お腹すいている?と聞けば、少し。と彼女は控えめに答えた。カフェだけど料理もおいしいという店の場所を頭の中の引き出しからするりと取り出し、そこへと足を進める。本当は、料理のおいしいダイニングバーとかでもいいかなと思った。お酒も飲めて食事もおいしい場所の方がリラックスできるから、俺自身行くことは多い。
だけど、初めて外でふたりで会う記念すべき日。何より、俺は今日大事な話をしようとしてるんだ。そんなときに、酒の力を借りるようなことはしたくないなんて、そんなことを強く思った。
きちんと、自分だけの意思で、自分だけの言葉と、声で。
カランとガラス扉のベルが鳴ると、お店の人がいらっしゃいませと声をかけてくれる。一歩足を踏み入れれば、彼女はわぁと小さく声をあげて目を輝かせた。店内中央に飾られている洒落たシャンデリアを見ているようだ。よかった。どうやら気に入ってくれたらしい。
小柄な女性の店員さんに窓際の席を案内される。そっと椅子を引いてあげると、彼女は少し戸惑ったあとにはにかみながらそこに座った。
「星倉さん、何飲みますか?いつものですか?」
クスクスと笑いながら彼女が手元のメニューを見る。夢みたいだ。カウンター越しにいた彼女が、今、目の前に座っている。
「あ、俺、オレンジジュースにする」
そう言えば、こんなに寒いのに?と彼女は窓の外を見つめる。外では風がひゅうひゅうと吹いていて、時折並木道の落ち葉たちが窓の外で舞っている。外は寒いのだと思う。だけど今、俺は暑くて仕方ない。緊張と、嬉しさと、なんかよく分からない昂揚感と。気を抜けば、汗がたらりとこめかみから流れるくらいには暑い。
「じゃあわたしも」
彼女はそう言って笑った。それから、フードメニューに手を伸ばし、俺たちはふたりで同じハンバーグプレートを注文した。おしゃれな木の皿にかわいく盛り付けられたそれはおいしくて、そして俺にはちょっと量が足りなかった。だけど、彼女はお腹いっぱいとニコニコ笑っていたから、足りない分はそれでチャラだ。食後にホットコーヒーを頼んで、ふたりでカップに口をつけた頃合いを見計らって、俺は口を開いた。
「今日、どうだった?ユージさん。友達、喜んでた?」
話題を今日のラジオ番組にうつすと、彼女は顔をぱっとあげて、瞳をキラキラと輝かす。
「はいっ!ユージさん、すっごくすっごく素敵でした!いつもメッセージ送っているリスナーさんたちも何人か会場にいたみたいで!なんかこう、ユージさんとリスナーさんとの繋がりみたいのを直接感じられて!もう本当感動でした。しかもなんと私の友達がユージさ……」
機関銃のようにしゃべっていた彼女が途中ではっとした顔で両手で口をおさえた。ん?なんだ?
「……とにかく、すごく素敵でした。ありがとうございました。本当にありがとうございました」
そう言ってからぺこっと頭を下げた。どうやら楽しかったのは間違いがないようだ。よかった。こんなに喜んでもらえて、この笑顔が見られるのなら、俺はもうそれだけで十分だ。けれど、ふっと彼女の表情が曇ったような気がした。
「あとこれ、よかったらもらってください」
そう言って彼女が小さなカバンから取り出したのは、ミッドナイトスターと書かれた赤いステッカー。
「来場者特典で、1枚ずつもらえたんです」
すっとテーブルの上をそのステッカーが滑る。彼女の表情は笑顔なのになぜだか泣きそうに見えるのは、俺の勘違いだろうか。
「いやいやいいよ。今日の思い出に持っていなよ。俺は大丈夫だから」
すると彼女は俺の手をぎゅっと掴んで引き寄せると、手のひらにぐっとそれを置く。
「絶対に星倉さんに──いえ、キラキラさんに、渡したかったんです」
何か決意が込められたような声に、驚いて彼女の顔を見つめる。すると、彼女は下を向いて言ったのだ。
「わたし、応援します。キラキラさんの恋がうまくいくよう、応援します。ラジオで相談されていた相手って、うちのスタッフですよね?もしかして、チーフですか……?」
ああ。彼女は勘違いをしているのか。俺が他のスタッフが好きだと。違うよ。違う違う。俺がすきなのはさ──
口を開こうとしたときだった。
「キラキラさんの恋が叶うよう、わたし、精いっぱい協力します。チーフと星倉さん、お似合いだと思います」
