っていたから。
「おにーちゃん。ホント?」
「うん。ホントだよ」
 顔をまじまじと覗き込んだ後、少しだけ笑顔が戻った。
「綾音も。ありがとうね」
「……いえ。……あの」
「ん?」
「……私が、鈴橋さんに助けを求めてしまって……。軽はずみな行動で、その、嫌なことを思い出させてしまって……」
 ああそっか。どうしていいか分からないから、ずっと黙って……。
「綾音、いいんだよ。俺が知らないところで二人が危険な目にあってた方が、もっと辛いからね」
 確かに思い出してしまったのは事実だけど、それと引き換えに二人が無事だった。今はそれで充分だ。
「あのさ、二人とも。俺は、今は楽しいからね。中学で新しい友達もできたし、高校に入ってからは相棒もできた。だから今は平気だよ」
「相棒って、あのおにーさんのこと?」
「そうそう。アイツね、変わってるけどいいヤツなんだよ」
「私達が困っている時も、すぐに止まって話を聞いてくれました。それまでに、何人かの方に話しかけたのですが…………全員、笑いながら素通りだったんです……」
 素通りは仕方ないにしても、笑いながらってのは酷いなぁ。ソイツらの心境が、全く理解できない。
「あ、それとさ。こんな話をしておいてなんだけど、二人には楽しい小学校生活を送って欲しい。もちろん、送れるだろうけどさ」
 あの時の俺とは違って、信頼し合える存在がいるからね。きっと大丈夫だ。
「うんっ」
「はい」
「うんいいお返事ですで、じゃあ帰ろうか。随分話に集中してたけど……そろそろ?」
 結構歩いたからなぁ。もう着くの、かな?
「はい。私の家は、そこを曲がったところにあります」
 綾音の後に続いて百メートルほど進み、角を曲がる。そして少し歩き、綾音の足が止まる。
「ここが、私の家です」
 なんと、綾音の家は三階建て。ここ、何LDK? マンション暮らしの俺とは雲泥の差だ。
「で、でっかいお家だね……」
「愛梨もね。初めての時は、ビックリしたよ」
 つい『お』がついてしまうほど、立派だった。周りにも家があるけど、間違いなくトップ。門だけでも他の追随を許さない。
「あ……。父が、小さな会社を経営していまして……」
 ちょっぴり恥ずかしそうに、教えてくれた。
 そうかそうか、会社をねぇ。
「鈴橋さん、愛梨ちゃん。どうぞ」
 ボケーっとしていると、綾音は門を開けて微笑んでいた。
 もしかして、入れってこと?
「えっと……」
「今は母が居ると思いますが、気にせずどうぞ」
 いやいやいや。俺が気にしなくても、お母さんが気にするでしょ。
「ぅーん、今日は遠慮させてもらうよ。お母さんも、突然俺が来たら驚くだろうしさ」
「そう、ですか……。すみません」
「いえいえ。お気になさらずに」
「…………はい。ではまた、鈴橋さん、愛梨ちゃん」
「あっ。ちょっと待って!」
 チャイムを押そうとしていた綾音を、愛梨が制止する。
「? 愛梨ちゃん?」
「今ね、思いついたんだけどね、明日お休みだから皆で遊ぼーよ。絶対楽しくなるから――あ、でも。おにーちゃん、お暇かなぁ?」
 突然の提案。愛梨はニコニコしてるけど……もしかしたら、俺に気を遣ってくれてるのかもしれない。
 えっと、明日は…………土曜だから休みだ。そりゃ高校生も小学生も一緒か。
「うん。俺は、暇だよ」
 休日はいつも、ダラダラしてる。年から年中暇人だ。
「よかったぁ。そだ、おにーさんもお誘いできないかな? 急に帰っちゃったから、お礼言えてないの」
 う~ん。正樹を呼ぶのは別の意味で危険なんだけど、礼を言いたいって気持ちは大切だからね、とりあえず電話してみるか。
「ちょっと待ってね」
 スマホを取り出し、タップ。履歴から正樹の番号を選んだ。
『はいよっ! ダーリン☆』
 すごいなコイツ。ワンコールで出やがった。
「おいおい。ダーリンって誰だ……?」
『細かいことはいいから。ワイに何用だい?』
「明日愛梨達と遊ぶことになったんだけどさ、愛梨がお前を誘ってるんだよ。どうする?」
 さて、どんな反応するかな?
