「何?」


 雅喜に呼ばれたが、彼との距離が近すぎるため、顔は上げずに少し大きな声で返した。


「近いね」


 突然、彼の唇が花菜の耳に触れてしまいそうなほどの距離で囁かれた。
 花菜は飛び上がりそうになるのをこらえる。


「ちょっと、小野くん! 驚いたじゃない。やめてよ」

「ええ!? そんなに冷静に返しちゃうの? そこはもっとはにかんでよ。ドキドキしたでしょ~?」

「してないよ。驚いただけ」

「……そっか、ごめんね~……」


 それから揉みくちゃにされながら電車に揺られ、へとへとになって電車を降りた。


「花菜ちゃん、ほら、手」


 雅喜が人混みの中で、控えめに手をこちらへと差し伸べた。


「もう着いたし平気だよ。今日はありがとう。また明日ね」


 花菜が歩くペースを落とすと、彼の手が花菜の腕を掴んだ。


「ごめん、もう少しだけ……」

「小野くん……?」


 それから二人は無言で改札を抜けると、花菜は雅喜に腕を掴まれたまま、駅の出口まで歩いていく。
 そして出口まで辿り着くと、固まっていた人々が散っていき、自由に身動きが取れるようになった。

 そのまま少しだけ歩いていくと、彼は立ち止まってこちらへ向き直った。


「花菜ちゃん、」

「小野くん、今日は本当にありがとう」

「俺さ、あれからずっと、待ってるんだよね」


 雅喜の瞳には、あの時と同じ色が宿っていた。静かで、真摯な眼差しだ。


「花菜ちゃんからの返事。急かせるつもりはないんだけど、まだかなって……」

「あ……えっと……」


 返事。あれを本気だとは思っていなかった。
 あれから学校で顔を合わせても雅喜は今まで通り変わらなかったし、何も気にしていないと思っていたのだ。


(本気だったんだ……)


「ごめん、本気だと思ってなくて。からかわれたのかなと思ってたから。学校で会っても、小野くんの態度が普段と変わらなかったし」


 花菜の言葉に驚いた様子もなく、雅喜は口を開いた。


「そっか……。そうだよね……」


 花菜の腕を掴んでいた彼の手が、彼女の手の平へと移動し、それを両手で優しく握り締めた。
 そしてその手は、彼の口元まで持ち上げられる。

 花菜は無意識に身を硬くした。雅喜の瞳には花菜が映し出されている。


「なら、もう一度言うから聞いてよ」


 何となく、この雅喜の真っ直ぐな眼差しからは目を逸らしてはいけないと思った。
 しっかりと、彼の言葉に耳を傾けてあげなければいけないと。