卒業式の朝が来た。
 目が覚めて、時計を見ると、やっぱり5時だ。
 いくら寝ようと思っても勝手に目が開いてしまう。
 完全に習慣になってしまった。

 6時になると、スマホを手にして樹里の番号を表示する。
 この習慣は今日で最後にしよう。
 僕は許嫁と結婚するんだ。
 今までも何度も何度も言い聞かせたことを繰り返す。
 階下に降りると、朝食の用意をしている母さんの背中が見える。

「おはよう」
「おはよう」
 母さんが振り返った。
「……おはようございます」
 思わず言い直した。
 見たこともない美人が立っている。

「どうしたのよ? ポカンと口を開けて」
「ひょっとして母さん……?」
「当たり前でしょう。他に誰がいるのよ。自分の母親の顔を忘れたの」
 顔が違いすぎる。
 母さんは少し細い目で、目尻がちょっと下がっているタレ目、全体的に凹凸の少ない顔で、笑うと笑窪が出る。肩甲骨ぐらいまである髪をいつもポニーテールにして、背も低いため可愛いという感じがする。
 買い物に行って、僕の同級生に女子大生と間違えられてナンパされたぐらい見た目が若い。
 だが、今、目の前にいる女性はどう見ても目鼻立ちのはっきりした大人の美人だ。

「どうした?」
 父さんがダイニングに入ってきた。
「母さんの顔が違う」
「顔が違う? おっ、母さん、今日は気合い入ってるな」
 父さんは母さんの顔を見ても別に驚いた様子を見せない。
「それはそうよ。隆司の卒業式だもん」
「驚かないの?」
 僕は父さんに聞いた。

「母さんと出会った時はこの顔だったから、こっちの方が馴染みがあるんだが」
 そうなんだ。
「そりゃそうよ。他の女の子たちに負けたくなかったから、毎日気合いを入れてメイクしてたもん。それより、早くご飯食べて。母さんも用意しないといけないんだから」
「うん」
 僕は自分の椅子に座ると、なるべく母さんの方を見ないように食べる。
 なんとなく知らない人と一緒に食べているようで気恥ずかしい。
「何照れた顔してるのよ。母さんに惚れてもだめよ。母さんは父さんのものだから」
 何をバカなことを言ってるんだ。
それにしても今日の母さんは別人だ。

「すまんなあ。隆司。本当なら父さんも一緒に行きたかったんだが、どうしても仕事があってな」
 父さんが本当にすまなさそうに言う。
「大丈夫だよ」
「母さんに全部任せている。自分の気持ちを素直に言っていいからな。誰にも気兼ねしなくていいんだ」
「分かっているよ」
 僕は頷いた。


 母さんは後でくることになっているので、先に家を出た。
 いつもの通学路を通ると、樹里の住んでいた女性専用マンションの前を通る。
 樹里が出てくるのではないかと、ありもしない期待をしながら、マンションの入り口を見た。
 当然、出てくるわけはない。
 もうこのマンションの前を通る道は使わないようにしよう。
胸が苦しくなるから。

 教室に入ると、紀夫が後ろを向いて、僕の席に座っている渡辺さんと喋っていた。
「よっ」
「おはよう。澤田君」
「おはよう」
「やっと卒業だなぁ」
 紀夫が嬉しそうに言う。
「なんか嬉しそうだな」
「そりゃそうさ。やっと卒業だ」
 紀夫は晴れ晴れした表情をする。

「ところで、渡辺さんは大学合格したの?」
 渡辺さんが関西の大学を受験するとは聞いたが、合格したかどうかは聞いていなかった。
「合格したわよ。当然でしょう」
 当然なんだ。
「じゃあ、紀夫と一緒に住むの?」
「違うわよ。パパが今度、大阪支社長になるから家族全員で引っ越すの。だから、関西の大学を受けたのよ」
 なるほどね。別に紀夫と一緒にいたいから関西の大学を受けたわけじゃないんだ。
 それはそうだろうな。

「いつ大阪に行くんだ?」
 紀夫に聞いた。
「来週の月曜日には行くよ」
「そうか」
 紀夫とは人生の半分は一緒に過ごした仲だ。その紀夫がいなくなると思うと、寂しくなる。

「樹里からなにか連絡あった?」
 渡辺さんが心配そうに僕の顔を見た。
「ないよ」
「そう。どうしてるのかな」
 渡辺さんも少し寂しそうだ。
「石野のことだ。アメリカでうまくやってるよ」
紀夫が請け合う。
「そうだろうな」
 樹里はきっと今ごろ婚約者と仲良く過ごしているだろう。結婚の約束をしているのではないだろうか。
 そんなことを考えているとフツフツと嫉妬心が湧いてくる。
「ほら、何してる。そろそろ廊下に出て並べ」
 担任の先生の声に全員廊下に出て並んだ。