「修ちゃ~ん」
 次の日の放課後。HRが終わって教科書を鞄に入れていると、いきなり背後から抱きつかれた。しかも首に手をまわしてくる。
「……放せ。そしてどけ」
 俺は荒っぽくそれを払いのけ、振り返る。するとそこにいたのは、クラスメイトの細身の少年。
 こいつは悪友の木本正樹で、こんなことをするのだ。
「もぅ。修ちゃんのいけずぅ☆」
 そしてよく、こんなことを言う。
 言っておくが彼は、こいつはそっち系の方ではない。いつもこんなノリなのだ。出会って二年目に突入するが、時々付いていけない時がある。
「はいはい。もういいから。で、何の用だ?」
「いや~。修が暗かったから、励まそうと思って」
「暗かった?」
 俺、知らない間にそんな顔してたのか。
「そうそう。なんか黄昏っていうのかね。そんな感じ」
 随分な表現だなおい。
「そうか? 別に、そんなつもりはないんだけど。まぁ、心配かけてスマン」
「いいってことよ。ついでに、頼んでたDVDも借りたかったことだし」
 最高の笑顔でそう言ってくれる。……実は俺の方が『ついで』ってことはないよな。
 深くは考えないようにして、鞄からDVDを取り出し、正樹に渡す。
「サンキュ~。おおっ! やはり描き下ろしジャケットが良い! さらには作画も神とキタ! これは帰ったら天国ぅ!」
 ちなみに正樹の台詞を聞いて分かるとは思うのだが、このDVDはアニメだ。
 実は俺の父親がオタクで、コイツと我が父はオタク仲間なのである。
「なあ。そんなにテンション上がるんなら、自分で買えよ」
「僕も買いたいのはやまやまなんだけども、だけども……っ。お金がない!」
 ふんぞり返って偉そうに言うが、威張れることではない。
 だが、金欠の理由を聞けば、少しは威張ってもいいかもしれない。
 こいつは重度のオタクでかなりのペースで漫画、ラノベ、CD、DVD、ゲーム、フィギュアを買いに行く。そんなことをするからすぐに小遣いが足りなくなる。足りなくなると、食費を削る。餓死寸前まで削る。
 でも、どうしても買えない分がでてくる。で、それを父さんに借りるというわけ。まあ、結局はオタク魂で来月には借りたやつを買ってくるんだけど。
 そのため、こいつは学校でもかなり有名。『西園高校の萌え王』『二年四組の萌え伝道師』なんて称号まであるのだ。
「っておい! それやめろ!」
 説明してたら、感極まってパッケージに頬ずりなんてしやがった。
 DVDが汚れたら、俺が文句を言われるんだ。今すぐ離れろ。
「ちゃんと汚れないようにしてるからさ~。固いこと言わないで――」
 ガラッ ピシッ!
「鈴橋! 鈴橋修(すずはししゅう)はいるか!!」
 正樹の頬ずりを止めようとしていると教室のドアが勢いよく開き、野太い声と共にがたいのいい男が入ってきた。
 この人は去年の担任であり現担任でもある、坂本(さかもと)先生だ。
 坂本先生は、教室をキョロキョロしている。そして俺は、隠れようとしている。
「修。呼ばれてるよ」
 頬ずりを止めた正樹が、楽しそうに俺の肩を叩く。
 そう、『鈴橋修』とは俺のこと。だが、俺は返事をする気にはなれなかった。なぜなら、この先生がフルネームで人を呼ぶときは、怒っている時だからだ。
 去年から一緒の正樹はそのことを熟知している。だからこの笑みなのだ。
 ……さて、ここからどうやって逃げ切ろうか? と、頭を働かせていたが――
「そこにいたか!」
 見つかってしまった。
 まあ、教室は狭いからな。当然だよね。
「へいへい。ここにいます。御用はなんですか?」
 俺は、しぶしぶ手を上げる。
「鈴橋。この間の化学のテストのことなんだが……」
 化学の? あれは、真面目に受けたはずなんだけどな……?
