前触れも何もなかった。
 夏目が突然、強張った面持ちでこの大広間に姿を見せたのだと嵯峨野は言う。

 氷凪も嵯峨野も、前線で何かあったのかと身構えた。
 夏目はそのまま氷凪に近寄って耳元に何か囁く仕草をし、その瞬間。氷凪の表情が驚愕して固まった。・・・と嵯峨野には見えた。

『・・・殿?』

 離れた夏目の手に握られた小太刀。血が滴る。まさか。気付いたと同時に、氷凪の躰は床に崩れ落ちた。見る見る血溜まりが広がり、抱き起こした嵯峨野の腕の中で苦しげに呻きながらも氷凪は、騒ぐな、と声を振り絞った。

 その時はまだ意識があった。
 嵯峨野は思わず、呆然と立ち竦む夏目に、さらしでも手拭いでも腹に巻ける物を、と叫んでいた。

『早く!!』

 すると弾かれたように夏目は部屋を飛び出し、ありったけの布を手に戻った。
 出血量はかなりあった。氷凪は顔色を失くし、呼びかけにも反応しない。かろうじて息がある瀕死の状態だった。
 動かすことも出来ず、嵯峨野は出来うる限り周囲の汚れた床を清めて、氷凪を横たえたまま、もう後は本人の生命力に賭ける以外に手立ては無かったのだ。

『・・・言い分があるのなら聞こう』

 逃げる事も出来たはずなのに、夏目はまだそこに居た。
 嵯峨野は離れて後ろに立つ彼女に、振り返ることなく低く問うた。
 
『・・・・・・何もありません。私の・・・独断です』

 少し声を震わせ、夏目はだがしっかりと言い切った。

『久住にそう言えと言われたか?』

『違います・・・!』

 もう筋書きを見抜かれていると知ってなおも、久住を庇い立てする。
 嵯峨野は憐れだと思った。