〝かわいい〟という言葉は実に安直で便利な言葉だ。
「それは自分にとって都合がいいという意味では?」
「なるほど、確かに嫌悪を持つ者より好意を持ってくれる者の方がコントロールしやすいですね」
皮肉に対して肯定で返したゼロを嫌忌の目で見る。
「その瞳です。敬愛して止まないトーコの目です」
うっとりとした目で私の瞳を見つめるゼロに虫酸が走る。
「貴方が言うように、私に移植された角膜がそのトーコという人のものだったとしても、私はその人ではありません」
瞳を逸らしキッパリ否定する。
「それに、提供されたということは、その方はお亡くなりになっているということでしょう?」
「ええ、彼女は亡くなっています。だって……」思い出し笑いをするように、ゼロがククッと喉を鳴らした。
「彼女を殺めたのは僕ですから」
「はい……?」
天地さんの言うように、私は本当の『アホー』になってしまったようだ。彼の言葉が理解できない。
「トーコの命を絶ったのは僕です、と言ったのです。もっと正確に言えば、肉体を滅ぼし、魂を解放した、ということです」
戸惑う私に彼は言葉を噛み砕き、そう説明したが、益々意味不明だった。
「――それって、自白? 自分がサイコキラーだと言っているの?」
このとき初めて、霊よりも人間が怖いと思った。
「サイコパスではありません。猟奇的な殺人にも快楽的な殺人にも興味はありません。僕が求めて止まないのはトーコだけ……彼女の魂だけです」
「でも……」と、ゼロは一拍置き、意味深に口角を上げた。
「肉体を滅ぼすことが殺人だとしたら、君の言うように僕はキラーなのでしょう。しかし、この世の法律で僕を罰することはできません」
「どうして……?」喉に何かが詰まったように、声が詰まる。
「それは、僕が殺めたという証拠がないからです。彼女を殺したのは――僕の思念ですから」
「それって犯人が、心神喪失を装い、罪を逃れようとするときの台詞ですね」
そんな風に彼を否定しながらも、彼が嘘を吐いていないと分かるから厄介だ。
「詐欺的な行為ですが、そういうケースは多いですね。しかし、そうじゃない場合もある。本当に霊が関与している場合です。だが、人間とは勝手な生き物で、常識を覆す存在を排除したがる傾向にある。君もそのことは良く知っているはずです」
「――でしょう?」と断定するかのような笑みを漏らす。
悔しいが彼の言うとおりだ。良く知っている。だからだ。常識を覆す存在だから浅井青年や壱吾君同様、私も周りに本当のことが言えず真実を隠すのだ。排除されないように……。
「――理由を聞いてもいいですか? どうして殺めなければならなかったのかを」
「いいですよ」とゼロは言い渋ることなく話し出した。
「前世でトーコは僕の許嫁でした。しかし、裏切ったんですよ。そして、今世でもまた僕を拒絶した」
「可愛さ余って憎さ百倍ということですか?」
私の問いに、ゼロは馬鹿にしたように嗤い始めた。
「そんな陳腐な理由ではありません。実験です」
「――もう一度言ってもらえますか?」
次々発せられる意味不明の言葉に、思考回路が正常に機能せず迷走する。
「転生神話の立証? それをしたかったのです」
要するに、『生まれ変わっても絶対に一緒になりましょう』バージョンの逆、『生まれ変わっても貴方とは絶対に一緒にならないわ』が本当なのか確かめたかったようだ。
「意味が分かりません。それこそ陳腐です。そんな理由でトーコという人を殺害したんですか? 信じられません」
「そうですか? その理由が陳腐と言うなら……トーコを教祖とした虚偽の静寂教団を乗っ取るため、ならどうでしょう?」
ん……? どういうこと?
「ストップ! 虚偽の静寂教団ってトーコという人が立ち上げたんですか?」
「創立者、という意味なら違います。彼女は〝選ばれし者〟です」
「それって、創立者がトーコという人を教祖にした、ということ?」
「概ねそういうことです」
そう答えながらゼロは左手に持った紫の薔薇を見つめた。つられて私もそれに目を向ける。すると彼の右手が唐突に薔薇の花を握り潰した。
「ちょっ……と……」止めなさい、と最後まで言えなかった。何故なら、彼の口元に身体の芯まで凍えそうな冷笑が浮かんでいたからだ。
――嘲り? 怒り? 憎しみ?