「先生。テストがどうかしましたか?」
「先程採点していたんだが、非常に空白が多い。これはどういうことだ!」
 俺のらしきテスト用紙を広げ、見せてくる。って待って! そんなことされたら俺のテストの点数がばれるじゃん。
 し、仕方ない。ここは正直に話してさっさと退散してもらおう。
「それ、分からなかったからなんですよ。確かに空白が多いですけど、放棄してはいませんよ」
「む、そうか。だが、選択問題まで空白とはどういうことだ。せめて抵抗してみたらどうなんだ?」
「もちろん、そこも考えたんですけど……。答えが分からなくって」
「んー、それなら仕方ないかもしれないが……。あのな鈴橋、俺は以前からお前に一言――木本正樹! なんだそれは!!」
 急に、正樹がコールされる。
 よく分からないが、対象が移ったらしい。これでひとまずは安心――じゃねぇ! コイツが持ってる『それ』は父さんのDVDじゃないか!
(ちょっ、どうすんだよ、お前が呑気にしてるからばれちゃっただろ)
(ぇ~。そんなこと言われてもねぇ)
 先生が喋る前に、作戦会議だ。このままじゃあ没収だからな。
(なんとかしろよ! このままだと天国が地獄になるぞ!)
(ああ~、それは困るからなぁ。……よっし、いいこと思いついた)
 悪友はバッチーンとウインクをして、先生の方を向く。
 こいつ……。ホントに大丈夫なのか?
「コラっ、それはDVDじゃないのか? 学校にそんなモノは持ってくるなと何度言えば――」
「ちょっと待って先生。これは、ただのDVDじゃないんですよ」
「? じゃあ、何のDVDなんだ?」
 さて、ここからどう持っていくのか。腕の見せ所だぜ?
 正樹はスウッと息を吸ってから、
「エロのDVDです!」
 信じられないことを言いやがった!?
「え、えろ、だと……?」
「はい。エロです!」
 教室で連呼される『エロ』という言葉。意味不明なソレを聞いて、教室に残っていたクラスメイトの視線はこっちに集中する。
「先生。これは僕が修から借りたモノです。そしてこれは、立派な保健体育の勉強なんです。だから、どうしても必要なんですっ。僕達は勉強をしたいだけなんです!」
 まるで正論のように聞こえるが、人間として最低だ。おかげであちこちから「鈴橋ってそんな人なんだ」や「修もやるな」なんて声が聞こえてくる。
 色々ふざけるなよ、正樹……っ。そんなふざけた理由でどうこうできる――
「……そうか」
 あれ? 先生が頷いてるぞ。
「先、生?」
 黙っていた俺も、つい言葉を発してしまった。
 ど、どういうこと……?
「そういう話ならば許そう。二人とも、今後は気をつけるようにな」
「はい。ありがとうございまっす!」
 嬉しそうに鞄にDVDを入れる正樹だが……。これでいいのか?
 よくは、ない。ちっともよくない。
「せっ、先生っ! このDVDはそんなモノじゃなくて――」
「隠さなくていいぞ鈴橋。性欲というのもは、人間に必要な欲求の一つだ。健全な男子には必要なことだからな、今回は大目に見た。次からは注意しておけよ」
 などと言って、妙に優しい顔をして教室を出て行った。
 えっ……。いやね、俺は……
「作戦大成功!」
 唖然としているところに空気の読めないバカが肩をバシバシ叩いてくる。だから俺は、
「喰らえ!」
「ぐはぁ」
 アッパーをプレゼントしてやった。
「なにするんだよ。綺麗な顔に傷がついたら……もぅ……」
「何が綺麗だ! ここにいる全員に聞かれて、俺が変態に思われたじゃんかよ! これなら没収されたほうがましだ!」
「もぅ、そんなこと心配してたのか。それなら問題ないって。お~い皆、協力感謝する」
 悪友は首だけ振り向いて、意味不明なことを言った。
 は?
『も~。鈴橋君に迷惑かけちゃだめでしょ~』
『修も大変だな。お疲れさん』
 クラスメイトから、そんな言葉が返ってきた。
 えと、これは?
