「あっくん、木登りしようか! 昔みたいに」

「ええ!? 花菜ちゃん!?」


 返事をしたのは敬也だ。
 敦大の表情も、わずかに動いた気がした。


「私、まだまだ動けるからね!」


 彼女は周りの人たちの事など気にせずに、目の前の大きな桜の木に向かって飛びついた。ひょいと軽く登っていく。


「花菜ちゃん! 怒られちゃうよ!」


 慌てたような敬也の声が、少し下から聞こえた。
 木登りなんてかなり久し振りにしたけれど、身体は覚えていたようだった。


「ほら、あっく――」


 調子に乗りすぎた。


「危ないっ!」


 瞬間、花菜は足を滑らせ、勢いよく落下した。


「っ……!」


 転びつつも彼女をしっかりと受け止めたのは敬也だった。至近距離に、彼の整った顔が迫る。


「大丈夫!? ああ、低い所からでよかったぁ……」

「ごめんなさい。敬也くんのお陰で助かったよ。ありがとう」

「……」


 花菜は申し訳ない気持ちで一杯になる。
 心配する敬也の顔があまりにも近くて、自分の視線が不自然に流れているのが分かった。


「……。花菜ちゃん、敦大は〝あっくん〟なのに、僕のことは敬也くんなの? 僕も昔みたいに〝たっくん〟でいいのにな」

「え?」


 その言葉はとても穏やかだったが、本気なのか茶化しているのか分からないその口調に、彼女はどうしたら良いものかと考えてしまう。


「なんてね。花菜ちゃんが呼びたいように呼んでいいんだよ。ごめん」


 そう言って、敬也はゆっくりと花菜を立ち上がらせてくれた。彼女は彼にお礼を言うと、敦大に向き直って笑いかけた。


「ドジ踏んじゃったね。かっこ悪い」

「なに笑ってんの?」


 敦大が無表情のまま彼女に訊く。


「え?」

「なに笑ってんだよ」


 その声音は静かだ。


「敦大? どうしたんだよ」


 花菜の代わりに、敬也がそう返した。


「こっちは笑えねぇんだよ……」


 敦大は花菜たちに背中を向けると、そのまま歩いて行ってしまった。


「こら、敦大! 花菜ちゃんに謝って」

「いいよ、別に大丈夫」


 彼女は敦大を叱る敬也を制するように言う。敦大は立ち止まることもなく、そのまま歩いて行ってしまった。


「まったく、何を考えてるんだろうね、敦大は。まあ、分かるけど」


 敦大はどうしてそんなに機嫌が悪いのか。どうしてそんなに彼女を避けるのか。


 そうしてそのまま、彼とはまともな会話が出来ないまま日々が過ぎていった。