様々な負の感情がそこに垣間見られた。
「だから僕は彼女を殺め教団を乗っ取ったのです、と言えば信じてもらえますか?」
愛する者の心変わりを恨み、彼女を奪った教団が憎かった。だから教団を簒奪したということだろうか? それが本当なら同情の念を禁じ得ないが――。
「乗っ取って何がしたかったんですか?」
方向性が大いに間違っている。
そう思ったときだった。何処からか声が聞こえた。
〈――違う。彼の……ゼロの勝手な思い込みなの……〉
空耳? 一瞬、そう思った。だが、それは以前にも聞いた声だった。《ここにいてはダメ! 逃げて!》声は確かそう言った――ということは、声の主は味方?
「何がしたかったか、ですか? 何をしたかったのでしょうね? 欲するものが得られない。だから……そうですね、敢えて言えば、全てを〝無〟にしたかった、でしょうか?」
ゼロの目が、庭園の向こうに建つ虚偽の静寂教団の建物を見る。
「知っていますか? 肉体に宿った穢れは死を以て精算され朽ちますが、その精算先が魂だと」
『死を迎えると共に、お前が言ったように穢れた身体の記憶が全て魂に移行される。悪人は悪人の魂になるということだ。天国行きと地獄行きはそこで決定付けられる』
壱吾君の病室で天地さんはそう言った。
「その顔は……なるほど、天地蒼穹に聞いたのですね」
天地さん?
ゼロの顔に侮蔑の色が浮かぶ。
「奴は何も覚えていないくせに、今世でもまた僕の気持ちを逆撫でする」
それは低く呟くような声だったが、はっきり私の耳に届いた。
『覚えていない』とか『今世もまた』とか、どういうことだろう?
天地さんとゼロは前世で顔見知りだった、ということだろうか?
「ご存じなんですか、天地さんのこと?」
「ああ、よおくね。今世でようやくトーコを見つけたと思ったら、奴も現われた。目障りなのに常に視界に入ってくる。本当に嫌な奴だ」
「あっ……」と、因幡さんの話がフラッシュバックする。
『――彼はとある理由で身も心もボロボロになっちゃったの』
カチッとピースがはまる音が聞こえた。十円ハゲが二つもできた理由――それは、そのトーコという人を失ったからだ。
「天地さんは、貴方のこと……」
「知っているけど知りません」
豆鉄砲を食らったような顔になる。本当に意味不明だ。
「今世の彼は、僕が前世から続く因縁の相手とは知らないということです」
「因縁って……?」
「トーコを教祖にしたのは天地蒼穹です。但し、前世で、ですがね」
「はぁ?」
驚愕するに値する事実だった。
「まさか……許嫁を奪ったのって、天地さん?」
「ええ、そうです」
今の……排他的にしか見えない彼が? そんな情熱的なことをやったの? 信じられない。
「なのに奴は地獄に落とされることもなく、今世も徳の高い人物として生まれた。そして、性懲りも無くトーコと出会った――トーコとの縁を断ち切ってやったというのに……」
「それってまさか……」頭を過ぎったのは恐ろしい情景だった。
「そうですよ。奴を殺したんです。神だと崇め奉られていた彼をね」
「神!」
あの天地さんが神だったというの? ナルシストで、守銭奴で、自己中心的で、外面はいいけど人タラシな彼が神? 「ないない!」と左右に大きく手を振る。
それに、神殺し自体無理でしょう――と全否定しながらゼロに目を遣り、ちょっと首を傾げる。
――本当に無理だろうか?
女神のように美しく、氷の精よりも冷ややかな顔に見入る。
――無理じゃないかもしれない。
そんな馬鹿げた思いに一瞬囚われる。
「一人でさっきから何をしているのですか?」
どうやら一人百面相をしていたようだ。ゼロが怪訝な顔をしている。
「いえ、お構いなく」
混乱する頭を整理したくて再び思考の森に入ろうとすると、ゼロが、「前世で地獄に落とされかけたのは僕の方でした」と、また突飛な話をし出した。
「理不尽だと思いませんか?」
いや、もし本当にトーコさんと神を殺めたのなら、地獄行きは当然のことでしょう。
心の中で彼の問いを全否定したが、「その前に逃げ出しましたがね」と、彼は私の答えなど欲していなかったように、あっけらかんとそんなことを言った。
〝良い霊〟と〝悪い霊〟の話で、《悪い霊は問答無用で祓える》と聞いた。ということは、祓われる前に逃げ出したということだろうか?