「な、心配ないでしょ。皆、修がそういうヤツじゃないってことは知ってるっての。僕に合わせてくれただけだよ」
「そ、そうなんだ。なら、いいや」
 なんか知らない間に、皆にはそう認識されてたみたいだ。特にあれこれ言った覚えはないんだけどな。
「ふぅ。正樹のせいで余計に疲れた。ただでさえ考え事があったのに」
「あ、ほらな~。やっぱり考えごとあったんじゃん」
 しまった。安心したらつい、口が滑ってしまった。
「いや、別に……」
「なあ悪友よ。僕でよかったら相談に乗るけど?」
 さっきまでの笑顔が消えて、心配そうにしてくれている。
 う~ん。確かに悩んでても仕方ないし、少し相談してみるか。
「実は昨日、人助けみたいなことをしたんだけどさ……。それが正しかったのかって、考えちゃうんだよね」
 結局俺は、女の子を助けた。腕を掴んだあと少し睨んでみたら、悪ガキは蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。
 その結果もちろん、女の子は喜んでくれてたんだけど……。けど……。
「僕は、正しいことだと思うよ。人助けって勇気がいることだし」
「ありがと。でもなぁ……」
 今回のことはこれで終わりなんだけど、問題はその後なんだよなぁ。
 もしあんなことが日常的に起きてたとしたら、俺が助けたせいでさらに酷くなるって可能性がないこともない。
 そりゃあ俺だってあれが正解だと思ってる、けど……。
「じゃあさ。もう一度、人助けをした場所に行ってみたら?」
「へ? 場所へ?」
「詳しくは分からないけどそのことを気にしてるんなら、その場所にもう一度行ってみたら気持ちも変わるかもしれないよ? その人に会えるかもしれないし」
 なるほど。確かに、会って話してみたらハッキリする。昨日とあまり時間は変わらないから、運が良かったらいるかもしれない。
「そうだな……。じゃあ、今からちょっと行ってみるわ」
「そうそう。何事も向かっていかないと」
 バシバシと背中を叩く正樹の顔には、いつもの笑みが戻っていた。
「サンキュ。少しすっきりした」
「いいってことよ~。じゃあ行ってきなさいな。僕は家でDVDを堪能しまするよ」
「おう。そうしてくれ」
 俺は正樹と別れ、鞄を持って出発。もう一度あの場所へ行ってみることにした。

                    ☆

 今日も、下校は徒歩で。これはもちろん己を鍛えなおすため、ではなく、今朝自転車がパンクしたから。
「まったく、ついてないよなぁ。帰ったら自転車屋に行かないとだ」
 呆れの大息を吐いて頭をぽりぽりと掻き、昨日歩いた道を闊歩。角を右に2回、左に3回曲がって五分ほどが経過した頃、昨日声が聞こえた曲がり角に到着した。
「さて、と……」
 ここで俺は、緊張を孕んだ唾液を飲み込む。
 この角の向こう側では、昨日と同じことになってるかもしれない。そのため少しばかりハラハラして角を曲がると――
「あ。昨日の女の子がいる」
 けれど昨日とは様子が違い、笑顔。そして横には男子ではなく、小さな女の子がいる。
「うーん。見た感じは、なにもなさそうだな」
 男子達が来る気配も、悩んでそうな気配もない。
「だったら、もういいっか。無事が確認できたんだから、帰ろう――」
「あっ!」
 気付かれないように去ろうとしていたら、目が合ってしまった。
 声を上げたその子は隣の子に二言三言何かを言ってきたあと、笑顔でこっちに近づいてくる。
(えっ!? なぜ来る!?)