これは恋が叶うお守りです。そう言って、彼女はステッカーをじっと見つめた。その瞬間、ガラガラと何かが崩れていく音がした。“チーフ”というのは彼女のバイト先であるカフェのチーフの女性。たしかに綺麗で、仕事のできそうな女性だ。だけど、違うのに。俺がすきなのは──
「チーフも前に、星倉さんのことかっこいいって言ってましたよ!」
そんな風に目の前で、笑顔で言われてしまったら、なんと答えるのが正解なのだろうか。
きみのことがすきだよ。
そのたった一言が、どうしても出てこない。
「あとでチーフのシフト送りますね!」
そんなかわいい笑顔で、そんな言葉のナイフを投げないでくれよ。
「もうすぐクリスマスですもんね!わたしも彼氏とどこにデート行こうかなあ」
ああそうか。きみには彼氏がいるんだね。
改めて、何も知らないのだと、彼女のことを何一つ知らないのだということを実感する。どこかへ出かけようと言う誘いを承諾してくれたのも、彼女自身に他意がないからだ。純粋に、俺とそのチーフの恋を応援したいと思っているからだ。それだけなのに、何を俺は浮かれていたんだろう。
ちょっとお手洗い行ってきますね、と言いながら彼女は立ち上がった。その時に、俺は気付かなかったんだ。彼女がそっと、財布からお金を取り出してカップの下に挟んだことを。
『すみません、急用ができたので先に失礼します。今日はありがとうございました』
そんなメッセージが着ていたことに気が付いたのは、受信して30分ほどが過ぎてからだった。
『もう家?』
ぴろんとスマホが通知を知らせる。カフェ子からだ。キラキラさんとうまくいったかな。私はこんな形になってしまったけれど、友達の幸せは心から祝福したい。そう思った私はすぐに彼女に電話をかけた。ところが、着信を取ったカフェ子は明らかに泣いている。
「どうしたの?!」
「わたし──本当馬鹿……」
てっきりうまく行ったと思っていたのに。カフェ子は自分の素直な気持ちを伝えられず、チーフとの仲を応援すると言ったらしい。そして自分には彼氏がいるなんて、嘘までついたと言うのだ。
「……他の人に会うためでもいいから……カフェに来てほしくて……」
泣きじゃくりながらカフェ子は話す。その気持ちは痛いほどに分かった。どんな形だとしても、会えなくなるよりはずっといい。カフェ子はばかだ。そして、私も大ばか者だ。
「……タピ子は?」
「私は……」
どうしたらいいか分からなかった。どうやって接したらいいか分からなかった。常連さんの星倉さんとして会話をすればいいのか、尊敬するDJのユージさんとして会話をすればいいのか。
「態度がおかしかった?」
「ううん」
そんなんじゃない。きちんと謝ってくれて、そして優しく接してくれた。態度がおかしかったのは彼ではなく私の方だ。戸惑いが大きすぎたのだ。
「よく分かんない……」
“星倉さん”のままでいてくれたら良かった。何も知らないまま彼と接していたら、自分の気持ちを隠しきれなくなるのも時間の問題だっただろう。実るか実らないかは分からない。だけどドキドキして楽しくて、会えるかなとそわそわしたり、彼の一挙一動に落ち込んだり期待したりして。そんな風に普通の恋ができたはずだ。もしかしたらそんな恋を、ラジオでみんなに相談していたかもしれない。「いよいよ俺たちの妹のタピちゃんにも恋の季節が!」なんてDJユージさんは言ってくれたかもしれない。だけどそれはもう起こらない。
「ドラマや漫画みたいにさ、そんな簡単にうまくいくものじゃないんだね」
「漫画ならば、好きな人と憧れの人が同じ人でした。両想いになりました!めでたしめでたし、ってなるのにね……」
さっきまで一緒にいたユージさんの戸惑うような顔が瞼に焼き付いて離れない。困ったような、気遣うような、あの表情が。あんな顔を見て、どうして浮かれて恋だのなんだの言えるだろうか。
「どうして、出会っちゃったんだろう……」
受話器越し、ふたりの声が重なって。私たちは声をあげてもう一度泣いた。
「みなさんこんばんは。月曜深夜いかがお過ごしでしょうか。DJユージです」
あれから初めての月曜日、私はバイトを休んだ。レッスンがあったわけではない。体調が悪かったわけでもない。だけど、なんとなくユージさんに会うのが気まずくて、バイト仲間にシフトを交換してもらった。
