廊下の突き当たりのスタジオに入ると、中は真っ暗でひんやりとしていた。カチリと電気をつければ青白い光が眩しくて目を細める。

「朝まで空いてる」

 ヒロさんは空調のスイッチ、マイクとミキサーの電源を入れて初めて私のことを見た。

「謝らなくていいから。だからきちんと戻ってこい」

 "早く" ではなく "きちんと"。その言葉に胸がいっぱいになる。ありがとうございますと頭を下げると、がんばれ、と小さく言って、彼はスタジオを出て行く。ヒロさんの残り香だけがスタジオの中でふわりと浮いた。



 ヘッドホンをつけて、マイクの前に座る。どきんどきんと、心臓が上下する。久しぶりのこの感覚。だけど嫌な緊張ではない。心地よい、背筋が伸びるような緊張感。初めてスタジオに入った時のような。

「あ、あ、」

 小さく声を発してみる。それからすう、と小さく息を吸い、私はマイクをオンにした。

「──ユージさんのばか」

 出た──。

「ユージさんのあほ」

 出る──。

「ユージさんの抹茶ミルク馬鹿」

 久しぶりに聞くマイクに響く自分の声。じわりと目頭が熱くなる。

「なんでアメリカ行っちゃったんですか……」

 心のままにマイクに言葉をのせていく。

「ユージさん元気ですか?英語話せるようになりましたか?ハンバーガーばかり食べてないですか?ちゃんと寝てますか?そっちに抹茶ミルクタピオカはありますか?──ユージさん、会いたいです」

 言葉にすればポロポロと涙はこぼれた。最近ずっと泣いてばかりいる。こんなに泣き虫ではなかったはずなのに。きっとどこかが壊れているのだろう。涙を作る所だとか、涙を堪える所だとか。

「……ユージさんのせいですからね。責任とってください。ユージさんのばかばか……」

“悪口ばっか練習するつもり?”

 そんな声が聞こえた気がして驚いてスタジオを見回した。だけどもちろん誰もいない。
 ごしごしっと目元を拭って、もう一度息を吸う。そうだ、今日は練習しに来たのだ。悪口を言いに来たわけではない。

「──……」

 マイクの向こうにいるリスナーを思う。私を嫌う人々を思う。そうすれば途端に喉の奥がひゅっと細くなり、また声が出なくなる。
 ──ああ、まだだめか。
 ユージさんへの気持ちならば声に出せた。しかし、まだ復帰は遠そうだ。

「ユージさん……私、大丈夫ですよね?」

 もう一度試してみれば、その言葉はすっと喉からマイクへと流れて行った。大丈夫。焦らなくていい。前までは、あ、という音一つ出なかった。それが声を出せるまでになったんだ。大きな大きな一歩じゃないか。
 きちんと練習をしていこう。初心に戻って、丁寧に。ここで終わるわけには行かない。私には、夢がある。私はやっぱり、パーソナリティでいたいみたいだ。

 マイクをオンにしたり、オフにして原稿読みの練習をしてみたりしているうちに、外の空は白み始め朝が来たことを知る。ヒロさんにもらったココアは空っぽになっていた。喉も渇いたし、何か買いに行こうとスタジオを出ると、3つ離れたスタジオの電気が付いているのに気が付いた。
 大野さんが深夜の生放送をしていたあのスタジオ。電気はついているけれど、ON AIRのライトはついていない。ちらりと窓をのぞいてみても、ディレクターの姿はないから収録でもなさそうだ。私はそっとガラス戸に近寄ると、その奥の明かりに目を細めた。そこにあったのは、ひたすらに原稿を読んだり、頭をひねったり、その原稿にペン入れをしてまた読み直しているヒロさんの姿。

 人気パーソナリティのヒロさんが、こんな時間にひとりで練習をしていたなんて。いつも飄々としていて、余裕すら見える彼の努力する姿。見てはいけないものを見た気がして、急いでその場を立ち去った。

 どんな人も様々なものを抱えてる。見せないだけで泣いていたり努力していたりするのかもしれない。

 目に見えるものが全てじゃない。わざわざ言わない、わざわざ見せない、そういうものも、きっとあるのだ。