 思わず心の中で叫んでしまったが、その答えは簡単。俺に用があるからに決まっているので、しょうがない。応対をするとしよう。
「あ~、こんにちは。俺に、何のご用かな?」
「えっと……。昨日は、ありがとうございました」
 少々狼狽していた俺に、その子はペコリを頭を下げた。
 そっか、昨日のお礼を言いにきてくれたのか。
「本当(ほんとー)に、ありがとうございました」
「ううん。大したことしてないから、気にしないで」
「ぁ、ぇと。その……。えっと……。とっても大したことだったので、えっと……」
 ショートカットとあどけない大きな瞳が印象的なその子は、オドオド。可愛らしく慌てて、ランドセルから小さい袋を取り出した。
「あの、これ、お礼です。どーぞっ」
「えっ。ああうん、どうもありがとう」
 両手で俺に渡してくれたのは、可愛くラッピングされたピンク色の袋。
 こういう場合は目の前で開けた方がいいと思ったので開けてみると、そこあるのはクッキー。甘くて優しい香りが鼻孔をくすぐった。
「クッキー、焼いたの。美味しくないかもしれないけど、食べてくれると嬉しーです」
「そんな、絶対美味しいよ。折角だから一枚いただくね」
 一つ摘まんで、ぱくり。
 ふむ……。サクッとした軽い食感で、口の中にバターがふわりと広がる。
「うん。やっぱり美味しいよ」
「よかったぁ。愛梨(あいり)ね、初めてクッキー作ったから、心配してたんだぁ」
 ホッとしたのか表情が緩み、口調も少し変わる。
「キミは、愛梨ちゃん、って名前なんだね」
「うん。橘(たちばな)愛梨。西美(さいみ)小学校の5年生だよ!」
 五年かぁ。それにしても、なんだか幼い喋り方だなぁ。自分を愛梨って言ってるし。
「……えと。おにーちゃんは?」
 おにーちゃん? ……ああ、俺のことか。そんな呼ばれ方するの初めてだから、驚いてたよ。
「俺は、鈴橋修。西園(にしぞの)高校の二年だよ」
「修おにーちゃん。よろしくです」
「う、うん。よろしく、愛梨ちゃん」
 何か、小学生と話すのって緊張するな。
「にゅ、愛梨、でいいよ~。修おにーちゃん」
 えっと、その呼び方が定着したのかな。なんかムズムズするから、変えて欲しいんだけど……。
「じゃ、じゃあ、愛梨。俺も、呼び捨てでもなんでもいいから」
「? ……うん。おにーちゃん」
 数秒考えた後、笑顔でそう言った。
 むぅ。修が取れたから……これでいいか。
「あ、ところで話は変わるんだけど――。その子は?」
 この機会に昨日のことを聞こうとしたんだけど、愛梨ちゃ――愛梨の隣でこっちをジーッと見てる女の子が気になった。
 その黒い髪を腰まで伸ばした子は、誰だろう?
「あのね。この子は、親友(しんゆー)の綾音(あやね)ちゃんっ。同じ組なんだよ」
 あ、同級生だったのか。背が低い――多分130センチ位だから、年下か妹さんかと思ってた。
「寿(ことぶき)綾音です。よろしくお願いします」
「よ、よろしく。綾音、ちゃん」
「私も呼び捨てでお願いします。鈴橋さん」
「そ、そう? じゃあ、綾音」
 なんか、ずいぶん大人っぽい子だ。整った顔の中にある黒の瞳が、相手の心の内まで見透かしてそうな気がする。
 背が高く、どこか幼い愛梨と背が低く、クールな印象の綾音。正反対の二人だけど、仲がいいんだな。
「あの……。私がいない間に愛梨ちゃんを助けてくれて、ありがとうございました」
 関係性を分析していたら、綾音は手を前で揃えて深々と頭を下げてくれた。
「ううん、気にしないでよ。さっきも言ったけど、大したことしてないからさ」
「すみません。私は図書委員なので、時々一緒に帰れない時があるんです」
 そっか。だから昨日は一人だったというわけか。
「昨日は、おにーちゃんが助けてくれたから大丈夫だったよ~。あのね、綾音ちゃんはね、いつも愛梨を助けてくれるんだよ」
 それを聞いて、俺の身体がピクッと反応した。『いつも』ということは、普段からあんなことが……?
「あのさ、ちょっといいかな。昨日……みたいなことが、ずっと続いてる、の?」
 多分、お互い良い気分ではなくなるだろうけど、どうしても気になった。
「京助君……。あの人は、いつも愛梨ちゃんに色々と言ってきて……」
 綾音が答えてくれた。
 これはきっと、愛梨を気遣ってのことだろう。
「でもね、愛梨に原因があるのかもだよ。愛梨、よく失敗するから」
 綾音に気遣うような、愛梨の笑顔。それが、ちょっと辛い。
「愛梨、ちゃん……」「愛梨……」
「でもでも、学校では綾音ちゃん達が庇ってくれるから平気だよー。それにねおにーちゃん。昨日おにーちゃんが助けてくれたから、今日は何もされなかったよ」
「あっ。そうなんだ!」
 これは朗報。もしかして、昨日のことで懲りたのか?