『………………』
 あれ? 反応なし? 予想では、歓声が聞こえるはずなんだけど。
「おーい。まさ」
『ジ――――ザス――――――――!!』
 うおっ。ビックリした。
「ど、どうした?」
『か、神は……。神はいないのか……』
「ん? 無理、なのか?」
『……明日は買い逃した同人誌の委託があったり、色々と買い漁る日なんだ。先週修の父ちゃんに、一緒にどうですかって話してたでしょ』
 ああ、そういえば。そんな話をしてたな。
『そんで修パパが駄目だったから、輝と行く約束してんのよ。あうあう……。せめて、日曜だったら行けたのに?』
 疑問系で聞かれても困るんだけど。
「じゃあ、あれだ。明後日にしてもらおうか?」
『ノンノン! 誘いをずらすなど言語道断! 修、僕の分まで楽しんできてくれ。僕は想像で遊ぶから』
 え~、それはかなり気持ち悪い。けどまあ、そう言うならそうしておくか。
「なら、仕方ないな。じゃあまた」
『はいよ。僕はこれから、アニメに慰めてもらうよ。(くすん)』
 通話終了。というか、最後の『かっこくすん』って自分で言うなよな。
「おにーちゃんおにーちゃん。。おにーさん、どうだったの?」
「正樹は、都合が悪いってさ。楽しんでって行ってたよ」
「そう、なんだ……。残念。綾音ちゃんは、大丈夫だよね?」
「……う、うん。大丈夫」
 ん? 一瞬、戸惑ったように感じた。けど今はいつもの表情だから、気のせいかもだ。
「愛梨ちゃん。明日はどこで遊ぶ?」
「え~とね~――」
「詳しいことは、愛梨を送りながら考えるよ。愛梨、それでいいよね?」
 いつまでも玄関前に居たら、お母さんに見つかってしまう。
 早くこの場を去るとしよう。
「ん、それでいーよ。綾音ちゃん、夜にスマートホンに連絡するからね」
「うん。じゃあバイバイ」
 ここで俺達は別れ、ここからは二人で行動。次の目的地は、愛梨の家だ。
「ねえ。愛梨の家は、ここから近いの?」
「うん。こっちだよー」
 今度は愛梨に案内され、三分ほど歩くと愛梨の家に着いた。
 少し前に綾音が言っていたけど、確かに近い。予想より早かったから、まだ集合場所と時間しか決まってないぞ。
「じゃーん、ここがお家だよー。どーかなどーかな?」
「うん。愛梨の家も綺麗だね」
 二階建てで、白を基調とした外観がお洒落で良い。表札も建物に合わせたデザインで――あれ? 表札には、名前が二人分しかない。愛梨は、お母さんと二人で暮してるのか。
「おにーちゃん。どうぞー」
 またお誘いが、やってくる。
「いやいや、いいですいいです。ご迷惑になるから、俺はもう帰るよ」
「? お母さんの帰りはいっつも夜だから、愛梨と二人だけだよー?」
 おい。お母さんがいるよりやばいじゃないかっ!
「ってのは、さて置きだ」
「??? さておき?」
「ごめん、なんでもない。それより、お母さんっていつも遅いんだね」
 ちょっと、気になってしまった。
「うん。お母さんね、お仕事が忙しいの」
「そうなんだ。ご飯とかはどうしてるの?」
「愛梨、お料理苦手だから……お母さんが作ってくれてるの。それに時々、綾音ちゃんのお家で一緒に食べさせてもらうこともあるの」
 そうなのか。ご飯があって、時々は友人宅に行っているなら安心だ。
「ふふ。二人は、仲がいいんだね」
「うんっ。愛梨のお母さんと綾音ちゃんのお母さんは、小さい時からずっとお友達なんだって。だからね、綾音ちゃんとはずーっと前から、一緒だったんだよ」
「へ~。なんか良いね、そういうの」
「うんっ」
 俺にはそんな存在が居なかったから、ちょっと羨ましいな。まぁ、今は家以外では殆ど一緒にいるヤツがいるんだけどね。
「さ~、おにーちゃん、どうぞー」
 うおっ。話してる間にドアが開いてた。
「いやね、俺はいいんですよ。また今度に」
「でもでもー。まだ明日、何するか決めてないよ?」
「えー……あ、そうだ! じゃあ、何をするかは、明日になってのお楽しみってことで、愛梨が一人で考えて。俺達をビックリさせれたら愛梨の勝ち。ミステリーツアーっぽくていいよね?」
 息継ぎなしで、言い切りました。
「みすてりー……。みすてりー……。面白そう」
 なんか、『ミステリー』に興味を持ってくれたみたいだ。よかったよかった。
「じゃあ、愛梨。お願いできるかな?」
「うんっ。お願いされましたー」
「では、よろしくね。俺はこれで――」
「あら? 愛梨ちゃん、おかえり」
 突然背後から、声がした。
 なのでギギギギギッと錆びた人形のように振り向くと、おばあさんが立っていた。
「んっ。ただいまですーっ!」
 えっと、どなた? もしかして、お母さん――ではないよね。歳が離れすぎだ。
「あのね、おにーちゃん。お隣さん、なの」
 ああ、お隣さんか。それなら見られても――駄目だっ! 隣人さん、こっちみて訝しんでるよ。だって、知らない高校生(男)がいるんだもん。
「お、俺っ、もう遅くなったから帰るね。バイバイまた明日」
 踵を返し、走る。背後から「おにーちゃん?」と聞こえたが、振り向かない。

(神様、お願いします。隣人さんが愛梨のお母さんに言いませんようにっ。面倒臭いことになりませんようにっ)

 俺は心で何度も祈りながら、今来た道を走り続けたのだった。