ユージさんは今日も、スタジオに入る前にお店に来たのだろうか。抹茶ミルクタピオカを頼んだのだろうか。一週間が経っても私はまだ、彼とどう接したらいいのか分からない。
「この間は生放送にたくさんのリスナーさんが来てくれて、嬉しかったです。やっぱ顔が見えるってすごいね」
ラジオからはいつもと変わらないユージさんの声が聞こえてきて、心臓がぎゅっと痛くなる。本当は今日も、聞くつもりはなかった。それでも時間になれば習慣のように、私はチューンをあわせていた。聞こえてくるユージさんの声。これはずっと憧れてきたDJユージさんの声だ。
私はこんなに心を乱し、バイトまでわざわざ休んで、気持ちもざわざわしているのに、ユージさんは何も変わらない。当たり前のことなのに、なんだかそれが悔しくて、なんだかとても切なくて、メッセージなんて送る気にもなれない。ラジオの向こうではリスナーさんからの最近あった滑らない話が読まれていた。
ところが、番組が終わる頃にはすっかり夢中で聞いていた。それは彼が誰なのかとか、自分の今持っているもやもやとか全て関係なく、結局は彼の作り出す世界に引き込まれてしまったということだ。それに気づいたときに、改めて思った。やっぱり、この人はすごいパーソナリティなのだと。
それはつまり、彼がどれだけ自分のいる世界とは違うところにいる人なのか、どれほど遠い遠い存在なのかということを改めて思い知らされたということでもあった。
私はパーソナリティになりたいと、ユージさんと共演したいとそう言った。だけどそれがどんなに大きすぎる夢なのかということを痛いほど感じる。それと同時に、“憧れ”と“すき”はまた違うのだということに、私は気付きだしていたのだった。
翌週の月曜日は、どうしてもシフトに入らざるを得なくなってバイト先に向かった。ユージさんは来るだろうか。会いたい。だけど、会いたくない。もやもやは取れないまま、いつもの時間がやってきた。
「──今日はいるんだね」
気付けば目の前に、戸惑ったように笑うユージさんが立っていた。
「あ……いらっしゃいませ」
ユージさんは少し考えるように私を見た後、抹茶ミルクタピオカふたつ、と言った。
うまく話すことが出来ない。天気いいですね、とか、この間のすべらない話おもしろかったですねとか。話す内容なんていくらでもあるはずなのに私の唇は上下へばりついてしまったのだろうか。
いつものようにドリンクを作っていく。美味しくなるよう、少し分量を増やして作る。常連の彼だけへの秘密の特別配合。
「お待たせしました」
ふたつのカップをカウンターに置くと、ユージさんはひとつだけを手に取る。そして、もうひとつにぺたりと何かを貼り付けると、眉を下げて笑った。──寂しそうに、笑った。
「またね、タピちゃん」
それが、彼にここで会った、最後の月曜日だった。
あれから、ユージさんはスタンドに来なくなった。最後に残されたメモに書かれていたのは 『タピちゃんの夢が叶いますように』という一言。ユージさんなりに、1リスナーである私と個人的に関わるのはどうかと思ったのかもしれない。これでよかったんだ。そう思うくせに。そう言い聞かせているのに──
「さあ今夜も始まりました!ミッドナイトスターのお時間です」
毎週月曜日の深夜になると泣きながら、それでもユージさんの声を聞いてしまう私は本当に矛盾しているし、バカだと思う。だけど、聞かずにはいられないんだ。もうメッセージだって送れないのに。
「ちょっとしたリポーターの仕事が決まりそうよ」
ある日事務所に行くとマネージャーさんからの突然の知らせ。レッスン期間は長く厳しいと言われていたから、自分の声が電波に乗る日がこんな早く来るなんてと驚いた。だけど、これは大きなチャンスだ。短かろうがなんだろうが、初めての声の仕事だ。
「ユージさん元気かな……」
ラジオで声は聞いている。だけど、最後に会ってから、月日は流れていた。彼は元気なのだろうか。今は仕事前に何を飲んでいるのだろう。私のことなんかもう忘れてしまったかな。報告したい。声の仕事が決まりましたって、一番に伝えたい人は、やっぱりユージさんなのに。──私の声は、もう彼には届かない。
「……アンタ?今回のリポーターなったのって」