(けど、その、ですね……。愛梨ちゃんがいないところで……。京介君が、『あの高校生、絶対に許さない』って言ってるのを聞いてしまいました」
 俺にだけ聞こえるような声で綾音から、立ちくらみがするような事実を聞かされた。
 こいつは、失敗した。愛梨は気付いていないみたいだけど……。このパターンからするともしかしたら、イタズラがもっと酷くなるという可能性が……。
「どうしたの? おにーちゃん?」
「ごめんごめん。なんでもないよ」
 うーん、どうしたらいいものか。俺が介入してしまったせいで、変なことにならないといいんだけど――
(鈴橋さん。京助君です)
 え、京助? ……ホントだ。正面から走ってきてるのが確認できた。
 おいおい。なんで話題に出した途端に来るんだよ。
(そりゃあ、下校時間だからしょうがないけども……。俺は、どうするべきだ……?)
 鈴橋修が加わることで、悪化するかもしれない。けど、放っておくわけにもいかない……。
 なんて考えているうちに、元凶が来たわけで。
「お前、またいるのかよ!」
 と、言われるわけで。
 むぅ。こうなれば、俺は出来るだけ見守る立場でいよう。
「うん? いちゃ悪いかな?」
「お前、鬱陶しいんだよ。勇者気取りかよ」
 数ヶ月前まで四年生だっただけのことはあって、挑発はとても幼稚。
 なので全然ムッと来ないし、そもそも俺は言われ慣れている。なのでスルーをして――
「おにーちゃんは鬱陶しくないよ!」
 スルーしようとしていたら、愛梨が大声を出す。
 柔らかそうな頬っぺたをぷくっと膨らませて、抗議をしてくれた。
「おにーちゃん? なんだ、愛梨の兄ちゃんなのかよ」
「違うよ。おにーちゃんはおにーちゃんだよ」
「はぁ!? 何言ってんだよ。馬鹿じゃねーの?」
 なんだか小学生らしい。俺に突っかかっておいて、今は愛梨と言い合うのに夢中。俺の前にいたのに、いつのまにか愛梨の前――俺の隣にいるし。
(ああ、そういえばだ)
 さっき京助が、「お前がそんなに喋るなんて珍しい」的なことを言ってた。
 だから愛梨は、俺が言われたことに怒ってくれてるようで――
「痛っ!?」
「へへ、バーカ。余所見するなよな」
 こ、このガキ、向こう脛を蹴りやがった。
 ……ま、まあ落ち着こう。子供のやることなんだしな。
「京助君。暴力はだめ。鈴橋さんに謝って」
 ここで、綾音も加わる。
 な、なんか、俺は被害者なんだけどさ、俺がきっかけで流れが変わっちゃったような……。ほら、京助ムッとしてるし。
「チッ」
 俺の予想というものは、悪い時はほぼ的中してしまう。
 京助は、舌打ち。不満そうにそうしてから愛梨に向き直ると、ニヤリとして――
「ほらよっ!」
 昨日と同じく、愛梨のスカートを捲った。
 いや、違う。今日はスカートの裾を掴んだままだ。
「ひゃう!?」
 スカートを持ち上げられたせいで、しゃがんで隠すこともできずに中腰のままで顔を真っ赤にしている愛梨。左手でスカートを戻そうと、右手で下着を隠そうとしているが、隠しきれない。みるみるうちに、瞳が飽和状態になってゆく。
「………………うん。これは、度が過ぎるな」
 助けようとしている綾音を制してから、ゆっくりと京助の背後へ。そしてツンツン目掛けて、チョップしてやった。
「いてぇ!?」
 少々強めだったこともあり、両手で頭を押さえてしゃがみ込む。
 そこで俺は、解放されてへたり込む愛梨を確認してから――。眼下で苦しんでいるツンツン頭の襟を掴み強制的に立たせ、こっちを向かせる。
「な、なんだよ! なにしやがんだ!」
 今にもパンチが飛んできそうな形相だ。
「なあ、京介。お前、やりすぎぞ?」
「はっ? 何がだよっ! 俺はただ――」
「ただ? 愛梨は、泣いてるじゃないか。そんなことして楽しいか?」
 京助の目を見て、ゆっくり問いかける。