そこでハッとする。
「貴方……ゼロだけどゼロじゃないのでは?」
ずっと気になっていた鬼面。憑依という言葉が妥当かは分からないが、オーバーラップして視えるのはそのせいかもしれないと思ったのだ。
パンパンパンと突然ゼロが拍手をし出した。
「やはりトーコの目を以てすれば、視えて当然でしたね」
なんてこともないように肯定するゼロ。要するに、私の憶測は間違っていないということだ。
「貴方は前世のゼロですね? そして、今世のトーコさんを殺めたのも前世である貴方だ」
「違いませんよね?」と訊ねると、美しい顔に似合わない舌打ちが聞こえ、ユラユラと揺れるように鬼面が姿を現した。
〈青柳はどうして君なんかを選んだのでしょうね?〉
丁寧な物言いだがゼロとは違う、奈落の底から発せられたような暗くて冷たい声。
〈我の計画を違わしたそもそもの原因がそれです〉
トーコさんの角膜が私に移植されたのがお気に召さないようだ。苛立たしげに鬼面は言葉を吐き捨てた。
〈だいたい君は勘が良すぎる〉
天地さんもそんなことを言っていた。
あれ? でも……確か私はワンチャンネルしか受信できなかったのでは、と首を傾げ、鬼面に目を遣る。
〈君はトーコを彷彿させます。我にとり危険因子に成り得る存在です〉
「だとしたら、私もトーコさんのように殺める?」
〈それもいいかもしれません。しかし、今の君を殺めるつもりはありません〉
「なぜ?」
〈面白くないからです〉
ユラユラと鬼面は揺れながらクフフと不気味に嗤う。
〈トーコを彷彿させると言いましたが、まだまだトーコの力には及びません。そんな君を容易く亡き者にしてしまうのはつまらな過ぎます。故に、トーコの力を継ぐミライ、君の成長を楽しみに待つことにします〉
鬼面の眼が赤から金色に変化し、薄気味悪く光る。
「ど……どういう意味ですか?」
恐ろしい眼だ。声が上ずる。
〈それを今から説明することはできません。時間切れのようですから。忌々しいですが君の着けている腕時計が動き出してしまいました〉
腕時計? 天地さんに貰った時計に目を遣り、えっ、と目を見張る。
「嘘っ、どうしてまだ二時を少し回ったところなの?」
〈次に会うときは……〉
鬼面が何か言ったような気がした。だが、そこで視界がホワイトアウトした。
*
多種多様の音が混ざり合い、煩いほど辺りが騒がしい。バラバラと激しく騒音を撒き散らしているのは雨の音? いや、違う。ヘリコプターの音だ。何機飛んでいるのだろう?
「こちらGワン応答せよ。見つけました! ええ、あのバスです」
耳の側で男性が叫んでいる。
「外場ミライさんと金之井涼子さんとみられる女性二名を発見しました。他には乗客と思われる男性二名と女性四名もです。運転手らしき姿はありません」
また別の誰かが叫ぶ。
「生存は確認しました。しかし、意識がありません。至急、救急車を寄越して下さい!」
*
「すまなかった!」
天地さんが勢い良く頭を下げた。
「えっ?」見てはいけないものを見たような気がして、思わず目を擦る。
「あらあら、ダメよ」
私と天地さんの前に甘い香りのするお茶を置きながら、因幡さんが「擦っちゃダメ」と注意する。
デジャブ? こんな会話を最近交わした記憶がある。でも、いろいろなことが有りすぎて、はるか昔のように感じるのは……気のせいだろうか?
「あたしからもお詫びするわ」
因幡さんはカップを一つトレーに載せたままテーブルに置くと、「ミライちゃんを囮みたいに使って、本当にごめんなさい」と言って深く頭を垂れた。
「お……お二方とも、どうしたんですか?」
こんなことをされたら天変地異が起こりそうで怖い。
「殊勝すぎます。ガラじゃありません。頭を上げて下さい」
「だよな」
早々に上げる天地さんを因幡さんはメッと睨み、彼の頭をコツンと小突くと、この場の雛席と云われる椅子に腰を下ろした。
「全くもう! 蒼穹ったら反省が足りないわよ」
「痛ぇ! 馬鹿力で叩くな」
「非力なあたしの拳固が痛い? そんなわけないじゃない」
「非力だぁ! どの口が言う?」
二人のたわいない口喧嘩を眺めながら、平和だなぁ、と感慨深く思う。
「あれからもう四日も経つんですね」
私は天地さんと因幡さんが現場に到着した時点で意識を取り戻していた。
「おい、因幡の白兎。ミライは本当に大丈夫なんだろうな?」
祖父母に心配をかけたくなくて、『帰る』と言う私を天地さんは強引に止め、因幡さんのところに一泊だけ入院させた。
「ええ、至って健康。精密検査の結果も異常なしだったわ」
どんな手を使ったかは知らないが、翌日帰宅した私に、祖父母は『お疲れ様』と労らいの言葉をくれた。
この時ばかりは、心底〝嘘も方便〟は必要なものだと思った。と同時に、天地さんが属する部署の工作に感服した。
「因幡さんの言うとおりです。私は何処も何ともありません」
ほらこのとおり、と力こぶを作る。