ちろりと横目で見られて背筋が伸びる。話には聞いていたものの独特のオーラに怖気づきそうになる心をぐっと奮い立たせた。
「はい!よろしくお願いします!」
ぺこりと頭を下げると、先輩パーソナリティのヒロさんはよろしく、と短く言った。私がもらった初めての声の仕事。それは、DJヒロさんの番組内にあるコーナーのリポーターだ。様々な職業の方々を訪ね、インタビューをするというもの。ヒロさんの番組自体は生放送だが、私の担当するコーナー自体は別日に収録したものが流れるということになっている。
「……ふうん」
ヒロさんは私を頭の先から足の先までじろりと眺めると、「しっかりやってくれればそれでいいよ」と短く答えた。番組内でも淡々と話すパーソナリティだが、実際はさらにクールさが増すらしい。
慌ててお辞儀をしたところで、頭上から「おう」というヒロさんの声が降ってきた。それはもちろん私に向けてではない。つられるように小さく振り向いた私は、呼吸をすることを忘れてしまった。ばっと勢いよくヒロさんの方に向き直り、わたしは直立不動になる。
──そこにいたのが、ユージさんだったのだから。
「今日これから?」
「CMの声録りがあってさ」
私を通り越して飛び交う会話。するとヒロさんが、ああ、というように私に声をかけた。
「お前もパーソナリティの端くれなら知ってんだろ、ユージさんのこと。挨拶しろ。こいつ、うちの番組のショートコーナーの新しいリポーター」
ヒロさんの言葉に、私はおそるおそる体を反転させる。
「……このたび、リポーターを務めることになりました……」
自己紹介をして頭をさげれば、ユージさんの黒いスニーカーだけが視界に映る。顔をあげるのが怖い。だけどこのままじゃ不自然だしと、ゆっくりと姿勢を正せば、驚いた顔をして固まるユージさんがいた。
「……なにこの感じ。もしかして知り合い?」
そんなヒロさんの声を聞き、ユージさんははっとしたように少し揺れてからふわりと笑った。
「あ、いや……はじめまして。ユージです」
ぎゅうっと胸の奥が掴まれる想い。久しぶりに見る、彼の笑顔。ハジメマシテ。その言葉がぐさりと刺さった。
「リポーターやるんだって?」
「あ、はい」
「頑張ってね」
「ありがとうございます……」
それじゃと手を上げると、ユージさんは私の脇をすり抜けて、廊下を進んで行ってしまった。ばくばくと心臓が鳴る。
「……お前、ユージさんと何かあるだろ」
鋭いヒロさんの指摘に私は何も答えられない。この人、すごく察しがいい。しかし彼は、まあいいやと深くは追及してこなかった。
「せっかく貰ったチャンス、無駄にすんな」
ヒロさんは最後にわたしの肩をぽんぽんと軽く二回叩いて、控室へと消えていった。
「……まだだめだ……」
思わずひとりで呟いた。その言葉は、ユージさんが消えた廊下の奥へと吸い込まれていく。もう大丈夫だと思っていた。お店に彼が来なくなって、私はDJユージさんの声をスピーカー越しに聞くことしかなくなって、自分なりに心の整理はついたはずだった。恋心なんてもう消した。恋をしていい抹茶好きなあの人ではなくて、尊敬して憧れ目指したい存在のDJユージさんを選んだのはこのわたしだ。この仕事をしていれば局などで見かけることがあるだろうということも分かっていた。だからこそ、自分の中でけじめをつけたはずなのに。
それなのに──。ラジオを通してではないあの人の声が聞こえた瞬間。ヘッドフォンをしていない、普段の姿のあのひとを見た瞬間。消したはずの気持ちがぶわりと蘇った。スタンドで見せてくれた、笑うと現れるふたつのくぼみ。優しい笑顔。不器用だけど温かい言葉たち。
「……元気そうで、よかった……」
ぐっと上を向いて、涙をこらえた。「頑張ってね」という、柔らかな声が耳の中で蘇る。ユージさんに遭遇してしまったことへの戸惑い、自分の気持ちへの躊躇。それらと同時に、彼の言葉はわたしの心を奮い立たせる。
──こんな風に、立ち止まって悩んでいる暇なんかない。自分の見つけた夢に向かって、しっかりとチャンスをつかんでいかなければならないのだから。
ふうっと大きく息を吐いて、背筋を伸ばす。 立ち止まっている、暇はない。ヒロさんにも迷惑をかけないように頑張らないと。ユージさんに聞いてもらっても恥ずかしくないよう、しっかりと、頑張らないと。