「人が恥ずかしがるようなことをして、泣かせる。そんなことをして、楽しいか?」
「……う、うるさい! お前達が悪いんだぞ。愛梨が、アイツがはむかってくるから。俺は悪くない」
 はぁ、自己中な言い分だ。いつの時代も変わらないのかね。こういうやつ等は。
「…………」
「なんだよその目は……っ。も、もう俺は帰る」
 まるで汚れを払いのけるように襟に触れてから、走って逃げた。
 と思ったら、途中で止まって振り向き、
「絶対に許さないぞ! ママに言いつけてやるからな。明日、覚えてろよ!」
 負け犬の定番台詞を吐いてから、角を曲がった。
 明日、か。……まあ今は置いておくことにして、愛梨は大丈夫だろうか。
「愛梨、平気?」
 しゃがんで顔を覗きこむと、目は赤いけど涙は止まっていた。
「……うん。大丈夫だよ、おにーちゃん」
 そう言って、ゆっくりと立ち上がった。
「ごめんなさい。愛梨が、迷惑かけちゃった」
「気にしなくていいって。愛梨は悪くないよ」
 頭を撫でてあげたら、小さく頷いて、安心した表情になった。
「京助君、五年生になって、急に愛梨ちゃんを……その、いじめるようになったんです。どうしてなんでしょう……」
 不意に綾音が呟いた。
「愛梨、何か、京助君に酷いことしちゃったのかな……」
 二人の表情が曇っていく。あんなことがあった後だ、ここは俺が雰囲気を変えないと。
「多分、いや絶対に、愛梨は何もしてないよ。会ったばかりだけど、それは分かるよ」
「私も、愛梨ちゃんは何もしてないと思います」
「……でも……」
「ま、まぁ、これ以上深く考えるのは止めようよ。なっ。もう夕方だし、そろそろ帰ろうか?」
 ずるずると行っちゃうとキツクなるだけ。多少強引でもここでお終い。
「……そうですね」
 意図を察してくれたのか、綾音が頷いた。愛梨もそうしてくれる。と思ってたけど、表情は固い。
「愛梨、どうしたの?」
「……明日、どうなるのかなぁ」
 愛梨はアイツが言ったことを気にしていた。俺ももちろん気にしている。けど、意図的に隠していた。理由があったから。
 俺はアイツの台詞を聞いたとき、ある行動が頭を過ぎった。しかし、それが本当に正しいのか分からなかった。もしかしたら、余計なお世話なのかも。今日みたいに、かえって悪影響になるかもしれない。そんなことを考えてしまう。
 けど……。今の愛梨の表情を見てしまったら――

「愛梨。俺が、守ってやるよ」

 行動を起こすしかないじゃないか。
「「……え?」」
 だが。そんな決意とは裏腹に、二人はキョトンとしている。
 えっと、なんでだろ? ……あ、そうか!
「ああ、ごめん。迷惑だった?」
 先走ってしまったが、愛梨とは昨日、綾音とは今日会ったばかりだ。いきなりこんなこと言われたら、驚くのも当然だ。
「……あの、どうしてそこまで親切にしてくれるんですか?」
 綾音から、そんな質問がきた。
「どうして、か。確かに、怪しまれても仕方ないよね」
 何て説明したらいいんだろうか。上手い言葉が見つからない。
「あ、すみません。そういう意味ではなくて、知り合ったばかりなのに、真剣に考えてくれているので……」
「ああ、そういうことかぁ。……う~ん、なんて言うか、その、放っておけないんだよ」
 そう、ただ、ただそれだけのこと。
「そうですか……」
「えっと、どうだろう? まあずっとってわけじゃなくて、あれが収まるまでってことでさ」
「あの、私、図書委員で遅くなる時があるので、助かります。実は、お願いしてみようかな、と少し考えてました。ご迷惑かな、とは思っていたんですが」
 やっぱ友達思いだな、この子は。さて、愛梨はどうだろうか。結局決めるのは本人だからね。
「愛梨はどうかな――あ、愛梨?」
 俺の方を見てボーっとしてた。なんか、放心状態に近いようにも見えるが、大丈夫か?
