「CM録り、入ったぞ」
ある日事務所へ行くと社長にそう声をかけられた。CMのオーディションなんて受けていなかったはずだ。
「新番組スポンサーのCM。お前に指名だ」
しっかり準備して取り組めよ、と社長に渡された新番組の企画書。俺に指名?信じられない気持ちで手の中の資料に目を走らせた。
「聴覚と記憶は密接に繋がっている。音楽を聴けば、当時の記憶が鮮やかに蘇る。それはまるで、五線譜の上を滑るように、記憶を心を震わせていく。あの頃の自分に会いに行く。LPDレコード」
時刻は深夜2時。誰もいない薄暗いスタジオ。マイクの前で、何千回目かの言葉を紡ぐ。とあるレコード会社のコマーシャル。秒数にすれば、ほんの20秒足らず。もう原稿を見なくてもそらで言える。それでも満足なんかできなかった。息継ぎのタイミングはおかしくないか。イントネーションはどうだろうか。一番伝えたい部分が伝わる読み方が出来ているか。万人に届くように言葉を紡げているのだろうか。何度も何度もペン入れをして、原稿はすでに真っ赤だ。
レッスンとバイトが終わった後、俺は深夜のスタジオにこもってひたすらに原稿を読み込んだ。録音してチェックして、また修正して練習、録音、またチェック。そのことの繰り返し。いよいよ明日が収録本番だ。
これでいいのか、よくないのか。まだ答えは見つからない。だけどきちんと応えたい。指名してくれた相手の想いに応えたい。
初めて仕事として入る、本番のスタジオ。ディレクターに頭を下げれば、彼は「まああまり固くならずに」と言って椅子をくるりと回した。
俺の声が、ある会社の魅力を伝えるツールとなる。俺の声が、電波にのってどこかへ届く。俺の声が、俺の声が──。
窓の向こう、ディレクターがキューを出したのを確認して、俺は目を閉じ口を開いた。
「OK!!完璧!!」
ヘッドフォンからディレクターの声が聞こえて、一気に肩の力が抜ける。がくんと身体が崩れそうになって慌てて体勢を立て直した。ばくばくと今更になって心臓が騒ぎ出す。
完璧?俺の声が?一発OKが出たのだ。信じられない気持ちで向こうを見れば、ディレクターの横、穏やかな顔で頷いているユージさんがいた。
ああ、ユージさん──。
嬉しそうに頷きながら、彼はこちらへ入ってくる。
「やっぱり、お前にお願いしてよかった」
久しぶりに会うユージさん。変わらない、才能で溢れているユージさん。まぶしくてたまらず目を細める。
「言ったじゃん俺。お前は才能あるよって」
まだそれを言うのか。俺が今日を迎えるまで、この短い文章を、一体何時間かけて、何千回と読み込んできたかを知らないから、ユージさんはそんなことが言えるんだ。
「そんなわけないよ」
無事に収録が終わったことで、ほっとしたのか、なんだか込み上げるものがあって下を向いた。
「お前には、”努力できる”っていう才能があるんだよ」
努力できる才能──?
「努力をし続けるということが、誰もが出来ることじゃないって分かってないだろ?時間を忘れるほどにひとつのことを突き詰められるのはすごい才能だってこと、お前は知るべきだよ」
ユージさんはそう言って、口角をあげた。コン、とデスクに抹茶色のタピオカが揺れるカップが置かれる。
「DJヒロさん、お疲れ様」
そう言って、彼はスタジオを後にした。あの日、俺はDJヒロになることができたのだ。
ユージさんには借りがある。いや、借りなんていうものじゃない。
──あのひとは俺の、恩人だ。
ある日事務所へ行くと社長にそう声をかけられた。CMのオーディションなんて受けていなかったはずだ。
「新番組スポンサーのCM。お前に指名だ」
しっかり準備して取り組めよ、と社長に渡された新番組の企画書。俺に指名?信じられない気持ちで手の中の資料に目を走らせた。
「聴覚と記憶は密接に繋がっている。音楽を聴けば、当時の記憶が鮮やかに蘇る。それはまるで、五線譜の上を滑るように、記憶を心を震わせていく。あの頃の自分に会いに行く。LPDレコード」
時刻は深夜2時。誰もいない薄暗いスタジオ。マイクの前で、何千回目かの言葉を紡ぐ。とあるレコード会社のコマーシャル。秒数にすれば、ほんの20秒足らず。もう原稿を見なくてもそらで言える。それでも満足なんかできなかった。息継ぎのタイミングはおかしくないか。イントネーションはどうだろうか。一番伝えたい部分が伝わる読み方が出来ているか。万人に届くように言葉を紡げているのだろうか。何度も何度もペン入れをして、原稿はすでに真っ赤だ。
レッスンとバイトが終わった後、俺は深夜のスタジオにこもってひたすらに原稿を読み込んだ。録音してチェックして、また修正して練習、録音、またチェック。そのことの繰り返し。いよいよ明日が収録本番だ。
これでいいのか、よくないのか。まだ答えは見つからない。だけどきちんと応えたい。指名してくれた相手の想いに応えたい。
初めて仕事として入る、本番のスタジオ。ディレクターに頭を下げれば、彼は「まああまり固くならずに」と言って椅子をくるりと回した。
俺の声が、ある会社の魅力を伝えるツールとなる。俺の声が、電波にのってどこかへ届く。俺の声が、俺の声が──。
窓の向こう、ディレクターがキューを出したのを確認して、俺は目を閉じ口を開いた。
「OK!!完璧!!」
ヘッドフォンからディレクターの声が聞こえて、一気に肩の力が抜ける。がくんと身体が崩れそうになって慌てて体勢を立て直した。ばくばくと今更になって心臓が騒ぎ出す。
完璧?俺の声が?一発OKが出たのだ。信じられない気持ちで向こうを見れば、ディレクターの横、穏やかな顔で頷いているユージさんがいた。
ああ、ユージさん──。
嬉しそうに頷きながら、彼はこちらへ入ってくる。
「やっぱり、お前にお願いしてよかった」
久しぶりに会うユージさん。変わらない、才能で溢れているユージさん。まぶしくてたまらず目を細める。
「言ったじゃん俺。お前は才能あるよって」
まだそれを言うのか。俺が今日を迎えるまで、この短い文章を、一体何時間かけて、何千回と読み込んできたかを知らないから、ユージさんはそんなことが言えるんだ。
「そんなわけないよ」
無事に収録が終わったことで、ほっとしたのか、なんだか込み上げるものがあって下を向いた。
「お前には、”努力できる”っていう才能があるんだよ」
努力できる才能──?
「努力をし続けるということが、誰もが出来ることじゃないって分かってないだろ?時間を忘れるほどにひとつのことを突き詰められるのはすごい才能だってこと、お前は知るべきだよ」
ユージさんはそう言って、口角をあげた。コン、とデスクに抹茶色のタピオカが揺れるカップが置かれる。
「DJヒロさん、お疲れ様」
そう言って、彼はスタジオを後にした。あの日、俺はDJヒロになることができたのだ。
ユージさんには借りがある。いや、借りなんていうものじゃない。
──あのひとは俺の、恩人だ。