「……あ、ご、ごめんなさい。つい、嬉しくって、ぼーっとしてた」
 それは何よりです。
「あの、昨日、おにーちゃんが守ってくれて、嬉しかった。綾音ちゃんもだけど、おにーちゃんが傍にいてくれたら、とっても安心するの。おにーちゃんが迷惑じゃなかったら、お願い、します」
 もじもじしながら最後まで言い、可愛く頭を下げた。
 そこまで言ってもらえると、こっちまで嬉しくなっちゃうな。
「じゃあ、しばらくの間、俺が愛梨の……騎士ということになるね」
 自分で言ってて恥ずかしくなる程の台詞だけど、なんだかこの言葉に安心感があるような気がした。でも、やっぱり騎士は失敗だわ。
「ありがとう。おにーちゃん」
「すみません。鈴橋さん」
「俺が言い出したことだし、全然OKだから。あ、ところで、二人は学校が終わるのは何時くらいかな。今日も待っててくれてたみたいだし」
 時間が分からないと色々と困るのだ。
「今日は、ん~と、待ってたのは30分くらい。でも、綾音ちゃんとお話してたから、短く感じたよ」
 まったく皮肉が込められてない辺りが、申し訳ない。
「それなら、連絡手段があったほうがいいかもね。雨が降ったり、都合が悪い時とかずっと待つのも大変だろうから」
 もちろん二人がね。俺は帰宅部だし。
「確かに、そうですね。鈴橋さんに迷惑がかかってしまう」
「おにーちゃんをお待たせしちゃったら、ダメだもんね」
 二人の優しさが、胸に染みるわ。
「じゃあ、どっちかのスマホの番号とアドレス教えてよ。あ、でもまだ持ってないか」
「……持ってます」
 綾音が控えめに片手を上げる。
 ほぉ、最近の小学生は凄いな。俺なんて、スマホデビューは高校だ。
「もしかして、愛梨も?」
「愛梨は持ってないよ。あのね、綾音ちゃんのスマートホンね、すっごく格好いいんだよ」
 愛梨に促されてポケットから取り出したスマホは、真っ黒なケースに収められたシンプルな者。確かにスマートでカッコよくて、なんか小学生っぽくないな。
「そのスマホは、新型だね。音楽を聴いたり、ゲームをしたりしてるの?」
「いえ。そういった機能は使いません」
「え? そ、そうなんだ」
「はい。音楽を聴くのなら家にプレイヤーがありますし、ゲームなら家庭用のゲーム機がありますから」
 大よそ小学生とは思えないような答えだ。俺なんてこの歳なのに、スマホでゲームばっかりしてるぞ。
「えっと。じゃあ何のためにケータイを?」
「自分の身を守るためです」
「身を?」
「はい。この時代、何があるか分かりません。道を歩いていただけでも襲われた、というニュースもあります。……私は、この体型なので、力がなく、抵抗してもあまり効果はありません。でも、スマホを使って連絡をとれば、対処できるかもしれません」
 最後に「いざとなると、冷静な判断ができるかどうか分かりませんが」と付け足した。
 この子、凄い。自分を完全に理解しているし、手段を持ったからって安心しているわけでもない。多分、綾音のような子供ばっかりだったら、犯罪は阻止できるんじゃないんだろうか。
「さすが、だね。それじゃあ早速だけど、登録させてもらえるかな?」
「はい。……これです」
 俺達はスマホを向け合って、情報を交換。綾音のアドレスが某有名文学作品だったことに驚いたものの、やり取りは無事終わった。
「じゃあ明日から、学校出る前にはメールするからね。あ、綾音は都合が悪い時だけメールしてよ。小学校だったらスマホも目立つだろうし」
「鈴橋さん。気を遣ってもらって、すみません」
「気にしない気にしない。では今日は帰るけど、二人はどうする?」
 近くだったら、送るのもありだ。
「学校に忘れ物しちゃったから、取りに行くの。おにーちゃんはこの近くなの?」
「ん、ここからまあ十分くらいかな。結構遅いけど、大丈夫?」
 きっと俺を待っててくれたから、気付いても取りに戻れなかったんだろうな。申し訳ない。
「大丈夫です。私も付いていきますから。私の家と愛梨ちゃんの家は近所なんです」
「そっか」
 互いの家が近いのなら、大丈夫だろうな。
「分かった。俺は帰るね」
「んっ。ありがとーございました、おにーちゃん」
「ありがとうございました。鈴橋さん」
「どういたしまして。じゃあまた明日」
 俺達は手を振りあって、今日のところはここでさようなら。
 かくして俺は、期間限定で、愛梨を守ることになったのだった。